セイバーライオンの様子がおかしい、と、セイバーが気付いたのは夕食の時だった。
「……?」
「……」
きちんと、ちんまりと正座し、ご飯を一生懸命に食べる姿。一見するだけならば、別段変わっているところなど、何も無い。
セイバーも、最初は勘違いか、と、そう思った。本当に小さな変化だから、きっと気のせいだろう――と。
しかし、食事が進むにつれ、違和感は大きくなる。彼女が来てから、ほとんど姉妹のように、長い時間を共に過ごしたからこそ気付く、ほんの小さな仕草、目の様子。
――どこか、せわしない、というのだろうか。
セイバーは首を傾げたが、しかし、理由も思い当たらない。今日は雨だったから、走り回って元気に過ごすというわけにはいかなかったし、落ち着かないのかもしれない――あるいは、そんなところだろうか。
それとも、他の何か――、
「がおっ!」
――と、そんな思考は、セイバーライオンの声に遮られた。
「おや、もうごちそうさまですか?」
「お、今日は早いんだな。デザートはどうする?」
「がうっ!」
「ん。じゃ、みんな食べ終わるまでもうちょっと待っててな」
おかずも副菜も、そしてご飯粒ひとつも残さない、綺麗なセイバーライオンの食後。それはいつものことだが、しかし、士郎の言うとおりでもある。
「もう」終わり、なのか。ご飯はたったの二杯。更に、おかずは最初更に盛られた分だけ、である。いつもならば、ごはんもおかずも、もっと「おかわり」を要求してもいいはずなのに。
「セイバーライオン……」
「がお?」
しかし、セイバーに向けて来るつぶらな瞳に、変調を感じさせる色は全くなくなっていた。そこにいるのは、いつもの彼女に他ならない。それに、「自分の顔」を見ているのだ。もしまだ「何かおかしい」のならば、その兆候に気付かない筈はない。
ならば、何の心配も無いのかもしれない。たまたま、セイバーがそう感じてしまっただけで。ごはんも、今日は少し控えめにしようと思っただけ――と、いうことなのだろう。
「……」
――本当に、そう?
確固たる答えを、出すことは出来ない。胸に残る小さな疑問、本当に些細なことなのに、それが心に、ほんの少し暗い影を落としている。
……後で、しっかり聞いてみないと。
もし、心配や不安があるのならば。妹同然の彼女、その相談に乗ってあげるのは、姉であるセイバーの役目に違いないのだから。
「美味しかったか?」
「がう、がおっ!」
「お、好評で何より。ありがとな」
「がおーん!」
食後のデザートは、メロンソーダ風味のゼリーにアイスクリームを添えて。レシピは、新聞の生活欄から。シンプルでお手軽な一品だが、家人には好評を以て迎え入れられた。
食事は早めに切り上げたセイバーライオンも、デザートはやはり別腹らしい。瞳を輝かせながら食べる姿には、見る者全てを和ませる可愛らしさがあった。
――しかし、――
「材料まだあるし、また作るからな」
「がおっ!」
「おう、まかせとけー」
やはり、杞憂だったのだろうか? セイバーライオンの様子を見て、セイバーはそうも考える。些細なことに気を取られていたのは、何故か――いつかの自分と、姿を重ねてしまったからだろうか。
「ごちそうさまっ! んー、材料シンプルにしてはグッド、かな」
「ほっとけ! じゃ、片付けるぞー」
「私も、手伝いましょう」
大河が食べ終わり、全員分の皿が空く。食事の後片付けまでが台所仕事。食事当番の士郎とセイバーが立ち上がり、食後の皿を台所へと下げた。
「……で、何かあったのか? セイバー」
「え、……」
唐突に、士郎がセイバーに問いかける。腕をまくり、洗い桶に水を張り、皿洗いに入っていたセイバーは、驚いて彼のほうへと顔を向けた。
「気にしてただろ? セイバーライオンのこと……」
「わ、分かったのですか?」
「うん。多分、だったけどね」
