湯に半ばまで顔を沈めて、立ち上る湯気に咽せる。ゆるゆると時間だけが流れていく、思い浮かぶ言葉がないのはいつものことだ、ただ気まずく顔を見合わせて、どうして良いのか解らずに沈黙する。天井から落ちる水滴の音が、耳に痛い。二人の鼓動すら重なる気がした。ただ零れ出す湯の音と、息づかいだけが響いている。まとわりつくような静寂の中で、腕越しに彼を見やった。不自然な姿のまま固まったシロウが、気まずそうな表情を湯に沈めた。
視線を定められない、緩やかに彷徨う視界が、幾度も彼を捉え損なう。幾度も、何かをしようと思い止まる。思いつかないままに動こうとして、その度に断念した。何をすればいいのか解らなくて、こちらから動くことも出来ない、ただ、一つ一つの彼の仕草を見つめている。視界が、心臓の鼓動一つごとにぶれた。怒りとも、驚きとも違う。ただ傍にいることが大きすぎて処理しきれていないだけ。あれほど傍らに有りたいと思って居たのに、いざ肌を擦り合わせるような状況では尻込みしてしまう。馬鹿馬鹿しい程に焦がれていたのだ。今となっては離れられないことを思い知らされた。息をするのがひどく難しい、浅く短いそれが、は、は、と湯気を揺らす。
「ぁ―――――」
突然の冷たさに、身を震わせた。天井からしたたり落ちる雫、首筋に落ちたそれが背骨を伝う。震えた拍子に湯がさざ波だった。驚きに思わずほどけた腕が、彼の視線に体を晒す。僅かな間のことだというのに、火が着くような羞恥を覚えた。距離はまだある、明かりも暗い。その中でなど、まともに見えはしないと知っているのに。それでも、彼にこの身を見せるのには抵抗がある。かき抱く体は、あの夜と違い本当に傷だらけで。
そんな自分がおかしくて、笑い出しそうなのに、震えることしかできなかった。見られることなど、何ともないはずなのに。全てが曝されていると、そう思うだけで胸が壊れそうに弾む。目眩がするようだった、熱く煮える体と、煮えたぎる脳髄。向けられた目にあらゆる全てが見透かされる。顔色は、おかしくないだろうか。
シロウの唇が震えている。それは私も同じで。雷に怯える子犬のように、ただ知らないことに怯えて縮こまっている。何を思っているのか、何を考えているのか。彼のことも、自分自身さえも理解できなくて困る。いつ如何なる時でも、己を理解して運用してきたとは、とうてい思い出せないほど。吐き出した息は熱く、熱を帯びた視界は、うっすらと滲んでいる。
息を詰めたシロウの姿が、湯の中に消えた。仕切り直すのか、それとも、暖めることで洗い流す気なのか。どちらにしろ同じ事か。頭の先まで沈んだ後、固く眼を瞑ったまま、此方に向き直ってあぐらをかく。ざあ、と湯が流れる髪をかき上げた彼の姿は、新鮮なくせに既視感を見せた。思い出せそうなのになんなのか解らない。
「セイバー、目開けてもいいか」
「―――――か、構いませんが」
答えた声は、微かに掠れている。ぐっと分厚い掌がシロウの顔を拭う。躊躇いがちに視線を彷徨わせた後、ようやく彼の瞳が私を向いた。其処にはもう躊躇いはなく、ただ真心のみが宿っている。射抜かれたと思った。向けられた視線は、ただまっすぐで強い。邪な物など何もなくて、伸ばした背筋に力が籠もっている。心臓が強く跳ねた、ただそれは戦場の高揚にも似て、彼の目のもたらした、仮初めの強さとなった。
体を、体を覆い隠す腕を解く。この暗さでは、まともに見えはしないだろう。否、見えたところで構わない。どのみち覆い隠す鞘は向こうに居るのだから。
「―――――そっち、行っても良いか?」
躊躇いは無い。震えるような彼の言葉に只頷いた。躊躇いはないが、ぎくしゃくと、油の切れた蝶番のように首が軋んでいる。こわばった体をほぐそうにも、其処までの余裕はとれないだろう。寄せて返す波の感覚が狭まっただけ、彼が傍らに近付いてくる。湯による物とは違う、体の内側から、押し寄せる熱にのぼせそうだ。
「海鳥の詩」
Presented by dora 2007 06 12
