「はっ、はっ、はっ、はっ――――――」

 音の消えた世界、襲いかかってくるような夜空、何かに追われるように舌を垂らして走る。獣の心。振り返れば、それだけで心を食われそう。何が恐ろしいのか理解する前に、心がそれを拒否してしまう。なじみの洋館へと続く長い坂道を、一息に駆け上がる。休憩は無し、息が乱れるのも構わずに全力の逃避行、限界までの疾走を慣行。続行するべきは思考よりも速行で。人一人抱いたまま思いっきり走るのなんて、本当に一年ぶり。なかなか出来ない体験は、いつもセイバーと二人で。

 のっぴきならない事態なのも、いつものことだった。

「はっ、はっ、ぐっ、はっ――――――」

 乱れた息が喉に張り付いて苦しい。生唾すらも乾いて喉が渇く。飲み込もうにも飲み込めず、それだけで酸素が足らなくなる。頭に回す酸素が足らない、そんな場所にまで回す余裕はない。考えるだけの余裕はない。

 回らない頭でメモを取る。必要な情報だけを取り込んで。時間がない。動いている。走っている。酸素の消費。一番大きいのは脚、脚だ。プロセスの終了、回答は“この程度で考えるな”。酸素もそっちにさえ廻って入れば問題ない。ガソリンの代わりに魔力をくべて、不完全な強化でそれを浪費している。焦燥感は燃えさかる炎、背中に火を付けられた狸のように、舌を垂らして走る。まるでかちかち山。時間という火が衛宮士郎を焼いていく。

 デジャヴュ、まったく有難くない。これではいつかバーサーカーに追いかけられた時と同じ。ぞくりと震えが走る、必死さが二割り増しに、それでもあの時はもっと速く走った気がする。

 走り出す直前、イリヤには無理と言われた時。何処に行けばよい、病院はどうだ。僅かに思案した。だが、直後に自分で否定する。治療行為は確実だろうと思う。が、そっちに連れて行くのには不安要素が多すぎる。傷は致命傷、保険証もない、身なりも現代人とかけ離れている。喧嘩しましたなんて生やさしいレベルの話ではない。

 頭の傷の説明、考えただけで嫌になる。剣による一撃、兜ごと断ち割るだけの斬撃。それを、どう言葉にしなければならないのか。警察への通報は間違いなく、とてもではないが、官憲の手を免れるほどの権力もなければ、言いつくろえる程に舌も回らない。記憶を書き換える事もできない。そう考えると、とてもではないが医療機関に頼る気にはなれなくて。

 消去法にもならない可能性の否定。残された選択肢は、選ぶことも出来ない一本道。だったらやっぱり遠坂だ、頼るべきは、いつだって戦友の掌。俺達はいつだってこうして彼女を抱えて走った後、あいつの世話になってきた。だから、きっと今回も。

 一方通行な考え、正直に言って甘いと思う。いつだって助けてくれるなんて、甘えているとも。魔術師の基本は等価交換だ。だって言うのに、俺には借りが大きすぎて返せそうにない。

 だが、それでも俺には、他に頼れる奴なんていなくって。

 足は休めない、意識を失ったままのセイバーに、さっと目を走らせた。ぱちりと染み込んでくる布の構成、纏うだけで神秘にくるまれるそれの効力は、それほど長く残されては居ない。どうして俺の所に、そう思って、自分を殴りたくなった。他の誰の所に彼女が行けるというのだ。

 布の奥、更に深いところに目を向ける。間違いなく深い傷、流れ出した血が、だらりと手に流れて滑りそう。ひっかいたような、切っ先が掠めたような細かい傷もあちこちにある。どれもが呪いに覆われていて、ちょっとやそっとの事では塞がりそうにない。

 疑問が湧いた。鞘はどうしたのか。あれさえあれば、こんな事にはならなかった筈。離別の餞別にはならなかったのか。伝え聞く物語の通り、モードレッドに頭を割られたのか。今でこそ見えないが、側頭部には、特に大きな刀傷。未だ割れて血に濡れる其処は、頭蓋を露出させて髪の毛をへばりつかせている。まるで紅く熟れた石榴、骨は生々しく白くて。

 ぐらりと、走る拍子に首が揺らぐ。腕の中で苦しげに転がる頭に、ふとした拍子で見える傷口。感じるだけで怖気がした。喪失の怖さ、彼女が遠ざかる恐怖、震えるような寒気に足が速くなる。

