「イリヤ?」

「……まだ、いいよね」

 幾ばくかの呼吸、何を言おうとしていたのか。僅かな躊躇、此方から訊ねようか、と思ったところでイリヤは静かに身を離した。呟かれた言葉は寂しげで、離れ際の微笑みは、自嘲のそれだろうか。思い切りが付かないと己を笑っているのか。

「何かあったんじゃないのか?」

「うん――――えっとね、やっぱりいいわ」

 沸き上がる物を言葉に代えがたいのか、笑いともなんとも捉えがたい表情を見せる。考え込む仕草、なにか思うところがあるのだろうか。

 結局答えは出なかったようで。いつものように己の定位置に付くと、行儀良くいただきますを言って食器に手を付けた。

「気にしないでいいから」

「そっか?」

 気にするなと言われた以上、気にはしない。彼女がこの家にやってきたときに決めたルールだ。言いたがらない事をほじくり出すのは性に合わない。だから、いつだってルールに従って日々を過ごしていく。そんな、当たり前の食卓。明るくて賑やかで、少しうるさい。誰しもが何かを抱いていて、誰しもが何かを悩んでいる。通り過ぎることの出来ない今を、一歩一歩踏みしめるように。

 他にいつもと違うことと言えば――――――

「……なんだよ」

 ―――――やけに藤ねぇと桜が、俺の顔を見つめることだろうか。

 待ってくれ。そんなにじっと見られたら穴があいちまう。居心地の悪い視線、交互に視線を送るればその度に二人とも目を逸らす。の、だが、此方の目がそれればまたじっと見つめだすのだ。やりにくいって言うか何て言うか。

「なあ、なんだっての」

「ううん……」

「……はぁ」

 ええと、イゴコチガ、ワルイ。

 おい何とか言ってくれないかなー、何だか此処に居ちゃ行けない気までしてくるぞ。まるで動物園の見せ物のよう、あれだ、なじめない奴がエサ食えなくて痩せていくってのがよくわかる。落ち着かないってかゴハンが美味くない。

「なあ、桜。俺の顔になんか付いてるのか?」

「そういう訳じゃないんですけど……」

 言葉の切れは悪い、ルールはこの際向こうに置いておいてっていうかそもそも適用外。さらし者にされてまで頑なである必要はないと思うのだ。

「じゃあなにさ?」

「いえ、気にしないでください。…………ううん」

 ――――――駄目だ話にならねえ。

 だけども虎に聞いたところで話どころか会話が成立しねえだろう。こうなればイリヤに聞くしか!

「なあイリ――――」

「ムダよ、ワタシには二人にどう見えているのか何てわからないもの」

「…………そ、そうか」




  「ねえ」

「ん?」

 五分ほどたったか。ふと、藤ねぇが口を開いた。視線はおかずを向いたまま、さりげなく、さりげなくを装った声。まるでいつだかの焼き直しみたい、今はそんなにおかしくもないし、落ち着いているってのにどきっとする。

