勿論のこと、二人以外誰も居ないので、静かなのは当然である。


 だが、そういう状態とは異質な静けさ。場の空気が張り詰め、息を呑み、誰もが身じろぎをためらうような瞬間。
 衛宮士郎が弓を持つ時。少なくとも綾子は、そう感じる。

 初めて見たときの感覚は今でも鮮明だ。ただ、すごいと思った。彼女とて弓は初心である。だが、同時に入ったヤツが、そんな域に既に行ってしまっている。

 何か、悔しいとも。如何なんだ一体。この差。何か、何時までも追い続けなきゃいけないような感覚は。


 同時に、感じた。
 怖気を。冷たさを。怜悧な矢の軌道、合理的で、幾何学的で、美しいはずのそれを、恐ろしく感じる。
 何故、そこまで中てることが出来るのだろう、と。それが掴めない。完璧の裏にあるものが、彼女には分からない。


 そんな背中を、追っていた気がする。分からないから、考えたし、悩みもした。
 突然後姿は見えなくなってしまったけど、だけど、在りし日の影を覚えていた。必死に追いつこうと努力して、いつか、気づいたコトがある。



 それじゃ、越えられないんだな、って。



 だから、磨き方を変えた。弓とは何か、それを見極めようと、ひとつ矢を射るごとに省みる。だが、省みられる・・・・・ようではいけない。アイツの射はそんなものでは無い。反省の余地など、在っていいはずが無い。ただ放たれ、中る。練習を終えるたび、まだまだ及ばないなあ、と、かぶりを振って思い知りつつ。


 だけど、そうやって。
 士郎を追っていた時が、どれほど楽しかったことか。
 間近に居てくれれば、それは、もっと――――――






 風が、綾子の側を流れていく。

 肌から感じる季節は、夏。ただ、不快ではない。日が落ちて尚、高めの気温を、空気の流れが少しでも和らげてくれている。
 それがある瞬間、収まる。零になった、と感じた所で、弦が弾けた。
 風に干渉されることなく、矢は明確な軌道を描いて的に吸い寄せられる。
 全く、絵にでも残しておきたいくらい。そんな矢の通り道。誰だ、2年のブランクが心配だなんて言ってたヤツは……と。綾子は後ろからそんなことを考えていた。半分は愚痴。半分は、どこか、何かを誤魔化して。

 士郎は、感触を確かめるように弓を持ち直す。表情は変わらない。というよりも、弓を持って以降ずっと同じ面構えである。
 ――成程、アタシはまだまだ甘い、と、素直に彼女は認めている。彼女とて射た後に喜びをあらわすようなことはしない。が、憂いを未だ隠しおおせない面は、否めない。
 まだ遠い。何で近づけない――と。そう感じることさえ無益だというのに。彼女には、まだそれを消すことは出来ていなかった。


 越える、追いつく対象が間違っていたのだろう。聡明な彼女は、それに気づいている。
 越えるべきは自分。自分を越えるということは、――さて、どういうことだろう。


 だからこそ、さっさと士郎を部活に戻したかったというのも、あった。決着をつけるとは、つまり、あの日々、彼がそこまで完璧だったのは何故かを知り、そして、理解すること。
 自分を越える。克つべきは常に、自分である。美綴綾子にとって――――殊、弓の道に於いて、それは、「衛宮士郎を識ること」、に転化する。
 その時、はじめて己は、その境地を垣間見る。
 そして、彼女は士郎に並び、あるいは越えることになるだろう。


 とはいえ。
 それ自体、中々難行であるようだ。




「――――うん」

 弓を下ろし、初めて士郎が口を開いた。射モードはどうやらお仕舞いにしたらしい。表情に目を移せば、怖ろしいほど違う。……いや、誰だお前。ホント、同一人物か?

「お見事」
「……中たりは、する」

 不満なのか、頭を掻く少年。……いや待て。今のどこにどう不満があるというのだろうか、コイツは――と、綾子は心中穏やかでない。その、色々な意味で。

「納得行かない、と」
「――風がな。ちょっと、気になった」

 ああ、成る程。風が止んだ時に放ったのではなく、止まないと放てなかったのか。
 ――いや、冗談。綾子は内心で舌を出す。ちょっとやそこらの風速で、士郎の矢が外れることはあり得ない。つまり、「的を外す外さない」を、士郎は問題にしていない。彼にとっての弓は、そんな次元のものではないのだろう。

「でも、その程度、か」
「はは……まあ」

 綾子には、驚いている自分が確かに居た。

 それは彼の精確さに、ではない。そんなことは分かりきっていることだ。2年越しでこの有様でも、綾子の内心に驚きはごく僅か。
 全く、別次元の疑念であった。士郎が何故、そんな境地に到っているか。今も昔も、それが全くつかめないことに変わりは無い。

