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 「――何も無い、ってことは、ない」
 
 
 久々の運動は、士郎の食欲をも増進させたらしい。やりますよ、という桜を制し、自ら二杯目のカレーをよそいつつ。士郎は、先刻のセイバーについて思いを馳せていた。
 
 普段、少なくとも起きている時間、セイバーは滅多にあんな顔は見せない。何かあったのか、何がそうさせていたのか。その場で聞けばよかったのだが、士郎は完全に機を逸してしまっていた。
 
 「シロウ、セイバーは?」
 「いや、……部屋、かな」
 「ふーん。折角シュニーバール持ってきたのに、食べないのかしら」
 
 シュニーバール、とはドイツの焼き菓子である。ロマンチック街道特集番組で紹介されていた所、セイバーが激しく反応したのを士郎も覚えていた。
 
 「ま、まだ夕食から時間も経ってないものね。ふふ、セイバーなら甘い匂いに釣られないとも限らないし」
 「――――」
 
 流石にそれはない、と士郎は思いつつも、丁度良い口実が出来たことに内心喜んでいた。居間にそれが用意されている、ということを伝えるというのは、十二分に大義名分足りえよう。少なくとも、眼前の人々に対しては。
 
 「ん、……このゆで卵、セイバー?」
 「ええ。随分上達なさいましたよね。ゆで卵に関しては、もう言うことありません。……でもまだ、他の分野では……」
 
 士郎は桜の俯きに何らかの陰を感じたが、それは触れぬが花、というところだろう。何と言っても、本能が警鐘を鳴らしているのである。
 それにしても、ゆで卵をマスターできたとあれば、今度は卵焼き修行に本腰が入るに違いない。今度見てやらないとな、と。目の前のカレーに舌鼓を打ちながらも、やはり士郎の思考には、いつも彼女が片隅に居る。
 
 「ごちそうさまでした。美味しかったよ、桜」
 「どういたしまして。お粗末さまでした♪」
 
 皿を下げつつ、このまま後片付けに参加できないことを心中で詫びる。腹ごしらえは済んだし、一拍置いたのだ。ここでセイバーの所に行っておかねばならない、と。士郎はそう確信し、居間を後にした。
 
 
 
 
 
 部屋の照明は、落としたままだった。時に、暗さも安らぎを与えてくれる。今のセイバーにそれは望むべくもなかったが、しかし、明るい場所に居る気分にも程遠い。セイバーは一人、何かに耐えるように、部屋の隅で座っていた。
 
 
 「……何故」
 
 何故、消えてくれないのか。
 彼が側に居るというのに、我が身の憂慮は、何で。
 
 
 いつも士郎を見る時に感じる安らぎが、先刻は無かった。そんなことは一切望んでいないというのに、その未来を幻視してしまう。もし、彼が身も心も磨耗してしまったなら、どうなってしまうのか。その末路には、どんな悲惨が待っているというのか。
 
 白昼に悪夢を見る思いだろう。それだけ、セイバーが抱いた憂慮は深刻だった。誰よりも士郎を愛し、そして、彼の内側を知っているからこその怖れ。他の誰にも、同じ感覚は抱けないに違いない。
 
 自ら、剣であろうと誓い、その誓約は今も己の中にある。とすれば、彼を護るのは、正しく自分の役目である。
 
 だが、彼女は天命の重みも知っている。仮に、尽力しても抗えない程の運命が、彼に降りかかったとしたら。
 それをも撥ね返して見せよう、と、普段の彼女ならば思うだろう。
 
 
 「……弱い、な。私は……」
 
 膝を抱え、自分を恥じる。自分は、彼を信じ切れていないのではないか、と、慙愧の念すら噴出する。
 セイバーにとっての最大の恐怖。
 
 それは、破滅であり、全てを喪った時の、慟哭。
 そのことが、彼女を臆病にさせていた。
 
 
 
 
 同時に。
 そんな彼女の憂慮を取り除く事が出来るとすれば、それは。
 
 
 
 
 彼以外には、ありえないはずなのである。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 「セイバー? いるか?」
 
 
 まさか、居ません、とは言えない。今はまだ、士郎の顔を見れば不吉な未来を幻視するかもしれない、という考えがセイバーの頭を過ぎる。
 
 だが、もしかしたら。
 それでも、彼が側にいてほしい、と。そう、セイバーは思っていたのかもしれない。
 
 「――はい」
 
 セイバーは士郎呼びかけに答えた。
 それに応じて障子が開き、士郎が部屋に入ってくる。
 
 「……」
 
 士郎が息を飲むのが、セイバーにも伝わった。それもそうだろう。部屋は暗く、セイバーはその隅で小さくなって座っているのだ。
 普段なら、まず考えられない光景であることは、ここでも変わりない。
 
 しかし。
 どうした、とは、士郎は聞かなかった。
 
 セイバーは不安そうに士郎を見上げている。とすれば、それだけ不安を抱く要素が、彼女の中にあるということ。それくらい、誰が考えても分かることだ。
 
 士郎はそっと障子を閉じると、セイバーの側に歩み寄り、その左に腰を下ろした。
 
 
 「よ、っと」
 「……」
 
 セイバーは、まだ無言。側に居る安心感と、先への不安が、彼女の中で鬩ぎあっている。
 原因を突き詰めれば、些細なことだ。士郎に話せば、笑い飛ばしてくれるのかもしれない。
 だが、もし。それで事が解決しなければ? 不安は更に大きくなり、考えなくても良いことにまで思案が及ぶことになるだろう。何よりも怖れる、破滅という未来。それは、彼女を本能的に畏怖させるものだった。
 
 
 