「士郎さ、何かあった?」

「え、いや、特に――――――」

 あった。さらりと嘘を吐いたが確かにあった。そのことが顔に出ていたのか、それとも、何か感じるところでもあったのか。

「何で?」

「んー、いやね、その、何というか、表現しにくいなー」

「何だよ」

「感じがね、いつもの士郎と違うのよ」

「あ、そうなんです」

「二人とも?」

 声を揃えていつもと違う、その意味がわからない俺は訊ねるしかない。

「どう違う?」

「ゆるんだみたい」

「たるんだみたいです」

「――――――…………は?」

 なんだそれ。

 ばかにしてんのか二人とも。

「何て言うかねー、緊張の糸が切れたっていうか、心ここにあらずみたいな感じなのよ」

「そうですね、なんか、ぼーっと遠くを見てるっていうか」

「…………」





「そう、いつもみたいに余裕のない目をしていない!」





「それです!」

「なんだそりゃ!」

 力一杯拳を掲げる藤ねぇと、それに力一杯賛同する桜。そんなに余裕のない目をしてるのか俺は。

「なるほどね、つまりサクラもそんな目でシロウを見てたんだ」

「え、うえっと!? いえその」

「ホントのことでしょ、言った以上セキニンは持たないとダメよ」

「っ、はい……」

 こっちはこっちで何だか凹まされているし、ややこしくなってきたなー。

「でも確かにそうかもね、シロウ、今日は何だか穏やかな目をしてるわ」

「うんうんそうよねー、しばらくぶりにみたかも、こんなにまったりしてるシロウ」

「ん、ん、んん?」

 何だかよくわからんが納得された様子。

 だけどなお前等、釈然としない。俺は釈然としないぞー。



















「微睡みの終わり」
Presented by dora 2007 12 01




















   〜Interlude in 2-2〜













『何故だ! 何故手を放す!』

『――――――』

『答えなさいアルトリア! それほど想い合って居ながら―――何故!』

『…………彼を愛しているから、私は、彼処に居られない』





 ―――――短く言って、
         現世の理に別れを告げた。





 ゆっくりと目を開く。

 ――――――しらじらと細い糸が視界を縦に横切っている。

 雨が降っているのだ。粒は中程で、激しくはない。ただ、ひたひたと冬の雨が地面をぬらしている。

 曇天、重くのし掛かる空は冬のそれだ。

 夢の続き。望んだそれにしては、冷たくて。

 どうして此処に立っているのか。

 私が何処に立っているのか。

 それが掴めなくて苛立つ。

 凍えるような寒さの中で、透明な息をはく。

 ああ、そうか。此処は夢の中。それに色が付く道理はなくて。

 幾つもの水音。熊よりも大きなそれが水たまりを撥ね散らかしていく。飛沫を避けもしない。ただ虚ろな心で眺めている。



 つ、と顔を上げた。

 何者にも興味を示さなかったのに、その足音に釣られた。

 軽快でリズミカルなそれ。何者も妨げられぬと走っている。

 ああ、笑っている。

 私は今、笑っている。

 さざ波のように喜びが広がっていく。やはりこれは望んだ夢の続きで。彼が、私の方へ走ってくるのを、じっと見つめている。

 剥き出しでささくれだった心が、優しく包まれていく。

 声をかけようとして、音にならないことに気がついた。



 どうして、彼は泣いているのだろう。







 今日は晴れている様だった。

 連続しない視界は、夢の特性故なのだろうか。経験したことのない微睡みに、彼の陰を追っている。  

 日だまりのベンチに腰掛けていた。天蓋を覆う花は、故郷にない色で。風が舞う度にその命を儚く散らしていく。

 太い木の枝。腰掛けようと願えば一瞬で。

 向こうに彼が笑っている。うわべだけの笑顔、それでも、楽しそうに人々を眺めて。

 彼なりの幸せの形。

 追い求める陰は遠く。

 ざあざあと吹く風に、虚ろな顔を晒している。

 何て良い天気、何て良い季候、何て―――――嫌な夕焼け。

 町並みは燃え上がるようで、建物は紅く塗りたくられて。

 照らし出される彼の横顔は、苦渋に満ちて。

 何を思っているのだろうか。

 私は、彼の笑顔が欲しいのに。

 涙はない。だが、彼は泣いているのだ。







 久方ぶりに彼の笑顔を見た。

 あけすけで、隠し事のない笑顔。心の底から楽しそうに、それをもったいのない事だと思っている彼の笑顔。自然と唇が緩んでいく。

 彼は、人を好きになろうとしているようだった。ああ、それで良いのだ。と、心の底から思いこむ。私はもう其処に居ない。それぞれの未来に進んだのだから、それで構わない。

 そう思いこんだ。

 思いこんだのだ。

 だって言うのに、こんなに苦しい。

 剣が欲しかった。頼りになる物が欲しくて。だけど手に剣はなくて、既に失われて久しくて。

 彼の隣に居ることは出来ない。

 だからせめて、見守り続ける事を、と望んだ。

 それがこんなに苦しい。

 だって、だって其処は私の席で。

 私が、其処に座っていたことを、彼は忘れようと。

 彼の心に在ればよい、と。

 そう望んだことが、まるで呪いめいている。

 悲鳴。嗚咽に似たそれ。

 誰かが叫んでいる。

 愚か者が――――――と。

 私も、泣いているのだろうか。







 趣味が悪い。そう思いながらも覗き見のまねごとは止まない。

 見たくないと目を逸らしながら、見せつけられる幸せの形。

 誰と、誰の。

 彼と、彼女の。

 私は居ない。

 鎖で縛られている。野茨が内側から這い上がる。無数の針に責められて、血を吐いてのたうち回りそう。

 心が痛い。

 無い物は痛まない筈なのに。

 壊れていく彼を、見るのが辛い。







 雨が降っている。

 手には剣が、彼の手にもそれは下げられていて。

 ―――――謀ったなメイガス。

 そんな、知らない言葉が溢れて来る。

 ―――――誤解だ■■■■、俺はそんな。

 ―――――問答無用、身を以て償え!

 斬りかかる。剣を下げるとは、己を守ると言うこと。抵抗する気があるのなら、それごとに切り伏せるまで。

 ああ、なんていうことだろう。

 彼が私をなんと呼んだのかが思い出せない。

 私が彼をなんと呼んだのかが思い出せない。

 ただ手に余る剣を振りかざす。

 おかしな事だ、あれほど身近だった剣が、今はまるで巌のように重い。

 支えるのに精一杯で、鋭さは影を潜めてしまったかのよう。

 それでも、ただ、少年はその身で剣を受け止めて。

 ただ強く、私を抱きしめるのだ。

 冷たい雨の中。

 熱い血が私をぬらしている。





 ――――――この人はだれだっただろうか?





