〜Interlude in 2-7〜

 馬車よりは大きい、かといって館ほどではない。昨日吹き散らされた怪物にシロウは乗るという。拒む理由もなかったので、彼に従った。怪物は、どうやら乗合馬車の類であるらしい。きっちりした身なりの御者に、二人分の料金を手渡すと、私を促して彼はさっさと奥へ行ってしまう。小さく溜息を吐いた。いくら過ぎてしまったこととは言え、こうまで身分差について考えさせられると嫌になる。此処は円卓ではなく、あの時間ではない。そも魔術師は私の後ろに侍り、同じ座に着くことを許さなかったと言うに。

 空気の抜ける音、扉の閉まる音。年を取った女の声、平坦で、何処かおかしいそれ。まるでひび割れた陶器を弾いた音のよう。静かに唸り立てる座席。轟々とうねる力の鼓動。そのくせ音はひどく静かだ。どうやら、僅かな間をおいて乗り物は動き出すようだった、猛獣の唸りと言うには少々弱い。年老いた獅子の如き唸り声で私達の乗った――――

「バスって言うんだ」

 ――――バスは動き出した。目礼を彼に返して、居住まいを正す。だらしなくはしていられない、最後部とは言え一団と座席が高くなった其処。玉座とは言い難いが、座り心地は上々だ。よく効いたクッションに、あの頃の椅子にもこれだけの柔らかさが在ればと思わずには居られない。

 そうすれば少しは苛立ちが押さえられただろうか。

 それとも急に変わってしまったら、誰も彼もが眠りたくなってしまうだろうか。

 このところ、目が覚めてよりは幾ら眠っても眠たかった。きっと皆もそうなるだろう。円卓の前で、揃って居眠りをしている様を想像して少し可笑しくなる。幾度か見たことのある光景だった。決まって戦明け。全力で敵に当たった後の召集では、半数が口を開いていびきを掻いていたものだ。そんなときは、私も皆々を起こさずに自室にとって返し――――かといって寝台には潜り込まずに――――皆と同じように椅子の背で丸くなったものだ。そう、今と同じように、あの頃もいつも眠たくて。

 思い出せば遥か遠く、願いの一つにあった気がする。何時かは思うさま眠ってみたいと考えるほど、仕事は忙しく、眠る閑もなかったように思う。だからはやく平和が訪れればよいと。剣を担うこともなく、己が先頭に立つ必要もなく、無理なく安らかに民がある時代が来ればよいと。

 そうすれば。私は、必要が無くて。

 きっと治世に相応しい王が、マーリンに選び出されていたに違いないのに。

 今となっては叶わぬ夢。ぞくりとした、気味の悪い鳥肌は、自己嫌悪によるもの。多くの者を死なせたというのに、私はこんなところで安穏と微睡んでいる。それは、果たして許されることなのだろうか。

 王が滅びるときは国が滅びるときだ。ならば、国が滅びるときとは王が滅びるときではないのだろうか?

 考えたところで答えはなかった。

 だって、生きている。

 今此処に。

 何もかもが終わってしまったというのに。

 意味がわからなかった。

 私は何のために生かされていて、何のために生きていくのだろう。為すべき事がない今、ただ生臭い頭痛に悩まされている。





「セイバー、降りるぞ」

 思考に沈んでいた視界を持ち上げる。何をするでもなく、彼が見つめている。ゆっくりと速度を落としたバスが停まった。どうやら此処で私達は降るのだろう。幾人かの乗客が、入れ替わりに中に入り込んでいく。見送ると歩き出した、昨日はここまで来なかった。雲の中に入り込んでしまった太陽を、恨めしげに見上げながらシロウが歩いていく。幾ばくかの逡巡の後、彼の後ろに従った。

