暗い夜道に思い出す。

 あれは何時か遠い夜、泣きじゃくる彼と、涙の熱さと、私を女として扱う彼。その想いには答えられないと、私は言った。拒絶の言葉はしかし、強がりの裏返しで。本当のところを言えば、ただ肌を重ねたかった。あの夜のことは良く憶えている。擦り合わせるように近く、ただふれあって居たかった。

 潔い後ろ姿だった、涙は流れない、ただ、背中は濡れていたと思う。彼の後を追って、石段を登っていった。

 最後の数瞬、葛藤に苦悩する彼の姿を言葉もなく見つめた。行くな。そう言われたかった気もするが、その時のことはもう、良く憶えていない。


 それは、最後の言葉に、彼の見せた表情があまりにも鮮やかで。

 ああ、これで終わりになるのだ。と、本当に静かな心で受け入れられた。

 痛みと怠さと、寒さの中で眠りにつく。それで終わりだと思っていたから。


 差し出された掌に、口元を歪ませる。少年の仕草は何処かぎこちない。そっと指を絡めて倒れたシロウを助け起こす、回りが思っている以上に馬鹿をするものだ、そう思いながら彼を見る。照れくさそうに視線を逸らすから、頬に手を添えて固定した。冷や汗を掻きそうな顔をして、熱い汗を掻いている。

「どうして目を逸らすのですか?」

 と、問うと。

「別にセイバーが怖いわけでも気に入らないわけでもない。ただ、勿体なくて直視できないんだ」

 と、彼は言った。

 昼間の笑顔を思い出す。夢見るような表情の数々が、脳裏を横切っていく。だが、それはすべて私が笑ったときに向けられる笑顔で。本当に自分のために笑った彼を見たことはない。ただ、星を見て微笑むのに似ている。砕けてしまった心、体だけは生き延びていて、そこだけはひどく人間くさい。

 衛宮士郎には過ぎた幸福。彼の口癖じみた呪いは、その実中身なんて無い。裏付けのない言葉で自分を括って、ただ多すぎる理想に溺れている。まるで満たされることのない中身なのに、小さじの先にも満たない他人にそれを委ねている。

 それは、私も同じ事だった。




 街灯の無い道を歩く。先程のどたばたで止んでいた虫の音が、再び巻き起こる。夜のそれは、夕闇におっかなびっくり演奏していた新米とはあきらかに違った。鼓膜を振るわす大合奏が、暗い田畑を席巻している。

「あ、シロウ」

 一つ、二つ、暗がりに舞う、蛍火を見る。黄緑色の小さなそれが、ゆらりゆらりと風に凪がれる。命の輝きそのものが、夏の夜空を引き下ろしている。星が、すぐ手の届く場所に降りてきた様な錯覚。

「―――――蛍です」

 掴むともなく伸ばした手に、ふわりと艶やかな虫が降り立った。黒く塗り立てられた、赤いアクセント。せわしなく虫の触角は動くものなのに、蛍のそれはじっと頭を垂れたように動かない。光も、今はなかった。

 伸ばした腕をシロウが支える。その拍子に、蛍は再び明かりを灯して飛び去った。見送りながら彼が口を開く。


「死んだ人間は蛍になるって話があるよな」

 ひどく、中身のない声で。

「聞いたことがあります」

 信じてなど居ない声で、私達は光を見上げた。


 ふわり、ふわりと蛍が舞う。まるで臣下の礼を取るように、傅く様に拝謁する。美しくて儚い命達。まるで人の夢の様な在り方。

 幻想と知って、なおも祈りを託される者。




「―――――え?」

「―――――」

 手を握られた。ぎゅっと、強く、それから、あわてた様に緩く。また徐々に強く。

 自発的な願いが動物じみているのはどうかと思う。が、これなら許されるだろう。緩く手を握り替えした、分厚くて、熱い掌が心にしみる。そのまま眠ってしまいたいほど。このままこの場で、ただ目を閉じている穏やかな眠り。

 それは微睡みの終わりに解ける夢。

 願った、二つめの我が儘。

 

















「海鳥の詩」
Presented by dora 2007 05 31


 

