 わからない。

 わからなくなってしまった。

 たいせつなことだったのに。



 よくない。と、思うのだけれど。

 私は、どういう訳か力が入らなくて。

 ただいつも走る彼を見つめている。

 声が届くことはなく。

 思いが届くことはなく。

 記憶が蘇ることもなく。

 ただいつも走る彼を見つめている。

 早い。

 速い。

 疾い。

 風のよう。

 駆け抜ける獣。

 まるでむささび。

 一度だけ声が出た。

 振り返ることなく、彼は駆け抜けた。

 それが、今の私のとの距離だった。

 貴方は、誰だっただろうか。

 そう聞きたかったのに。

 彼は泣いていて、追いつけないほどの早さで駆け抜けてしまった。







 なにか、たいせつなやくそくをしたのだった。

 かれと、さいごに。

 私が、さいごに。





 約束したのだった。

 吹き付けるイメージは朝焼けの空。明るくなっていく山並みと、足下から砕けていく虚脱感。

 思い出せ。

 意識を保て。

 このまま溶けてしまえば、渦に飲まれて消えてしまう。

 銀の林檎が手掛かりだった。古い本と、夢を見る。頭痛、痛くて苦しい、それを考えてはいけないと、全身が苦痛にはね回る。思い出してしまう。彼の理想、思い出したい。

 頭が痛い。













 ―――――最後に一つだけ―――――













 ぱち、と火花が撥ねる。

 白く世界に溶けていく私が、僅かな間だけとどまれる。

 温かな心。

 心からの言葉。



 それを、唇を噛んで受け入れてくれた彼の姿。

 泣きたくなるほど愛しくて。



 彼が叫んでいる。

 私の名を叫んでいる。

 喉から血を滲ませながら、地を掴む爪を剥がしながら。

 心の底から震える程の、思いを叫んでいる。

 悲しいことに、私はそれを聞き届けることが出来そうにない。

 だから叫んだ。

 精一杯の力で、張り上げた。声は届かず、彼は涙を拭って立ち上がる。

 無力感、意味の無さを思い知らされるだけ。彼は余りにも遠くて。



 ああ、また。

 白い闇に意識が溶ける。







 かげろう。

 青い空、遠く大きな雲。

 坂道には、野良犬の影。

 蜃気楼の世界。自我が保てない。

 縋る物もなく、あやふやな心だけがこの街にある。

 ひからびた少年。心が渇いているのか。見つめ合う事に意味はない、ただ、確認めいていて悲しくなる。

 彼は誰だっただろうか。

 どうして私は、彼から目が離せないのだろうか。

 また、世界に溶けていく。

“どうして?”と、問われた気がした。

 そうして、意識が白く漂白されて消える―――――





 ―――――筈だった。





 消えない。意識が消えないまま残っている。

 月は明るくて、見覚えのある其処は悄然とあって。

 渦を巻くような魔素。懐かしい心音。裏返る世界と彼の呼吸。

 ぱち、と、自分の記憶に彼が割り込んでくる。

 その、幾度も結ばれた言葉。















“―――――――投影、開始トレース・オン















 ぞくりとした。涙が流れていた。血塗れだった。何時だってそう。砕けたことも、砕かれたことも。それでもそれを杖に立ち上がって。それを支えに歩き出して。

 うまくいかないのか、急速にほどけていく世界。

 また、これで消えてしまうのか。

 裏返る意識にそっと触れる。遠い日の誓いだけが、脳裏に蘇った。