 くそったれ。二度と離してなるものか。

 煉瓦で敷き詰められた坂道を、転がり落ちるように駆け上る。走ると言うよりは倒れ込む前に足が出ているといった感じ、前のめりに倒れる寸前で地面を蹴った。いつもは何とも思わない距離が今日は何と遠く、まるで引き延ばされている様に感じて仕方がない。加速すればするほどそれは顕著で、いつまで経っても辿り着かない錯視に取り憑かれて喘ぐ。

 駆ける。それでも振動は抑えて。腰を落として、膝を伸ばさず、まるで忍者のように夜の街を行く。

 程なくして屋敷が見えてきた。木々の隙間、鬱蒼とした庭の奥に佇む洋館。夜は不気味とさえ思えるそれも、今は何よりも心強いシルエット。如何にも魔女らしくて頼りがいがある。幸いなことに、幽霊屋敷には未だ明かりがともっている。眠ってしまったのなら話は別だが、起きているときのアイツほど頼りになる人間もそうは居ない。

「はっ! は、ぐ――――――とお、さか!」

 全速力から一気にゼロへ、慣性は体を回すことで遠心力に変える。中心に彼女の頭を。脳髄が零れてしまいましたなんて事態は御免被る。ばきりと筋肉が悲鳴を上げる、くそ、こんな事ならもう少し体を虐めておくんだった。急停止の反動が脳を焼く、足りない酸素が視界を明滅させる。くらくらと揺れる手で鉄扉にもたれ掛かる。余計なことをしている時間はないのだ、ぶるぶると震える掌で、見えないそれを探り当てる。顔を上げれ貧血で倒れそう。フィラリアの犬みたいに喉が絞り込まれている、心臓は今にも砕けそうで。

 ようやく探り当てたインターホンを押す、静寂の向こう側から聞こえてくる鐘の音。反応が在るまでの僅か数秒すらもどかしくてもう一度。迷惑だとは思いつつも、後ろから何かに襲われるような、強迫観念じみた畏れに捕らわれて押すのをやめられない。連続ピンポン、十六連射。一度全部吐き出して、焼き付いた喉で、無理矢理息を吸い込む。喜びなんて欠片もないそれを、腹に溜まった物を一度にぶちまけたた。

「遠坂! 遠坂ぁッ!」

 これでもかってぐらいの声で、これ以上は音じゃなくて血に変わるって大声で、空気を奮わせて、住宅街の夜空に声がこだまする。ぎゃぎゃ、ぎゃぎゃと、近場の木々で驚いた鳥たちが騒ぎ出す。幾度目かの呼びかけで、一斉に翼を開いた。犬も猫も、警戒の声があちこちで鳴り響き、物静かだった住宅街が、昼間のような喧噪に包まれる。それから僅かな間、どたどたとそれなりに大きな気配を響かせて窓が勢いよく開いた。

「うるっさい! 時間を考えろってのバカ士郎!」

 ――――――おお、よしよし。寝ぼけている可能性も考えてみたが、どうやらテンションは今のできりっきりにあがっている様子だ。

「開けてくれ遠坂! 緊急事態なんだ!」

「何よそ――――――のでっかい荷物」

 こちらの手の中に目を向け、訝しげな顔つきに頬杖を当てる。なにやら呟きながら顔を下に向けると、静寂の中にかちりと鍵の開く音がした。

「開いてるから」

「恩に着る!」

 鉄扉の隙間から体をねじ込む。もう少し、もう少し待ってくれ。そうしたら、少なくとも傷だけは痛まないようにしてくれるから――――――!



















