逃げ出すように、と言っても良いだろう。彼との距離に耐えられなくて、一人になりたくて走り出した。訳がわからない、唇に未だ残る痺れは甘くて。そのくせ、胸は引き裂かれるように痛んでいる。やり場のない怒りが、逃げ道を捜すように己を向いて苛んでいる。ギィネヴィアに私は何と詫びればいいのか。ランスロットには、詫びようがあるのか。血を吐くような思いをしたはずだ、私に剣を向けられて、他に方法もなく矛を交えて。

 幽閉した彼女は、どうしただろう。最後に聞いた言葉は許しを請う物。そんなことは必要なかったというのに。お許しくださいと、静かに涙を流す彼女にかけられた言葉はあっただろうか。何も言わずに去った私を、彼女はどれほど恨んだだろうか。

 形骸の契り、体を重ねたことはあれど、所詮偽りの交わり。温もりが欲しかったはずだ、国を祀る人型ではなく、熱い心のそれが。だから、彼女は彼を愛したのだろう。

 それが解っていながら、何故。

 許されぬ恋だった、暴かれた過ちだった。だが、衆目に晒されさえしなければ、私はそれをそのままにしておけたのだ。もし抱き合うのならばそれも良い。ギィネヴィアが子を孕んで、彼の子供を我が子として抱くことになろうとも、問題など何処にもない。むしろ、彼の子であるのならばそれはどれほど喜ばしいことだろうと。

 いつか遠い日にやってくる、私の終わりに怯えながら。

 もう一つの、輝かしい未来を思い描いていたこともあった。

 だが終わらされた。未来はつみ取られ、終わりへの道を駆け抜けた。彼はどうしただろうか、今になって悔やまれる。ガウェインの忠告さえ受け入れていたのならば、あの様な終わり方はしなかったのではないだろうか。間違いだらけの幕引きに、華々しく血の花を咲かせることも。

 そうだろう。私は全てを滅ぼした王で。何一つ手に入れることの出来なかった愚か者なのだから。

 何一つ握ることの出来ない手に、剣だけを握りしめて。果てのない時の果てで、聖杯を望んだのだ。剣を手に。

 “―――――――困った御方だ”

 ぱちりと散る火花。震える息に交わる、焼け付くような火花。何時の日に聞いた物だったか、彼の言葉だというのに、まるで聞き覚えのない言葉。思い出そうとすれば頭痛に視界が燃え上がる。灼けて、痛い。襲い来る顔は狂気に染められていて。

 だからこそ意味が解らない。この罪深い命が許されるはずもないのに。どうして私は、答えを知っていると思うのだろう。それは、遠い夜に聞いた―――――――



「―――――――っ」

 前も見ずに駆けていた脚を、その場で止めた。

 怖気が走るとはこの事か、感覚だけで死にたくなるような不快感に襲われる。最初に衝撃が、それから、項に感じる違和感は、じりじりとその存在を強くしていく。嫌に濃い大気が、異常を知らせている。好ましいそれではない、常ならぬ予感。はっきりと魔の気配を感じさせている。誰も居ない、だが―――――――誰かが居る。それだけは、はっきりと解った。

「何者か」

 転がり出た声は凛として。畏れていたような弱さはない、先程までの痴態とはうって変わったそれに、内心胸をなで下ろした。緩んではいても、錆び付いては居ないらしい。問題は武器がないこと。剣さえあればいかな魔性の類であろうとも切って捨てるだけの自負がある。だが、今は無手だ。化生の物相手に素手では、拳を食いちぎってくれと言うに等しい。

 相手からの返答はない。だが、気配だけが揺らいでいる。此処で脚を止め続ければ状況は悪くなるだろう。むしろ、既に虎口に在るやも知れぬ。ちりちりとざらついた空気に苛立って、困惑に歪んでいた眼差しが、殺意のそれに切り替えられていく。もとより気の長い方ではなかった。武装することもままならぬまま、ただ気鋭だけで切って捨てんと武威を放つ。

