ノイズ。ざあざあと流れる雑音は、間隔すら定まらず耳障りで痛い。切り裂かれた暗雲、黄金の空が一直線に走っている。波はただただ凪いでいて、風すらもおとなしい。いつもと同じ夢ながら、いつもとはまるで違う夢。

 砂浜に座り込んだ。剣が砕けて出来た砂は、まるで骨の成れの果てのよう。よく見れば海も血潮のそれで、此処は彼女の人生の終着点。最後に足を洗うことの出来る、終わりの浜辺なのだろうか。

 ――――――来ない。

 しばらく待ってみたが、彼女は現れない。ただ、切り裂かれた雲の間に煌々と黄金の星が輝いている。これといった理由も無く、二度と夢で会う事がないのだろうと思った。また、逢えると想っていたのに。

 乾いた砂浜を歩き回る。何処まで行ったところで終わりはない、振り向けば、腰掛けていた流木が足下に転がっている。此処に縛り付けられたかのように動けない。だったら、歩き回る意味なんて無い。

 終わりなのか。と、そう呟いて、眼を覚ますことにした――――――







 ――――――愛している。

 愛していると、そう、彼女は最後に言い残した。

 俺の気持ちはとうに伝えてあったから、口に出すまでもない。だから風が吹き抜けた後彼女が消えても、何一つ後悔を残さずに済んだんだ。

 一度目を瞑って、何かを思い出そうとする。目的が見えない記憶の検索は、いつも失敗に終わった。目的がない以上、結果もまたもたらされないのに。

 いつもとは違う夢の幕切れに、眠り足りないような気がして仕方がない。気を抜けば落ちそうになる瞼に活を入れてカレンダーに目をやった。今日は二月の三日、早い話が節分だ。あの戦争から早いもので、もう一年が経つ。吐き出した息に混じる思い出は多い。いろいろあった一年だったが、過ぎてみれば駆け抜けるような日々だった。

 三年生はもうじき卒業試験に入り、最後の忙しい日々を迎える。今朝も今朝とて、のんびりしていられるほどの時間は残されては居ない、時刻は八時を少し過ぎたほど。そろそろ学校へ行かないと、いいかげん遅刻をしてしまうだろう。

 それでも外に出るのが気怠くて。ふと、思いついて居間を出た。

 行く先は土蔵だ。

 忙しい日々の最中にも、彼女のことを忘れはしなかった。毎日のように夢に出る彼女。ただ、いつかのように語り合えることはない。影絵のように瞼の裏に焼き付いて、目を閉じるだけであの時を思い出せる。

 これからしばらく先になると、ますます時間が無くなってしまう。だから、訪れるなら今日来て欲しい。そんな思いつきに苦笑した。そんな奇跡は余りにも過ぎる。あり得ないとは知っているが、それを願わずには居られない。

 どこまでも鮮やかで、俺の心の中に住み着いていった彼女。切り離すことも忘れることも出来そうになかった。幻を見るように、隣に座る影を幾度も追いかけた。自分を笑って、居間に戻る。気合いが入らない。湯飲みにお茶を注ぐと、熱いのを我慢して一気に干した。腹の中に熱いお茶が滑り落ちて、半分眠っていた体が目を覚ましていく。

 出会いは今宵。そうだ、やがてなじみ始めた年月に、あの日々が訪れる。

 神話の再現、いつまでも鮮やかによみがえる情景。だが、今年は争いの気配なく日々は続いている。拍子抜けと言えば拍子抜け、トラウマと言えばその通りだった。窓の外に目を向ける。ランサーが駆け抜けた庭も、セイバーが迎え撃った庭も、今ではその気配を残さない。じくりと痛む腕もなく、刻まれた文様も無い。

 もう一度、カレンダーに目をやった。もうじき、学生生活にも終わりが訪れる。離別は此処に、幾人もの友人と、別れの時が来る。切なさと共にそれを受け入れた。





 鍵をかけるまえに、もう一度土蔵を確かめた。往生際が悪いにも程がある、もしや、と思って袖をめくったところで、体には何の変化もない。もう一度苦く笑って鞄を掴んだ。桜はとうに出ているし、虎も同じ理由から朝は速い。