 ―――――そうでしょう? この誰も失われていない理想郷で。
         貴方だけは失われたものに価値を見出だしている―――――







 言葉に意味はない。ただ祈りだけが籠められている。穏やかな時間と、切り結ぶ激しさと。何時かの夜過ごしたような、幸せなウソ。

 無限に続けば良いと思っていた。

 限りなく夢が続けばとも。

 けれども、私はそれを許せない。

 そう信じて、別れを告げたのだから。

 貴方はそれを許せない。

 それを信じて、拳に血を滲ませたのだから。

 ――――――そうだ、私達は聖杯戦争を解決する。

 言葉の意味は思い出せないが、それがとてもとても大切な祈りだったと思う。









 彼が砂浜に立っている。

 旅立ちは近くて。

 彼の名前を呼んでいる。

 まるで口付けをせがむように。



 だけども。

 私は彼が誰だか解らなくなっている。

 なんて、痛い、記憶。









 ばちん。

 火花が散った。

 激しい痛みと、強烈な喜びと。

 懐かしい、剣の姿。

 あやふやだった物が組み上げられていく。今一度、在りし日の姿に。

 夢うつつに拾い集めた欠片を飲み込んで、在りし日の姿に。

 長くあった姿。時の止まった私の。











 ――――――もう、彼の姿も思い出せない。











 〜Interlude out〜









「はぁ」

 昨日よりも雲の多い空を、授業そっちのけで見つめている。ナルホド、気が抜けていると言えばその通りかも知れない。緩やかに過ぎていく時間にリアリティはなく、祭りの前日に似た浮つき感が全身に蔓延っている。

 複雑だ。なんともかんとも言い難い気分。いや、嬉しいのか悲しいのかがそもそも解らない。

 確かに容姿は同じだし、見紛うはずもないとは思うのだけれども。アイツがアルトリアとして生きた時間の事を俺は知らない。あくまで知っているのはセイバーの事だけで、それも二週ほど一緒に居たってだけ。

 彼女が俺の事を忘れていたら、どうしたらいいんだろうか。

「簡単だ、受け入れれば良い」

 口に出して後悔した。何て安っぽい言葉。まったく、言うだけは簡単なことだ。そもそも相手が状況を受け入れてくれるかどうかさえ怪しいってのに、どうすればそんなにのんきな台詞を口走れるのか。考えても見ろ、一口で言えば、奈良時代以前の人間が現代にタイムスリップしたのと同じ。適応できるかどうかも怪しいし、そもそも環境の違いだけで発狂しかねない。

 ああそうか、言葉が通じないってのも、念頭に置いておかなければいけないのだろう。こちらが受け入れられた所で、アイツがなじめなければ話にならないのだ。

 更にだ、適応だの軋轢だのを越えたとしよう。先走っているかも知れないが、そこから先は法的な手続きやら何やらが彼女の行く手を妨げる。書類の偽造、身分の偽装、本当に怪しまれないためには、母国だって必要になるだろう。イギリスまで出かけていって公文書偽造なんてぞっとしない。いやさ、ウェールズならその地方の役所なのだろうか。情報が足らなくてそれだけでイラっとする。

 こんなときに誰を頼ればいいのかなんて、イリヤと遠坂ぐらいしか思いつかなくて頭に来る。借りなんてまったく返せそうにない。雪かきしているところに屋根から雪下ろしされたみたいな気分だ。いや、頼る分に悪い気はしないのだが、こうも積もってくると申し訳なくて仕方がない。迷惑の固まりみたいに自分が思えてきて嫌になってしまいそうだ。