「今一度問う、何者か!」

 誰何の声に、低いざわめきが答える。虫の羽音にも似たそれ。悪趣味なのは年老いた魔術師の常なのか。腐肉の匂いにも似た気配。ひからびる寸前の、死体の臭い。

「答えよ!」

 ざわざわと、震えるように揺らぐ空気は、徐々にはっきりとした笑いの形を取っていく。嘲笑とも、自嘲ともとれるそれは何を思ってのものなのか。はっきりとしていく笑い声を背景に、闇が凝るようにして何かが湧き出してくる。空気を振るわせているのは、笑い声だけではなく――――

「ッ!!」

 反射的に飛び退った、ぼとりともべちゃりとも、形容しがたい音を立ててそれが己の居た場所に落ちてくる、上に視線を投げたところで、何もない。どこから飛びかかってきた物か、と、左右の木々に視線を走らせれば―――――





「――――――カカ、カカカカカ、
          おお怖い怖い。迂闊に姿を現せば斬られてしまいそうじゃ」



 

 ――――それは、奇っ怪な姿をした虫だった。否、虫と呼ぶのも汚らわしい、生き物と呼んで良いかすら躊躇わざるを得ない、陸生の寄生虫。最早数で圧倒したと、飛びかかる必要もなく喰らい尽くせる判断したのか。うねうねと緑色の粘液を滴らせながら、彼方の木の枝からぼとりぼとりと降ってくる。それだけに留まらず、此方の石の裏からぐじゅりぐじゅりと、あらゆる場所から湧き出してくる。大きな者は人の手首程から、小さな者は耳の穴に入り込みそうなそれまで揃っている。数は、恐らく数万を超えるだろう。

 吐き気がした。思わず一歩引いて、足の裏から伝わってきた感触に鳥肌立つ。にちゃりでもぐちゃりでもない。ただ、背骨が震え上がるような汚らわしい感触。まだ人のはらわたの方が愛しく思えるほどのそれ。見下ろせば、それらは既に足下を覆い尽くしている。振り返ることなく不利を悟った。這いずり回る音は既に後ろからも聞こえてきている。何時の間に囲まれていたのか、それとも、走りながらこの場所に誘導されていたのか。あるいは罠に填められたのか。退路は既に断たれている。閃きに従って、頭上を一閃した。びちゃりと手に伝わってくる感触、まるで腐ったナメクジを殴りつけたかのようなそれ。ぬるりとぬめる中に不気味な硬さがある。先走った者が居るのか、それとも、こちらの程度を計っているのかは解らない。だが食いつかれるわけにも行かず、かといって動き回れるほどの範囲もない。怖気を振り払って、二度三度と落ちてくるそれらを叩き殺す。

 ちらりと覗いた口に、鋭く細かい牙が覗いていた。恐らくは肉食、魔術的な物であるのなら、この形は―――――ひどく、不愉快な形をしている。どこから潜り込もうとするのかは一目瞭然だろう。―――――それは、何が何でも御免被る!

 虫たちの動きが変わる。不規則にうごめいていたそれらが、一斉に口を此方に向けた。体を、不自然なまでに撓めて。来るつもりなのだ。それも、視界を覆い尽くすほどの密度で。拳で振り払うことなど不可能だろう。

「私を侮るか」

 きぃきぃと耳障りな音が止み―――――周囲を黒い壁が覆った。



「っ!―――――っはぁぁぁああああああああああッ!」



 獣の咆哮に似た、人に出来る限度を超えた咆哮。獅子の雄叫びにも似たそれと同時に、前から後ろに両の腕を振り抜いた。両腕に籠められているのは、持ちうる限りありったけの魔力。急激に圧縮された魔素と空気が、想像を遙かに超える衝撃波となって虫に襲いかかる。加工されるまでもなく、ただ爆発的な広がりを見せて力が流れていく。それだけで充分だった、力の波に触れた虫は片端から消滅し、後続や湧き出した者達も閃光と音を伴わない衝撃に吹き散らされていく。

