「うむ、快晴――――」

 士郎が開け放った障子の向こうには、突き抜けるほどの蒼天が広がっていた。夏とはいえ、早朝ではそこまでしつこい暑さは無い。起き抜けに見る景色としては、最良のものと言って良いだろう。

 さっさと顔を洗い、道場で一汗。日々変わりない鍛錬とはいえ、続けていればルーティンワークなりのリズムが出る。こうしてそれらを行うのも、決して無意味な行為ではないのである。さっぱりと汗をかき、シャワーを浴びれば、それなりに爽快な朝が予定されるのだ。




「お、上がった所?」
「はい。今は空いていますね」

 廊下で、朝風呂上がりのセイバーと出会う。士郎の鼻を、ほのかなシャンプーの香りがくすぐった。

「ん。じゃ、さっさと入ってくるか」
「はい」

 朝の挨拶は、先刻済ましてある。だが、軽い会話だけでもどこかすっきりするものだ。筋肉疲労も些か緩和、和みというのは、どうやら大切なことらしい、と士郎はそこで再認識していた。




「……〜〜♪」

 朝起きてから彼が感じていたことだが、今日は色々と調子が良いらしかった。筋トレの疲労もそこそこ、気分はどこか晴れやかである。図らずも鼻唄まで漏れるくらいだから、何かしら晴れやかな気分であることは間違いない。
 時間があれば湯船にも、と思うところだが、流石に生徒の身分でそうは行かない。さっさとシャワーも切り上げ、体を拭き、制服へ。寝床に郷愁を抱くことも無く、これで学校へ行く心構えも完璧、である。




「おはようございます、先輩」
「おはよー、……って、早いな桜」

 時刻的にも丁度朝飯主導権を握れる、と思って颯爽と台所に向かった士郎だったが、そこは想定外だった。台所は既に桜がエプロン姿で占拠済み、既に食卓には、家主の入る余地も無いほどの料理が展開されている。

「はい! 今日は美綴先輩との勝負ですから! しっかり栄養をつけてもらおうと思いまして♪」
「おう! ……って、ちょっと待った。なんで桜、それ知ってる?」 
「あ、昨日弓道部のメーリングリストで回ってきたんですよ。弓道部なら多分、全員知ってると思います」

 ……つまり、逃げを封じた、ということであった。衛宮士郎が穂群原に通い始めて2年と半分に近くなる。各方面の助っ人ぶり、あるいは時に聞こえてくる武勇伝、学園の有名人(高嶺の花・遠坂凛、日陰のアイドル・間桐桜、永遠の生徒会長・柳洞一成、生ける武勇伝・美綴綾子、歩くワイドショー・後藤劾以ガイ、冬木の黒豹・蒔寺楓、市長の娘・氷室鐘、そしてミスタータイガー○・藤村大河)との幅広い人脈、極めつけはその伝説となりつつある弓の腕。各方面から、士郎は既に穂群原でもトップクラスに知名度がある人物なのだ。そして、そんな彼が弓道部の女丈夫と真剣勝負に挑む、という。その話題性は、弓道部ならずとも他の人間に流したくなるだろう。情報社会とは、恐ろしいものである。

「おっけー理解した。なら尚更気合が必要、ってことだな」
「ですから、料理も気合を籠めてみました!」

 出汁巻、味噌汁の基本から始まり、御浸しに煮っ転がし、あるいはおからや高野豆腐、果ては鶏の唐揚げまで存在する食卓には、ある種の荘厳ささえ感じられる。なるほど、これは気合が入らない方がウソであろう。いつもならば少々胃が重くなるかもしれないが、基本的に彼は若く、そして今日は体調がいい。おそらく凛辺りは辟易するのだろうが、それ以外の住人でこのレベルの朝食が障害になるような人物は、衛宮家に存在しない。

「ありがとう。じゃあ、仕上げの手伝いだけでも……」
「いいえ、それも大丈夫です。もし怪我なんかあったら大変です。先輩は待っていてください。今日は私がちゃんとやりますから!」

 桜の入れ込みようは相当なものだ。これはどうやら、綾子と士郎の勝負が学園の一大関心事レベルにまでなってしまっていることを意味するらしい、と、士郎は意識を改める。

「ん、じゃ、お言葉に甘えて……」

 さて。とすれば、観衆も居るだろう。……望むところだが、しかし。



 何時以来だろうか、このような高揚は。
 ただ部に復帰し、綾子の求めに応じて射の技術を競う。本来の「道」からすれば、多少外れたところにある行為といわざるを得ないだろう。

 だが、爽快。ということは、つまり。

(どっか、後ろめたかった、ってこと、か……?)

 中途半端で止めたこと、それ自体については割り切ってはいた。だが、度々勧誘してくれる友人――その声に応えず、逃げ続けていたことに関しては、話は別ということだろう。申し出に応じ、今また同じ舞台で同じ時間を過ごしている。
 だが、決してそれだけではないようにも思える。

「……ク」

 どこか、可笑しかった。こんな感覚を抱くとは思っても居なかったし、どこかこそばゆい感じもする。何か良く分からない、だが、なにやら心地良い。そんな感情を、彼は珍しいもののように扱っている。
 人と人の繋がりが生む、確かな「居場所」。あの道場が、士郎にとってそう呼ぶに相応しい場所のひとつになっていったことに、果たして彼は気付いているのか、どうか。

 親友である綾子の尽力、最愛の人であるセイバーの後押し。それ以外にも、彼と繋がりを持つ全ての人が、彼と関った結果。それが今、彼をして再び道場の板を踏ませているのである。