 さて、俺もそろそろ学校に行きますか。



















「微睡みの終わり」
Presented by dora 2007 02 13
改稿 2007 11 17




















 坂の途中で遠坂の影を見つけた。うちの高校でツインテールは一人だけ、髪を解けばもう少し大人っぽいシルエットになる彼女。鞄を後ろ手に提げて歩いている。彼我にそれ程の距離はなかった、どちらかと言えば、散策するような足取りで。ガードレールの向こう側に目を投げながら、とつとつと歩みを進めている。

「おはよう衛宮くん」

「おう、おはよう遠坂」

 こちらから声をかけようと追いすがって、不意に振り返った彼女と挨拶を交わす。

「よく俺が居るってわかったな」

「貴方が遅いときはこの時間だから、それぐらい憶えているわ」

 他愛もないことを話しながら、空へと続くような坂道を上っていく。世間話と言うには内容がない、挨拶と言うには親密さが深すぎる。何とも表現しがたい会話内容、色気とはほど遠くて。

 ぐっと脚に力を入れる、通い慣れたこの道とも、じきに別れを告げるのだ。緩いと言えるほど緩くはない、どちらかと言えば急勾配。そのうえ、道の先はカーブになっていて景色の連続が無い。それがまるで滑走路の様で、この風景が好きだった。

「ねえ」

「んー?」

 欠伸と共に背伸びを一つ。冬の空気は冷たいが、早咲きの梅はちらほらとその香りを届けてくれている。風を目で追うように空へ、抜けるような青空は、厳しくて遠い。

「衛宮くん、今日が何の日か憶えてる?」

 どこか緊張を孕んだ声で、遠坂は訪ねた。表情は振り向かないと見えないが、きっとポーカーフェイスを意識しすぎて無表情になっているのだろう。そのぐらいは、一年の付き合いで把握していた。

「節分だろ、豆、まかれんなよ」

「む、何よそれ」

 僅かに振り返れば、少しむっとしながらも、胸をなで下ろすような表情を彼女は浮かべている。気取られていないつもりなのか、ほほえましいようで優しさが胸にしみる。顔を正面に戻して、耳に届く微かな気配だけに、意識を定めた。

「そっか。本当に未練はないんだ」

 それは小さく、ほんの小さく呟かれた言葉。

 朝押し込めた感情を、もう一度立て起こす言葉。

 聞こえてるよ、遠坂。そういった言葉は口に出さない方が良い。

 きっと呪いに近い。





「ああ、未練なんて無い。セイバーと出会った日だからどうこうってのは無い」

 気遣いが下手な彼女をからかう事にする。

 忘れるはずがない、こいつが、彼女のことを。だからわざわざ通学路で待ち伏せしていて、こうして俺にかまかけてきたのだ。

 優しさがわかりにくいぞ、遠坂。

「あっ……ち、しまった」

「舌打ちすんなよ遠坂、行儀悪いぞ」

 しくじりましたと言わんばかりのいかにもな顔をして、凛は掌で顔を覆う。そんな彼女をありがたいと思いながら、二人で校門を潜った。付き合ってる、と噂されるのは慣れっこになっていた。










 大学の試験が一通り終わったとは言え、今度は試験前と言うこともあって教室はいつもとは大分違った緊張感でぴりぴりしている。卒業試験という通過儀礼を前にして、緊張しない方が少数派なのだろう。

 流れる雲を見上げながら、士郎はそんなことを考えていた。窓から見える雲の流れが速い、とぎれることなく続くそれに目をやって、アンニュイな心持ちを楽しんでいた。

 状態を楽しめるようになったのが、この一年で一番の変化かも知れない。かつてとは違い、僅かながら己の為に動けるようになっていた。

 いや、それも違うか。

 衛宮士郎は、胸の中の彼女の為に今を楽しんでいる。

「衛宮君、そこ、ちょっと読んでもらえる?」

 かけられた声に意識を戻す。気が付いた時には時計の針も既に半周、横には藤ねぇが来ていた。わざわざ捲って指示されたのと全く違う教科書のページ、上の空だったことを叫び立てている。

 笑顔ではあるが、後ろにはっきりとあふれ出る虎のオーラ。

 うん、微妙に激発寸前だ。テスト前でかりかりしているのは、学生だけではないのだろう。

 椅子を引いて立ち上がると、大真面目に訊ねた。正直全く聞いていなかったせいで、何処まで進んでいるのかがさっぱり掴めない。

「藤村先生、どこでしたか」

「む、らしくない口調なんて使わないの」

「じゃあ藤ねぇ、何処読みゃいいのさ」

「だからって砕けすぎだたわけ!」

 幾言かの言葉遊びの後、士郎は教室の雰囲気を和ませて英文を読み上げた。どちらかと言えば周囲に緊張を強いていた人間とは思えない成長ぶり、裏側には、女の噂が尽きなかった。

