弓道、ということについて、セイバーはあまり知らない。そもそも、「武=業」という意識が専らの地で生涯を過ごしていた彼女にとっては、武“道”という考えにも縁遠いものがある。茶道、華道は分からないでもないのだが、剣道、弓道となると中々理解が及ばない。もちろんのこと、彼女が泰平の世に生を受けなかったことも一因であろう。武技はただ戦い、護り、生きるためだけのものだったのだから。

 しかし、そんな武技が精神の領域に根ざし、そして、精神により昇華される。
 ……さて。
 その辺りについて調べてみようと、彼女は日中、新都にある行きつけの本屋に出かけていた。




「……ふむ、興味深い」

 手始めに、と、とある本に目をつけた。外国人から見た弓道について書いた本だ。

 セイバーは自分について省察することを欠かさない。彼女自身、いきなり日本特有の考えを摂取できるとは考えず、まずは自らと同じ異邦人の目から見たものを選んだ。厚さも薄めだし、これならばそう時間をかけることなく読めるだろう、と。彼女はその本を手に取り、レジに持っていった。

 定価約500円。セイバー愛用・獅子のガマ口には常時最低2000〜3000円が用意されている。彼女もかつて戦場に過ごした者、常日頃、緊急時のことは忘れない。路銀は大切なのだ。腰兵糧と同じくらいに。
 もっとも、かつてその生涯を通じ、彼女がそれら――つまり、究極最終手段の御世話になるような下手は決して打たなかったのだが――現代という時代では別であり、ある意味若干恐ろしい。○○円になりますー、と言われた後に赤面したこともあるし、散歩中に空腹を覚えてやるせなくなったことも、ある。少なくとも2000円あれば多少の買い物なら耐えられるし、某有名ナッツ入りキャラメルチョコレートひとつあれば空腹もしのげることも、彼女は実地体験からしっかり学んでいた。

「……あ、袋は結構ですので」
「ありがとうございます。それでは品物です」

 それら、彼女にとっては些か不名誉な諸々を一瞬思い出しつつ、しかししっかり環境配慮。古代考えも及ばなかった星の危機にも、彼女の見聞は及びつつある。現代に生きる彼女が、少しずつ前進している証でもある。

 今回のこれも、新たな知見。新たな知に触れる楽しみを胸にしまいつつ、セイバーは午後のひと時を過ごしていた。



 ……ただ。ものを識る、ということは、多面性を持つ。
 それがもたらす事柄が本人にとってどのようなものか、それはまだ分からない。







「セイバーさん、カレー粉お願いしまーす」
「了解です。……ほう、今日は夏野菜を用いるのですね」
「ええ。今が旬ですからねー」

 愛らしいエプロン姿がふたつ。居間ではイリヤがテレビをつけているが、こちらは通常の料理には関心をあまり示さない。お菓子作り、などとなればそこそこ乗ってくるのだが、やはりその辺りはお姫様と言ったところだろう。

 桜はオクラをさっさと刻み、下ごしらえを整えていく。セイバーもセイバーで、福神漬を用意したり、ゆで卵にチャレンジしたりとせっせと台所業務にチャレンジしている。

「あ、時々お箸で卵を転がすといいですよ。黄身が偏らなくなるんです」
「なるほど」

 菜箸を持ちつつ卵を器用に回転させる。まだまだレパートリーは少ないが、ゆで卵は万能の一品である。お盆に少量の塩、ゆで卵一個、そして少し形が歪なおにぎり。あと、多大なる愛情。この辺りが、士郎の直近夜食事情である。勿論のこと、持っていく度に士郎が喜んでくれるのは言うまでも無く、セイバーに次のメニューへの意欲を掻き立てている。



 ただ、まだ卵焼きは巧く巻けないのだが。



 他愛ない会話を交わしつつ、鍋に火がかけられる。普通の少女同士。彼女達の素がそんなところにあることを、今の光景はよくあらわしている。学校のことや、買い物のこと。あるいはテレビで流れるニュースについて。

 そんな中。セイバーは、とあることを聞いていた。

「そういえば、士郎はどうでしたか。今日から復帰したのでしょう?」

 後でシロウに聞けばいい、と彼女は思っていたのだが、第三者の話を聞くのもいいか、と思い直し、質問をしてみたのである。彼女自身士郎を信じてはいるのだが、やはり多少心配でもある。まして、相手は強がりでは恐らく世界最強レベルの少年。ここは一つ、客観的な意見も取り入れよう、ということであった。

「そうですね。久しぶりでしたけど、上手に指導してらっしゃいましたよ」
「ほう」

 上の感想は桜が部活時間の殆ど全部を用いて導いた結論である。セイバーも桜の見る目を信用しているので、まずは一安心。彼女はカレールーを割り入れつつ、話を先に進める。

「それは良い。やはり道場には弓道着で?」
「ええ。とてもお似合いで……ですね、……凛々しくて……ですね、……」

 頬を染めつつはしゃぐ桜。こうなると彼女は自分の感情を隠せない性質らしく、おたまを持ちながらセルフ妄想に突入している。

「なるほど。…………む…………見てみたいものです。ところで、弓は引かれたのでしょうか」

 む、の一言に羨ましさを全て籠めつつ、そしてどうやったらこっそりでも見に行けるか熟考しつつ、更に聞く。今日はカレーということもあり、夕食開始……つまりは、大河が帰ってくる時刻までに余裕が出来そうだった。その間、彼女は昼間購入した本を読もう、と考えていたのである。その際、彼の射姿を聞いておくのは有益だろう、と彼女は考えている。

