〜Interlude in 「Broken hearts & True hearts.」〜

 ――――――六色のひらめき、ちらちらと瞬くそれに気が付いて手を止めた。僅かな間をおいて着信音が響く。明るいメロディーは何処か間が抜けている。一呼吸入れる間に、それは原曲と僅かに音がずれているからだろうと結論する。書類を纏めていた手を休めて、大河は携帯電話に手を伸ばした。

 誰からだろうか、とは微塵も思わない。教え子には全員にこの番号を教えてある、何かとデリケートな時期だ、何でも相談するようにとも伝えて。一人一人の着信音を変えてあるのは彼女なりの気遣いだった。音ごとに思い浮かべる顔が違う、即座に問題に対応できるようにファイルを開く。戸惑うことはなかった。人前ではまず見せることのない顔、およそ職員室ぐらいでしか見せることのない真剣さ。

「はいはーい、藤村です」

 聞き慣れた着信音だ、毎日のようにかかる曲と言っても良い。ある意味で、もっとも身近とも言える少女。それでも手を抜ける箇所など一つもない。二年生のファイルを開くと、二秒でページを探し当てる。待たせることはない、およそ出来る限りのフォローを準備して返答を待つ。誰に誇るわけでもないが、普段の荒さとは裏腹のきめ細かい対応が彼女の自慢であった。

“――――――…………”

「どうしたのかなー? 士郎が送ってったんだよね」

 僅かに震えを帯びた声。いつもとは大分違う音程、時折何処か外れるのは、泣き声が化けた者か。トラブルか、それとも―――――

「桜ちゃん、何があったの?」

 ―――それとも突発的で性的な問題だろうか。高校生と言えばやりたい盛りの真っ盛り、坊主だって獣に変わる。だから真っ先に疑うのはその線だ、いくつかの選択肢、士郎が起こしたか、はたまた、途中で暴漢に出会したか。一つめの線は無いと信じたい。二つ目も、最近の獣じみた反応を見せる弟分から推察するに怪しい。違うことを願って、他のトラブルを推察する。

 進路の事はここしばらく話題に出ていないが、短大を志望していたはず。家庭のことも。死別した兄と祖父と、三人だけの家。となると部活だろうか。その線もすぐに消える、じき代替わり、とは言え、次の主将は美綴実典に決定している。ならば他には―――――

“…………藤村先生、あの”

「んん?」







“私―――――ふられちゃいました”







 ―――――そうか軍曹、玉砕したか。

「天晴れその覚悟は見事である。じゃなくて」

 長い、長い息を細く吐いた。緊張をほぐすように椅子に浅く座る。背もたれが軋むほどに体重をかけて、後ろに伸びた。浮かんできたのは自然な笑顔で。思い敗れるとも、こうして人に言えるのなら大丈夫だろうと安堵する。

「……そっかぁ、頑張ったんだね」

“はい、でも、だ…………めでした……!”

 震えは一層大きく、大河の優しい落ち着いた声に誘発されたように、あふれ出す音は子供じみた本気の泣き声だ。

“せ、せんせぇー、ぇぇええぇ、えええ……ぁあああああん”

「よしよし」





「そっかぁ。実はわたしもこないだふられちゃったんだ」

“―――――え”

「これで一緒だねー、振られ虫同志で仲良くしようねー」

“センパイに、ですか?”

「そうなのよー、聞いてよ桜ちゃん士郎の奴ってばひどいんだよー?」





“あはは……そんなことがあったんですか?”

「そうそう、かっこよく『おう、貰い手がないのなら俺が貰ってやる!』とか言ってたくせにさー、ひどいよねー」

 小一時間も話し込む頃には、声に笑いが戻ってきていた。人を明るくさせることに関して、大河には一種才能めいた物があった。今回も存分に発揮されたそれ、胸をなで下ろしながら、マグカップに口を付けた。ホットミルク、砂糖は少し多めに。ささくれそうな話にはコレが一番だと、電話の向こうの彼女にも淹れさせている。

 さて、今後彼女はどうするのであろうか。思い敗れた今となっては、家に来ることすら苦痛かも知れない。さてはて―――――

“―――――先生、これからもお邪魔していいですか?”

「もーちろん! 桜ちゃんの顔が見られなくなるのは寂しいからねー」

“そっかぁ、良かった…………”

「ねえ、桜ちゃん」

“はい……?”