 思い出すだけでも四つ、曰く遠坂の愛人、曰く間桐の通い妻、曰く美綴の恋人、曰く金髪の――――――





 “―――――――やっと貴方に逢えた、”





 ばちん。鋭く走った胸の痛みに、そっと目を細める。関係ない。言ってしまえば、今あることとはまるで関係のないことだ。だから思い出すのは後でゆっくりと、鍛錬の合間にでもひたすらに彼女を思えばいい。

 教科書を片手に、英文に目を落とす。僅かな間の後に、流暢な発音が士郎の口から滑り出てきた。

 去年から英語については凛にみっちりと教え込まれていた、おもしろがった大河も、それに輪をかけてスパルタ化した。実際に鞭で叩かれながらの英語教育ってのはどうかと思う。だが、命がけの学習で、士郎は英文を感覚的にならある程度訳せるようにもなっていた。無論、発音にも師匠は厳しい。うっかり六の発音を間違えるだけで真っ赤になって鉄拳が奮われる。

 いったい俺が何をした。あと、擦るの発音は禁止ってどういう意味さ。

「はいOK、じゃあ、ちょっと其処訳してみて」

「ええと――――――春は別れの季節、仲間達と過ごした日々を忘れず、未来へと……飛ぶ、出る……羽ばたく?」

 違和感に、英語の得意な連中が気がつく。教科書を見ながら、遠坂も首をかしげる。気がついていないのは、藤ねぇだけのようだ。

「え、士郎何読んでるの?」

「藤ねぇ、これスペルミスだ。文句言わないと」

 どうしても読めない箇所がある。単語の意味がわからない、前後の文脈を見たところで、かかれている単語の意味は解読不能だ。在る程度の知識が在れば読み解けるはずの教科書で、こんな事は珍しい。

「むむむむ? 本当、先生用のはあってるのに、わかったから、ちょっとこっち読んで」

「ん。――――――未来へと羽ばたく若者達、巣立っていく仲間達を見送りながら、あの日々に思いを馳せる。未練など無い。ただ其処には誓いがある」

 僅かに息をのむ気配、見れば、誓い、とか。未練、とか。どこかで聞いたフレーズが出る度に僅かに身を固くする。どうやら自分よりも遠坂の方が引きずっているようだ。

 心配してくれているのはありがたいんだが、ちょっと過敏に過ぎないか?







 昼になった、弁当箱を持って、しばし思案する。屋上に行くべきか、生徒会室に行くべきか。はたまた――――――いやいや、食堂で食うのはもってのほかだ。肉の味しかない料理に飽きた連中に、あっという間に弁当をからにされてしまう。交換という名の略奪、後に残るのは肉風味の料理のごたまぜのみ。

 自分で作った味には拘りがある、それだけに、正直言ってそんな物は食べたくない。此処はおとなしく――――――遠坂でもさそって、屋上に行くとしよう。

 弁当箱を持って、斜め前の彼女に声をかける。クラスメイトと談笑していた遠坂の肩が跳ねた。

「遠坂、屋上行かないか」

「あ、ゴメン士郎、先約があって」

 だからよ、遠坂。うっかり人を名前で呼び捨てにするのはやめないかっての。

「おーうおうおうおう! ありえねえぞー、その呼び方。オレッチじゃとてもじゃないけど言い切れねー! どういうことだか今日こそきっちり教えて貰おうか!」

「ずいぶんと親しげな呼び方だが、君たちの関係についてそろそろ教えて貰えるとありがたいな」

「あの、衛宮くんもいっしょにいかがですか?」

 ほら来た。

 遠坂の向こう側から、恐らくは彼女の先約とおぼしき一団が現れる。今更しまったなんて顔をしても遅いんだからな、肩を軽くどやしつけて、じっとりと横目で彼女を見た。

 遠坂もそっくり同じ目をしてこちらを見ていた。合掌。

 質問攻めにされながらも、昼食は合同だった。彼女らには悪いが、知的好奇心を満足させてやれるだけのネタは二人にない。色っぽいと言えば色っぽいが、それ以上に濃い絆みたいな物がある。