「微睡みの終わり」
Presented by dora 2007 02 17
改稿 2007 11 18




















 〜Interlude in 1-1〜

 暖めた牛乳をカップに注ぐ、砂糖はノーセンキューで、夜は糖分を控えることにしている。それでなくとも、このところよく食べるせいで体重維持が厄介なのだ。まったく、あの家にいると食の楽しみを実感して仕方がない。

 不意に来宅を告げるチャイムが鳴った、こんな時間に訪れる人間など、二人しか思い当たらない。片方は除外、だってチャイムの感覚が余りにもせっかちで。

「――――――いや、ちょっと、キッチンタイマーみたいに鳴らすのやめてよね」

 それだけに留まらず、ぜーぜー言いながら叫ぶ声まで聞こえてきた。あのバカ。そんな声で叫んでしまったらご近所迷惑じゃないの。

「ちょ、ちょっと、やめてよ、ただでさえ評判が良いとは言い難いのに!」

 人の家に来るにも礼儀はあると思う。アイツの家に行くときは、確かにアポ無しだったりはするが、それでも、十時過ぎに人の家の前で大声で騒ぐのはどうかと思った。机の上にホットミルクを置き去りにすると、外から聞こえてくる声に足を速める。窓を開けたと同時に一際大きい声、鳥も獣も騒ぎ立ててまるで真昼のよう。見下ろす暗い町並みに、点々と灯りがつき始めている。かっとなって怒鳴りつけた。

「うるっさい! 時間を考えろってのバカ士郎!」

 それは周囲を圧倒するほどの大声で。あからさまに加速していく灯りの波、遠くから聞こえてくるバカヤローナンジダトオモッテヤガル。ええーと、此処までやって我に返った。私も人のことは言えない、近所中に木霊する二人の声、避難の罵声を避難する罵声、嘆息と共に受け入れる。こんなことをやっているから、私たちが付き合っているという噂が絶えないのだろう。

 いや、まあ。

 それでも問題はないのだけれど。付き合っているという事実には間違いなど無いし。

 まあ、恋人として。と限定するのであれば、また話は違ってくるのだが。

「……早くしなさいよね」

「悪い、手が塞がってて!」

 やめよう、今は何だか思考もまとまりがない。おかしな事を考えてどつぼに填る前に、恋愛云々を縛り首。こんな事を考えている時点で既に負け戦だなんて信じない。開けてくれ、と騒ぐ士郎を見て、とりあえず玄関のロックを外す。ただ事ではない様子だ、彼が抱いている、大きな荷物に関わりのあることなのだろう。溜息を一つ、窓を開け放つには冬の大気は厳しすぎて。小さく身震いを一つそれでも、窓枠に頬杖をつきながら、駆け込んでくる青年を見つめた。

 …………んん?

 彼が抱えた荷物、やたらと大きくて持ちにくそうなそれ。何だか見覚えがある気がする。ちくりと首筋に痛みが走る。確かに記憶しているのに思い出せない違和感。彼があれぐらいの荷物を抱えて走っていたと言っていったら――――――

「…………今なんか、髪の毛みたいなのが見えなかった?」

 ――――――聖杯戦争の、夜ぐらいしか思い当たらない。







   ――――――息が止まった。

 最初に思ったことは、彼が死体を担いで此処までやってきたのかと。白い肌、この国の特徴ではない髪の色、べたべたと塗りたくられた血糊、虚ろに開いた眼窩に光はなくて。イリヤか、事故にでも遭ったのか。そうも思ったが、よく見れば髪の色が違う。赤黒さに押されて見分けが付きにくいが、これは確かに彼女の髪色で。

 何故と訝しむ心に先んじて、体は彼の手を引いて客間に向かっている。埃は大丈夫だっただろうか、掃除をしたのはいつだったか。これだけの傷を治療するにはどれだけの魔力が必要なのか、足らないところを持ってくるにはどうすれば良い――――――?

 真っ白に変わる視界、そこに情報だけが踊り狂う。鍛えられた精神がそれを整理整頓して並べ替えてくれる。優先順位、まずは何より延命措置から入るべきだ。

「遠坂、助けてくれ!」

 必死の叫び、誰がこうなっても彼は必死に駆け回るだろう。だが、その中でも特別なのがセイバーだと思う。いつもは無愛想で無感情ともとれがちな声音に、びんびんに感情がこもっている。人間の声。此処に来て初めて己を取り戻したかのように、士郎が怯えて震えている。

 それは、今までに聞いた事がないほど胸に響く音。





 ――――――任せてとは言い難いけど、
          今日もアンタの力になってあげる。





 彼の言葉と共に、無理矢理自分を引き出して視線を定める。抱かれているのは、間違いなくセイバーだった。ぐらりと霞む視界。一度強く眼を瞑って、両手で頬を張る。廊下を急ぎ足で進む様はまるでER。夢なのか、自分はいつの間に眠りに落ちたのか。鼻孔に届く饐えた血の臭いが、現実であることを否応なしに認めさせる。それこそ大笑い、魔術師が奇跡と神秘を否定するなんて笑い話にもならない。認識して、理解して、実践しなければ――――――