「ゲーム、好きだっけ?」

「?」

 言葉の意味は解らない。ただ、なにやらカキンカキンと音が鳴っている。

「バッティングセンター、解るかな、バットで、ボールを打つ」

「?」

 だから、言葉がわからない。

 けれども、どうやるかは一目で見て取れた。





 奥でシロウが誰かと話している。何を思っているのか、何をしようとしているのか。己が座ったベンチの前にあるボックスに、灯りが点った。向うからは、きりきりと何かを巻き上げる機械の音が聞こえる。首筋の毛がざわ、とした。何かが力を溜める気配、不意に四肢に力が満ちる。意味は解らないが高揚していた。意味は解らないが、となりのボックスでは少年が飛んでくる球を棒で反対側に打ち返している。意味がわからないが、とにかくやり方だけは理解できた。ああ、違う、そうじゃない、もっと早く、ダメだ、それでは今度も遅い。

「セイバー」

「はい、今良いところなのです、そうです、今! そのタイミングを忘れてはなりません!」

 私の声に反応して、嬉しそうに微笑む少年、何処か照れくさそうだ。―――――と、彼は、確か―――――――



「やっぱりあの時の姉ちゃんだったんだな」



 ――――確か―――ゲロス、と。

 呼ばれていた少年では無かったか。

「いや、私は――――――」

「姉ちゃんはデート? なんだ、結構イイオトコじゃんか!」

 ああ、こっちの言葉など何処吹く風。とはいえ、私も私で彼の勢いに飲まれてしまい言葉が出ない。

「その、結局」

「トリスタンとは誰も呼んでくれなくてさ、まだゲロスでとおってんだ。じゃ、後一球打ったら俺行くから、また会えっといいんだけど」

 キン、と。今度こそ快心の音を立てて白球がネットに跳ね返る。それを力強いうなずきで見送ると、少年は後ろも見ずに駆けだしていく。向こうにいるのは何時かサッカーを一緒にやった少年達。ああ、私の時は止まっていても、彼らの時間は流れていたのだ。今では、私も。



 ノイズ。激しい頭痛に視界が明滅する。白と黒、赤と黒、白と赤。

「セイバー?」

「い、つ―――――は」

 彼が呼びかけている。だが言葉がわからない。驚きはない、そうと知っている。今は夢を見ているような物。だったら言葉の意味が理解できないのも仕方がない。

「大丈夫か」

「―――――――」

 しれっとした顔で立ち上がる。顔をしかめていたのは一瞬、緩やかに過ぎゆく刻とは言え、時間は有限だ。

「やり方、は、解るよな」

 こくりと頷き、彼からバットを受け取る。ボックスの中に入ると、少年と同じように身構えた。ぴりっとした緊張感、低い唸り声に似た駆動音。シパッ、と鋭い音を立てて吐き出される球に狙いを合わせ―――――――









































「微睡みの終わり」
Presented by dora 2008 02 06



































 



「―――――――馬、鹿な」

 ―――――――快心の勢いで空振りした。

 一度振り切ってバットに釣られて体が回転する、持って行かれた体が、すっかり鈍っているのだと教えてくれる。バランスを崩して、その場にへたり込んだ。余りのことに何も言うことが出来ない、丁度真後ろを向いた姿で座り込んでいる、ヘルメットが目に被さる、それを、鬱陶しく思いながら払いのけると彼と目があった。

 赤い。彼の視線がうろうろと彷徨う。下と、顔と、その他諸々の場所を彷徨いながら他の客を牽制している。鋭さは時折鷹のそれだ。

「……ええと、セイバー、隠した方が良いと思う」

「―――――――ぁ」

 ようやく自分の姿に気が付いて手で覆い隠した。と、何故か目眩がする。さほど激しく動いた訳では、いや、確かに一回転半回る程度には空振りしたわけだが、それでも息が切れるほどに動いた憶えはない。体力は確かに戻っているのだ、それが、何故――――

「あ、その、見ましたか?」

「いっ、いいや見てない!」

 ―――――――何故、
           彼に見られるのがたまらなく恥ずかしいのだろう。

 と、言うかシロウ。あれだけ見ておいて見てないは無いと思います。聞く私も私ですが。



 交代、と、立ち上がった私に告げて彼が中に入ってくる。持っている物よりも一回り大きなそれは、振る度に音を立てていた。

「セイバー、危ないから出てくれるか」

 彼の言葉の意味するところを察し、扉の外に出る。構えた瞬間、彼の内側が盛り上がったのを確かに感じた。細身だが、しなやかな体。そう思っていたことすら間違いだと教えられる体。あれは鋼そのものだ。細く鍛えた鋼を寄り合わせた鋼鉄。その切れ味は、きっと朝の光のようだろう。

