雨は肌に突き刺さるように冷たい、夜の灯りに照らされながら、糸のように細いそれが降りしきる。水たまりが出来るほどには強くなく、とはいえ、一人前に道路は黒く濡れている。そんな、ひたひたと鳴る水の中を走り抜ける。もし空から見下ろす者があれば、街路を走り抜ける影が二つあることに気付けただろう。一つは迷い無く後ろを振り返りながら、一つは道に悩みながら前の影を追いかけて。

 届かない、二人の距離は遠く、誰もが届かないと思うような距離だった。彼女が走り出してより彼が追い始めるまでに、早十数分の時間が経っている。彼が走り出したときには既に、彼女は坂道をほぼ下りきっていた。降りしきる雨は匂いすら流し、犬ですら追うことが出来ない有様で。

 それでも、ハンディは彼女にとっても同じで。駆ける勢いを増そうとする度、針のように鋭いそれが肌に当たる、外套を持ってきて良かったと思ったのは最初の内だけ。じき、冷たく重く沁みてきた水に、足を取られ始める。凍えそうなほど冷たいそれは、ここ数日の緩んだ体には余りに堪えて。いっそ打ち棄ててしまえば楽なのだろうが、それでは少年と再びあったとき、見せられる姿ではないと毛布を羽織り続ける。矛盾には彼女もきちんと気が付いていた、彼らから逃げ出すために走り出したというのに。

 追ってきて欲しいのか、それとも、このまま放って置いて欲しいのか。どうすればいいのか解らなくて、どうして欲しいのかも解らなくて。

 一方、少年の足は速かった。角の度に、交差点の度に僅かな逡巡。だが、まるで誰かのささやきがあるように脚を止めるのは一瞬のことで。確実に彼女の辿った道を、彼女が攪乱の為に遠回りした道を最短の距離で縮めていく。ぱちぱちと帯電するように、体に帯びた魔力が水を弾き返す。よく見れば、うっすらと光すら纏っていた。その様は、先を走る少女以上に現実離れしていて。

 短くて熱い息、震えるそれはひどく揺らいでいる。かき乱されているはずの世界に音はなく、まるで互いの足音を聞いているよう。視線は鋭かった。それに怯えるように、幾度も少女が後ろを振り返る。

 来て欲しくないから、振り返る。

 取り戻したいから、探し回る。

 悩みは同じだった。あの朝、終わったはずの恋が、また。

 不満もあれば、疑念もある。それを粉々に打ち砕く、短い口付け。互いに震える体を寄せたそれを、疑うことが出来なくて。愚かしいと、馬鹿馬鹿しいと。ただ熱くて。

 だから振り返る。徐々に近付いてくる気配に怯えて。

 だからもう迷わない。近付いているのを感じて、終わりの次へと進むために。

 行く先ははっきりしていた。いつか、くたびれ果てた彼と、心を開きかけた少女が休んだ公園。苦い思い出しかなかったはずの其処に、鮮やかな記憶を刻み込んだ日々があって。

 少年の脚は橋へと向かっていた。それに先んじて、少女は橋を渡り終えていた。だから、互いに目を上げたときに、見えるはずの距離でもなく、ただ互いの姿を認めたのだ。

 震えが走った。

 ああ、間違いない。彼からは逃げられなくて、彼女を追ったことに間違いはなくて。

 ただ逃げるのならこの街から出れば良い。少女が生きた時代なら、山に潜もうと幾らでも暮らせるだろう。それをしない理由は、口に出すのもはばかられる。それに気が付いて、少女は更に頭を悩ませる。どうして、と。

 誰も居なくなった街路、何時かの夜に二人で駆け抜けた場所を、また二人で走っていく。憤ろしくて、苦さが込み上げて、それがどうしてこんなに胸を熱くする。駆け込んだ公園は、茂みも街灯もひどくまばらで。潜めそうな場所など無い其処に、それでも逃げ場を求めて走り込んだ。剣はひどく重くて、纏った毛布は既にただの厄介者でしかなくて。

 ただ距離を感じていた。より近く、もっと近くに。もっと傍に近付きたいのだ。一蹴りごとに脚に力が漲る。一蹴りごとに脚が萎える。一蹴りごとに近付いていく実感がある。ほら、もう捕らえられそうな程近くに。橋を過ぎて、互いの姿を目視してからは尚更で。時折振り返る彼女の瞳に不可解な色が躍る。見えないはずの距離で、はっきりと顔が見える。何に怯えているのか、少年の何を疑っているのか。彼を畏れる理由など、何処にもないというのに。