「――――――話は後よ、とにかく部屋の中へ」

「恩に着る」

「高くつけとくわ」

 死に怯える士郎を見るのは幾度目だろうか。此奴は自分のこと何てこれっぽっちも気にしないくせに、他人のことは己のこと以上に恐れたりする。ましてや、相手がセイバーなら尚のことだった。

 二人で彼女を抱えてベッドに向かう。くるんでいる布を剥ぐと、固まった血がべりべりと音を立てた。手早く傷の具合を確認して、治療の手順を組み上げていく。出血は止まっているのか、新たに流れ出る血は驚くほどに少ない。

「衛宮くん、お湯沸かしてきてくれる?」

「わかった、他には?」

「タオルをありったけ、あと、私の部屋からこう書かれている瓶を持ってきて、いい? 三本ともよ」

「わかった」

 彼を追い出すと、邪魔な鎧と、来ている鎧下をとにかく脱がした。形式が判らないためと、怪我をおもんばかって作業速度はそれ程上がらない。面倒になって壊したくなるが、面倒なひもも、つい魔術的価値の側面から見てしまい切ることもできない。おのれ貧乏性め、手間を増やしおって。

「遠坂、支度できたぞ!」

「ありがと、其処おいて出てくれる?」

「え?」

「女の子なのよ」

 あ、と、すぐ出るから。なんてあたふたと廊下に転がり出る彼を横目で見送った。実際の所は、別にいても構わないのだが、こんな状態のセイバーと一緒にしていたら何をしでかすかわかったものではない。全身に魔力を流して走った直後、強化すらもままならない状態だってのに、鞘の投影を! とか言い出しそうでおっかなくって見ていられない。

 そうなったら下手すると二重遭難。そんな厄介な状況は御免被りたいのだ。

「うわ……しかし、これ。ひどい傷ね」

 傷の状況を確かめるために、ぬらしたタオルでぬぐう。細かい傷は後回しだ、今は、とにかく頭の傷を優先する。乾いた血がこびり付く頭蓋には、一文字の刀傷。よく見れば、魔術的な延命措置が施されている。否、延命措置と呼ぶには少々無理があるか、これは苦痛の永続に近い、死を先延ばしにして、長く苦痛を与えることを目的とした呪い。趣味が悪いと思うが、今は助かっている。仮死状態に近いが、僅かながら呼吸はあった。

 まずは洗浄と、消毒、それから縫合して治癒魔術だろう。出血が抑えられているのなら、血液の補給は彼女の自己治癒に任せることにしよう。輸血パックなど此処にはない。他にも問題はあった。頭蓋の罅をフォローできるほどの技術を自分は持っていない。脳挫傷でもしていたら、やったことは全て無駄になってしまうだろう。だが、それで手を出せなくなるほど臆病者ではない。

 と、なれば、頭蓋の補修は血管と神経をバイパスしておいての強化に近いのだが、そんな難しいことが私に出来るだろうか。

「あのバカ、イリヤだって居たんじゃないの?」

 彼女の特性は実現だ。過程を無視して結果だけを導き出す、異端の魔術式。それは、魔術と言うよりは奇跡に近い。そんなイリヤを頼った方が確実だと思うのだが、まあ、頼られていることに悪い気はしなかった。

 傷口の洗浄と、消毒を終える。途端、魔術式がほどけていくのを感じた。もともとが大源に頼る類の魔術式。神秘の薄れたこの時代では、長く保たなかったのだろう。先程彼女をくるんでいた布が、此処まで保たせていたのかも知れない。危ない、と思った時にはもう遅い。どぷどぷと漏れ出す命が手に掛かって熱い。

「う、うわ、ちょ――――――」

 大あわてで、タオルを傷口に押しつけた。ろくに消毒もしていないタオルでは、余計に傷口に悪いのだけど、とりあえず吹き出る血というのは非常に心臓に悪い。魔力で編まれたサーヴァントの体液など、時間が経てば消滅してしまうと解っていてもだ。

 精神集中、視覚を増大、細かいところまで詰めて、つなげて、促進して。無菌状態は色の選別に近い。小粒のアメジストで一気に余計な物を焼き尽くす。肩が凝る、こんな緊張感は久しぶりだった。