 急激な消耗感、くらりと眩む視界を縫い止めながら仁王立ちに睨み付ける。一撃で蓄えを使い果たした体が、悲鳴を上げる。だが代償に応じて効果は大きかった、地面を覆い尽くしていた虫怪は、二十数メートル先まで吹き散らされている。後に残されたのは、僅かに煙と湯気を立てるアスファルトのみ。拳に付いた体液など、振り払った瞬間に蒸発してしまった。無論、背後も同様だった。駆け抜けられるのならば、逃げ出すことも可能だろう。が、いかんせん体が言うことを聞いてくれない―――――

「出でよ魔術師、姿を現すが良い。この程度の虫けら、幾たびけしかけようと私には何の痛痒もない!」

 強がりだった、最後のひとかけらすら声に籠めたと言っても良い。だが、相手が何を思っているか解らぬ以上、ブラフの一つも使わなければ良いように扱われてしまう。なにしろ敵は水気の敵だ、迂闊に捕らわれれば、己が思いつく限りの辱めを、更に越えて好き放題穢される事だろう。思い描くまでもなく、そんなことは我慢がならなかった。自害すらも検討に含めて、ただし顔には微かにも出さずに虚空を見据える。

「無駄と知りつつも向かい来るのならば加減は要らぬ、剣すら要らぬ、ただ我が身こそあれば良い。一昼夜なりとも穢れを払い続けよう!」

 汚れた空気がそれだけで清められていく。そんな、威厳と清冽さに見せた宣戦布告。挑むのならば引かぬと、我が身に及ぶ物など無いとの絶対自負。其処に迷いはなく、微塵の揺らぎもない。

「―――――――流石は、剣の英霊。儂の蟲程度ではいかんともしがたいようじゃのう」

 流れる幾ばくかの時間、此方の言葉を真ととったのか。ぞろりと、どこからともなく湧き出すように老怪は姿を現した。不吉を絵に描いたような姿だった。

 〜Interlude out.〜









































「微睡みの終わり」
Presented by dora 2008 02 12



































 



「くそ、何処行ったんだアイツ……?」

 駆けだした彼女を、すぐに追いかけるのは躊躇いがあった。拒絶とはまた違う、計り知れない心の闇。一度も自分には見せたことのない目の色をして、セイバーは駆け去っていった。

 追って良いかどうかの逡巡。それは、ほんの僅かな時間だったと思う。おそらくは分も経っていないだろう。だが、十秒もあれば八十メートルを軽く駆け抜ける娘相手に、三十秒も与えてしまえば見失うのも当然な話で。短い混乱から冷めて駆けだしたときには、既に四十秒が経過していた。そのままの勢いとしても約三百二十、角をいくつか曲がられた時点で追いつくのは不可能に等しい距離だった。

「っ―――――――だからどうしたってんだ!」

 無論諦められる筈もない、幸い周囲に人目もなくなったことだし、遠慮をする理由もない。がちりと撃鉄を引き上げるイメージ、強化するのはありとあらゆる身体感覚だ。

「同調完了―――――――さて」

 僅かな体温の揺らぎ、無風状態が幸いしてまだ少しだけ残っている。その部分を駆け抜ければ、吹き散らされる事無く残った彼女の匂い。聴覚が遠くから押し寄せて来る、風の固まりを察知している。余裕はなかった、残されたところは十秒もない。それまでに出来る限り彼女に近付かなければ―――――――



「居た―――――セイバー!」

「―――――――っ!」

 此方の声に、鋭い反応を彼女は見せる。ぎっ、と睨み付けるように、それから、狼狽えるように視線を泳がせて。最後に、いつものように感情を抑えた瞳で此方を見つめている。

「どうしたんだ急に」

 安堵が心を満たしている、もしこのまま見失ってしまったらと思うときが気じゃなくて仕方がない。

「心配したじゃな―――――――」

「―――――――貴方には関係のないことだ」

「―――――――え?」

 覆い被せる様な呟きは、声の大きさの割にはっきりと耳に届いて。まるで見知らぬ相手を前にするような拒絶が、声音に宿っている。まったく理由が思いつかなくて、いや、ひょっとしてさっきのアレは性急に過ぎたのだろうか?