 そうして走り込んだ公園で。

















「――――――セイバァァァァアアアアアアアアアアアアアッ!」















 拳を打ち振って。

 力の限り、少年は雨粒を弾き飛ばした。









































「微睡みの終わり」
Presented by dora 2008 02 21



































 



 その名前に意味など無い。彼女の名はアルトリア、呼ばれた覚えすらない名前に、意味など。だが、それでも確かに、少女は何か言葉に仕様もない感情を顕していた。硬くこわばった表情に、確かな血の色が差す。鋭い声だった。大きな声だった。そうしてなにより何以上に、空虚な声だった。悲痛な声色は夜のしじまを見事切り裂いて。どくんと身を震わすほどの鼓動、大きくぶれた視界。あまりの衝撃に脚を止める。知らぬ間に振り返っている。愕然と、己の体を見下ろそうとして―――彼から目を離せない事に気がついた。

 息は短く震えている。心臓は破裂しそうで、視界は鼓動の度に大きくぶれて。口から飛び出しそうなそれを押さえて、恐ろしさに震えている。得体の知れない感情が沸き上がってくる事が怖くて。

「――――――くる、な」

 来て欲しくなかった。近くには居て欲しくない。疑念を持ってしまった、彼を疑うことはしたくなかったのに。老怪の言葉はあまりにも真実めいていて、彼女の言葉はあまりにもそれを裏付けすぎて。

 ただそんな中で、彼だけが真実を口にしているように思えた。目の前に広がる紗の向う、隔絶した世界との狭間に彼が居る。訊ねれば答えてくれるだろう。本当のことを教えてくれるだろう。だから、それで信じたことをウソだと告白されるのが恐ろしい。

 なんてままならない心。まるで記憶だけが他人の体に残るよう。心と体は開ききっていて、記憶だけが閉じた私であると主張する違和感。

 そうだ、彼女は。ぶっきらぼうで、不器用で、無愛想な彼のことを、いつのまにか好ましいと思っていて。開きかけた記憶が、隙間からこぼれ落ちた思い出が、それに拍車をかけているのだ。

「――――――くる、な」

 来て欲しくなかった、傍に来て欲しいのだ。彼の声でそんなことはないと聞きたいのだ。だが、ああ、だが、もしも――――――

 それを思うと、とてもではないが傍にいられない。千々に引き裂かれそうな心が、鉄で鎧った筈の心が剥き出しになっていて。まるで裸。生まれたままの姿で、戦地に放り出されたような不安。

「来るな!」

「――――――っ!」

 制止の声は鋭く、万軍に号令した指揮官の物に他ならない。それは少年の脚を止めるのには十分すぎる力を持っていて。彼女の瞳も、また――――――

「セイバー」

 炯々と光る二つの緑柱石。遠い街灯の光に照らし出されて、白い息を長く棚引かせながら彼女が其処に立っている。それを、少年はまるで獅子の様だと思った。暗さ故か、明るく美しい彼女の髪も、今は濡れて僅かに暗く、乱れ張り付いたたそれはまるで赤い鬣の様で。身を包む毛布の外套が、毛足の短い獅子の姿を思わせる。

 それが唸りを上げている。近付かば斬る、と、街灯の下で牙をならして。

 怯えて、震えているのだと。さしたる理由もなく、少年は理解していた。

「……頼むから、来ないでほし――――――っ!?」

 だからこそ迷わない。鞘からこぼれ落ちる銀の光に、今更何を怯むことがあろうか。僅かに彼女が目を逸らした瞬間、呪縛を解かれたように前へ。下がることなく突き付けられる切っ先を、畏れることなく前へ。

 覚悟があった。それは、かつて彼女のこぼした囁き故で。貴方が、私の。そう彼女が言うのであれば、少年はその全てを己のうちに収めるのみで――――――

 方や徒手空拳、方や剣、方や切っ先を向け、方や両手を下げて。だと言うに、追い詰められるのは少女の側で。少年の喉にちくりと当たる感触、ぞくりと、掌が腐り落ちそうな悪寒が少女を支配する。剣を投げ出したくなるような誘惑、耐え難い感覚に耐えて、だけれども僅かに剣を引いた。それに倍する距離を、少年は――――――