 ――――――なあ? 戦友。







 何の予感もない道を、夕暮れを眺めながら帰る。何事もない日常だが、いまひとつスパイスがタリナイ。ぼうっと眺める空を、カラスが啼きながら横切っていく。平和で良い、これ以上は望むべくもない。だって言うのに、衛宮士郎には■■■■■が足りない。

 肩に担いだ左手の鞄が、不意に後ろに引っ張られた。重いには重いが、遠坂程ではない。さては、と、当たりを付けて声をかけた。

「イリヤか」

「正解! シロウには、正解のご褒美にこれをあげるね!」

 空の右手に、スーパーのビニール袋を手渡された。はて、なんじゃらほいとばかりに袋を覗き込む。其処には、手軽で簡単、豆まきキットとかかれた袋が三つ入っていた。なるほど、イリヤは確かにこういったイベントが好きかも知れない。

「ライガから聞いたの、今日はセツブンだって、ニホン人は家中にソイ・ビーンズを撒くんでしょう?」

「よし――――――じゃあ晩を済ませたらやろうか」

「やった! じゃあ、シロウが鬼ね!」

 馬鹿馬鹿しい事だが、こんな時にバーサーカーがいれば重宝したかも知れない。なんせあのガタイだ、ちょっと角を突けるだけでリアリティ満点。完璧でパーペキな鬼さんこちら手の鳴る方へ。■■■■■――――――!! どがばしゅぶしゅばああああ。

 あれ――――――えっと。

 うん、どう考えても豆で撃退できる気がしない。







 夕食を終えて、片付けまで済ませて一息つく。

「ね、ね! シロウこれなに?」

 袋を開けて豆を煎っていると、イリヤが包装紙とおぼしき物を持って台所にやってきた。見れば、どうやらそれに描かれている鬼が、そのままお面に成るらしい。

 ガスを止めて、炒り豆を皿に移して冷ます。じっくりと煎られた豆の香りが香ばしい。

「鬼のお面かぁ、懐かしいなあ」

 厚紙に書かれたそれを、点線に沿って切り外してゴムの耳輪を付ける。

「こいつをだな、こうして鬼の役に付けさせるんだ」

「おお……!」

 む、なんだかもの凄く嬉しそう。豆も煎ったし準備完了。お面を付けると顔を輝かせるイリヤに豆の入った升を渡し、廊下の端まで歩いていく。

 さて、イリヤ。覚悟は出来てるんだろうな?

「よし、行くぞイリぎゃあああああああ!」

 星だ! 星が見えたスター! むしろ星が飛んできたスター!

 よーしさんざんに追っかけ回して疲れ果ててシステムダウンするまで追いかけてやるぜ、なんて気合いを入れて振り返ったところで、強烈な先制攻撃にそのままひっくり返った。

「いっ!? 痛ぇ、いてぇぇえええええええええっ!」

 ちょ、今ずびしって、ずびしってあり得ない音がしたぞ! ずびし!

「痛い!?」

 ずびし! そんなことを言ってる矢先にも、強烈な流れ星が飛んでくるでスター!

「ぐあ!」

 痛い。いやまじで、ホントに痛い。分かり易く言うなら、エアガンの誤射に出会してしまったみたいな不意打ち感。なんだこのバイオレンス、平和な風物詩の光景が、突然のサバゲー模様。

「あははははは!」

 笑い事じゃネー!

 何が痛いって豆が痛い。身を起こした其処に、ぎりぎりと引き絞るような音が聞こえてくる。黒いボディに計四本のゴムチューブ。ファルコンUだっけか? あのスリングショット。

「きゃー! シロウのロリコーン! ヘンターイ!」

 楽しげな黄色い声とは裏腹に、こっちが上げられるのは苦痛の叫びだけだった。ずびし、ずびし! と、ちょっとあり得ない音を立てて豆がお面を貫通して肌に食い込む。はずれた豆はぱきゅんぱきゅんと跳弾し、うっかりそれた弾……豆はガラスに食い込んで罅を入れる。

 ぬおお、平和だったはずの我が家が本土決戦時のごとき有様に!?