「セイバー、ゴメン。怒らせたかな」

「いいえ―――――――」

 ―――――――んん?

 何とも歯切れの悪い彼女を前に、対応に困る。どう話しかけた物かと悩んでいる内に。

「申し訳ないがシロウ、体調が優れない様だ。先に帰らせて貰う」

「お、おう。じゃちょっと待っててくれ、タクシー呼んでくるから」

「必要ない」

「けど―――――」



「―――――――無用だと言っているのだ」



 ―――――――うおう。

 がちり、と、回りを歩いていた人間すら縫い止める空気の硬さ。

 ヤバイ。何がヤバイって声とか視線とか空気とか雰囲気とかがメッチャヤバイ。あれはあれだ、此方がこれ以上迂闊なことを口走ったらブッコロスって気配だ。何を怒っているのか知らないが――――ってかやっぱりさっきのが尾を引いているのだろうか?――――もの凄く不機嫌な彼女は、深刻な気配を漂わせたまま公園縁のタクシー乗り場に向かっていく。つまるところタクシーの乗り方ぐらいは思い出していて、一足先に遠坂邸に戻るつもりなのだろうが、恐らく彼女に持ち合わせは無い筈。慌てて後を追うと、彼女が乗り込んだ車の運ちゃんに万札を握らせた。

「深山町○●ー■□の遠坂邸まで」

 同じように乗り込もうとして、セイバーに視線で制された。仕方がないのでしぶしぶ窓から後から追うことを伝えると。

「無用だ、シロウはゆっくりと楽しむが良い」

 声に隙はない、緩みもない。戦場の烏すら鳴き止む様な声音で付いてくるなと王様は仰せです。

 いやはや、何というか。

 どことなくセイバー黒くないか?

「あいよ、大変だねお兄さ――――」

「無駄口を叩くな」

「――――はいっ」

「いやさセイバー、こんな所でカリスマとか指揮力とか発揮しないでいいからさ」

「シロウ、貴方もだ」

「…………はい」

 びしいっと居住まいを正した運ちゃんが車をスタートさせる。いやはや、参ったとか言っている閑はない。うっかり遠坂が要らんことを口走る前に説明しないと拙い気がする。離れている間に何があったのかは解らないが、少なくとも不機嫌通り越して後鬼厳になるぐらいの事件はあった様子。

 さて、俺もとっとと後を追わないと―――――――





 〜Interlude in 2-8.〜

 流れゆく車窓の風景に目を寄せる。苛立ちと、焦燥が身を焦がしている。

 “それにしてもなんじゃ遠坂の小娘め、弱っているから手玉に取るのは容易いじゃと? 戯言を―――――――”

 去り際に老怪が残した言葉、それが、嫌に胸に引っかかっている。

 “ふん、あわよくば首のすげ替えに、とも思うたが…………如何に弱体化しようとも流石は、よの。忌々しい小娘め、なかなか知恵が回るわ。さては儂を填めよったか……”

 待て、と呼び止めれば“遠坂の小娘に聞いてみるが良い”。まさかとは思うが、無いとも言い切れない。何のために私を生かしているのか。それを思えば如何様でも答えはあるだろう。そも魔術師とは策略家でもある。シロウの様に一部の例外もあるだろうが、知略に長けてこその賢者の異名。マーリンがそうであったように、ヴィヴィアンがそうであったように。

 ―――――モルガンがそうであったように。

 ぎっと音が鳴るほどに歯を噛んだ。思わずバックミラーを覗いた運転手が慌てて目を逸らすほど。人の心などうかがい知ることは出来ない。どれほどにこやかにしていようとも、その裏側に何を隠しているかは知ることなど出来ない。人心を読むに長けていれば話は違うだろうが、己にその方向での自信など無い。