 剣を向けた後ろめたさと、少年の瞳の強さが彼女を追い詰めていく。彼の目はまっすぐで、彼女は何に怯えているのかと――――――不意に硬い感触が彼女の自由を奪った。背中に当たるそれ。何時の間にこれほど下がったのか。じりじりと後に下がり続けて、気が付けば街灯を背にしていた。雨に映し出される三角錐の中に、ゆっくりと彼が歩み込んでくる。距離は再び離れていた。抱き寄せられそうな距離だと思っていたのに、とうに剣の間合いの外で、それが、また近くに。力を失いそうな切っ先に、どうにか力を残して。

「警告する、それ以上近付くな。一歩でも進むというのならば覚悟をすることだ」

 老怪の時とは違う、声には震えが走っている。それに気が付いて狼狽する、それが尚更震えを強くする。歩みは停まらない。黙々と、言葉の間にも彼は間合いを詰めてくる。

「何故――――――死にたいというのか貴方は! 解っていないようだからもう一度言うが、私は本気だ!」

「俺だってそうだ」

「っ――――――ばかな、何を馬鹿な……」

 彼の脚は止まらない。あと十歩、あと五歩、それだけで必殺の間合いを通り過ぎる。混乱していた、考えが纏まらない。ただ握りしめる柄の感触だけが確かで、ひどく重たいそれを必死に掲げ続ける。

「止まれ! どうして、来るな、どうして、斬られると解っているのに――――――!?」







「――――――セイバーにだったら仕方がない」







 静かな声と共に、彼が限界線を越える。さっと上げられた手に体が反射する。

「だ――――――」

 ダメだ。そう思ったときにはもう遅く、鍛え抜かれた技術が相手の命を奪わんと疾走する。ぎゅっと目を瞑った。何が失われるのか解らぬまま、別離の恐怖に震えている。突き出された切っ先が、彼の喉頸目掛けて伸び――――――

 音もなく手応えもなく、彼の掌に握り止められていた。

「な――――――」

「――――――ぐ、ぅ」

 止めた、少年はその掌に剣を握りしめ、少女は体を硬くしてそれ以上の伸びを止めた。だが、ずるずると刃は滑っていく。雨さえ降っていなければ、彼は間違いなく刃を止めたことだろう。だが、水は油よりもなめらかに掌を切り裂いていく。ひとたび血が流れれば、最早止める術はない。苦痛に歪む彼の瞳は、それでも彼女から逸らされることはなく、狼狽に揺れる瞳を責めることなく見つめている。

「これで、わかったろ…………」

 そのまま少年は前に進む、剣を引くことすらままならない場所で、指が切り裂かれることにも怯まずに。

「だめだ、何をしているのだ貴方は…………! 早く放せ、指が、指が使えなくなってしまう!」

「…………わかった、ろ?」

「わか―――? 何を解ったというのだ? そんなことはいい、いいから、早く放さないと!」

「ダメだ、セイバーが解るまで…………放さない」

「――――――ッ!!!!」

 そのあいだにもずるずると刃は滑っていく。不確かな足場、力の抜ける膝、突き出した勢いと彼の前進する勢い。技術も何もなく掴み止めた指の、骨深くに剣は食い込んで。

「だいじょうぶ」

「ばかな、そんなことはどうでも良いだろう! はやく、はやくはなして!」

「大丈夫、解ったか…………?」

 強情に剣を放さぬ彼に。

「――――――解った! 解ったからシロウ! はやく!」

 ついに、彼女の心が折れた。





「ぐ――――――ず、あ」

「馬鹿な、こんなになるまで放さないなんて――――――」

 ぼたぼたと、雨音とは違う音を立てて、湯気すら伴う血が地をぬらしていく。放り捨てられた剣には互いに一瞥もくれず、傷を中心に寄り添うように。

「大丈夫、平気だから――――――」

「平気なはずがない! あぁ、切っ先から根本まで刃が滑ったのだ、骨の繋がっていること自体が奇跡だ! ああ、傷が濡れてしまう、何か、何処か乾いた布は――――――」

「平気だから」

 具合を見せろ、と奪った彼の左腕。彼女が、それを確かめようとした途端。

「これ、は――――――」

 ほのかな輝きと共に、鞘が本来の力を垣間見せる。

「――――――傷が塞がっていく?」

 少年はとうに気が付いていた。己の内からも鞘が失われていない事に。現実と非現実の狭間に揺れる鞘は、それでも遺物には違いない。何時の間にか痛みの消えた肩に、少年は彼女の近くにある限り、傷は癒えるのだとの確信を抱かせていた。

