消えることの無い不安が、渦巻いている。
休憩時間も終わり、カレーをかき混ぜている最中でも、セイバーの心を捕らえるマイナス思考は止まらなかった。あるいは、そういう単純作業が担当でよかったのかもしれない。今の彼女に皿などさわらせては、被害が出ることは必定だっただろう。
表面上は平静を装ってはいる。だが、当に「心此処に在らず」であろう。今はただ、士郎の帰還を待つことしか、セイバーには出来ない。それがもどかしく、自らの弱さに歯噛みしたいくらいの気分であった。
「スプーンはいくつ? シロウも帰ってくるんでしょ?」
「ええ。でも、何時かは分からないんですけど……。そういえば、セラさんとリズさんはいらっしゃるんですか?」
「今日は大丈夫よ。城の定期メンテ日だから、一日中森から出てこられないはず。そうすると……」
カレーの香ばしい匂いはイリヤをも衝き動かしたらしく、彼女も珍しく準備に加わっていた。いつもの団欒。そこに、不安な要素など何一つ見当たらない。
……だと、いうのに。
「たっだいまー! 帰ったぞ皆のしゅー。いやもーアツいしタルいしシンドいしでさー、タヒチにでも逃げたいわミー」
「……タヒチも、暑いですよね……?」
待ち人の一人である大河も帰り、衛宮家は更に明るさを増す。弓道部顧問に受験学年指導と、彼女の仕事は例年になく大変なのである。だが、彼女の明るさが減衰することはない。
「タイガー、お土産はー?」
「御座候、と言いたいとこだけどパスー。給料日まで待つがよいぞ娘。
……お、この食欲中枢に直接語りかける刺激的な波動……天竺亜大陸が秘蹟・カリーと見た! どーよ桜ちゃん!」
「はい、正解です♪ 今日は夏野菜カレーにしてみました」
「うむ、疲れ果てたマイボディに栄養素、素晴らしい取り合わせ! いい仕事!」
杞憂、と笑い飛ばせればそれでいい。だが、今のセイバーにそれは出来ない相談だった。誰よりも衛宮士郎を知る彼女だからこそ抱く悩みである。大河の明るさを前にしても、それは変わってはくれなかった。
「ん、セイバーちゃんどした? 元気なさげだけど」
「え、私……ですか。いえ、何も……」
「そう? んー、そっか。“模試の志望校判定がデス(=D)だったにも関らず平静を装って友人と話を合わせてる子”みたいな顔に見えたんだけどな。ホントに、大丈夫?」
ちなみに、大河の喩えは後藤君を念頭に置いている。さておき、野生の嗅覚、とでも言うのだろうか。あるいは、受験生受け持ちの経験が大河に新たな知見を導入したのかもしれない。ともかくも、ほんの僅かな変化に気付けるのも、教師の資質というものだろう。大河の喩えよりははるかに深刻な悩みだが、ベクトルだけは正しい、と言っていいかもしれない。
「ええ、本当に。何もありませんから、ご心配なく」
セイバーは内心の動揺も見せず、気丈に答える。もとより、他人には披露できない見解だ。言ってしまえば、それだけで、不安は現実味を帯びてくるものだ。
それは、避けなければならないことだった。自分の勘違いであって欲しい、と、その根拠を誰より求めているのもセイバーなのだから。
不安は、募る。
彼が、何処か遠い所に行ってしまうような感覚。
側に居て、触れていられないことが、もどかしい。
そんな中。行き場の無い焦燥だけが、セイバーの中で燻っていた。
結局、七時を回っても士郎は帰ってこなかった。虎の空腹は、既に限界を超えている。仕方なく、家主を待たずしての夕食と相成った。
セイバーも言うまでも無く、カレーが好きである。しかし、今日はその味すら分からない。彼女の意識は、目の前にある食事を向いていないのだから、当然と言えば当然だった。いつものおかわりも今日は無し。流石に、皆も少し怪訝に思ったが、まさか「おかわりしないのが変」と言い切ることも出来ず。セイバーも表情だけは普段どおりに見せていたので、大河が聞いた後は、結局誰もセイバーに事情を問うことはしなかった。
そうして、夕食も終わる。ゆで卵の出来栄えも素晴らしかったが、残念ながらセイバーはそれどころではない。食事が終わるや、彼女は居ても立っても居られず、食後の団欒期に入っていた居間を後にし、門の前へと向かっていった。
夏の長い太陽も、既に地平線の彼方へと消えていた。空を見上げれば、雲ひとつ無い満天の星空が広がっている。
(……いや、よそう)
――――だが。得意の星読みも、今は怖かった。
気休めとなる良い結果より、不安を増幅させる結末を見てしまう期待が勝ったのだろう。占いとて、人の業である。ましてや専門職でもない人間の気持ちが結果に反映されることも、十分に考えられることだった。
彼の顔が、早く見たい。会って、何でもない杞憂だったのだ、と、早く自分を納得させてやりたかった。そんなことに囚われる自分を笑い飛ばせればいいのに、と。
