……風呂はいい。風呂は心を潤してくれる――リリンの生み出した文化の極みだわ。
――と、沙条綾香は、そう思った。銭湯に首から下を沈め、頭にタオルを載せ、ただ湯に身をゆだねている、この瞬間。世界は確かに、自分のために在る、と確信できる。
それほど、銭湯の湯というものは、心地良いのだ。
「……はぁ……」
昼間に山を越え谷を越え、洞窟に分け入り森を走破して大量の植物を採取してきた疲れが、みるみるうちに癒されていく感覚がある。広い風呂は、本当にいい。これが温泉ならもう言うことは無いけれど、そうでなくてもこれだけのリラックス効果を与えてくれる「銭湯」――。
「日本に住む特権だなあ、これは……」
時計塔あたりに行ってしまえば、こうはいかないだろう。あるいはシャワーのみ、浴槽があっても、せいぜいシャワーと一体化したタイプに違いない。独立した浴槽は、まず望めないだろう。ついでに言えば、銭湯なんて夢のまた夢。ロンドンだってローマ支配下だったんだから2000年前には公衆浴場もあったんだろうけど、……というか、実際バースあたりには、今でも存在するけれど、ここまで公衆浴場が偏在する日本のようなことは、今の欧州文化では到底考えられない。
(……人類は、退化する……)
公衆浴場が消えた、その一事でそう決めつけると、綾香は視線を天井から風呂場入口のほうへと向けた。知己の気配が入ってきたのである。
(セイバーさん、かな……)
恐らく、そうだろう。この気は、それ以外あり得ない。ほとんど魔力の奔流、といったイメージを持たせてくれるのが彼女である。それ以外でこんな気を持つ者がこの土地に居たら、それこそ一大事、速攻で使い魔なりなんなりをけしかけて、正体を調べなければいけないところだ。
(……うん、そうだ)
湯気で曇ったメガネでも、その金髪と均整のとれた身体でそれと分かる。しかし、今日は何か、この湯屋に奇跡でも起こっているのだろうか……? よく目を凝らせば、およそ日本人の平均的美を超越した存在が、他に二名も浴室に居るではないか。
(……赤毛、なんて珍しいなあ。あと、あの子はすごくバランスのとれた身体……)
公衆浴場は、コレだからいい。完璧に静かなところより、少し雑音があったほうが思考がはかどる、そういう利点もあれば、こうして静かに気配を消し、人間観察が出来る場所でもある。特段百合の気は無いが、しかし、こうして時折美しい女性を見ることも出来れば、静かにイデアに想いを馳せることも出来る。魔術は哲学とも密接な関係を持っているのだ。
(ん……?)
と、綾香の視線の先、赤い長髪の子が、何やら挙動不審に見える。……いや、というより、アレは……
(……ああ、そうか。カランとシャワーの使い方が分からないのか)
恐らく、見たことが無い形式なのだろう。もしかしたら、銭湯は初めてなのかもしれない。あの戸惑い方からすれば、その可能性が一番高い。そして、更に間の悪いことに、彼女が座っている席から浴槽側にかけては、シャワー、カランのシステムが古いのだ。未だ設備更新が為されていないのは、この銭湯の七不思議に数えていいと思う。
(……と、すれば)
魔術師には、先を読む力も必要である。赤の子にとって非常に運のいいことに、その左の左にはセイバーが座っているのだ。彼女ならば――
(あ、やっぱり)
赤の子の苦虫をかみつぶしたような表情に気付き、セイバーが、さっそく助け船を出したようだ。綾香は耳と目に魔力を集中させ、それぞれの感覚を増幅させた。
「お困りですか?」
「あ、いや、……」
「ふむ、この使い方ですね。ええ、私も最初は苦労しました……あ、申し遅れました。私はアルトリア・セイバー・ペンドラゴン。セイバーと及びください」
「ご、ご丁寧に、どうも。佐倉杏子、です」
パッと見、やんちゃな印象を受ける赤い子だが、流石はセイバーである。身にまとう、隠しきれない王の威風は、時として万人の尊敬を呼ぶ。赤の子の風貌からは丁寧語や尊敬語は想像つかなかったが、初対面でいきなり丁寧語を引っ張り出してみせた。無論、無意識の為せる技であろう。
「宜しく、キョウコ。では、早速説明を……」