 だが、そのことから来る感想は、全く別だった。
 以前は、空恐ろしさすら感じさせた。見ていて、見えない。一体奥底に何が在るのか――それとも、何も無いのか。何処で、何を修めればそうなってしまうのか、分からない。
 つまり、見る者を不安にさせるような、完璧さ。不気味さ、と言ってもいいかもしれない。
 士郎の射には、殊綾子には、そう感じられて仕方が無かった。

 だが、どうだ? 今、この胸の穏やかさ。あくまでも彼女は冷静に、そして的確に彼の射を捕らえ、そして残像をキッチリと頭の中に収めている。つまりは、普通に見ることが出来ている。
 以前感じていたソレは、何だったと言うのだろうか。先刻、部員に指導する彼を見ていた時にも抱いた感覚が、再び彼女に蘇っている。


 もっとも。心の平穏は、彼が射に入っている時だけのこと。
 こうして一対一、話し始めたらすぐにボロが出る。そう、純粋に弓のことだけ考えている間は問題ないのである。
 問題はそこに、例えば、


「ああそう、衛宮の射姿こんなんだった」
「そうそう、この横顔が案外」
「この目つきはなかなか」


 etc. 
 余計な思念が入り込み、焼き付けた像をリプレイする度、綾子は自ら墓穴を掘っていくのである。




「―――――」

 フリーズ。素人さんがパソコンを弄った時の如く。

「…綴、おい、美綴?」
「―――――え、あ、おう。何だ?」

 オーバーロードした内面を冷凍で誤魔化しつつ、現実に帰還する。士郎は疑問符を顔に浮かべつつ、話を続けた。

「いや、意見を聞きたくてさ。こう、具体的にどうだったかな、と」

 どうだったかな、どころの騒ぎではない。待て。なんだっけ、えーと、

「射?」
「射」

 当たり前のことを確認しなくてはならないくらい、動揺している。震源地がすぐ隣、そして浅い。てか、近いよ衛宮? なしてすぐ隣さね。

「や、正直、これで2年ブランク、何て言われた日にゃ世の達人が泣くと思うけどね。あはは……」
「……そっか。まあ、美綴がそう言うならそうなんだろうな」

 そのまま士郎は板張りに身を投げ出し、仰向けに寝転がる。ちくしょーこのヤロー、人の気も知らないで……と、綾子はこっそり深呼吸をし、胆力を練り直し、そんな朴念仁に相対す。

「久しぶりにやってみるとキツイな。これはこれで別の緊張感、というか」
「そういうもん、かな」
「感覚の問題だと思うけど。でも――」



 一呼吸。そして、士郎は、本当に楽しそうに・・・・・・・・、呟いた。



「悪くない」



 呆気にとられた。ハッとさせられるような、衛宮士郎の笑顔。





「……だろ。だからさっさと戻って来い、って言ってたのに」





 そんな彼を見て。
 思わず口を衝いたのは、恨み言だった。


 大体、何時戻ってきたって結果は同じだったはずだろう、と、綾子は不機嫌そうに、からからと笑う少年を睨む。
 そんな視線を真に受けて、無邪気な笑顔から苦みが混じる笑顔にシフトチェンジ。そのまま口を開こうとする士郎に、綾子は弁解の機会を与えない。


「つまんない意地ばっか張ってさ。全く……」
「や」
「第一な、お前が居なくなれば不都合になるのはバイト先だけじゃないんだ。衛宮が居れば勝てた大会だってあった。そうすれば部費だって増えたはずだ。……生活かかってるのも分かるんだけど、さ。生徒会ばっかじゃなくて、ちょっとはこっちにだって目向けてくれたって、罰は当たらなかったと思う」
「む」
「慎二はあんなヤツだったけど。部に居たのは何もアイツだけじゃなかったんだ。お前の射は凄いんだから、期待した上だって居ただろうさ。大体藤村先生と居るんだから、それくらい分かるだろ? なのに。やめたら、そいつ等の期待は何処に行くんだ。なあ――」
「……」


 言い続けるうち、綾子の顔は段々と伏せられていく。もとより膝を抱えて座っていたので、綾子の顔が、士郎には良く見えない。  綾子らしくない言葉の洪水。何か、決壊してしまったように、吐露は止まらない。二年半、溜まりに溜まったもの。不平不満だけではなく、詰るような色も見せて。


 そうして、最後の愚痴。
 おそらく。綾子の真情が籠められた言葉。








 