「行こうか、遅くなっちまう」

 促されて、歩き出す。港に出るつもりなのか、暗い一本道をひたひたと歩く。お互いの歩みに停滞はない、ただするべき事の為に歩いて―――――ふと、何時かの夜を思い出した。

 暗くざわめく木々、長く続く石段、赤く灼けた境内、そして―――――吹き荒れた暴力の嵐。

 知らず溜息が漏れた、密やかなそれは、己だから解る程度のそれ。あれからそれなりの時間が経って、それでも鮮やかに焼き付いた戦いの日々。目を閉じるだけでありありと思い出せる、シロウのはらわた。撒き散らされたそれを、必死にかき集めた。

 歪な在り方だ、自分のそれよりも、更に、更に。

 きっとこの人は己を全て売り渡してしまう。ひょっとしたら、私が今此処にあることに意味があるのかも知れない。世界に売り渡される命の楔として、私が居るのかも知れない。

 そうでなければ、今此処にいる理由など只の我が儘に過ぎない。

 この世の全てに偶然はない。

 必然の元に世界が動いているのなら、私が成すべき事はなんなのだろうか―――――?




 港は一面の闇だった。岸壁に打ち寄せる波は弱く、波頭の砕ける轟音も遙か遠い。ただ、近くの浜辺から波の打ち寄せる音が響いている。どこかで鳥が鳴いている。梟ではなく、ただ眠り損ねた者なのだろう。リルリルと、澄んだ声が夜空を駆け抜ける。

 街灯は遙か先にしかなく、足下を照らすのは星明かりのみで。それでも、十分すぎるぐらいの透明な闇。ただ暗いのではなく、何処までも透き通っている。其処に星がちりばめられていた、水平線に向けて、暗い海面が星を映し出している。地上とは違い、遠く近くの全てが揺れている。

「なんか、灯りを点けるのが勿体ないな」

「そうですね」

 花火の袋を護岸の堤防に立てかけると、コンクリートの護岸を乗り越えて、桟橋を海に向かって歩く。繋留された船はあまり多くない、それでも、途切れ途切れになっていた景色が繋がっていく。

 終わりは近い。僅かに朽ちだした木が軋みを上げる。うかとすれば墜ちてしまう。足を止めた、これ以上は何もない。進めば暗い海に沈んでしまうだろう。終わりはまるで星空を漂っている様だった。上も下もなく、ただ輝きが世界を満たしている。

 言葉は無かった。何を思うでもなく、只美しいと感じていたかった。

 

「さて、やろうか」

 ざっと水をバケツに汲み、護岸まで引き返す。大きく掬いすぎた水は、目的の場所に着くまでに、半分に減っていた。覗き込んで顔を見合わせる、どちらからともなく、口元をほころばせた。

 ビニール袋の口を開ける、ファミリーセットと書かれた、花火の包装。子供向けの絵柄が可愛らしい。広げてみたら結構な量があって、二人でやるには、十分すぎる量だった。

 やるのも見るのも初めて尽くしだ、シロウが蝋燭に火を付けるのを、じっと眺める。一度目を逸らして、揺らめく炎を見た。辺りが暗くなった気がする。魅入られたように蝋燭を見た。きっと帰り道は、灯火が欲しくなる。だって揺れる灯に照らされた彼の横顔が笑っている、そんな顔を見せられてしまったら戻れなくなる。

 一度炎の温もりを知った獣の様に。

 暗い夜道に、怯える人の様に。

 手に持った棒を、彼の指し示すままに火に翳す。気が急いて、幾度も先端を確かめた。変化に焦れた頃、シュ、と勢いよく色鮮やかな火花が吹き出した。

「おお!」

 想像以上だった。鮮やかで、煙たい。成る程、生き急ぐ人に似ていると思う。全力で走って、全てを燃やし尽くすから輝きが増すのだろう。その分、回りの被害も大きい。

 煙たくて明るくて、鮮やかな人々。

 私はどうだろうか。

 彼は、どうだろうか。




 ―――――最後の炎のしずくが水に垂れた。じゅう、と名残惜しげな音を残して、再び港は闇に沈む。すっかり燻されていた。肌にも髪にも、煙の匂いが染みついてしまっている。つん、と強い匂いは、嗅ぐだけで鮮やかな火を思い出させた。