 それに、言われてみればそういえば、と、思うところもあるのだ。何を思ったかは解らないが、確かに衣装の選択には何らかの意思を感じ取った。ふと振り向いたときに、よからぬ事を企んでいる様な顔つきをしていることも。ただ、生き死にに関わる大事ではないと、放って置いたのが拙かったのか。

「急げ」

「はい」

 固い声に固い声が返る。出来る限りの速度で、出来る限りの近道で。出来る限りこの時間を速く終わらせようと運転手が車を飛ばす。一度も信号に引っかからなかったのは、運が良いと言えるだろうか。



「此処までで良い」

「はい、じゃあ、お釣りは」

「要らぬ」

 坂道を上る凛の姿を見つけて、そっと後ろに従った。歩くペースはそれなりに速い。だが、心此処に在らずと言った風合いで考え事に沈んでいる。次の手でも練っているのか。考えてみればもっともな話で、一つの都市に魔術師の流派が三派では上手くないのかも知れない。だが、知らぬうちにその片棒を勝がされるのはまっぴらだった。私は使い捨ての矢等ではない。



「Abzug Bedienung Mittelstand―――」

「―――拙い」

 凛が開錠の呪文を告げている、しくじった。このまま施錠されてしまえば、私には解錠できない。魔力自体はある程度使用できるが、あのように決まった形式の魔術として行使することは出来ない。

 時間の問題とも言えるだろう、施錠されてしまえば、シロウが戻るまでか、私の存在を知らせる以外に方法はない。もくろみを暴くことは出来なくなるだろう、事実上の積みだった。

 そっと影のように庭を横切っていく。幸い、考え事に夢中な彼女は使い魔の放つ警告にも気が付いて居ない様子だ。戦術的な面から見ればどうかとも思うが、今はただ有難い。気配を殺して、そっと彼女の後に付いていく。一度考え込んだら周りが見えなくなるのも相変わらずの様子。締まりかける扉にするりと滑り込んだ。

「さて、どうしたら良いかしらね。今度のがうまくいかないのなら、次は―――――」

 陰鬱な心持ちになる。漏れ聞こえる声は、確かに企み事の様で。はっきりと聞こえはしないが、拾い上げる単語は不穏当で仕方が無い。やはり半開きの扉、椅子に腰掛けて腕を組み、顎に手を当てて自身の整理をしている姿。そっと覗った。聞き耳を立てるのは何とも不愉快だ。





「催眠、は効果が解らないし、誘導、は抵抗力に阻まれる―――――いっそ私の記憶を丸ごと移植できたら―――――少なくとも、セイバーに百%私達が味方である事ぐらいは認識させないとダメよね。よし、最悪丸ごとの―――も考えておかないと」





 ざぁ――――、と。

 音を立てて血の気が引いていく。

 間違いようもなく、彼女は私のことについて何かを目論んでいるのだ。

 一息に沸騰した。熱くなる視界に反比例して、頭の中は冷たく凝っていく。何処までが本当のことで、どこからが企みの戸張なのか。どうしてこんなに胸が痛いのか。裏切られたと、どうして私は叫びたいのか。