強いられた緊張に、軽い疲れを覚えた。細く長く息を吐いて、湯船の縁に背を預ける。それに習うように、彼も隣に寄りかかった。電灯の光がさらにさえぎられ、まるで其処だけ夜に沈んだよう。沈黙に耐えかねて横を見る。見なければ良かったと思うのは、予定されていた事なのだろうか。触れていないのは知っていた、だが、こんなに近いとは思っていなかった。肩が触れるか触れないかの隔たりは、じりじりと、其処だけがむず痒くて焦れる。そっぽを向いた彼を、少しだけ下から見上げた。
本当に大きくなったと思う。私にとっては僅かな時間でも、彼の時間は一年と半分過ぎている。今、遅めの成長期なのだろうか。春先に芽吹いた若木の様に、ぐいぐいと空を目指す様に成長している。今はまだ、しなやかだが力に欠ける体躯も、じきに磨き抜かれ絞られた体になるだろう。比べた私の腕はあまりにも細くて。だと言うのに、筋肉が付いていると思うのは何故だろうか。
「セイバー」
「何でしょうか」
「もっと、寄ってもいいかな?」
「っ、……はい」
ちゃぷ、と縁に当たる湯が揺れる。体に掛かる波が、触れた肌に砕けた。小さく震えたカラダを、彼に悟られただろうか。湯よりも温度は低いはずなのに、火傷しそうな熱さが直に触れる。暖まっているのに、また体が震えた。久方ぶりの接触は、あまりに刺激が強くて目眩がする。ちりちりと触れた箇所から稲妻が走る。目に見えない痛みが、肌から神経を赤く染めてゆく。もどかしくて、焦れた。どうすればいいのか解らない。どうして良いのかも。何処までも近付きたかった。
だが、踏みとどまる何かがあった。まるで境界線。この一線を越えてしまえば、戻れなくなるような危うさ。我慢が効かなくなると思う。あの夜は言い訳が立ったけれど、今二人の前に立ちはだかる物など何もない。どこまでも沈みたい誘惑に駆られる。ただ矜持のみが踏みとどまらせている。何処までも堕ちていく。ただ蜜に沈み込んで、朽ちていくことを知っている。
―――――きっと。
いや、間違いなく只の男と女になってしまうだろう。
それを、私は望んでいない。
「う―――――」
ぐらりと視界が傾く。良くない兆候だ、これ以上のぼせる前に、湯屋を出なくては―――――
上がろうとして背後のタオルを掴む、と、再びぐらりと視界が廻った。まるで酒に酔ったような酩酊感、悪い気分ではないが、このまま湯船に溺れてしまいそうな頼りなさ。まだ苦痛ではないが、じき耐え難いそれに変わるだろう。立ち上がろうとしてしくじった。押さえ込むように彼の肩を抱く。間近に首を見ると、ぐび、と鈍い音がして唾を飲み込む様が見える。拙い、そう思って支える物を欲した。どうすればいいのか。それも解らなくて、手近なそれに縋る。強くて、それでいて柔らかな彼の腕。肩と腕を強く感じている。胸と腹と、太ももの順に彼の手が当たる。
「は、―――――と。シロウ、申し訳ない」
「え、セイバー?」
声に力が乗らない。空気に酔ったのか、湯に当たったのか。それとも、彼に縋りたいのか。ただ体から力が抜けた。しなだれかかるように、シロウに触れている。触れた傍から鼓動が早くなっていく。勘違いをさせてしまったのだろうか。だとしたら、申し訳ないような悲しいような複雑な心持ちになる。それでも、他に頼る物が思いつかなくて寄りかかった。何よりも強い安心感、具合さえ良ければ、この上ない安らぎになるのに。
「その、シロウ?」
「き、と、その、気分が悪いのかセイバー?」
弾んだ息の中、張り詰めた彼の言葉に、唇を弛めた。喩えそれが彼の強がりだとしても、通じている気がして嬉しくなる。切っ掛け一つで獣に変わる男の性を、実に良く押さえ込んでいる。思い起こせば、いつだってそうだった。私を女として扱うくせに、一度も疚しい視線を向けることの無かったシロウ。
実は、と小さく答えると、彼の動揺も一瞬で静まった。
「歩けるか?」
「少しは―――――いえ、難しいようです」