「ほら」

「貴方は――――――」



「だから、大丈夫だって。いいから帰るぞセイバー、いつまでもそんな格好してたら風邪ひいちまう」

「だが、私は――――――」

 あなた方を信じられなかったと、今でも信じ切ることが出来ないと。なおも言い募ろうとする彼女を。

「――――――ぁ」

 少年は力の限り抱きしめた。

 優しいそれではない、むしろ、突き飛ばしたくなるぐらいの荒々しさ。息をすることもままならず、がむしゃらに接触を求めるような影の重ね方。だけどどういう訳かそれはひどく暖かくて。締め落とされるように、彼女はそっと意識を手放した。

 病み上がりの体は、とっくに限界を超えていた。









 〜Interlude in 2-8.〜



 ――――――夢を見ている。



 瓦礫の夢、灼熱のそれ、彼はそこで全てを無くし、ただ体だけが歩き続けた。

 燃え上がる世界、暗く輝く太陽。確かに夜だった筈だ。あの日、あの終わりは。

 七歳。それが、少年が全てに別れを告げた歳。小学校に上がったばかりの少年に、世界の全てとは家族と母親と小さな通学路だけで。

 全てが燃え尽きた。何もかもが消えて無くなった。帰るべき家も、迎えてくれる場所も。

 責任なんて無かった。ちっぽけな心は、自分の事だけで精一杯の筈で。

 だっていうのに、彼は優しすぎた。

 中身なんて大して入らない器に、多くの人が願いを託していく。助けてくれ。行かないでくれ。誰かを呼んでくれ。お母さん。この子だけでも。誰一人として、彼には助けられなくて。

 道ばたに折り重なる黒い消し炭。それは、かつて誰かだった物の成れの果てで。

 誰が見ても彼に責任はない。火元でもなく、彼が殺したわけでもなく。



 だからこそ。彼は己の中身をこぼした。



 怒りも、悲しみも、憎しみも、愛情も。あらゆる全てを置き去りにして、助けられなかった全ての人の言葉を、胸に詰め込んで。

 だから本当はがらんどうじゃない。彼の中には、十一年前の事が詰まっている。どろどろの灼熱が、いつだって彼を突き動かしている。

 たった一人生き残った責任。誰も助けられなかったから、誰かを助けたいと願って。

 それが、彼が彼でなくなった後に最初に見た願い。

 それを喜びの形だと、決定づけた出会い。



 衛宮切嗣。

 かつて、私のマスターだった男。

 家族に見せる笑顔とは、余りにも違う鋼そのものの横顔。私が知りうるどの顔とも違う顔を、その瞬間、彼は見せて。

 そこで、本当に理解した。誰かを救うという願い。彼の拙い方法でしか出来ない願い。彼が見たい物こそ、決して見られない願い。それを、少年は受け継いでしまった。

 正義の味方を目指す。誰かを助けるために生きる。誰かのためにある。それは、彼が出来る唯一の贖罪で。誰も助けられなかった彼自身を救う、唯一の救済で。誰かの笑顔こそが、彼を許す在り方で。そうして笑えたのなら、どれだけ幸せだろうと。