「……おお、これは素晴らしい。いつもにも増して気合が入っていますね、桜」
「勿論です! 今日は特別ですからね! 学校でもその話題で持ちきりだと思いますよ♪」
「わーお! すっごいコレ! うんうん、士郎の部復帰は経済効果も生むのね。偉いぞ桜ちゃん!」

 続々やってくる住人のはしゃぎように、少し苦笑しつつ。士郎は、己が内にある出所不明の感情を持て余し、しかし、気分は晴れやかであった。こんな気分は、悪くない。そんなに残っているわけではない学園生活ではあるが、これでまたひとつ、良い思い出を作る端緒が出来た、ということだろう。

 ゆっくりと、桜渾身の朝食を噛み締める。ここまでやってもらった以上、良い勝負、では済まされまい。増して、セイバーにも「見に来て欲しい」と言ったのだ。

 心の中では、好敵手の像が屹立している。
 彼女に、最大限の感謝を捧げつつ。しかし、士郎は、不敵な笑みを心中で浮かべていた。










「じゃ、行ってくる。時間は、さっき言ったとおりだから」
「分かっています。遅れないように駆けつけましょう」

 復帰して即の身分で朝練にまで顔を出すのもどうか、と思ったが、実地でもう一度的を見ておくくらいのことはしておきたかった。
 なので、出発は桜と一緒になる。そんな事情もあって、今朝のご挨拶ばかりは、流石に玄関で――とは行かない。既に何年も連れ添った夫婦の如く、アイコンタクトは完璧であった。こうして出発前、士郎とセイバーは、僅かな時間を士郎の部屋で過ごしている。

「はは、まあ、期待はしないでくれ。それじゃ――」

 いつもどおり、初々しい夫婦の如きことを済まし、士郎とセイバーは挨拶を交わす。

「行ってくる。また後で」
「はい。行ってらっしゃい、シロウ」

 心地良い朝の空気を吸い、後輩の待つ玄関へ。さて、好敵手はどんな表情で学校に来るだろうか――と。そんなことを考えれば、自然と心が躍るような気持ちがするようだった。

















「良し」

 色々な意味で、である。体調も、気分も、近年――そう、美綴綾子にとって、その全てが、少なくともここ二年ほどは無いほどに、良い。朝起きて、顔を洗い、気付けにシャワーを浴びた後に出た感想が、それである。

 きゅ、と、シャワーの栓を閉め、かけてあったバスタオルで雫を拭う。朝は苦手ではないが、こうして眠気をどこかにやる作業は、一日の入りとしてはそれなりに心地良い。普段ならこのままランニング、でも良いが、流石にいつものコースで衛宮家の前を通るのは精神安定上宜しく無さそうであったので、却下した。時間前に立つ力士の如く、さっさと声を掛けてしまいそうな自分が、ある意味で恐ろしい。

「……〜♪」

 制服に袖を通しつつ、ふつふつと湧く闘争心に苦笑する。あまりの上機嫌に、鼻唄まで出てしまうほどだ。
 こんなことでは勝てはしない。闘争する相手は彼奴ではなく、自分自身、あるいはその心である。それが浮かれていてはいけない、とは思うのだが、しかし。

(そうは言っても、な)

 修行不足、と自らを戒めつつも、漏れ出る笑みをどうすることも出来はしない。遂に、今日。あの難物をようやく引き摺り出して、同じ土俵に立たせるまでにも到ったのだ。この期に及んで逃げられることの無いよう、既に情報戦による包囲だって済ませてある。

 長かった。持ち掛ける度、さらりとかわされること幾星霜。その都度、まだ諦めるものか! と、想い続けた自分を少し褒めてやりたい。
 その原動力が何であったか――少しばかり、こそばゆい。だが、その感覚に身悶えして赤面するのは、勝負が終わってからでも遅くないだろう。

「姉ちゃん、空いたー?」
「――待て。今入ってきたら、間桐の前で泣かす」
「……は、早くしろよな……」

 折角ここまで気分がいいのだから、少し普段と違うことをしても罰は当たるまい、と綾子は思う。化粧じることにはあまり、というか全く以て門外の女性である彼女だが、香水くらいはいいかもしれない、などと。

(化粧ず、ね。……って、あれ)

 文武両道、古文とてその例外ではない綾子は、少しだけ引っ掛かりを感じる。けさうず――それは、化粧ず、だけではなく、懸想ず、という当て方も出来るのだ、ということに、気付かないで住んだことは幸運だったのか、さて。

 そんなことすら、調子のよい彼女の頭からは、直ぐに消えてくれたようだった。それが押入れに無理矢理蒲団を押し込むが如き対応だったとして、それが勝負まで保てばそれでいいのだから、関係ない。魅かれていた、と認めた。だから、それ以上のことは――色々と終わってから、である。

 櫛を入れ、リボンを結びなおす。夏服だが、やはりこれが無いと穂群原の制服は締まらない――とは、学園女子の大勢を占める意見だろう。綾子とて、このワンポイントは気に入っている。

 いつものように、きっちりと、乱れなく。
 服装の整頓から、気構えを整える行は始まっている。

(――ん、バッチリ)

 鏡でもう一度細部をチェックし、身だしなみを確かめる。完璧。ここまで嵌るのだから、何かしら良い事が起きそうな予感さえ、する。

 さて。

(良し。ひとつ、目にモノを見せてやるとしましょうか!)

 アタシを袖にし続けたこと、後悔させてやらむ。
 そんな言葉を胸に。冬木の女傑は、その想いを、学校へと向けていた。



 ……to be continued.



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