力を入れると一気に血の気が引いた。まるで立ち上がれなかい。骨が砕けたようにだらしない、芯まで火が通った野菜のように正体を無くしている。気分が悪くなってきた、ぐらぐらの視界に、暗い色が忍び寄ってくる。頭に来た。せっかくの湯船だというのに。なんだか無性に頭に来て、当たり散らしたくなるような―――――
「セイバー? っ、ごめん、抱くぞ」
「え、え?」
思い詰めたような音、それでいて、不穏な言葉に身を固くする。別に魔力が足りていないわけでも、そんな気分になっている訳でも無いのに。そんなとんちんかんな思考は、急に掛かった重力に負けて浴場のタイルに散った。
ぐんぐんと持ち上げられる。肌の上を流れていく空気が涼しくて心地よい。抱え上げられていた。何時か走った森と同じように。今度は何一つ覆う物がない状態で。柔らかかった腕は筋肉が隆起し、巌の如き肉体が私を支えている。危うさなんて何処にもなかった、まるでドゥン・スタリオンの背に揺られている様な安心感を得ている。
「え、あ、その」
「黙って、とにかく、今涼めるところまで連れて行くから」
先程よりも尚近い。睦み合う距離で肌を合わせている。いやらしさは何処にもなくて、ただ必死の気遣いだけがある。がらりと足で戸を開けると、シロウは躊躇うことなく脱衣所へと踏み込んだ。他の客が居たらどうする気なのだとも思ったが、幸い問題となることは無い様子だった。
乱れ籠からシロウがタオルを持ち上げる。渡されたそれを身に纏うと、長椅子に座り込んだ。後ろ頭を掻きながら脱衣所を出ていく彼を見送ると、椅子に横たわった。情けない話だ。いつも彼に頼っている気がする。彼の剣となると誓ったのは、何時の日の事だったか。苦く笑って、体を起こした。まだ少し目が回るが、動けないほどではない。体から水気を取ると、浴衣を身につけて、ガラス戸を開けた。
「シロウ?」
投げた視界は暗い。何処にいるのかは見えないが、視界の外から声が聞こえる。
「動けるようになったら、声かけてな」
ぶっきらぼうな物言いに、優しさが滲んでいる。申し訳なさとありがたさで胸が満ちていく。彼のそれを愛情だと認識したのは、何時だっただろうか。細く、長く息を吐いた。唇はほころびに、ただ気遣いだけを胸にしまい込む。
「シロウ、いつでも構いません」
「そっか、じゃあ俺も出るから外で待っ……ああいや、俺出てから声かけるから」
「はい」
ざっと上がる音、ひたひたと急ぐ音、一息に脱衣所に上がり込む音。幾つもの音が彼の挙動を知らせる。ばたばたとして、落ち着きのない音達。
温かなそれにしばし耳を傾けた。
「大丈夫か?」
「今は」
飛び石の上を、とつとつと歩く。来たときのような勢いはない、己のせいでこうなったと思うと、申し訳ない心地になる。ただ、それよりも胸が温かくて、気持ちの悪さなどどこかへと吹き飛びそうな心地。それが嬉しいのだと理解するまでに、長く時間が掛かった。
「どうしたのさ」
「え?」
「なんか、いい顔してる」
彼が笑っている。心底嬉しそうに、穏やかに和んで。つられて私も笑った。彼が和めるのならそれに越したことはない。
「そうですね、きっと嬉しいのでしょう」
「なにがさ」
「さあ、それは私にもよくわかりませんが」
「……うぅん?」
吹き抜けた風は涼しくて、火照った体に丁度良く作用している。此処まで蛍が飛んできていた、瞬く光を、ただ見つめている。
「戻ろっか」
「そうですね、思いの外長く入っていた様だ」
母屋に戻り、軋む階段を上がる。部屋には布団が敷かれていた。二組のそれは、寄り添うように並べてあって。いつか望んだ距離だった、今は、その近さに戸惑ってしまう。あれから半年が経つというのに、未だに私達は距離感が掴めて居ない。
そうだ。何が嬉しいのかと問われたのなら。
シロウの傍らに在ることが、嬉しいのだと答えたい。
とても口には出せない答え。だから、今はそっと胸に抱いておこう。
〜To be continued.〜
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