「家族なんだからさ、遠慮しなくていいんだよー」











“―――――っ”

「私が一番上のお姉ちゃんで、士郎がその次で、桜ちゃんが居て、イリヤちゃんが……イリヤちゃんか、ううむ、扱いが難しいところなのだ…………」

“あははは! いい台詞なのに台無しです!”



 それから、更に一時間ほども話し込んだだろうか。

 よし。コレなら大丈夫、数日はぎくしゃくするかも知れないが、またいつもの日常が戻ってくる事だろう。そう判断して電話を切った。時計に目を向ければ既に一時を回っている。短く息を吐いた、纏めなければならない書類はまだ山積みで。

 自分が背負い込む必要のないことだとは思っている、ただ、他と分担するのは良いのだが、それで手を抜かれてしまうとたまった物ではない。弟分は言っていた、人の一生を左右するのだからと。だったら何から何まで背負い込んだところで、相手に不足がないようにするのが教職者としての本望だろう。

 もう一度時計に目を向けた。三時間、六時の朝食に間に合うようにするためには、少なくとも三時までには終わらせたい。三年生は休みだが、他の学年は動いている。教師も同じだった。朝市からの職員会議までにコレを纏めておかなければ、問題が先延ばしにされてしまう可能性もある。書類を捌く手を更に急がせて、それでも最大限の注意を払って。眠らずに働くことも出来るだろうが、それでクオリティが落ちたのでは本末転倒だ。部屋に備え付けた小さな冷蔵庫から、栄養ドリンクを取り出すと一息に飲み干す。舌に残る不快さに眉を寄せると、大河は書類に向き直った。

 可愛い妹分のためにも、朝食の席が暗くなるようなことは避けなくてはならない。

「がんばるぞー、だから桜ちゃんも頑張るのだー」

 拳を振り上げる。可愛らしい仕草とは裏腹に、祈りが強く籠められたその拳―――――

 〜Interlude out.〜



















「微睡みの終わり」
Presented by dora 2007 12 13




















   手順に従ってチャイムを鳴らす、彼女に言うには、知人とそうでない場合にはそれぞれのやり方があるらしい。敵対の気配がないことを見せてから鉄柵の中へと入っていく。遠坂の結界は今日も健在だ、どちらかと言えばいつもよりも緊張感が増している。内側にある者を守るためだろうか、ちらほらと飛び回る使い魔を見るに、城塞じみていて恐ろしい。屋敷は、文字通り魔術師の工房に踏み込んだのだと、否応なしに自覚させるたたずまいを見せていた。

 玄関は独りでにその口を開いた。おお、スゴイナ遠坂。施錠だけじゃなくて此処まで出来るのか。この調子なら、掃除用具に自立の魔術でもかけて独りでに。とかも行けるんじゃないだろうかと思ってしまう。便利だろうな、それ。

 おじゃましまーすと声をかけて中に入る。やっぱり扉は独りでにその口を閉じた。横滑りじゃない自動ドアってのは、何とも言えず不気味で。

 雰囲気出てるなぁ。

「遠坂ー、どこだー?」

 家の中の気配を探る、果たして遠坂は何処に居るのだろうか。



 玄関からちょこちょこと動きながら、階段やら扉やらに向けて声をかける。迂闊に扉を開けるのは危険だ、一度扉を間違えてえらい目にあったこともある。

「おーい、とおさかー?」

「…………ちょっと地下に来てくれるー?」

「地下、か」

 二分ほどおたついた所で、一つの扉から返事があった。地下と言えば、遠坂がアーチャーを召還した場所だったろう。なんでも、この屋敷で一番魔力が集中する場所らしく、魔具の保管やら作成、実験なんかは全部そこで行うんだとか。そうすると、ロンドンへの手みやげに、何か気合いを入れて作っていると見える。

 聞きかじったことを反芻しながら応接間を通り抜けて地下へと向かう。階段は暗く、湿ってかび臭い―――等と言うことはなく、彼女の趣味なのだろうか、古いハーブに似た匂いが染みついた、白く明るい階段。何を思ったのか、石段の端々には、それとなく滑り止めまで施してあったりする。革靴でも滑らなそうな機能性、持っていたイメージとは明らかに違う文明感。