 泡を食って治療に従事する、本当に一年ぶりの緊急救命措置。

 こんな綱渡りは一度だけでゴメンなのに、とも思った。







 三時間ほどで処置は終わった。医者でもない自分がやったのだ、褒められて良いタイムだと思う。包帯を巻き終えて、左腕に魔力を流した。しばらくの間、頭蓋に罅は残るだろうが、日常生活に支障がないレベルまで傷の状態を持って行く。正直なところを言えば全快まで持って行きたいのだが、何分宝石に魔力を籠めたばかりなのでそうも行かなかった。

 まあ、毎日施せば三日ほどで支障は一切出なくなるだろうとは思う。

 後遺症が出るかどうかは完全に天任せだろう。其処まで考えて、不安に胸が締め付けられる。暗澹たる心持ちになった。二度も同じ友人を失うのは御免だ、だから、出来る限りのことをやっていく。やり残しはないか、見落としたところはないか、手順をもう一度確認して、傷の治療なんて命に直接関わること、ついうっかりでは済まされないのだ。

「――――――よし、これなら大丈夫」

 消えるとは思っていても、血に塗れたままで居るのは嫌だったので手を洗いに行く。

「さて、と」

 廊下で震えている彼に、終わったわよ、大丈夫なんじゃない。なんて横を抜けながら言った。部屋に駆け込もうとする士郎を呼び止めて、下で待つように指示をする。だってまだ裸なのだ。完璧に仕上げていない仕事を見られるのはあまり宜しくない。手品の種明かしをしてしまうような物。

 戻ってくる頃には、タオルのシミも消えているだろう。そう楽観して、蛇口をひねった。流れていくそれは、私たちの血と何ら変わりなく紅く。





「――――――うそ」

 部屋に戻って愕然とした。赤い血はいよいよ黒く、固まって異臭を放っている。タオルはがびがびと黒くそまり、持ち上げた途端に紅い中身が臭いをまき散らした。

 吐き気と目眩に胸が詰まる。英霊とか、サーヴァントとかって事を超越した生々しさ。

 理解に及ぶまでに、しばらくの時間を要した。タイムスリップしてきたかのように、過去の人間が此処にいる。

 そうだ。此処にいるのはセイバーではない。

 彼女はアーサー。ブリテンを守る紅い竜、何時か帰還する伝説の王。

「――――――」

 息をのんだまま、処置を終わらせる。寝間着を着せて、横たわらせた。痛み止めを含ませると、深く刻まれていた眉間の皺が徐々に薄くなって消える。そうしてみると、ただ安らかな夢に遊ぶ姫君と呼べそうな寝顔で。



 ――――――言いにくいけど、伝えておかなきゃいけないことがあるの。
          ごめんね、士郎。ちょっとだけ覚悟しておいて。



 〜Interude out〜







   古い軋みと共にドアが開いた。客室へと続く階段はまるで処刑台行きのそれで、そこから降りてきた遠坂は、明かりの関係上顔がよく見えない。だってのに、何故か表情は暗く陰っている気がした。まったく、不思議な事だ。俺からは彼女の顔なんて見えやしないのに。

「遠坂」

「――――――」

 何を躊躇っているのか、扉の陰に表情を隠したまま、彼女はそこから動こうとはしなかった。嫌な予感がふくれ上げる、だが、同時にそんなことは絶対にない、とも。それは当たり前のことだった、遠坂を信じて任せた以上は、彼女を疑うなんてやっちゃいけない事だ。

 影から躊躇いがちに遠坂が出る、何を躊躇っているのか、彼女の言葉を首肯して促した。

「彼女はセイバーじゃないわ」

 ――――――。

 単刀直入に用件を言う、それは彼女の美徳だと思う。

「えっと」

 だけど、修飾語を一切用いないで言われても、正直理解が追いつかない。プリーズワンスモア。できればゆっくりと、俺の理解が追いつくまで待ってくれ。

「ええと、そうじゃなくて。うまく表現できないんだけど」

「遠坂、とおさか。とりあえず落ち着いてくれ」

「ん、ごめん。ちょっとなんか飲んでくる」

 そういうと、遠坂は台所に向かう。途中、何か思い出したのか、玄関に近い机に置き去りのカップを持って台所に向かった。戻ってくるまでの間に、遠坂が言いたいであろう事をゆっくりと噛み締める。簡潔な一言だったが、止まっていたのは俺の頭の方なのか。ゆっくりとスポンジに水が染み渡るように、理解が進んでいった。