 そうして、しばらく無言が続く。
 
 セイバーは士郎から目を逸らし、先刻の姿勢を変えていない。士郎も士郎で、セイバーの横に座ってから身じろぎすらしなかった。端から見れば、ただ並んで座っているだけだろう。だが、心中は別。セイバーは不安と戦い、士郎はセイバーの不安を汲み取ろうと試みている。
 
 そんな中。じっとしていても始まらない、と思ったのは、両者とも同じだったらしい。
 
 セイバーは、ようやく決意を固めつつあった。折角、士郎が側に来てくれたのである。感謝を伝えたいし、何より、この不安を解決したかった。直視するのは、確かに怖い。だが、その不安に負けてしまうのは、セイバーにとって最も禁忌すべきこと。何故なら、それは、その結果を受け入れてしまうことになるからである。
 
 
 
 
 
 「――――」
 
 
 
 
 
 そして。
 セイバーが、口を開こうとした、その時だった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 「――何があったか、分からないけど」
 
 
 
 
 
 
 
 士郎が、そう言ってくれたのが、聞こえる。
 
 
 
 
 
 
 
 「そんな顔をする時くらい、頼ってくれていいんだぞ」
 
 
 
 
 
 
 
 右肩に、少年の手が添えられている。そのまま、少しだけ、力を入れて――少年は、セイバーを抱き寄せた。
 
 
 「――――」
 「…………」
 
 暗闇と俯きが、セイバーの表情を隠す。だが、もしそれが白日の下になれば、朱に染まった顔が現れるだろう。
 少年も、同じ。自分の行為が少し気恥ずかしかったのであろう。はは、と、それを誤魔化すような笑みを浮かべ、しかし、セイバーを抱き寄せる手からは、真剣さだけが伝わってくる。
 
 今は、こうして、支えてくれる人が居るのだ、と。
 セイバーは今更ながら、その僥倖に感謝した。
 
 頼っても良いのだ、と。無意識にも――その言葉は、彼女の心に染み入ってくる。その温かさが、心地良い。セイバーはそれに身を委ねるように、抱き寄せられるまま、士郎へと体を預けていた。
 
 「……シロウ」
 
 そんなセイバーの動きを感じるや、士郎はセイバーの体をもう少し引き寄せ、膝の上に乗せてしまった。自然、士郎は、覆いかぶさるようにセイバーを包み込む格好になる。
 
 あたたかさは、先程より、増して。
 
 
 
 「……ありがとうな、セイバー」
 
 
 
 そんなことを、士郎は口にした。
 
 
 
 「――――」
 「今日戻れたのも、セイバーのおかげだ」
 
 本心からの言葉だろう。セイバーの後押しが無ければ、無かっただろう話である。褥で、電話の先で、セイバーは何時でも、士郎の背中を押してくれていた。
 
 セイバーは少しくすぐったく、そんな感謝を受け取っている。
 
 「……いえ、そのようなこと……。士郎の意志があってのことです」
 「違うよ。セイバーが支えてくれたから、出来たことだ」
 
 セイバーの謙遜も、士郎はしっかりと否定する。
 彼にとって、それが事実。思いもしなかった場所に、もう一度立てたこと。後輩に教え、そして、親友と話し。忘れていたものに、再びめぐり合えたのだから。
 
 
 
 
 しばし、士郎は今日の顛末を語る。久々に弓道着で入った道場の感覚、弓道部備え付け茶葉の味、あるいは、指導した後輩の話など。その口調はどこか楽しげで、出来事をひとつひとつ噛み締めているかのようだった。
 
 そして。
 
 「……そんなこんなで、な。美綴があんまり言うもんだから、明日公開で射る羽目になったんだ」
 「え――――」
 
 士郎が話した綾子とのやり取りは大分簡潔化されていたが、明日の勝負については、士郎は包み隠さずセイバーに語っていた。
 
 「参るだろ? ま、勢いに流された俺も俺なんだけど、さ」
 
 苦笑しながら語る士郎。それもまた本心であり、彼にとっては、出来事の一コマを話しただけのこと。
 
 
 だが、セイバーにとって、それは。
 
 
 
 「…………でしょうか?」
 「え?」
 
 
 
 聞き取れないくらいの小声で、セイバーが呟く。
 それは、決心の鈍さが、そうさせたに違いない。
 ただ、セイバーは、一度決めたら方向を過つことは無い。
 
 士郎に聞き返されたセイバーは、大きく息を吸うと、しっかりと士郎に告げた。
 
 
 
 「それならば、明日。私も道場に行って、シロウの射を見ても宜しいでしょうか?」
 
 
 
 それは、大きな決意だった。
 胸にある大きな不安は、ひとり逡巡していても解決するものでは、ない。
 
 ならば、己が目で確かめるしかあるまい。渡りに舟、とは当に、このことだろうとセイバーは思う。そして、舟には、乗らなければ始まらないのである。
 
 その勇気は、一番近くに居る、最愛の人がくれているのだから。
 
 
 「え、や、ほ、ほんとに?」
 「ええ、本気ですとも。シロウさえ、いや、弓道部さえ宜しければ、是非」
 
 セイバーは士郎を下から覗き込み、強い口調で直談判する。先程までの不安そうな表情は消え、今では、確固たる意志が瞳に宿っている。
 
 そして、士郎がそれに否やを言うことは、ありえなかった。
 
 
 
 
 
 
 
 こうして、セイバーは機会を得る。
 
 士郎の弓を、目の当たりにし。そして、答えを得る時を。
 
 全ては、明日。その場所、彼の射自身が、それを示してくれるのだろう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ――――そして、余談だが。
 
 
 その後。二人が過ごした夜は、イリヤが用意したドイツの銘菓より、遥かに甘いものだったという。
 
 
 ……to be continued.
 
 
 
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