「―――――謀ったか」

 出てきた声は、自分でも驚くほど震えていて。

「―――――魔術師メイガス

 まるで、捨てられた子犬のようだと。

 それでも彼だけは信じていたいと、彼女も信じられるのだと乱れている。ぎしぎしと心を軋ませて。

「凛」

「うわ! セイバー帰ってたの?」

 中に入って扉を閉めた。色々と伝えることがある、だが、それは本当に口に出して良いことなのだろうか。私は、と言いかけて、それに被さるように彼女が笑った。

「衛宮くんが居ないって事はこの方法もダメだったみたいね。残念、せっかく御膳立てしたのに」

 ―――――言葉がわからないと思ってか。彼女は、あっさりと己の企みを語っている。

「顔が暗いわよ、どうしたの? 何か気に入らないことでもあった? そうね、例えば――――」

 私の顔色から、何を読み出そうとしているのか。ゆっくりと近付いて、此方を覗う彼女の顔は―――――





「―――――例えば、無理矢理キスされちゃった、とか?」





 ―――――ひどく、甘い笑顔。
        それは毒にも似て艶やかな。

 反射的に一歩彼女から離れた、敵だ、と認識していいかは返答に困る。恩人であるのは確かだ。だが、それをそのまま許せるほどの人形めいた自我ではない。愛玩動物でもない、家畜でもなければ、狩られる立場でもない。怒りに似た困惑に支配されている。顔から、表情が消えていくのがはっきりと解った。

「ダメ? 言葉解らない? ん、それは残念」

 それきり彼女は興味を無くしたように踵を返すと。

「晩ご飯は家で食べるみたいね、何か用意しないと」

 ―――――と、いつもの笑顔で、彼女は冷蔵庫の中身を確認しに行った。

「まったく、とんだ鉄壁よね。まったく寄せ付けないなんて」

 ―――――と、聞き捨てならない単語を耳に残して。





「―――――はっ、はぁ、はぁ、はぁ、は―――――!」

 息が乱れている。どうしてこんなに不安になっているのか、何が恐ろしくて震えているのか、与えられた自室に飛び込むようにして服を脱いだ。何を信じて良いのかも解らないままに、剣でシーツを切り裂いて身に纏っていく。ひどい格好だが、とにかくまだ落ち着ける。動きやすいようにと、出来るだけ纏めて。外套の代わりは、毛布で良いだろう。まだこれならば寒さをしのげる、ただ薄布一枚を身に纏うのとは大分違う。退路を捜した、部屋の戸口、玄関からは論外だ、出来るのなら、追跡に時間が掛かる方法が良い。となれば、窓だ。一気に駆け抜ければ、どちらに逃げたかが見つけにくくなるだろう。開けはなった窓から、湿った冷たい風が吹き込んでくる。雨雲がいつの間にか天蓋を覆っていた。きっと冷たい雨が降るのだろうと憂鬱になる。それよりも、彼から逃げることの方が恐ろしくて。

 ―――――ああ、ようやくわかった。私が畏れているのは、
         彼に裏切られる事ではなく、彼を信じられなくなることなのだ。

 気が付いて唇を噛み締めた。もしも企みに荷担しているのならば彼も敵だ。だが、私はあの口付けを信じたくて仕方がない。だって裏切らない。私が間違えることはあっても、彼は絶対に揺るがない。きっと大事だったはずなのだ。何よりも大事な誓いが其処にあったのだ。傷つけられ挫かれてそれでも支えてくれた温もりであったのだ。

 一度部屋の中に視線を投げて、思い切った。車の停まる音、玄関の開く音。彼は其処までやってきている。時間はない。窓から身を躍らせると、毛布の外套を翻して庭を駆け抜ける。シーツで出来たドレスは如何にも頼りなく、冬枯れの薔薇に、端々をすぐに引き裂かれていく。巻き付けただけの靴は、瞬く間に泥に染まった。まるで乞食のよう。情けなさを押し殺して走る。

 〜Interlude out.〜





 泣き出しそうな空を見つめて溜息を一つ、セイバーの後を追って帰ってきてみれば、憂鬱な色の空に重たい色の雲が広がりだした。

「こりゃあ雨になるね」

「そんな感じですね」

 タクシーの運転手が漏らした短い感想に、溜息と似た返事をする。料金を支払って、車を降りた。走り出したエンジンの音に、小さく被さる誰かの足音。それを、逃げるようだと思いながら庭を横切っていく。