 来る、と直感が告げる、直後に吐き出される白球、ぐっと一度後ろに引かれたバットが理想的なコースを描く。直撃する。そう見て取れた動き、何もかもがスローモーションであるかの様に、ひしゃげた球がバットに引きずられて跳ね返っていく。快音は後から聞こえた。今日聞いた誰の物よりも澄んだ音。まっすぐに打ち返された球が向こう側の壁にぶつかって勢いよく戻ってくる。

「―――――――よし」

 満足げな声と共に、打球を見送ったシロウが戻ってくる。むらむらと敵愾心が湧き出してきた。負けてなど居られない。ただ、このバットは私が持つのには重すぎる。



 急いでカウンターに向かい、もう少し軽いのがないかを訊ねた。店主は困り顔で、あるにはあるが子供用だ、と返した。

「むう、子供用ではシロウに示しが付かないではありませんか」

「ごめんねお嬢さん、それ使ってくれる?」

 …………仕方がないので、不承不承此で行く。体内で燃え上がる感覚はない、神秘が薄れたこの時代では、我が身に潜む竜も眠りから覚めないのだろうか。魔力も放出できない体では、技術で補う以外に方法はない。一度高く構えたそれを、幾度か素振りして納得のいく形に持って行く。だが、一朝一夕どころか、ものの数振りではたかが知れている。後は実践在るのみだ。

 いざ行かん、白球が私を待ちわびている。

 開け放たれた扉に力強く踏み込んだ、意識は指先の隅々まで、其処を通り越してバットの先端まで行き渡らせるように。タイミングは二度見ている、高さも、先程と同じなら問題ない。狙った高さにバットを持って行けるよう、ぎゅっと脇を絞って高く構える。振り下ろすように、そこから、振り上げるように。まるで幼き日の剣の稽古。力なき故力まぬ方法を捜す様。

 来る、直後に吐き出された。三球目、タイミングは見て知っている。テイクバック、ねじり上げた体を更に、軸の回転から螺旋の回転力を引き出して先端まで。かつ、と、バットに抵抗。最後まで見つめ続けた球が、確かに捉えられている。持って行かれそうな球速、負けない様に息を吐いて力を込める。ぐんぐんと反対側に加速していくベクトル。最高点に達したとき力を抜いてフォロースルー。快音がしたと思う。二度目とは思えぬ鋭さの振り、なにやら描かれた的に向かって球は一直線に飛び。命中とともに、高らかなファンファーレが店内に響き渡った。

『“えー、三番ボックスのお客様、ホームラン、ホームランです。景品をお渡ししますので、カウンターまでどうぞ”』

 ―――――――やった。

「見ましたかシロウ! ホームランです! ふふ、良い手応えでした!」

「うん、見て―――――?」

 と、訝しげな顔をして、考え込む彼を横目にカウンターへ。にこにこと人の良さそうな笑顔で店主は、棚に置いてあった黄ばんだ―――長年のヤニであろう―――ビニール袋からそれを取り出した。

「はいお嬢さん、景品ね」

「―――――――おぉ!」

 ぬいぐるみ、白いライオンが服を着ている。バットを持って、ふさふさの鬣が愛らし――――い?