「痛! ちょ、イリヤ! 痛い! マジで痛い! ストップストップストーップ!!」

 畜生、このまま蜂の巣にされていてはなんにもならん、転がっていてはやられるだけだ。がばっと豆を避けるように跳ね起きると、イリヤの手からスリングショットを奪い取った。顔がじんじんと痛む、当たった箇所は露骨に赤く色が変わっていて。くそ、こんなもの何発も顔に食らったら、質の悪い病気にかかったみたいでみっともなくて仕方がない。

 幸いイリヤの腕力はそれ程強くない。これが遠坂やら桜辺りにやられた日には、額が割れて流血の惨事になりかねない。ヘイカモンアーチャー、狙撃だったらお手の物よって。

 特に桜はヤバイ。女だてらに22kgの強弓引きだ。そんな腕で引かれたゴム何ぞ、想像するだけで血が流れそう。

「えー、どうしたのシロウ。だらしなーい」

「いいから! スリングショットで人撃つの禁止! こんな物でやったら襖も障子も穴だらけになっちまう」

 むしろガラスとか銃撃戦の後みたいになってる。うおお、入射と出射で穴の大きさが本当に違うぜ…………!

「え、え? だってセラがこれが正式ですって言ってたのよ?」

 途端。

「――――――ふ」

 背後に、先程までは感じなかった気配を見つけた。

 そうかいあんたの仕業かクソッタレ。余程俺のことが嫌いらしいなぁ。

「…………セラ、嘘を教えないように」

「おや、間違っておりましたか。私どもが得た知識に間違いがあったのですね。今後この間違いはありませんので、どうか今回はお許し頂きますよう」

「……それはつまり、豆まき以外ならまたあるかも知れない、と言いたいわけだ」

「そうで御座いますねエミヤ様。何分、この国の風習は我が国の物とはあまりにも違うもので」

 慇懃に頭を下げると、やはりニヤリと口の端を持ち上げる。

 悪人じゃないんだけど、悪人じゃないんだけどこの人は苦手だ。ううむ、無条件で嫌がらせをされるこの辛さを、誰かわかってくれないものか。

「…………無理だな」

 一人いるには居るが、妹分に甘えるなんてかっこわるくて示しがつかない。







   ばたばたとイリヤに追いかけられながら、家中を豆塗れにして駆け回る。

「鬼はー外!」

「福はー内!」

「あははははは! シロウかっこわるーい!」

 うむ、如何に無様に逃げ回るかがコツだと切嗣が言っていたのを思い出す。何でも子供をあやすのには、相手の年齢に合わせてばかになるのが一番だとか。

 む、でもそうすると彼女は俺よりも年上な訳で、それに合わせるとなると今こうしているのはいささか幼時退行が過ぎるんじゃないのかとかなんとかかんとか考えていると。

「鬼は――――――」

「?――――――イリヤ?」

 不意に、イリヤの追撃が消える。振り向けば其処には、緊張の面持ちを湛えた彼女の姿があった。まるで、何時かの夜に見たような――――――

 ――――――しくり、と。  

 無いはずの傷口が、疼く。

 じくり、じくり。左手が――――――

 はっとして、目を落とした。だが、其処には何かがあるわけでもない。

 だが、変わった。屋敷を包む空気が、確かに色を変えた。敵対者に備えるわけでもなく、ただ、緊張しているというのが正しいだろうか。

 りんと世界が張り詰める。

「誰、こんな魔術師、フユキには居なかったのに――――――」

 呆然としたイリヤの言葉。其処に含まれてる単語に緊張する。

「魔術師―――?」

 それと関係の在ることなのか、いやに大気が濃いと、魔術回路が告げている。濃密とも言えるそれは溺れそうになるほどで、普段が1なら今は15と言った所か。まるで神秘そのものの風。世界の裏側から、じっとりとにじみ出すように。

 不意に響いたインターホンに、体が跳ねた。

「シロウ、気をつけてね」

「ああ、イリヤはちょっと中に入っていた方が良い」

「うん、心配してくれてありがとう、お兄ちゃん」

 微笑みを一つ残して、イリヤは奥へと身を潜める。その去り際に――――

「――――――意外と早かったんだ」

 ――――そう呟かれた声が気になった。







 遠坂に連絡を取るべきだろうか。だが、親父の知り合いではないとも言い切れない。焼けるような焦燥に身をやつしながら、玄関へと向かう。先程こぼしたイリヤの呟き、ひょっとしたら、アインツベルンの魔術師かも知れない。そうなると、俺一人では彼女を守り抜けそうにない。セラにすら、魔術では大きく引き離されているのだ、腕力をとってもリズにはちっとも敵わない。軽率だったか、とも思ったが、今更援軍を要請したところで、早くとも十分はかかるだろう。千回死んでもおつりが来るだけの時間だった。