 余りに深い心の傷。幾らでも埋める方法など。否、それもきっと私だから言える言葉。彼にしてみれば、他に方法など無かったのだ。

 それが、己の内からこぼれ落ちた物でない望みだとしても。

 助けたい、ではない。助けなきゃいけないという強迫観念。何もかもを見捨てて生き残った自分の命だから、見捨てた人のためにも、誰かのために使わなきゃいけない。

 そう考えて、そう考えるしかなくて進み続けた。それが間違いだとしても、他に方法なんて知らなくて。

 ……ああもう、何て愚かなのだろう。どれほど時の隔たりがあっても、同じ事を人間は繰り返す。

 そうして彼は思ったのだ。届かない星と知って、届かない夢を追って、その戦争の中で、本当の望みを手に入れたのだと。

 彼の目に焼き付いた自分。迷い無く、揺るぎなく、ただ整然として。

 戦う必要のない時代。戦う必要のない世界。だっていうのに、戦う私を、彼は――――

 守りたいと願った。傷つけさせたくないと、出来るなら、共に歩みたいと。それでも少年は少年の願いを変えられなくて。

 そんなことは望めない。もしそれが叶うとしても、そんな望みはいらない。

 血を吐くような声で、事実撒き散らされたそれは、胸の傷に関わらないそれで。

 そうして私も思い知らされたのだ。

 かつて置き去りにしたアルトリア。受け入れた、王としての私。最期の時に全てを失って、最後に己を呪って。

 ああ、でも、でも王として信じたものは、私の中でなにひとつ裏切ってなどいなかった。

 最善を尽くした。そのための犠牲を、出来るだけ最小限にとどめて。十年、できるだけ多くの人々に笑顔をもたらそうと頑張って。

 騎士が居た、民があった。敵が居て、味方が居た。何もかもを失わずに何かを為すことなど出来ない。だから、王として行った結果が滅びだったのならば、それを受け入れるのが正しい形。私は国を守り、国も―――国も私を守っていたのだ。

 戦うと決めた。

 遠い日の誓い。みんなにきらわれても、たったひとりのおわりをむかえても。それでも戦うと決めた。

 敵がいて、味方が居る。それに僅かに及ばなかった。それだけが、残された事で。

 何を信じられなかったのか。

 何を信じたのか。

 何処も間違っていなくても、何かが敵に回ることがある。

 親の因果が子に報い。それは、彼にも私にも言えることだろう。彼の敵として立ち塞がった神父も、私の敵として立ち塞がった姉も、どちらも父親のやり残しに他ならなくて。

 突然彼のことを近しく感じた。

 私達は、本当に似ているのだと。それしかなかったから、星を追いかけたのだ。



 やってきた終わりの時。

 穏やかな微睡みの中で、私は。







 潮騒。

 遠い響き。

 懐かしいようで、身に覚えのないそれ。

 灼けた岩場、輝く砂浜。

 いつか、彼と笑いあえたらと願った遠い海。







 目を開く。重たい頭を起こして、自分が涙を流していたことを知った。

 胸が熱く鳴っている。彼と、ふれあっている箇所が熱い。

「目、醒めたか」

「――――はい」

 波頭の轟き、遠いそれは、遙かな海から押し寄せる物か。

 彼に背負われて居る。雨はいつの間にか止んでいて、暗い暗い縁が、橋の向こうに広がっている。

「シロウ?」

「帰ったら遠坂に謝れ」

「はい」

「そしたら、風呂入って飯食って寝るんだ」

「はい」

「それでいいから」

「シロウ」

「ん」

「まず、貴方に謝らなくては」

「いいよ」

「傷のことも」

「いいって」

「切嗣の事も」

「いいって」

「貴方が、全てを無くした理由も」

「済んだことだから、いい」

「――――――ごめんなさい」

「――――――」

 謝って許されることではないだろう。それでも、口に出さずには居られなくて。

 もう解らない、自分が誰なのか、セイバーなのかアルトリアなのか。思い出していると言えるだろう。だが、それをそれとして認識できない。最後の鍵が開かずに、記憶を整理できなくて乱れている。

 だから有難くて涙が出そうだった。自分ですら解らない言葉を、ただ受け入れてくれる事が在りがたくて。申し訳なさで、胸がいっぱいになる。どうすることも出来ない衝動が、回された腕に籠もる。ぎゅっと抱いた。彼の肩を、力の限り。

「セイバー」

「……はい」

「おかえり」

「――――――」

 返事をすることが、出来なかった。

 〜Interlude out.〜







 後ろに人が立つ気配に、靴べらを持つ手を止めて振り返る。

「士郎」

 衛宮の屋敷と違って此処には段差がない、反射的というか条件付けというか、靴を脱ぎたがる俺のために、遠坂はいつもスリッパを出してくれていた。

「セイバーを連れ回してあげたら」

「ん、でも、疲れてるんじゃないだろうか。ほら、寝てるだけでも体力って使うから」

 年寄りになると朝が早くなるのはそういうことらしい、若い内は回復量も多いから寝ていられるが、老人は昼間よりも夜の方が消耗することもあるそうな。

 もっとも。そうなってしまった人間を寿命が来たと表現するのだが。

「まあ、あんたがそう言うなら私は言うこと無いけど」

 隣に並んだセイバーが、僅かに首肯して感謝を示す。

 ありがとうの一言も言うべきところなのかも知れないが、治療の礼は済ませてあるし、彼女自身何に感謝すべきなのか判っては居ないだろう。戸惑うような視線はない、未だその瞳は王の時のままで。