 瞬きの数が増える、自然と寄せられた眉根は喜びによるものではなく。

「これは……この獅子は……そこはかとなく老けている様な……」

「はは、勘弁してやって―――――レオももう五十近い訳だから」

「レオ、それがこの獅子の名前なのですか」

 少し老けている、白い毛並みのせいだろうか、それとも顎髭に似た毛足のせいだろうか。ひょっとしたら、太い眉毛のせいかも知れない。

「良い名前です」

「一番新しい型ならもっと可愛らしいんだろうけど、残念ながらもう十回はホームラン打たないと出てこないね」

「では、是非」

 勘弁してよー、と、笑う店主に手を振って、シロウの待つボックスへと戻る。老いた獅子という言葉が誰かの贈り物を思い出させた。

「どうかしましたか?」

「いや、何だか違和感が…………うん?」

 しきりに首をかしげて居る。彼が動く度に、財布に下げた銀の姫林檎がちりちりと澄んだ音を立てて居る。バットを振った拍子に後ろに回ったスペードを前に戻すと、いざ勝負とばかりに彼を急かした。



 三ゲーム、それだけこなした頃に腹が鳴る。勝敗は、一言で言えば引き分けだった。互いに一球のミス、それ以降は完璧と言って良い当たりが延々と続く。息は切れなかった、ただ、掌がひどく痛む。バットが握れなくなってきて、己の限界を悟った。だからこそ、此処で引き下がることは出来なかった。

「そろそろ昼飯にしようか」

「ダメです、まだ勝負が付いていないではありませんか!」

 拳を握りしめてバットを持つ。そのまま、バッターボックスへと入ろうとしたとき。

「待った」

「っ!」

 緩んだ指の間に、彼の指が滑り込んでくる。冷たいバットとは違う熱さに、思わず体が震えた。熱くて痛かった。

「やっぱり無理してる。ダメじゃないか!」

 睨み付ける彼の視線に、むっと睨み返して手をふりほどく。どこか名残惜しい温もり、その優しい痛みは、いつ憶えた物であったか。

「無理など! この程度の事で音を上げるような私では無い!」

 早く続きを、と猛る私に。

「勝負なら受けない、それとも、セイバーは相手が居なくても勝負になるのか」

 と、返す言葉も出ない事を彼は言ってのけた。

「受けられないというのか?」

「そんな手で何ができるってんだ」

「私を愚弄するか」

「お前こそ、自分を大事にしないのも大概にしやがれ」

 ぐっとにらみ合う。空気はいよいよ焦臭く、一触即発の気配を湛えて震えている、と――――

「ハイ其処まで、お客さん、喧嘩は余所でやってね」

「む――――」

「あ、すみません」

 店主の穏やかな声に遮られて、切り結ぶ視線を、一度逸らす。再び見上げた時には、彼の表情がひどく淀んで沈み込んでいるように見えた。

「シロウ?」

「うん、出ようセイバー」

 椅子にかけてあった上着を肩にかけると、彼はそのまま歩き出した。幾度かボックスと彼の背中を比べてみて、突き動かされて後ろに従う。まるで幼い日に、兄の背中に付き従ったときのよう。暗い出入り口の通路、向うからさす光に長い影を伸ばして。

 

 通路を抜けて表に出る。途端、白く光る空に視力を奪われた。僅かに空を覆っていた雲は、私達が屋内にいる間にその勢力を増してきたらしい。今ではすっかり厚い雲が天蓋に淀んでいる。僅かに気温も上がっているようだった、湿った南風は、雨が近いことを示している。恨めしげな顔で、シロウが空を見上げて小さな溜息を吐いた。

「降って、来そうだな」

 先を急ごうとばかりに、彼は目的地へと歩き始める。その歩みに迷いはなく、次に何処に行くかを決めきっている様子だった。それが少し不満で、何に不満を抱いているのかが解らず苛立った。