家の灯りは、どこまでも柔らかく、暖かい。
しかし、彼女の心だけは――その光が、まるで届かないかのようだった。
そう考えているのに、別のところで、自分がこう囁いている。
そんなことは、無理だろう、と。
「違う、私、は……」
破滅、絶望。彼女は、そんな事象に数多く曝されて来た人でもあった。
その経験が、セイバーを臆病にさせる。悲嘆、嗚咽、流血、そして、絶命。王として立っていた時代、それらはあまりにも遍在しすぎていた。決して負けず、それらに苛烈に向き合って生きていた。
しかし、それを彼女が受け入れ、慣れていったのか、と言えば――答えは否としか評しようが無い。
自らも、それに塗れた。
だからこそ。シロウにだけには、そんな道、二度と歩ませないと誓っているのに―――――――
「ただいま、セイバー」
と。
懊悩を深めてたセイバーの前で、聞きなれた声がした。
「あ、――」
「待っててくれたんだな、ありがとう」
涙が、出るかと思った。
笑顔の士郎は、夜の中でも、確かにセイバーの前に在る。
「い、いえ……おかえりなさい、シロウ」
「ん」
そんなやり取りは、端から見れば、まるで新婚のようにも映るだろう。だが、彼らにとってはそれも至極当然のこと。互いに触れ合っていることが貴重だと思えるからこそ、そうして、存在を確かめるのだろう。
だが。
それなのに。
「…………」
いつもの安らぎが、感じられない。
暗い憂慮が、晴れていかない。
いつものように、嬉しくて、そこに彼を感じていられるのに。
「久しぶりに動いたからな。結構腹減ってるんだ。メシ、もう食ったよな?」
「え、あ、はい。何時になるか分かりませんでしたから、先に頂きました。まだ皆、帰っては居ないですが」
「ん。じゃ、行こうか」
士郎はそう言うと、腕の中に居たセイバーと離れ、家に向かう。まだ離れたくない、と思うセイバーだが、そんな我侭を言うのは彼女の本意とするところではなかった。余計な心配は、かけないほうが良いに決まっているのだから。
「ただいまー」
「おかえりなさーい」
士郎は玄関に入ると、家人に声をかける。団欒の時間を過ごしている居間からは、あたたかい返事。それもこれも、家主である士郎を皆が大切に思っているが故である。
セイバーも士郎の後に続き、家に上がる。彼女の顔は、士郎から見えない角度にあった。だが、もし士郎がセイバーの表情に気付いていたならば――きっと彼は、セイバーを心配したに違いなかった。
士郎を迎えても。側に居ても、その不安は、無くなることは無い。
どころか、その存在を確かに感じれば感じるほど――喪失への恐怖は、募る一方だった。
廊下を進み、居間へと通じる障子の前。士郎はセイバーに声をかけた。
「荷物置いて着替えてくるから。セイバーは、先に戻っててくれ」
荷物はいつもより、ひとつ多い。それに、部活でなくとも、夏の夜では汗もかくだろう。スッキリした服装で晩餐に向かいたい、というのは自然なことである。
士郎が、自室への歩みを進めようとした、その時のことだった。
「――――っ」
「……え?」
何かに引っ張られた感触に、士郎は思わず振り向いた。
セイバーが、士郎の袖を掴んでいる。
そして、漸く。士郎は、セイバーの表情に気付いていた。
「……どうした、セイバー?」
「あ、……」
その表情を、彼は一体どう捉えただろうか。少なくとも、分かることは、ひとつ。
セイバーの顔は、なにか、とても大きい不安に駆られているようである、ということ。
士郎はセイバーに顔を近づけ、問う。彼にとってこれは、驚くべき事件であった。
セイバーは決して、そんな表情を見せる少女ではない。いつも凛として、その立ち居振る舞いには威厳が備わった、立派な騎士なのである。
だが。
一体どうして、今のセイバーは、こんな顔をしているのだろうか――――?
「……すみません。何でも、ありません、から」
自らの行為が、失策だったとセイバーは思ったのだろう。赤面して俯くと、士郎の問にも答えず、居間にも入らずに自室に向かう。
つくづく、嘘が下手な少女であった。「何でもない」ことが無いくらい、士郎は誰より良く分かってしまっている。
しかし、彼はすぐには動けなかった。
袖を掴んだ手は、震えていた。
その表情は、今にも泣き崩れそうなほどに、不安定で、脆かった。
彼女をそうさせている原因に思い当たらず、彼は引き止める機を喪ったのである。
今は、ただ。
士郎は、部屋に戻るセイバーを、呆然と見送ることしか出来ないでいた。
……to be continued.
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