 ギャップに途惑いながらも、そっちの方がらしくて良いか、なんて思い直す。あのきっぱりした奴がじめじめどろどろなんて、ちょっと考えたくなかった。

「いらっしゃい衛宮くん、ご機嫌いかがかしら?」

「こんばんは遠坂、晩飯、まだだろ」

「もち、お腹空いちゃったわ。でもちょっと待ってね、もう少しだから」

「上で支度しちまうからさ、終わったら上がってこいよ」

「オッケー」

 拡大鏡を着けた遠坂が、一心に何かにブラシをかけている。柔らかそうなブラシだ、どうやら、傷が付きやすい品物の埃を落としているらしい。こうしてみると、魔具の扱いって言うのは考古学の実地とあんまり変わらない気がする。机の上でじっくりと品物を磨いていくのなんて、何だか宝探しじみていてかなりそそられる。

 考えてみればそもそもの時計塔も大英博物館の地下にある訳だし、考古学とは切っても切り離せない縁なのかも知れない。まあ、ぱっと見た感じで何だか解らなかったから、刃物の類ではないだろう。俺には関係のないところだ。

「なにやってんだ?」

「んー、ちょっとね。流石に十五世紀前の遺物とか見せられたらほっとけないでしょ」

「うわ、すごいな」

 また買ったのだろうか。百年でウン百万ってぐらいだから……って、ちょっと考えたくない金額じゃないのかソレ。

「……何処に感心してるのか知らないけど、なんかむかつくわね」

「気にすんな」











 沸き上がった湯気を避けて、鍋の様子を確認する。眼鏡だったら真っ白だろう。ボウルとざるを重ねた中に入れた肉の具合は頃合いだ。鶏肉に電子レンジは使わない、せっかくの柔らかい肉が硬くなってしまう。60℃の湯煎でじっくりと、まんべんなく熱が伝わるように暖めていく。その間に桜渾身の前菜六種、パン、魔法瓶からスープ、パエリア、ケーキを並べて、隣の鍋でペンネを茹でる。これだけはその場でやらないと美味くない。本当はパエリアもやっつけたいところなのだが、そこまでやってると晩飯ではなく夜食の領分になってしまうだろう。

 頃合いを見計らってソースとペンネを絡め、鶏肉を切り分けて皿に盛った。無論食器を温めておくのも忘れない。二月のこの時期、少しでも人が遅れればあっという間に皿も冷たくなってしまう。皿を二重にするのにも、ちゃんとした意味があるのだ。

「…………うっわ、あの子此処まで出来るようになったの?」

 お、頃合い良く遠坂も切り上げてきたみたいだな――――って。

「……あれ?」

 居ない。確かに上がって来たはずの遠坂が居ない。となると、手を洗いに行ったか用を足しに行ったかあるいはその両方か。まあ、途中で席を立たれるよりは余程マシだと思いながら配膳を完了する。さて、紅茶でも淹れましょうかね。

「どれ使えばいいか、なっと」

 銘柄は多い、唯一の趣味だと言わんばかりの茶葉がこの家には揃っている。貧相な家とは大違いだ、茶器の類も実に高価そうでおそれおおい。

「あのメニューに合わせるとなると、しっかりした奴の方が良いのかな」

「そうね、でも士郎。……私は紅茶よりこっちを開けたいわね」

「うわ!」

 かけられた声に内心飛び上がりながら振り返る。実際に声に出してしまった辺りでモロバレって言うか、全くごまかせていないのを顔に出さないように努める。いつのまに後ろまで来ていたのか、遠坂はにっと悪戯っぽく笑うと、後ろ手に持った瓶をそっと差し出した。

「ね、コレ開けよ」

「驚かすなよ…………ってコレ、ワインじゃないか。飲む気かお前」

「だって、これだけのメニューだってのに、ソフトドリンクじゃ味気ないじゃない」

「まあ、そうかも知れないけど」

 ぶっちゃけ俺もそう思ったし、イリヤと藤ねぇは完全に飲んでたし。桜はすぐに絡むからって事で押しとどめたけど、まあ、何かの御祝いの時になら良いかも知れない。

「綺礼のとこから昔くすねてきたのよ、アイツ、ワインは良い物溜め込んでたからね」

「そういや部屋なんかもそんな感じだったな」

 こう、匂いが染みついてるっていうか。

「やっぱりアイツ好きだったんだな」

「みたいね」

 ワインオープナーでコルクを抜く、揺らさないように気をつけなさいよ、なんてお師匠様からのお叱りを受けながらぐーっとコルクを引っ張り上げて。

 はて、言峰のとこからくすねたって、遠坂が幾つの時の話なんだろう。まさか中学生から飲んだくれてたって訳じゃないよなあ。







 食卓に大きな燭台、飾られた銀製のそれには二十数本の蝋燭が飾られている。照明はあえて暗くした。それというのも遠坂の提案で、これだけの物が揃っているのに、蛍光灯ではあまりにも味気ないから。と言うことらしい。