 腹時計が小さく鳴く。気取られはしないかと、気が気でない。だから彼に訴えることにした。

「シロウ、そろそろ昼食の時間では」

「ああ、そうだな」

 返事は素っ気ない。これは兵糧攻めを覚悟せねばなるまい。そう、視線を泳がせたとき。

「セイバー、彼処に行くんだ」

 と、彼が川縁のレストランを指さした。確かに、彼処の料理ならば味に間違いなど在るまい。よく憶えている、彼と向かいに座って飲んだ―――――――ぎし、と。

 痛/痛みが、私/私をかき混/混ぜる。私は誰で、お前は誰だ

「セイバー?」

「何でもありません」

 また、彼が不思議そうに眉を寄せた。右から左へと流れていく視線は、何かを捜すようで。ふと、気が付いたように彼が言った。

「セイバー、何が食べたい?」

「それは何があるかを見てみないと」

「そっか、肉か魚かなら?」

「今日は魚を所望します」

「解った、で最後」

「はい」

 理由は判らない。ただ、嬉しそうにシロウは笑うと。

「―――――――食後の紅茶はどうする?」

 無論、いただきます。そう答えようとして。

 いつの間にか、意思の疎通に齟齬を感じていないことに気が付いた。

「あ―――――――」

「俺の言ってることが解る?」

 愕然として。

「あ―――――――はい、解ります」

 呆然として。

「解り、ます。シロウの言葉の意味が」

 冷たい、澄んだ風が頭の中を吹き渡った。ぱちんと音が鳴る。記憶の泡が、弾けて広がる。まるで花の芳香の様に、一つ一つが整理され始める。川沿いの公園。すぐ傍らのレストラン。ややこしいメニューに悪戦苦闘する誰か。薫り高い紅茶と、温かな午後の日差し。それは、誰の記憶だったか―――――――

「よし、決まりだ。なら早く行こう。俺も腹が減って仕方がないんだ」

「―――――――はい」

 いつか、記憶の底にたゆたっている笑顔。誰の物とも知れないパーツ。組み上げられる経験と汲み上げられる知識の数々。ただ、それを認識する私は、それが私の物だと識ることが出来ない。

 

 ひと味違う料理の品々、格調高く纏められたそれは、ひどく豪奢だった。

 緊張気味のシロウと、混乱気味の私と。端から見ればさぞ微笑ましい組み合わせだろうとは思う。正直な所を言えば、料理の印象よりも。私の姿を見て、そっと気取られないように笑う彼の姿が印象的で。せっかくの料理だというのに、何処か焦点のぼけた印象しか残らなかった。

「紅茶を二つ、ストレートを」

「かしこまりました」

 デザートのアイスクリームと、添えられた果物のジャム、見たことのない果実は、イチゴと言うらしい。甘酸っぱくて、美味しい。

「ふむ、ふむふむ――――」

「うん、これ美味いな」

 ちらり、と、盗み見る。どういう訳か、気恥ずかしくて、彼の顔をまともに見ることが出来ない。穏やかな表情、時間が経つ内にほぐれた緊張が、落ち着きと言っても良い雰囲気を醸し出している。時間の流れは緩やかで、このまま眠ってしまいたいほど。運ばれてきた紅茶に口を付け―――――

「―――――ほぅ」

 と、溜息を吐いた。

 この味に、憶えがあった。いつか、遠い記憶の中で。



 腹具合も満ちて、緩やかに道を歩く。目的らしい目的はなく、ただ、町の中を流している。風が冷たくなってきていた。温かったそれも、日が遮られては暖まる気配もせず、強いビル風に押されるようにして、冬の街路を辿っている。

 ほらこんなにも、肌に沁みる。風が、一吹きする度に。

「寒くないか」

「特には。私よりも貴方こそ薄着だ」

「そっか」

「寒くないのですか?」

「まあ、慣れだよな」

「そうですね」

 交わされる言葉はぎこちない。それでも、話せなかった頃に比べれば格段の距離感の近さ。吐いた息が白く流れる度に、互いの口元を、そっと伺っている。次に何を言われるのか。次に何を言えばいいのか。それが解らなくてひどく焦れた。

 何をやっているのか。考えるべきは沢山あるはずなのに、こんなに心安らかにある。理由は思い出せないが、何かの許しを得たような、答えを見つけたような記憶もある。それは、何だったか―――――