「……見惚れて、憧れてたヤツだって、居たんだ」












 それが、誰のことを指すのか。
 聞いた士郎には、分からない。
 言った本人には、分かっているのだろうか。





 それきり、綾子は言葉を切る。顔は、まだ、伏せたまま。
 らしくないなあ……と、綾子は少しばかり、自分を情けなく思う。過ぎたことを今更言って、何を訴えようとしていたんだろう、アタシは。

 そして、綾子の自責に追い討ちをかけるように、士郎が口を開く。
 もう、寝転がっては居ない。座りなおして、どこかを見つめている。


「……すまない」
「……………」


 意地っ張りの彼から、驚くほど素直にそんな言葉が漏れる。
 それは、何への謝罪だったか。彼女からの誘いを断り続けたことか、それとも、喪われた二年に向けてのことか。

 だが、違う。

 違うんだよ、衛宮――と、むしろ、謝りたいのは綾子のほうだった。別に、それが聞きたくて言っていたわけじゃない。士郎に謝ってもらうことなんて、なにもない。そんな、曇った顔をさせるつもりなど、綾子には一片もなかった。


 と、いうより。何で言い出したかも、わからない。


 結局、こうして戻ってきているんだから。
 それはそれで、いい筈だし、満足しているのに。
 何でこんな、つっかかるようなことを―――――















 ―――――いい加減、女々しい。














 と、綾子は思った。いやもう、全く鬱陶しい。梅雨空か、お前の心中は。

 それは、彼女が忌み嫌う性質である。

 晴れていないと、嫌だろう。自分の、心の中くらい。





 いつまでも、沈んでいるのが美綴綾子では、無い。


 冬木の今武蔵は伊達じゃない、のである。
 いい加減認めざるを得ないのか、と、どこかで自分が諦観したように呟いている。
 ああそうだよ。禅って極めたらこうなるっぽい。



 どこまでも。
 そう、どこまで行ってもボクネンジンでトーヘンボクでイジッパリでガンコモノで―――――














 ―――――ちくしょー。いいよ、認めてやろう。
         そんなコイツに、アタシは惹かれてたんだ、ってことを。














「―――――」


 ……だが、最後の一線は護り通す。咽喉もとまで出かかった言葉を、押し返す。
 今此処でそれ・・言ったら負けだ、というか、卑怯だ。ならどうする。














 ―――――――越えてみるか。
           衛宮士郎を。














 勝って、言ってやればいいじゃないか。
 当たって砕ける。上等じゃないか? 不死鳥ってのは、灰の中から蘇るものだ。




 以上。
 女々しい自分には、決着をつけるべきだ。
 「自分を越える」。その、あまりに抽象的な美綴綾子の修行に、新たな具体項が追加された。




「よし、なら勝負だ」
「…………………へ」
「勝負だと言った! 明日! ここで! 衆人環視で! やってもらうからな! 衛宮!」
「ちょ、ちょっと待て。なんでさ、なんでそうなる?!」
「るさい!すまないって言ったのはお前だ! 拒否権無し!」
「…………………こ、この!」


 言い合いは、しばらく続く。これもまた、青春の一幕であろう。
 大河が居れば囃しただろうし、セイバーが居れば綾子の拳闘を解説してくれたかもしれない。凛やイリヤが居れば、間違いなく煽る。桜は……考えるのも、怖い。

 だが、この先士郎がどう足掻こうが、周囲に人が居ようが居まいが、綾子の勝ちである。衛宮士郎は道理に弱い。正義の味方だから、当然である。
 「自分から謝るな」とは良く言ったもの、なのかもしれない。



 こうして。
 日も暮れた穂群原の弓道場に、男女の喧騒が湧き。
 女々しかった少女は再び、雄渾なる女丈夫に立ち戻る。




 自分に、いや、自分の想いに決着を。
 新しい日々を、弓道部で、衛宮士郎と過ごす為に。







 ―――――本当に久々に。
         綾子の心は、雲ひとつ無い蒼穹のごとく、澄み切っていた。



 ……to be continued.




 そう、全く以って想像でしか無いんですが、古代ローマにコンスタンティノープルを仰ぎ見た旅人はこんな心持になるんじゃないかなー、と、壁にぶち当たるたび思うのです(苦笑)。

 いやはや、難しい。そして、上手くいったかどうか、甚だ良くわかりませんが、とにかく、青春させたかった!(爆) セイバーさんにご登場願おうか、とも考えましたが、敢えて後ろに回しました。二人だけで闘って欲しかったのでw

 さてさて、プロットどおりに行くとすれば、あと2回かな? まあ、予定は未定と読みかえるコトが可能ですねw 年内に終わるかな……w

 あ、トップに企画準備ページを置いてみました。興味をお持ちになれば、是非w

 それでは、御拝読ありがとうございました! m(_ _)m

 暫定ですw 宜しければw⇒ web拍手


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