 彼女はセイバーではない。

 遠坂の言うようにそれは確かな事だ。だが、彼女がセイバーで無いはずは無い。自分の見立てが正いのなら、客間に寝ている彼女は、全てを終わらせた後のアルトリアなのだろう。

 戦いを終えて、剣を湖の貴婦人に返して。遙かな未来での再生を願われて、姉と共にアヴァロンに渡る彼女。否、渡った彼女、か。

 それは、此処での生活が文字通り一時の夢と言うことで。

 寝て起きれば――――――ああ、寝覚めがよい。とか、続きが見たい。とか、その程度でしかないのだろう。

 背筋が冷えた。セイバーの帰還を喜んだのは間違いない。生きてくれるのならば、また隣を歩けるとも。それだけに不安だった。俺は、彼女に其処までの幸せを与えられただろうか。全てが其処にあったと思ったけど、それは夢に過ぎなかったんじゃないだろうか。

 彼女がアルトリアとして目覚めたとき、微笑んでくれるだけの事を、俺はセイバーにしてやれただろうか。

 苦しくなって、切なくて、胸をわしづかみにした。

 二十数年の時を確かに生きた彼女にとって、あの日々は夢とまるで同じ事なのだ。遠坂が言いたいのはきっとそう言うこと、これから、俺が向き合って行かなければならないのも。唇を噛んで眉根を寄せた。

 セイバーが目を覚ますのが恐ろしい。

 くそ、こんなに俺は情けない男だったのか?

 両手で頬を張った、ぱん、と威勢のいい音が飛び出し、驚いた遠坂が台所から顔を出す。唇についた牛乳が髭のようで、少しだけ気が緩んだ。

 さあ、気合いを入れて立ち向かおう。

 アイツに愛していると言わせた以上、情けない事など言っていられない――――――







「――――――つまり、彼女の記憶はそれまでに生きてきた人生に比重が置かれているの。私たちの記憶なんて、在って無いが如しよ」

「大丈夫、そんなことは解ってる。ただ、彼女が生きていて嬉しい」

 はっきりと音にして、彼女への想いが間違いないのだと確信した。それでも、それを言うだけの事が、砂漠でサボテンにかじりつくぐらい難しかった。だってとげだらけ。大きいのをどれだけ除いたところで、短くて細かいとげが口の中に刺さって仕方がない。

 顔が歪むのを押さえられなかった、締め付けられるように痛む胸を、握りつぶすつもりでつかみ上げる。口から出た言葉はひどく潔い強がりで、そんな事が言える自分に少しだけほっとした。

「遠坂、俺は――――――」

 言葉は皆まで言えなかった。顔を上げた先で、遠坂が笑っている。ここしばらく見たことの無かった戦友の笑顔。明るくて華やかで、良い笑顔をしていると憧れていたそれ。

 かつて見ていた日々の名残に似た、友達の笑顔。言葉も無かった。

「よく言ったわね、うん、それでこそ衛宮くんよ。私もそれが一番嬉しいわ、ほんとう、憶えているか居ないか何て、些細なことね」

 どこか湿った声は少し震えていて、帰還を喜んでいるのが、自分だけではないと思い知らされた。

「――――――とおさかも嬉しいのか」

 やっとの思いで絞り出した声は、みっともなく震えていて。それが、余計に二人の感情を揺らして仕方がない。

「もち、彼女は私にとっても大切な友人だもの。ほんとう、生きててくれて良かったわ」

 零れた涙が星に、頬を伝うそれが、流れ落ちて絨毯に散る。ひどく尊い涙に思えた。ひとかけらの自分もない、他人のために流す涙。

 遠坂の言葉は、最後までカタチにならなかった。ぶつけたのは最初が額で、いつしか遠坂の頭を胸に抱いていて。よこしまな気持ちとか、恋愛感情とかこれっぽっちもない綺麗な抱擁。ただ、二人ともセイバーの事を一番に考えられたのが嬉しくて泣いた。  





 ――――――お帰り、セイバー。





 〜To be continued.〜




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