「あ、セイバー」

「はい?」

「猫が居る」

「ああ、そうですね」

 益体のない言葉。笑うでも、追いかけるでもなくただ歩き去るねこの姿を目で追った。

「シロウ、子供がいます」

「そうだな、親は何処だろう」

「向こうにいる、彼女では?」

「みたいだな、手を振ってる」

「え、手? 猫の話ではなくて?」

「え、其処の親子連れの事じゃないのか」

「―――――――」

「―――――――」

「―――――――ぷ」

「―――――――ふふ」

 しばらく見つめ合って、小さく吹き出した。まるで咬み合っていない言葉。まるで、いつかの私達のようで。こんな事があった様な―――――――

「シロウ」

「なにさ」

 言葉は勝手に転がり出た。それこそ、後悔する閑もない速度で。





















「私と貴方は―――――――いつか出会ったことがありますか?」



















 ―――――――どうして。

 こんなにも、甘くて優しい声が出てくるのだろう。

 それも、私の喉から。

 一度も出したことのない類の声が。



「―――――――っ」

 彼の沈黙は長い。大きく目を見開いて、口をへの字に曲げて。息すらも、その身の内に飲み込んで。

 後ろから一度大きな風が吹いた、誰かに背中を押されるように前へ。一吹きを最後に、野暮だとでも言うように風は止んだ。人の気配も吹き流された気がする。静かだった、何かの予感に胸が騒いでいる。

 だから驚いた。後ろからならされたクラクションはひどく性急な物に聞こえて。ガードレール越しだというのに圧迫を覚える。愉快ではない、車を睨み付けるように、一度目を逸らして前に出た。

 彼の方へ。小さな衝撃と、前のめりになる体。石に蹴躓いたのか、自分で思っていたよりも私は前へ進んでいる。

 ふっ、と、暗くなる視界。目の前の障害物に、反射的に目を瞑る。優しく受け止められた。硬い感触ではない、分厚い、しなやかな筋肉のそれ。そっと私を支える、柔らかな壁。いつか抱かれた父親の胸のような。まるで憶えがない良く染み込んだ匂い。くらりとした。自分は確かに、この胸を識っている。いや、知っている。よく。見知っている。優し腕も、血に塗れたときも。断片が、脳裏に再生されて。モザイク模様の記憶が、並べ替えられて。

「ぁ―――――シロゥ?」

「―――――――」

 声は掠れて。

 震えている。

 わけがわからなかった、ただ、突然高鳴りだした胸が痛い。体が知っている。私が憶えていなくても、この体が記憶している。近かった、今までで一番、何処かが違った、今は昼間で、血の匂いもなくて。

「……セイバー」

 彼の声も掠れていて。喉が渇いているのだとでも言うように、何かを求めて震えている。ぞくりとした、電気が流れる様に。指先に鈍い痺れが走る。頭の先から爪先まで駆け抜けたそれは、どこか重くてひどく悩ましい。

「…………シロ」

 喉が詰まる、ゆっくりと狭まっていく彼との距離。見つめる瞳はひどく真摯で。倒れかかった私は逃げることも出来ない。くらくらした。耳元で喉元で目の奥で暴れ回る心臓は、限界じみた速度で血を送り出している。白くなりそうだった。息は短くて浅い、そうして、ひどく速くて。彼に吸い込まれやしないかと、気になって仕方がない。

 手を出した、彼の胸に添えるように。押し返すつもりだった、私は、彼に抱かれているわけではない。寄りかかっているだけ。この手で支えれば、それ以上近づきはしないはずで。だって言うのに力が入らなかった。支えるはずのその手はまるで縋るようで力ない。小刻みに震えるのは畏れからなのか。

 それとも、見知らぬ喜びに震えているのか。

「…………ぁ…………ゃ」

 自然と顎が上がった、逃げようとしているのか、離れようとして、結果的に■を差し出している。近くなった。逆に、今更顔を下げた所で余計に近付くだけ。一際胸が鳴った。息をするのも苦しいぐらい。

 何を馬鹿な、と己を嘲笑う。断固たる意思ではね除ければ良い。誰に何をしようとしてるのか、この者に思い知らせてやれば良い。突き放し打ち倒し、身の程を弁えさせればよい。