「遠坂ー、開けてくれー」

「衛宮くんも戻ってきたの?」

 玄関を開けた遠坂が、不思議そうな顔で此方を見ている。衛宮くんも、と言うことは、セイバーは既にこっちに戻ってきてる様子。

「セイバーは?」

「部屋よ、なに、喧嘩でもしたの?」

「いいや、思い当たるところがない」

「ふぅん? まあ良いけど」

 上着を掛けて、一度首をならした。思ったよりもこわばっていた肩がばりばりと景気の良い音を立てる。鳴る度に、う、う、と短く唸りながら、彼女に従ってテーブルに着いた。

「聞くわ」

「おう、結構良い感じだった。セイバーも楽しんでくれたみたいだし、料理も気に入ったみたいだった」

「関係の進展は?」

「少し、けど直後にどっか行っちまって。追いついたときにはまた元通りだった」

「ふ……ん……進展はあったのね」

「ああ、言葉にはもう不自由しないらしい」

「なるほど、しゃべれる訳ね。良かったじゃない、それなら間違いなく彼女はアンタの愛しいセイバーよ」

「…………いや、その、もう少し遠回りな表現でもイイゾ?」

「面倒だから嫌よ♪」



「じゃあどうしてかしらね」

「何が?」

「あの子、私が話しかけたとき、まるでしゃべれない様なフリしてたから」

「へぇ、何でだろうな」

「丁度考え事しててねー、振り返ったら居るんだもん、びっくりしたわ」

「考え事って?」



「あの子の記憶をどうやったら取り戻せるか、暗示は聞かないだろうし、誘導も弾かれそうでしょ? 改竄じみた上書きは意味がないしーって」



 どく、と、嫌な鼓動が頭を揺らす。―――――ずいぶんと、物騒な単語が並んで居やがりますねぇ遠坂さん。

「…………なあ、それひょっとしていつもみたいに口走ってなかったか?」

「知らないわよそんなの、無意識だもん」

 無責任に言い放つ遠坂、だが、まあ確かに彼女の責任などない。出来る限りの手段を考えて、非常手段にまで思考の手を伸ばしていただけで。

 それを聞き取られて勘違いされたところで、星の巡り合わせとしか言いようがあるまい。

「ごもっとも。けど遠坂、多分それセイバーも聞いてる。で、アクセントの付く単語だけ拾ったとすると拙いんじゃないか?」

「え?―――――そう、ね。ちょっとマズイかも」

「なんか誤解してたら事だし、早い内に伝えておこう」





「セイバー、入るぞー」

 ノックを二つ、言葉が通じたからかどうかは知らないが、昨夜よりももっと容易く部屋に入ることが出来た。

「セイバー?」

 相変わらず灯りの着けられていない部屋、扉を開けたことで流れる道が出来たと、窓から湿気の強い風が吹き込んでくる。思わず身震いした、雨は既に降り出していて、冷たいそれが室内に吹き込もうと庇の角度と争っている。

「拙いな、窓閉めないと―――――あ」

 踏み入れた室内に、脱ぎ散らかされた彼女の衣服、つい手を伸ばして、僅かに残る温もりに眉を寄せた。視線は素早く室内を過ぎる、変化は何処にある―――――?

 ああ、シーツと毛布が一枚ずつ。それから、それから―――――

「―――――剣がない」







 反射的に体が動いた、持った服を空中に置き捨てて、廊下の端から階下へと一息に飛び降りる。

「遠坂、風呂沸かしておいてくれ!」

 驚きに硬直する彼女の脇をすり抜けて玄関へ、何処へ行ったかは解らない、が、この時間ならそう遠くまでは行っていない筈だ。

「え、え? 何!?」

「説明してる時間は無い、いいから風呂、後サポート頼む!」

 走るのは俺、捜すのも俺、ただ、ちょっと使い魔で上空からサポートしてくれれば助かるのだが。

「ちょ、ちょっと待ちなさいってのよ! 最低限の説明ぐらいしておいてくれないと困るじゃない!」

 ええいもう、時間がないってのに!





「セイバーが居なくなった! 多分、俺達を敵だと思ったんだ!」





 〜To be continued.〜




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