泣きはらした目が、少し痛む。瞼が引っ付いて、目が開きにくい。……全く以て難儀なものだ。当然鼻も詰まっているが、残念ながらかむべきものは無かったり。
自分の顔はどうやっても見ることは出来ない。さっきまでは多分、きっと酷い顔をしていたんだろうな、と思う。だけど今は、存外すっきりした表情をしている気がした。
何となく、だけど。自分が進んでいく道の正体を、知ることが出来たからだろう。
痛くても、そうして生きていくと決めた。だから、少しくらいは休憩したっていいかもしれない。
だけど、そう。いつまでも立ち止まっている場合じゃ、無い。
少しだけ、余裕が出来たのか。
もう、目を逸らさないと決めた。だから、もう、怖がりはしない。
「はは……アイツに、嗤われちまうな……」
こんな俺を彼女が見たら、どう思うだろうか? 叱咤してくれるだろうか、それとも、優しく励ましてくれるだろうか。そんな彼女の表情が、まだ瞼に浮かんでくることに、安堵する。
これから先、何回もこうやって苦しむだろう。いつか、耐え切れなくなる日が来るのかもしれない。
だけど、それでも。彼女の微笑が、全て救ってくれる気がした。俺にとっての全て。衛宮士郎という男の、一番大切なものは、何時だってそうやって輝き続けてくれている。何よりの真実。自分にとって、彼女が笑ってくれるコトが全てだと、そう気付いたのは何時だっただろうか?
深夜の澄んだ風が、一つ、側を通り抜けていく。
どうやら、こうして生きていくのは案外に辛いものらしい。だが、同時に掛け替えの無いことも教えてくれた。
時を経て尚、この愛が薄らぐことは無い。永遠に、彼女を、恋人として想える。目を逸らしていてハッキリと見えていなかったけれど、今なら、そのことに自信が持てる。
「さて、と」
大切に、大切に仕舞い込んで、もう一度鍵をかけた。また何かの弾みで外れてしまうまで。コレで前を向いて、進んでいけるだろう。もう、大丈夫。痛みは治まり、傷口は既に、見えなくなっていた。
アイツに恥じないよう。選んだ未来に、胸を張れるよう。
「帰るか、な」
ゆっくりベンチから立ち上がり、体を伸ばす。
そうして。
全身に走った怖気に、急激に体温が奪われていった。
「な―――――――」
全身が覚えている感覚に、精神が震える。
それは、何時感じたモノだっただろう。殺気というだけでは済まされない。己が朽ちるか、相手が果てるか。いずれかの選択を迫る鬼気。かつて戦い抜いた日々、戦闘では必ず、この空気が存在していた。
「まさか、お一人で出てきて頂けるとは思いませんでした」
慇懃に。言葉だけで見れば、あくまで淑女の響き。やや低い女の声は、そんなコトを語りかけてくる。
冷や汗が首筋を伝う。ベンチから立ち上がったまま、1mmたりとも動けない。声は右、指呼の間より聞こえてくる。何時の間に近づいたのか。いくら呆けて居たとは言え、こんなにも―――――
「初めまして、衛宮士郎。今宵、此処でお会い出来て誠に光栄です」
それが嗜みと言わんばかり、変わらぬ口調で俺の名前を口にする。
詰まりは、相手は俺のことを知っている。……ああ全く、遠坂に知られたらどんな小言がくるか分かったもんじゃない。一昨日昨日にあったこと、そして魔術師の領分は夜。これだけ危機回避の材料が揃って尚、ここに居る俺。……くく、や、小言どころではない。間違いなく破門レベルのミステイクである。
崩れ落ちそうになる膝を必死に堪えさせ、呼吸を整えた。一つ、丹田に力を籠める。自然、闘いの中で見につけた呼吸。今となっては、潜った死線に感謝しなくてはなるまい。
「誰だ?」
「ロンドンの時計塔、と申せばお分かり頂けるでしょうか。そこで末席を汚している者、とだけ言っておきましょう」
「……んで、そんな末席さんが俺に何の用? 生憎こっちは散歩中なんですよ。あまり長い話は御免蒙りたいんですけど」
「なるほど、道理です。しかし、話の長短は貴方次第。早く散歩に戻りたければ、そうお心得頂きたいものです」
言葉の鞘当。未だ、俺は声の方を向くコトが出来ない。気圧されてなるか、と。ただソレだけを震える体に命じ、懸命に対峙を続けている。
「じゃ、さっさと要件を聞かせてもらえませんか。あまり、居心地の悪いのは好きじゃない」
「同感です。協力を頼むのですから、それくらいは礼儀でしょう。
目的は単純です。冬木にて行われた、当地における“第五次聖杯戦争”、その事後調査にやって参りました」
「事後調査……? おかしなことを言うんだな。なんで、協会がそんなこと」
「確かに、この地の後始末には聖堂教会が関っていますから、貴方の疑問も尤もです。ただ、ソレを差し引いてでも調査する価値がある、との判断を上が下したまでのこと」
建前は平穏、本音は犬猿が「聖堂教会」と「魔術協会」の間柄。そういう意味で、コイツの言っていることにそう違和感は無い。
あるとすれば。「それは何故」、ということ。今コイツは上、と言った。協会の上層が判断するコトなら、それは奴らにとっての関心事、換言すれば、つまり―――――碌なことでは、無い。
「……で、俺に何を求めてるんだ。アンタ。調査なら実地検分でもしてきた方が特じゃないか?」
「それは無用ですね。既に、仕組は判明しています。……いや、我らとて意外でした。あの男がまさか、あんな置土産を遺して逝くとは」
「仕組……? あの男、って、まさか」
…………待て。あいつ、言ってただろ。「協会に知られたくない」とか何とか…………。あの糞似非神父……死んだ後まで嫌がらせか? …………主よ。どうか彼奴に正当な審判を。貴方でも、きっとアレは救えません。