セイバーの説明は素晴らしく簡潔だ。確かに初めて使うのではとっつきにくいだろう操作方式だが、彼女の整理された解説を前にしては幼稚園児でもシャワー、カランで自在に温度を調節する方法をマスター出来るだろう。
「あ、ありがとな」
「いえ、どういたしまして」
セイバーと赤の子――佐倉杏子は会釈を交わし、セイバーは自分のシャワーへと戻った。杏子は綾香の予想通り、操作をマスターしたようだ。風呂桶にお湯を溜め、シャンプーを出し、わしゃわしゃと、その綺麗な赤髪を、随分と無造作に洗っている。
(あんまり頓着しない子なのかもなあ……)
まあ、それはそれで杏子の印象に合致していなくもない。それでも尚、驚くほどに美しい髪なのだから、逆にそれが合っているのかも……非合理的だけど。綾香がそんなことを考えていると、次なる困難が杏子を襲った。
「……って、石鹸……」
目をこらせば、杏子の席は石鹸が無くなっていた。恐らく、使いきられたか、別のところで石鹸が無くなり、彼女の席から持って行ったか。更に間の悪いことに、彼女の右隣にも石鹸が無い。左隣には、ちょうどそのタイミングで人が来て、腰を下ろしていた。セイバーとの連絡は絶たれた上、セイバーは既に髪の毛を洗う行動に移っており、杏子のほうを顧みる余地が無い。
「仕方ない……」
不満そうにつぶやき、杏子は石鹸を取るために立ちあがろうとした。
しかし、どうやら、今日は杏子にとっては吉日のようだ。
「あの、これ、使いますか?」
助け船は、彼女の右の右からやってきた。綾香が、その鍛えられた、しなやかな身体に目を見張った少女が、杏子の境遇に気付き、自分のところにあった石鹸を渡してくれたのだ。
「お、おう……さんきゅ」
「ふふ。どういたしまして」
黒髪ボブの少女はそう言うと、大浴槽に向かって来た。どうやら、同じ湯船につかるようだ。掛け湯をし、彼女が浴槽に入ってくる。間近で見ると、引き締まった身体の美しさが、より際立つ。古代ギリシャの彫刻を見ているかのようだ。
「ふぅ……」
なんとも気持ちよさそうな声。これが風呂の魔力、そして魅力。彼女も、広い風呂に魅了された一人、ということだろう。
視線を移せば、杏子も、セイバーも、身体を洗うことに集中しているようだ。……うん。しばし、観察はお休みにして――この湯に――あたまをからっぽにして――身をゆだねると――しよう……
……
……
……
……
「……綾香?」
「……はっ」
――頭をからっぽにしすぎて、どうやら眠りに近い状態になっていたらしい。……危ない危ない。銭湯は最高級の癒しだけど、時々こういう罠がある……自戒しなくては。綾香はそう心に言い聞かせると、ささっと周囲の状況を確認した。
起こしてくれた声の主は、セイバーだった。そして、その隣には赤い子、佐倉杏子が居る。綾香の隣には黒髪ボブの子も居るし、綾香が認めた三大美少女が揃いもそろって綾香を囲んでいる格好である。
「お風呂の中で寝るのは危ないですよ?」
「ありがとうございます……気持ちよくて、つい」
「ふふ……そう、こちら、沙条綾香殿。私の友人です」
「あ、宜しくお願いします」
「佐倉、杏子……よろしく……」
セイバーの紹介を受け、綾香は杏子に会釈する――しかし、どうやら、杏子はそれどころでは無いらしい。表情を見るに、完全に「風呂にやられて」いる。
「……なんだコレ……こんな気持ちいいのか、風呂って……」
独り言を漏れ聞くに、どうやら、彼女も銭湯の大浴槽が気に入ったらしい。さもありなん……傾城の心地良さこそ、銭湯の真髄なのだから。
「ふふ。キョウコも気に入ったようですね」
「そう、ですね……」
そんな彼女の姿を見ていると、自分ももう一度、全てを洗い流してゆったりしたくなってきた。
やはり、湯はいい……最高、と言ってもいい。知己と語りあい、共に浴槽に身をゆだねる。この幸せは、他の何処でも味わえない、極上のもの。
風呂はいい。風呂は心を潤してくれる。別にリリンとかどうとか関係なく、文化の極み、という言葉に相応しい。
さて、もう少しだけ……美女に囲まれたこの極上の湯を、のんびりゆったり楽しむとしよう。
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