「いえ、まだ弓は、部活では……。今頃多分、居残りで練習されてると思いますよ。美綴先輩も……そう、先輩と一緒に練習しておられましたね……」

 桜色の妄想から一転、マイナスパワーを発揮する桜。びく、と、セイバーが無意識に怖れを感じるほどのソレには、居間に居たイリヤですら振り返る。ここは、深入り禁物――――。一瞬だけ目が合ったイリヤと絶妙なアイコンタクトを交わし、セイバーは矢継ぎ早に質問を繰り返した。

 大河はどうだったか、とか。
 どんなことを教えているのか、とか。

 そして。



 部で流れている、士郎の腕前の噂、とか。



「そうですねー。現代の養由基!なんて言われてたんですよ」
「よう……ゆうき、ですか?」
「ええ。中国の武将で、弓の名人です。百発百中の語源でもあるんですよ」



 百発百中。
 つまり、決して的を外さない、ということ。



 それは、つまり―――――



 カレーのいい匂いが台所を満たしていく。
 セイバーが、その四字熟語に何か引っ掛かりを感じたとほぼ同時、桜の出した声で、セイバーの思考は中断した。

「あ、そろそろ御飯炊けますよね。じゃあ、お味噌汁も用意しないと」
「え、ああ、そうですね。それでは、味噌を……」



 何が引っ掛かったのかは分からない。取り敢えず、桜の手伝いを。また、このことは休憩中にでも考えればいいだろう、と、セイバーは考えた。



 ――――どこかに、不可解な想いを抱えながら。    









「……さて」

 御飯の用意も終了。大河が帰って夕餉が始まるであろう時間まであと半時間はある。セイバーは休憩がてら自室に戻り、先刻買った本を取り出していた。

「弓」について、少し彼女は考察する。セイバーの後の時代だが、イギリスと言えば長弓隊――いわゆるロングボウ――やロビンフッド、あるいは征服王ウィリアムで有名な、謂わば弓大国と言っていい観を呈する国である。彼女の時代は騎士道が残ってはいたが、しかし、やはり剛力の弓取りが率いる弓隊は、特に籠城で最大限に力を発揮した。ロングボウのはしりも存在したし、一流の武将である彼女も当然、弓の扱いには習熟している。そもそも、騎士のたしなみたる狩りを行うのに、弓が引けなければ話にもならない。

 ただ、それを精神面で見たか、というと彼女は否やと答えざるを得ない。長距離を狙うのには筋力を。短距離で狙うには技術を。あるいは「当てる」ことには集中力が必要で、それを精神の問題ということも出来なくは無いが、それはあくまで心がけ程度のことに過ぎない。

 それが、「道」であるという。単に当てる、というのではない。「たり矢」のみではなく。精神的な到達点を求めるものなのだ、と。

「…………」

 以上が、セイバーの前提知識であった。それを踏まえつつ、彼女は頁をめくる。

 選んだ本は日本の武道を外から見た人間の作。しかも海外での講演を文章にしたものだったので、その解説も平易だった。どれほどの内容か、と身構えていたセイバーにも、その内容は意外なほどよく理解できる。



 的が相手ではなく、飽くまで敵は自分自身である。

「不動の中心」たることが弓道の深奥である。

 弓と矢は目的に到る道であり、目的そのものではない。

 腕の力で引くのではなく、心で引くもの。



 奥が深い。馬を駆り、短弓で獲物を狩っているような段階では到底出てきえない発想。文化の違い……そう、禅や仏教などという要素も、そこに深く根ざしている。セイバーは新たな考えに触れた喜びも手伝い、読む速度を加速させる。





 ―――――――と。





「―――――――え」

 セイバーの、頁を繰る手が、止まる。
 普通なら、そんなものか――と、その程度の感慨しか抱かないだろう、ひとつの事柄。





 だが。
 少なくとも。彼を、衛宮士郎を知る者にとって、それは。





 ―――――――いつか、言っていた。
           桜は、士郎の弓は百発百中であった、と。
           大河も、それはもう、怖いくらいの・・・・・・的中率であった、と。





 それが何を示すのか。
 弓の深奥にある境地。
 本来「達人」と呼ばれる者だけが到れる其処に、彼は、あれだけの若さで到達してしまっている。



「………………」



 弓を放つ時の、究極の境地。









 忘我。
 無心。










 ―――――つまりは、“無”。









 弓を射ることは、「射る」のでは無い。矢がひとりでに放たれ、当たる。それは既に、射る前から決まっている、事実。
 その境地に到るには、徹頭徹尾、自分が無くならなくては、ならない。
 そして、矢が描く軌道は、――――そうなるべき所・・・・・・・に、何の作為も無く、到る。
 乱れることもない、終着への道。





   それが、誰の在り方に似ているのか。

   ―――――いや、同じなのか。





「衛宮士郎は、的を外さない」。
「衛宮士郎には、自分が、無い」。





 ―――――彼が到る先は、どのようなものか。
         それが、避けえぬ終着だとすれば―――――





「…………シ、ロウ」

 動悸が激しい。襲うのは烈しい不安。痛いほどわかって、だから彼を側で支えていたくて、それでも尚、直視すれば心が震える。
 底なしの沼、いや、極寒の、黒の深海。彼の「無」は、彼女にそんなイメージを抱かせる。

 あんなに、あたたかいのに。
 側で抱かれていれば、彼を感じられて、触れられるのに。



 彼が負ってしまったもの。
 彼が、捧げてしまったもの。





 そして、そんな彼が、行き着く先。





 ……思わず、本を伏せた。
 彼の業は、あるいは、――――――



 暗い何かを示唆しているのかもしれない、と。
 深く、澱んだ不安が、彼女を捕らえて放さなかった。



 ……to be continued.



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