 個人的には、余りにもムードが出過ぎているって言うか、蝋燭越しの視界は色気が強すぎてかなり困る。余り強くないから、と断って、一杯だけ飲んだワインのせいかもしれない。僅かに頬を染めた彼女が、揺れる火に照らされる様はひどく幻想的でエロティックだ。

 食事は遠坂に付き合う程度に、一応夕食は済ませているのだから、と、軽めに盛りつけていただいた。満腹近くまで詰め込んだはずなのに、それでも食べたくなるのだから桜の料理は恐ろしい。

「あいつの様子は?」

「変わらないわ。容態は安定してるからじき目が覚めるんじゃない?」

「そっか」

「気になるなら自分で見てくればいいじゃない」

「そうだな」





 洗い物を済ませて、一息入れる。結局何から何までやっている辺り救いがない。洗い物ぐらいは任せろと遠坂も言ったのだが、何だか余所の家の台所を汚しておいて片付けないってのもどうかと思うものだ。

 向かい合って座りながら天井を見上げた。どういう訳かはわからないが、こう、胸の中にもやもやっとした感覚が渦巻いている。さてはて。

「意外だったわ」

「何が?」

「てっきり私なんかより彼女を優先すると思ったのに」

 ずばりその感覚の正体がこれか。まるで見抜かれたくない事を覗かれてしまったかのよう、瞬きを四度と、ちらちらと泳ぎ回る視界。なるほど、どうして最優先にしなかったのか、自分でもよくわかっていないらしい。

「理由を聞かせてくれる?」

「何だか責められてるみたいだな」

「そうね、責めてるもの」

「…………」

 声はとげとげしい。彼女に一日任せきりだったのが気に入らなかったのだろうか。射抜くように鋭い瞳は、こちらの思惑を推し量るように細められていく。

「正直、まだ実感が湧かなくて」

「そう、私はばっちりよ。下の世話までさせられて、実感が湧かないのなら老人介護が天職でしょうね」

「え゛?」

「冗談よ、でも近いうちにさせられるんじゃない?」

 水分は取らせているしね。と、遠坂は頬杖を付きながら言った。

 …………実際その辺りはどうなんだろうか。思い起こす限りでは、セイバーが用を足しに行っていた記憶はない。が、風呂で出会したことがある以上、そう言うことをしない訳でもないだろう。そもそもサーヴァントの体でない以上、普通の人間と同じなわけで―――――て、何考えてんだ、俺。

「で、理由はそれだけ?」

「そもそも今のが理由なのかも解らん」

「なによそれ」

「だから、なんていうか」

 こう、気持ちの整理が付かないって言うか。

 逢えないって覚悟を決めたところで、良い意味で裏切られたって言うか。

 とにかく、理屈じゃない物が渦巻いて居るんだ。

「―――――結局なんなの?」

「解らない」

「そ、じゃあ顔でも見に行けば?」

「ああ、うん、そうだな」

 そう言って、深く椅子に腰掛けなおした。なんだんだろうな、どうしてすぐに動き出さないんだろうか。何だか経験したことのない感覚に戸惑っている。これをどうにか言い表すのなら。

「ちょっと、行くんじゃないの?」

「アルバイトするだろ」

「突然何の話よ?」

「まあ聞いてくれ。アルバイトするだろ、何のためかって言うと欲しい物があるんだ、だけどもそれはもの凄く高い。それで必死になって働くんだ」

「よくわからないけど、それで?」

「でさ、ふと気が付くんだ。余りにもそれが高価すぎて、自分がどれだけ働いたところで手に入らないって」

「ふーん?」

「ところがそれを突然知らない奴に手渡されるんだ」

「……嬉しいって言うか、裏を疑るって言うか。きっと戸惑うわね」

「だろ? まさに今そんな気分なんだ」

 前兆もなければ予言もない。むしろ、夢でさえ逢えなくなったのかと覚悟を決めて。たった一人で記憶の海を泳ぎ出すのかと、苦い思いを噛み締めながら歩かなくちゃならないのだと思っていた所。飢えて乾いて死にそうで、それでも前に進まなくちゃ行けないと覚悟した目の前に、差し出された林檎の果実。

「でもそれって、会いに行かない理由には弱くない?」

「いや正直ビビッテルってのがホンネ」









 尻をけっ飛ばされる様にして階段を上がる。ナニヲナサケナイコトヲバカイッテンジャナイワヨーとか後ろから飛んでくる怒鳴り声に頭が下がる。自分にばれないように、必死で息を整える。自分にばれないように、眩む視界を必死に修正する。自分にばれないよう、高鳴る心臓をあえて無視する。