「遠坂、ありがとう。お前が居てくれて良かった」

 だから代わりに。

 精一杯の感謝を込めて、頭を下げた。

「もう――――――水くさいこと言わないの」

 やっぱり遠坂は気持ちの良い奴だった。幾度も確認したことを、今また噛み締めるように実感する。

「いい? とにかく彼女を連れ回して。そうね、記憶がある場所が良いわ。あなたたちの場合なら――――――ビルとか、柳洞寺とか。それから、ヴェルデも大事ね。郊外の森は外せないからタクシー拾ってでも今から行きなさい。他にもいろいろあるけど、バスに乗るのも良いわね。土蔵と道場と貴方の部屋は最後に取っておくこと」

「――――――」

 遠坂が挙げた場所は、どこもかしこも記憶と思い出しかないような所で。

 なんでウチが最後かは判らないけど、試してみる価値はあると思う。

「……よく意味はわからないけど、解ったよ」

「魔女の予言よ、良いことがあるわ」

 腕を組んだ後、片手の人差し指を天井に向けて遠坂は笑った。

「呪いじゃなくて?」

「え、もういっぺん言ってくれる?」

「冗談、あてにしてる」

「もち、任せて」

 鉄扉をすり抜けて道に出る。二月の風は冷たくて、空気を切り裂くせいか雲も途切れがちにしかない。しれでも日差しは暖かかった。抜けるような青空の下、胸一杯に息を吸い込んで見る。

「じゃあ、気をつけてね!」

「助かった!」

 振り返りながら手を振った、昼下がりの坂道をゆっくりと下っていく。

 ――――――ああ、そういえば。一年前のあの日々には、彼女と二人で坂を下った覚えなんて無かったっけ。

 隣を歩く彼女を盗み見る。張り詰めたようで居て、どこか惚けている。知っているようで知らない町並み。埋もれた夢の澱が、彼女を揺すぶって仕方がないのか。

 セイバーの欠片を探すように、坂の向こうの青空に視線を向けた。

 冬枯れの木の枝から太陽が覗く、斬り付けるような日差しのまぶしさに、目を細めた。

 雲は高く、未だ春の気配は遠い。自分の後ろを少し遅れて歩いてくるセイバーを見る。かち合った視線には、強い色が見え隠れしていた。自分のことをどう思っているのか微妙な距離感だ、剣の間合いにはやや近く、拳の間合いにはやや遠い。そんな緊張ともとれない空気の中を歩いている。

 前髪をかき乱していく冬の風に、セイバーが目を細めた。正面から吹き付けている風は少し強めで、吹き乱される服装を気にする辺りなんか、どことなく女の子らしくて良いと思う。

 坂道を下りながら、視界の向こうに意識を飛ばす。遠くの木々の揺れ方を見る限り、海の方から吹き付けてきた風のようだ。幾分風が緩やかになったと思った時、木々の枝をしならせて、どう、と風が一際強く吹いた。体をふわふわと押し戻される様な感覚が少し楽しい。

 冷たい風だが、日の光を含んだ風は暖かかった。

 もう一度振り返った、剣がないのが不安なのか。どうにも落ち着かない様子で彼女は歩いている。視線の意味に気がつかれたのだろう、僅かに咎めるような眼差しを向けられた。年頃の少女がすねているようにしか見えなかった。

 実を言えば、剣をどうするかでかなりもめたのだが、流石にあれを持って往来を行くわけにはいかない。外敵が居ないことを理解させるのに、二時間近く掛かった。頑固なところは相変わらずで、こうと言ったら意地でも聞きゃしないのは知っている彼女と寸分違わない。

 だけど、あんなにかさばる物を持って出歩くわけにはいかなかった。鎧と剣と衣装一式の総重量は、軽く見積もっても四十キロを超える。持ち歩けないと言えば嘘になるが、それは目的地まで一直線の場合。馬に乗って動くわけでも、魔力放出のスキルを持つわけでもない身にはかなり堪える重量だ。冬山登山に近い量の荷物を抱えて歩くのは正直骨が折れる。重装備のまま街を歩きたくはなかった。

 結局。鎧と剣は遠坂に預けて、必要となったらいつでも取りに行くという条件で無理矢理頷かせた。

 〜To be continued.〜




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