 ――――――ためらいがちに。

 いつでも動けるようにしながら、引き戸を開けた。







 其処にいたのは、フードを目深にかぶった一人の老人だった。否、一概に老人とは言えない。特徴は、長いひげで、胸よりも下まで伸びて、所々にまだ黒い物が混じっているそれ。フードで眉の見えない目は、若々しい光を湛えている。此方の警戒をほぐすような、穏やかな微笑み。まるで見覚えのない顔に、途惑いながらも問いかける。

「えっと、どちら様でしょうか」

 男は答えない。

 ただ、よっこいせ、と、小さなかけ声をだして、背に負った荷物を両手に移した。

「――――――エミヤシロウ、だったな。此奴を頼む」

 それだけ言うと、老人は背負っていた荷物を押しつけた。

 受け取った瞬間、掌から脳髄まで電流が走り抜けた。自然と鼓動が早くなってきて恥ずかしい。まるで男からプレゼントを受け取って喜んでいるかのよう。

 荷物は、重心が定まらなくて重たい。支えにくくてよろめくほどの力のなさ。何処を支えたらいいのか解らないせいで、幾度か取り落としそうになる。

 その重さには憶えがあった。

 早い話が、鉄板にくるまれた人。何時かの夜に抱いたような重さが袋に詰められている。

「あんた、コレ――――――」

 息をのんだ。目を離したのは僅かな間、ほんの僅かな時間に老人は姿を消した。抱えたまま道に出てみるが、左右のどちらにも人影はない。ただ、僅かに魔術の痕跡が空気中に淀んでいた。

 笑おうとして、失敗した。予感があった、希望と言っても言い。何故か開けるまでもなくそれが彼女だと思った。他に考えられる事はいくらでもあるのに。

 はやる気持ちを抑えて、ずだ袋の口を開く。中から覗いたそれを見て――――――

「嘘だ」

 ――――――と。ゆっくりと、膝から崩れ落ちた。

 絶望と怒りで涙がこぼれて仕方がなかった。むやみやたらと泣けてきて、涙で視界がにじんで前が見えない。

 中から出てきたのは、血と泥にまみれた一人の騎士だった。知っている彼女ではない、だが、間違いなくセイバーその人で。死体にしか見えなかった。血と泥にまみれて、金砂の髪をよごして。

 血の気の引いた顔には、幾つもの細かい傷がある。それを、赤黒い血が汚している。

 何度も夢に見た、彼女の終わりの時。その、最後の姿のままで彼女は腕の中に横たわっていた。

「――――――どうして、どうして……」

 声にならなかった、言葉にするのはもっと難しくて泣いた。震える手で、彼女を抱きしめる。血に汚れた甲冑は冷たく――――――だが確かに彼女のぬくもりを伝えてくれた。

 弾かれたように身を起こす。急いで口元に手を当てた、確かに、呼吸している。苦しげにひそめられた眉は、急がなければ危ないことを示していた。

 自分ではどうにも出来ない。今彼女を助けることが出来そうなのは、イリヤと遠坂ぐらいなものだ。

「イリヤ、イリヤ!」

「シロウ!?」

 ぱたぱたと駆けてくる足音、視界に入った瞬間の何とも言い難い表情、すぐさま駆け寄って、傷の具合を覗き込む。みるみると血の気が引いていく。できるか、と、問えば、ワタシには、と返された。

「セラは……!?」

「ん、貧血起こして倒れた、力になれそうにないってゴメンねシロウ」

「――――――っ」

 申し訳なさそうなリズに礼を言って、セイバーを担ぎ上げる。だったら頼れる奴なんて一人しか居無くって。こんな時にはもっとも頼りがいがある奴で。

「イリヤ、後頼んだ!――――――同調開始」

 家の中に向けて、一度大きく叫ぶ。ためらいはなかった。俺に出来ることは走ることだけ。抱き上げた腕に、走り出す脚に魔力を籠める。

 助ける。

 彼女を助ける。

 遠坂だったら――――――セイバーを助けられる。

 重さなどもう感じない、衛宮士郎が一陣の風になって夜の街を走る。

「お前に何度も助けられた」

 走りながら顔を見下ろす、苦しげな息を胸に刻み込む。

 ――――――こんどは俺が、セイバーを助ける番だ。

 〜To be continued.〜




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