 こうなりゃどっか人気のない山奥にでも。っと、論旨がどんどん明後日に逃げている。現実から逃げ出したところで、仕方がないのだ。

 状況を整理しよう。現実離れした一夜だった、それは良い。セイバーが帰ってきた、それも良い。記憶がないかも知れない。問題はあるが、彼女の命には代えられない。だから、問題は俺が彼女の帰還をどう思っているかって事で。

 途惑いがある。剣の投影は分水嶺の様な物だった気がする。理想を担い続ける事を、彼女に誓う。彼女の代わりに剣を持って。そんなポジティブな誓いと同時に、彼女の手に、決して俺の手が届かないと思い知るための魔術行使。そんなネガティブな答えも、同時に持ち合わせていたのでは無かっただろうか。

「…………わからん」

 考えた。長く考えた。五時間目が過ぎて、六時間目が終わるまで考えた。増えていく雲に、頭の中身を押しつけて。思い出にしようとした、思い出に変えられなかった。忘れようとした、忘れられなかった。過去の人に出来なくて苦しんだ。痛めつけられたと言っても良いだろう。そうして答えに辿り着いたんじゃなかったか。決して次はないけれど、もしあるのならこの手を放さないと、喩え切り落とされた所で、絶対に放さないと。

 ――――――アイツは強くて頑張り屋だけど、十年かそこらで疲れ切る程度には弱さがあるんだ。それを、俺が。

 そうして結局、最初に思いついた事が正しいのだと思うことに決めた。答えはアイツの目覚めと共に。目があって、最初に抱いた事が本当に大切なことなのだろう。熱に浮かされる彼女。これからは傍にあるのだと、抱いただけで胸が温まる。ほら、きっとコレが答えなのだ。







 雨が近いのか、徐々に重たくなていく空を、白い息と共に見上げた。眼下に広がる町並みも鉛色に変わり、陰鬱と言うか、アンニュイというか、なんとも表現しがたい心地にさせてくれる。帰ったら洗濯物を取り込んで、買い出しに行って、それから晩飯の支度を始めよう。

 がっつりした物が食べたくなってきた。こう、見るだけで気合いが出てくるようなそれ。若鶏の香草焼、ディアブロ風とか良いかもしれない。材料を揃えたら、桜にも頼んでみよう。すっかり追い越されてしまった以上、今度はこちらが頭を下げる番だろう。

 さて、メニューが決まったのなら後は速い。丸鶏、ローズマリー、バジル、タイム、勿論乾燥じゃない方の奴。買い物のメニューが入力される。今度桜の提案を受け入れてみるのも良いかもしれない。庭の一角にハーブ園。管理は面倒かも知れないが、それで料理が美味くなるのなら越したことじゃない。

 ああ、そうだ。中に詰め物をしても美味いかも知れない。なんかこう、餅米とか、炭水化物系の具材を詰めて。それから灼いた鍋に重しを入れて載せる。焼き色を付けたらオーブンに入れて、じっくり芯まで火を通す。問題は肉質だ。味を取るか食べやすさをとるか、両方取って地鶏に手を出すか。考えるまでもなかった、肉質がしっかりしているからといって、かみ切れないなんて柔な顎の持ち主は居ない。イリヤが少し不得意かも知れないが、その時は切って出してやればいいだろう。

 よし、決まりだ。となると、前菜から作ってしまった方が見栄えがする。いっそ俺は後から食べるでも良いんだし――――――と、遠坂も食べるだろうか。ふと思い立って、看病に勤しむ彼女に電話をかけてみることにした。無論携帯なんて持ってないから、最近では珍しくなってしまった公衆電話を使用する。やりにくい世の中になったものだ。

 電話の近くには居ないのか、しばらく鳴らすが出る気配がない、こりゃトイレか居眠りかと思った頃、電話越しでも優雅に聞こえる彼女の声が聞こえてきた。

“はい、士郎?”