「……いえ、気のせいだった、と、思います」
「そっか」
「ええ、……」
……それもまた、「多分」。むしろ「そう思いたい」というところだろうか。もちろん、杞憂だったという可能性のほうが大きい、と、セイバーは思う。それでも、一抹の不安は隠せそうもない。
「まな板、と……あ、消毒しなきゃな」
士郎はまな板を洗おうとして、手を止めた。時折、熱湯で消毒するのが衛生的なのだ。彼は手を拭くと、やかんに水を入れ、お湯を沸かしにかかる。
そのとき、セイバーは、本当に何気なく、無意識のうちに、居間に眼を向けていた。
それは、彼女の直感が為せる業、だったか。
(あ、……)
セイバーの眼に、その時映った光景。
彼女は、心が、急に冷たくなったのを感じた。
他の家人は、テレビを見たり、読書をしたりで、そのことに気付いている者は居ない。士郎もまた、コンロのほうを向いているから、視界に入っているはずがなかった。
「セイバー、ライオン……」
誰も――セイバー以外は誰も、その光景を見ていなかった。
すっ、と、静かに――。
彼女は、誰も見ていない、と、そう確信したかのように立ち上がり、静かに、庭に通じる廊下へと出て行ったのだ。
「……!」
しかし、セイバーは、それを見ていた。
それでも、何故か、身体が動いてくれない。
結局、セイバーライオンが廊下に出て、扉を閉めるまで――まるで、金縛りにあったように、セイバーは台所で立ち尽くしていた。
ぱたん、と。扉が閉まった音と同時に、セイバーも我に返る。
(私は、何を……!)
追わなくては、いけない。
追わないと。
もしかしたら、彼女は――
「……っ!」
「セイバー?」
士郎の問いかけにも答えず、セイバーは廊下に飛び出す。
嫌な予感は、大きくなるばかりだ。
自分が、かつて、一度そうなってしまったように。
もしかしたら、彼女も――
――この、地から――
「セイバーライオン!」
「!」
昼間、あれほど強く降り、止みそうもないと思っていた雨は、既に上がっていた。
ただ、それも一時的なものだろう。風が強く、必然、雲の動きもとても早い。恐らく、また十分もすれば降り出すはず。
しかし、今は雲間から月さえ覗いている。
雲が分厚いせいか、星明りが無いせいか。月の光は、いつもの晩よりも明るく感じられた。
その月光に照らされた、雨でぬかるんだ庭の真ん中。
セイバーライオンは、そこで、天を見上げていたのだった。
「……」
「……裸足で出ては、泥がついてしまいますよ」
突っかけを履き、セイバーも庭に出る。
まだ、彼女は居てくれた。そのことが、セイバーの中に安堵を生んでいた。
しかし、同時に。
「セイバーライオンが、そこに佇んでいる理由」を、考えてしまう。
「今から、お風呂に入りますか? 今日は少し肌寒いですし、温まって……」
「がお」
「……!」
セイバーライオンは、左手を上げ、セイバーのほうに向けた。
それは、――来ないで欲しい、という意思表示に他ならない。
「セイバー、ライオン……?」
「がうう……」
セイバーに向けた表情は、どこか悲しげだった。
快活な彼女には似つかわしくない、湿っぽいもの。
そして、それが何を意味するのか。
――安堵したのは、ほんの一瞬だけ。
その表情から、セイバーは、彼女が何を言おうとしているのか、理解してしまった。
いつもなら、明るく応じ、そのまま部屋に戻って、一緒に風呂に入ってくれるだろう。
しかし、彼女は「来るな」という。
誰にも気付かれないよう、こっそりと部屋を出て。
……そんな、哀しそうな表情で、ひとりで、ここに立っていた。
「……行って、しまうのですか?」
「……がお」
きっと、心配をかけたくなかったのだろう。
そう、セイバーは思った。
やんちゃで、獅子の心を持つ少女。しかし、その心根は優しく、皆を気遣うことも出来るのだ。
だから、ひとりで。ここに来た時と同じように、ひとりで帰れば――