「ともあれ。“聖杯”は再現できる。これが、我々の出した結論です。ならば、実践しない手は無いでしょう? そこで、我々は貴方達、聖杯戦争を戦い、生き抜いた人々に“協力”を求めようとしているのです。
魔術師ならば誰しも、一度は見てみたいものでしょう? “完全な聖杯”の目指すところを」
「…………?」
……正直、話についていけない。大体こいつは、何を言っている? 完全な聖杯? 目指すところ? 完全も何も、アレは――――
「再現の鍵は、おそらく“ラインの黄金”の秘儀――――それがどのように応用されているのか? …………いやはや、魔術師としては興味が尽きません。
そこで、色々お話を聞かせて頂きたいと思っていたのですが。どうも、コンタクトすら取れそうに無く」
昨日の朝、藤ねえが言っていたことは、間違いなくこのことだろう。
そして。聖杯の為にイリヤを遣うのだとしたら、それが意味することは、一つだけだ。
「そこで、貴方です。アインツベルンの当主に随分と気に入られているとか……。貴方の協力を得ることが出来るならば、或いは上手く行くかも知れない。
どうでしょうか。聖杯成就の為、貴方の信頼をお貸し願えないでしょうか?」
淡々と魔術師は語る。聖杯と、コイツが言う、その先にある“何か”。それを見届けたいと思うのが、「魔術師ならば」当然だと言うように。
―――――――は。
冗談じゃ、ない。
「…………馬鹿か? アンタ」
「…………一応、理由をお聞きしましょう。その単語、余り良い意味と学んだ記憶がありません」
「何度でも言ってやるよ。馬鹿か、アンタ。一体誰がそんなことに手を貸すっていうんだ? ……それでイリヤがどうなっちまうか、知ってるんだろ?」
「当然です。アレがアインツベルンの技術を集約した物であることは理解していますし、聖杯の成就に於いて如何な役割を果たすか位の見当はこちらとて付けています」
「それで、俺に協力を求められると思ってるのがあんた等の目出度い所だって言ってるんだよ。誰が、――――」
――――認識を改め、目の前の魔術師を、敵と断定する。
大切な人を喪わない為に。今ここで、コイツを止めないと。
「誰が協力なんかするか。寝言なら余所でやってくれ」
「……成程。理解しました。協力は得られない、と、そういうことですね。
ええ。ある意味では予想できてはいました、が」
く、と。一つ、嗤いと殺意を同時に漏らす。
そして唐突に、こんな事を言い出した。
「ならば、別の使い方をするだけですね。貴方の体に在る鞘ごと、確保させて頂きます」
「……は? お前今、なんて」
「ですから、聖剣の鞘ですよ。お持ちなのでしょう? 報告の隅に記してありましたし、幾度も死線から戻ってきたという傍証も在る。その治癒能力の因が貴方に備わったものでないとすれば……」
……草葉の影で邪悪な笑みを漏らすヤツの影が浮かぶ。……ああ、そうか。そこまで俺が嫌いか、言峰綺礼……!
「……なるほど。だけど、そっちは外れだな。もう、鞘なんて俺は持ってないし」
「――――それ、確かめれば分かることでしょうね。
それでは、宜しいでしょうか。其処までの見栄を切った以上、覚悟があるはずですね」
返した鞘。それは、俺達の決断の証。あの夜。相応しい持ち主が掻き抱いた鞘。それだけは、今でも。忘れ得ぬよう、心に、しっかりと刻み込んである。
だが、その鞘は、此処には残っては居ない。彼女が消えて、それで―――――
(……? ……それ、で?)
……それで、どうなったのか。知る由も無いが、ふと、微かな疑問も湧いた。セイバーとは違って、アレは現代に伝わっていた、正真正銘この時代の聖遺物の筈。ならば、一体、アレは―――――?
その思考は、脇を抜けた風で遮られる。とん、と、魔術師は軽く跳躍し、こちらと間合いを取った。
その距離、凡そ100m。……いやいや、冗談じゃない。唯でさえ彼我の戦力差は痛いほど感じてるって言うのに、この期に及んでロングレンジの相手とは。全く、ついてないにも程があるだろう。
最初にあった慇懃な空気は既に無い。集中力の欠如した見習い魔術使いが、練達の魔術師と対峙する。ここまで先の見えた対峙も珍しいなあ、と、さっきからどうも冷静にこの場を見ている自分が鬱陶しい。体中、警告じみた、聞きなれたアラーム音が鳴り響いている。止めろ、アレは勝てる相手ではない、と。彼女に教え込まれた感覚が告げている。
「命の保証は致しかねますので。精々、上手く生き延びてください」
遠く、身構える影。
敵の魔術、得物、間合、一切は解らないまま。
しかし、感じることはある。培ったモノが教えてくれる情報は、総じてあまり有難いもんじゃない。
二ヶ月前、何度か味わった感覚。
背筋には怖気がはしり、全身が固まった様に緊張する。
汗は止まることを知らず、叫びだしたい衝動に駆られる。
――――――俺は、あの相手に、殺される――――――
絶対的な実力差、覆すこと叶わぬ次元の違い。その事実が常に突きつけてくるフレーズ。
だが、逃げる訳には行かない。そんなこと、端から出来ない相談だ。何より、納得できないことを抛って逃げ出すのは性に合わない。
だから、そう。
いつも通り。やるだけのことを、やってみよう。
「……は、抜かせ。端から保証するつもりなんざ無いクセに」
返答など、期待していなかった。
それが合図。魔術を使う者が背負う、宿命の時間。
ひゅ、と、風を切る音がした。
血と血で勝負を決する時が、始まった瞬間だった。
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