「もしも…………って、なんで解るんだよ」

 受話器を取って間髪入れずに士郎は無い。もし違う相手だったらどうするんだ、とか、色々考えてしまう。

“え、ほら。彼女のこともあるし、時間帯的にかけてくるなら士郎しか居ないかなーって”

「うっかり違ったらどうする気何だか、まあいいや。それより遠坂、今日晩飯持ってこうか?」

“お、気が利くじゃない、ええお願いするわ”

「OK」

“ちなみにメニューは?”

「スパニッシュのフルコースで」

“と、なると桜担当ね。楽しみにしてるからよろしくね♪”

「じゃあ後で」

 返答を待たずに受話器を置く、戻って来た十円玉を、コンビニの募金箱に放り込んだ。







 夜が更けていく、籠に入れた夕食を、更に紙袋に入れて桜の後を追う。不思議そうに袋を覗き込むと、首をかしげながら桜が訊ねてきた。

「何処かに持って行くんですか?」

「遠坂のとこ、桜の鶏だって言ったら是非食べたいって」

「え、わ、ホントですか!?」

「ホントホント」

 嬉しそうに撥ねる桜、夏に素麺を茹でさせて以来、彼女たちは妙に仲がよかった。先月遠坂にかけた発破も上手く作用してくれているのだろうか。時折二人で台所に立つことも、買い物に行くことすらあるそうだ。

 まるで仲の良い姉妹の様、見ているだけで、穏やかな心地になれてとても宜しい。

「じゃあ遠坂先輩の家に?」

「そ、桜送っていくついでに持ってっちまおうとおもってさ」

「はぁ、私が持って行きましょうか、どうせそんなに離れている訳でもありませんし」

「ああ、じゃあ――――」

 桜の提案はもっともで、思わず頷きそうになるのだが―――――と、失念失念。本末転倒も良いところ、それでは目的が違ってくる。

「いや、いいや。用事もあるし、俺が持って行くよ」

「そうですか……」





 それから、いろいろな事を話した。

 進路の事、部活の事、家のこと、家族について。時に楽しく、時に深刻に、彼女が家を訪れるようになってから、全く変わらぬ路上進路室。

 だから坂道の途中。

「センパイは、遠坂先輩が好きですか?」

 こんな、呟く様な問いかけは初めてで。

「ああ、桜も好きだろ?」

「そうですね。ホント、大好きなんです」

「そりゃ良かった」









「それでですね――――――…………センパイの事も大好きなんですよ?」









 こんな、ストレートな物言いも、初めてで。

「俺も好きだぞ」

 よく言えた。タイムラグ無し、藤ねぇの二の舞にはしない。

「ど、どっちの方が好きですか?」

「比べられないな、どっちも大事な家族みたいな物だ」

「そっかぁ、家族かぁ。じゃあ、藤村先生と同じくらいですか?」

「……あれはまた別格な訳だが」

 むしろランク外って言うか。

「まあ、そんな感じだな」

「家族かぁ」

 溜息混じりの桜の声。成功したのか。それとも、断ること自体が失敗なのか。

 だって言うのに、俺は。









「じゃあまた明日」

「はい、おやすみなさいセンパイ」

 暗い屋敷に桜が入っていく、彼女の部屋に灯りが点るまで、道ばたから眺めている。窓辺に立った桜が此方に手を振った、それに手を振り返して、続く坂道を上り出す。ひどく、口の中が苦かった。いくら鈍いとは言え、彼処まで露骨なら気が付かない筈もない。気が付かない振りをして、桜の告白を断ったのだ。出来るだけ傷つかない様に、出来るだけ波風の立たない様に。

 言った者勝ち。そんな風潮があった。美綴と別れてから顕著になったそれ。学校でも、家でも、それとなく断ることが多くなっていた。藤ねぇの事は失敗、もっとスマートにこなせると思っていたのに。

「明日は来ないかもな」

 自惚れとは思う、けども、家に来る理由がコレで消えた。

 他に思い当たる事なんて、遠坂の事ぐらいで。たまにしか来ないアイツを待って、わざわざ通いはしないだろう。

 もし来ないのなら、今までありがとう。

 来るのなら、ただただ安らぎの時間を。

 〜To be continued.〜




メールフォームです。
dora様への御感想はこちらからどうぞ!!→メールフォーム

dora様の寄稿なさっておられるHPはこちら!


 戻る
 玄関へ戻る