 瞬時に否定した。誰が、誰を打ち倒すと。

 悪い夢のようだと思った。誰に剣を向けると。そんなのは、迷いのうちですら御免被る。

 考えはいっこうに纏まらなくて。むしろ、白くなって何も考えられない。顔が熱くて、血の流れが痛くて。勝手に細くなっていく視界、滲んでぼやけているのはどうしてだろう。彼の瞳も引き絞られている。何を畏れているのか、それがわからなくて怖い。知らない自分。遮る物もなく、近付いていく。ぎゅっと眼を瞑った。躊躇いなど、何処にも見せずに彼は。私も息を詰めて、最後、の、抵抗、を―――――――











「…………ゃ、シ――――だ、め…………ん、ぅ―――っ――――っ」









 ふれあった、唇が。

 じりじりと焦げる。啄まれるように、ちりちりと甘く痺れて仕方が無くて。

 ぎゅっと眼を瞑った。甘くて、痛い。幾度も体が震える。感じたことのない感覚に、記憶の棚が揺り返される。ああ、ほら。誰かが呼んでいる。

 怖い、と。

 一緒に、と。

 それは何時の記憶で、誰の物だったか。痛みに耐えかねて胸に縋った。いや、痛くは無い、ただ強く痺れている。頭の芯が蕩けるように、ぐらぐらに煮えて。ぎゅっと彼の胸元を掴んだ、爪が立った気もするが、それぐらいで揺るぎはしない。力は入っていなかったようにも思う。掌は痛くて、それ以上に甘く痺れに痺れて震えている。拷問にも似た、優しい快楽。

 抱擁はなかった、ただ支えられている。逃げようと思えば何時でも逃げることが出来て。掌は優しくて、だって言うのに、離れてしまうのが名残惜しくて。ただ、触れあい擦れる唇だけが、今ある全てで。

 それは何かの答えだった気がする。許しであった様な気もする。ただ、私はそれが理解できない。

 彼の言う、かつての私なら、それを理解することが出来るのだろうか―――――――?





「―――――――は…………ぁ」

「―――――――」

 無限の様にも思えた時間が終わる。過ぎてみれば大した時間ではないのだろう。先程クラクションを鳴らした車が、まだ信号に引っかかっている。なれば瞬くほどの時間、どれほど其処に集中していたのかを思い知らされて、恥じらいに頬が熱くなった。

「セイバー」

「シロウ、今の口付けには何の意味もない」

 そうだ、誓いもなく、誇りもなく、ただ貪るような口付け。何の意味も与えられなかったそれは、まるで恋人同士が交わすそれのようで。

 冷たく言ったつもりだった。

 けれど、声は優しく熔けていて。お笑いぐさ。こうして彼の胸に縋らなければ、立っていることも出来ないほどに体が痺れている。小刻みに震えながら、なすすべもなくただ立ちつくしている。この先何をされようと、どうにも抵抗の仕様もないぐらい痺れて。顔を上げられなかった、自分が、どんな顔をしているのかが解らない。血の流れはいよいよ速く、顔そのものが心臓に変わってしまったかのように熱くて。ああ、きっと熟れた林檎のよう。きっと私は今、彼と逢った後の彼女のように―――――――

「―――――――っ!!」

 ざくりと、罪悪感が胸に突き立つ。彼はどうしたのだろうか。彼女はどうしたのだろうか。私の亡き後、結ばれたのならまだしも、そうでなければ、今此処にいる私の何と罪深いことか。

 瞬く間に興奮が冷めていく。

「わた―――――私は、何を…………」

「…………え」

「…………ダメだ、ダメだ、そんなことは許されない」

 突き飛ばすようにして、後ろに下がった。顔を押さえる掌からは、血の気の引いた顔が覗いているだろう。胸が痛い、優しい痺れなどではなく、殺されそうな痛み。償わなければならない事が山積みで。だって言うのに、私は―――――――

「―――――――っ」

「セイバー!?」

 駆けだした、行く当ては無い、ただ、やるせなさに突き動かされている。

「私は、私は―――――――!」

 なんと罪深いことだろう。

 国を滅ぼし、民を滅ぼし、従ったあらゆる者とまつろわぬあらゆる者を滅びに導き。

 安穏と、口付けに酔っている。

 それは、きっと―――――――

 〜To be continued.〜




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