「……どうしても、ですか?」
「がぅ……」
視線を少し伏せて、セイバーライオンはうなずく。
嘘がつけるような子ではない。
ならば、彼女の言うとおり、帰らなくてはならない事情があるはずだ。
「……」
「がお、がう、……がおー」
「……ふふっ。そうですか。貴女も、ここが気に入ったのですね」
「がお!」
「ええ、シロウも、皆も優しい人ばかりです。とても、居心地が良い……」
「がう」
「貴女がそう言ってくれたこと、皆が喜ぶでしょう。
そして……きっと、寂しがります」
「がお?」
首を傾げ、どういうことだろう、という表情を浮かべるセイバーライオン。
セイバーはそんな彼女に歩み寄り、顔を近付ける。
姉が、妹に、そっと諭すように。
「――分かりませんか? 貴女はもう、この家の一員なんですよ」
「……」
「ですから――、……!?」
……その続きは、遮られてしまった。
セイバーには、まだ、伝えることがあったのに。
セイバーライオンの体が、光に……月明かりではなく、文字通り「輝き」に包まれ始めていたのだ。
「セイバーライオン……!」
「……がお、がおーん!」
「……!」
……伝えないといけない、一番大切なことが、まだ残っている。
それなのに。もう、時間は、それを許してはくれないらしい。
「……っ」
セイバーライオンが、光に包まれていく。
眩しさで、セイバーは思わず眼を瞑ってしまった。
「――、……」
次に眼を開いたときには、もう、セイバーライオンの姿は、どこにも見当たらなかった。
月も、再び伸びてきた雲に覆われつつある。
「……急、過ぎますよ」
そんな夜空を見上げて、セイバーは呟いた。
最後、言ってあげたいことがあったのに。
あんなに急いで行ってしまうなんて、水臭いではないか。
「……まあ。彼女らしい、とも言えますけど」
頬の辺りを、人差し指で撫でる。
思えば、本当に突然現れて――皆の輪に溶け込んで――そしてまた、突然、帰ってしまった。
どこから来たのか? 一体、誰だったのか?
結局、何も分からなかった。
そこに居るのが当たり前になって、聞くことも忘れていた。
「……また、……」
だから、彼女がどこに行ったのかも、分からない。
けど、もし――
「セイバー」
「!」
母屋のほうから、彼女を呼ぶ声が聞こえた。
愛しい人。セイバーライオンも懐いていた、彼の声。
「どうしたんだ? そんなところで。セイバーライオンも居なくて……、……」
士郎はそこで、言葉を切る。セイバーライオンが居間から消え、そして、セイバーがここに立っている。
それで、何か察するところがあったのだろう。
「……行っちまった、のか」
「……ええ」
「……そっか。……急だな、本当」
「私も、そう思います」
くすり、と微笑み、セイバーも同意する。
しかし、その次の士郎の言葉に、彼女は少しだけ気色ばむことになった。
「そんなところまで似てた……ってことか」
「む……どういうことですか、それは」
「はは……想像に任せるよ」
「訂正を要求します。私はもう、シロウのところを去る気は無いのですから」
「……ん」
しかし、無理も無い。
光のように去ってしまったのは――自分もまた、同じだったのだから。
だから、彼女も……
「戻ろうか。また降りそうだしな」
「……ええ」
セイバーは水溜りを避けながら、再び母屋へと帰っていく。
月は、もう隠れてしまった。
彼女もまた、一瞬だけ姿を見せた月のように……帰って行ってしまったのだ。
サンダルを脱いで、廊下に上がる前。
彼女はもう一度庭を向き、別れた場所に視線をやる。
そして、一言。
「……また、どこかで」
彼女に聞こえてくれればいいのだけど、と。
思いながら、そっと呟いていた。
つづく
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