「行こう」

「はい」

 もう、此処には何もないと。ビニール袋にゴミを移し替えて立ち上がる。水は近場の土に撒いた。本当は良くないのだけれど。と、シロウがしかめ面をする。川に流すよりはましだろう、とも。見れば、そこかしこに残骸が残っている。

「む」

 一度二人で唸ると、出来る限り見える範囲のそれを拾っていくことにした。水を捨てたこと、ゴミを拾うこと、やるべき者が、今は居ない。本当に、全てを終わらせたと思うのなら、新しく全てを憶えていかなければならないだろう。此処に立つのが誰なのかを、私は思い知るべきだ。

 アーサー王は死んだ。剣に頭を割られて、全ての責任を負って死んだ。それで償えるとは思っていない。ただ、言い訳じみた心が、生きることで償えることもあると言っている。

 最初にそれを言い聞かせてくれたのは、シロウだったろうか。

 僅かな間、眼を瞑って彼に全てを委ねた。

 最初の願いは同じ。多くの人の笑顔をと、私達は望んでいた。今は―――――

「シロウ」

「ん?」

 振り返る顔に余裕はない。いつだって千切れてしまいそうな心で、歩いていて、傷ついて。





「―――――シロウはいつか、自分のために笑えますか?」

 そんな顔をされてしまうと、ついおかしな事を訊きたくなる。少年は苦く笑うと。

「うん、きっと―――――俺は一生自分のために笑えないんじゃないかな」

 と、壊れきった、答えを返した。




「そうですか」

「うん、ごめんなセイバー、俺、お前の言うように壊れている」

「そうですね、私も―――――」

 ようやく、今ようやく、この土地に来て、自然に視線を絡めて。

「―――――私も、貴方の為にしか笑えそうにありません」

 ただ顔が綻んでいく、優しく動く口元を柔らかな風が撫でる。同じ事だ、私も彼も。壊れているのは同じ部分。

 二人とも歪で、欠けていて。だからこそ、丁度良く並び立てる。翼の欠けた鳥のように、空を行くには、生きていくには何かが足りない。

 私が貴方の中に居て、貴方は私を包み込んで。本当に剣と鞘、どちらが欠けても、それは拵えたり得ない。

 最初の願いは同じ。多くの人の笑顔をと、私達は望んでいた。

 今は―――――ただあなたに幸せをと、そう願っている。

 歪で壊れていて、何処までも遠い。純粋であって欲しい願い。余計な物が入らなければいい。




 雑貨屋のゴミ箱に残骸を打ち棄てる、中を覗くと、海と埃と、濡れた紙の匂いがした。こちらへ、と書かれた場所にバケツを重ね、宿に足を向けた。

「セイバー」

「何でしょうか」

「明日は、何をしようか」

「さあ、それは明日になってみないと」

 街灯の無い道を歩く。ゆるゆると、とほとほと。懐中電灯を締まったまま、星空に願いを馳せたまま。星が流れる度に、相手の幸せだけを祈る。心苦しくなったら、他の者の分も。

 何処まで行っても、互いに自分の事を願わなくて。

 虫の音が、愚かさを笑うように高く、高く。

「セイバー」

「何でしょうか」

「今日、どうだった」

「何とも言い難いところですが、貴重な経験をしたと思います」

「そっか」

「はい」



「じゃあ、また来よう。これが、最後って訳じゃないんだし」



 彼の声は震えていた。きっと心は橋の上、いつかの夕暮れに、私達を重ねている。気遣いに涙が出そうだ。束の間、足を止めた。手応えが変わった事に、彼が振り向く前に背中に寄り添って。

 答えは決まっている。己のために楽しむことが出来なくとも―――――

「そうですね、それはきっと―――――」

 それが己のための笑顔でなくとも、他人に向けられた物だとしても、星の光を糧とするように、貴方は前に進むことが出来るだろう。

 きっと、貴方が微笑む事の出来る、安らぐことの出来るひとときとなるだろう、と。

 そっと口付けた。触れるだけのそれは、敬意と誇りに満ちて。つたない口づけではあるけれど、間違いなく愛情のそれで。

 長く長く、緩やかに巡る星空の下で影を重ねる。言葉はなかった、ただ寄り添って其処にある。

 温もりが其処にある。

 〜To be continued.〜




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