 そうして扉の前に立つ。一応ノック、もし目が覚めていたら拙い。今どんな状況なのか遠坂に訊ねなかった事を今更ながら後悔する。そう、正しい。後になって悔やむのは使い方として一流だ。馬鹿なことを考えながらドアノブに手をかける。一度強く握りしめたそれを、放した。降って湧いた疑問、どうしてこの扉を開くことを躊躇っているのか。

 首をかしげながらもう一度握りしめる。軋む音がするぐらい力一杯。弾む息と震える手が、なんともとらえどころのない緊張感を醸し出している。むしろ緊張MAX、張り詰めすぎて暴発思想。マジュツハバクハツダー。

「は、何を、バカナ」

 裏返った。震える視界に喝を入れようと、取り敢えず出した声はからからに乾ききって喝どころか渇って感じ。上顎どころか下顎にまで張り付いた舌はまともに動くことすらお断り。結果乾ききった喉から直接情けない声が逃げ出していく。うおう、超汗。握りしめたドアノブにまで垂れそうだ。

 緊張、無視できねえ。

 大丈夫だ、行ける。行ける。行ける。ドアノブを回してドアを開くだけだ。たったそれだけの事なのにもう一分近くこうしている気がする。時間の感覚が飛んでった、ただ耳元の血管がバカみたいに膨れ上がってドッキンドッキン喧しくて仕方がない。よし、取り敢えずドアを開けよう。話はそれからだ。そう思ってドアに背中を預けてへたり込んだ。ああ情けない。まともに立っていようとするだけでこんなに膝が震えている。

 力一杯頬を張った。ぱんっ! と威勢の良い音が屋敷に響き渡る。涙が出るほどに痛かった。ええい全く情けない、勢いよく手を打ち振って、炸裂音に麻痺した耳を無視して一気にドアを開ける―――――!











































「――――――――――――――ぁ」











































 弾けた。

 感覚が弾けて消えた。

 体の感覚がなくなって絨毯に倒れ込む。

 違う、余りにも萎えた脚が急な動きに耐えられなかっただけだ。

 泣きたくなるぐらい懐かしい気配。

 二週間、毎夜のように聞き続けた彼女の寝息。

 何時かの夜にかいだ、彼女の匂い。

 昏々と眠り続ける様は、まるで人形めいて冷たい。苦しげに寄せられた眉は、傷の痛みの為か。

 転倒までには一秒もない。スローモーション、ゆっくりと倒れ込む体。その間に全てを取り込んでいく五感。絨毯との接地までコンマ三秒、それまでに取り入れられるだけの情報が流し込まれている。

 胸が熱くなった。体に火が戻った。萎えていた四肢に命が流し込まれ、倒れるだけだった体が前に進み出す。ぐっと力の籠もる脚。倒れる前に踏みとどまったそれが、強く強く前に体を押し出して行く。

 七歩。それだけあればベッドまでは事足りる。その距離を三歩で詰める勢い。突撃しそうになる体を、全力で踏み留める左足。殺しきれなかった勢いそのままに、ベッドにもつれ込む愚かな俺。

 衝突しなかったことは、幸いと呼べるだろうか。







 ベッドの上で深い寝息を立てる彼女を見下ろす。その姿を、不思議と懐かしいとは思わなかった。

「ああ、それは―――」

 余りにも濃く焼き付きすぎた記憶のせいで。隣にいるのが当たり前の様に、並んで歩いた気配を探し続けていたからで。

 思えば、自分はあの日々に形作られた様な物。

 その全てが、今此処にある。

 懐かしいとか。

 思い出があるとか。

 そんなものでは語りつくせないエミヤシロウの一部。

 そう。今でもはっきりと思い出せる。

 錆び付いた記憶の中、唯一輝き続ける俺の星。

 彷徨う船乗りが、北極星を道しるべにしたように。

「セイバー」

 万感、それもバカみたいに籠もっている。口に出して確認するまでも無く、この瞬間を望んで覚悟して諦めて生きてきたのだと理解する。

 そうだ、「逢えて嬉しい」じゃない。そんな人間らしいことを衛宮士郎は真っ先に考えない。最初に胸に抱くのはただ一つ。彼女が、新しい日々を暮らせることが嬉しい。戦う者としてではなく、治める者としてでもなく、相応の少女として、生きていけることが嬉しい。

 穏やかな日差しの中で、優しい風に吹かれている彼女。そんな光景を、あの日々から幾度幻視したことだろうか。そこで初めて、逢えて嬉しいが出てくるのだ。お前が隣にいてくれたから、生きる意味を見いだせた。お前が俺の中に居てくれたから、一年を生き抜けた。また、こうして出会えたのならもう完璧だ。何一つ取りこぼすことはない。ベッドに突っ伏しながら拳を硬く握る。水を掬えば漏れて零れる掌だけど、きっと重ねた掌だったらそれも少なくなるはずだ。

「―――――――けど」

 目を逸らしたままでは生きていけない。直視しなければ前に進めない。不器用で下手くそで、死にたくなるぐらい恥ずかしい生き方。回りが泣いてやめてくれと言っても、それを聞き入れられない俺の生き方。椅子を寄せて、眠る彼女に視線を落とす。暴走しがちな心に、剣を突き立てるために。

「お前はどっちなんだろうな」

 セイバーなのか、アルトリアなのか。

 はたまた、俺の知らないアーサー王なのか。

「もし、違うのだったら」

 俺は。

 誰を望めばいいのだろう。





 〜Interlude in 2-3〜

 徐々に取り戻されていく体、あやふやだったところが巻き戻されていく感覚。それで、夢の終わりが近いのだと思い知らされた。

 深淵。何もない闇に漂っている。夢の終わりなど体験した経験がない故に、此が正しい終わり方なのかも解らない。ただ確実になっていく感覚、紬治される記憶はかつてのそれだ。

 微睡みの中にあった事など、霧中の風景のようで頼りない。

 ひどく長い時間、そうしていたような気がする。感覚はあやふやで、ただ闇に溶けまいと必死で目を開け続けている。暗い色に消えそうだ。頼る者もないこの世界は、ただ冷たくて。

「アルトリア」

「マーリンか」

 まだ夢の続きなのか。おそらくはそうだろう、此処が己の内側であるというのなら、彼が出てくること自体がおかしな話だ。

 途惑いがちに彼に目を向ける。すると、マーリンはさも面白いと肩を震わせた。憮然としながら問いただす。

「マーリン、私はどうなった?」

「戦争は終わった、お前は王国から解き放たれた、無限の繰り返しからも切り離された。どんな気分だね?」

 抽象的に過ぎる。いつもいつも率直だった男の言葉とは思えない。否、率直すぎて意味が拾えないこともままあったから、今日もその類なのだろうとあたりを付ける。

「言っていることが今ひとつ理解できない、マーリン、もう少し分かり易く言っては貰えないだろうか」

 まだ寝ぼけているのだ。あやふやな部分が多くあるというのに、突然難しいことを言われてもどうしようもない。マーリンは小さく笑うと。

「さてアーサー王、お前は選ばなければならない」

 と、此方の問いかけとはまるで関係ないとばかりに、目前の空間に失われた己の武具を並べていく。

 剣と、鞘と。

 選べというのは、どういう意味だろうか。



「―――――――此処に剣と鞘がある、お前が向き合うのは失ってしまった十年前の自分だ。さてアーサー王、何時かも訊ねたが、剣と鞘と、お前はいったいどちらを選ぶのだろうな」



 考えるまでもない。

「ああマーリン、答えなど、とうに決まっている」

「そうか」

 魔術師は表情を変えずに言った。

 そうして剣の前に立つ。いつかと同じ、差し出された黄金の剣。今は居ないが、あの時と同じように彼女に頭を垂れた。なんと言っても恐ろしい彼女の系譜だ、もしも粗相があれば後が恐ろしい。きっと思い切り後悔させられる。そう、正しい。後になって悔やむ。使い方は間違っていない。しょうのない事を考えながら剣に手をかける。一度強く握りしめたそれを、恐ろしい物でも触ってしまったかのように放した。

 違う。と。

 私の知らない誰かが叫んでいる。

 無視してしまえばいい。知らぬ者の言うことなどに耳を貸す必要はない。関係ある者ならば、我が身を瞞そうと詐称する。

 受け入れればいい。知らない者の言葉ほど信頼に足る言葉はない。無関係であれば純粋な言葉だけがあふれ出す。

 私は。

 どちらを望めばいいのだろう。

 〜Interlude out.〜

 〜To be continued.〜




メールフォームです。
dora様への御感想はこちらからどうぞ!!→メールフォーム

dora様の寄稿なさっておられるHPはこちら!


 戻る
 玄関へ戻る