どうやら、噂が学校に蔓延している、というのは本当らしかった。


「……まあ、こうあからさまになってくると、な」


 面識の無い人々はこちらの顔を見ては好奇の視線を投げかけてくるし、多少なりとも付き合いがあれば声をかけられる。「ついでに負けてくっついちゃえよ、あたしのためにも!」とか、「拙者、密かに感動しているでござる。屍は拾うゆえ、存分に蛮勇を奮い給え」とか言われていると、どうやらあまり士郎シンパは居ない……というより、士郎が勝つと思っている方が少ない、という塩梅であった。

 ノートを広げてわいわいやっている集団辺りは、トトやカルチョでも開催しているのであろうか。士郎は苦笑しつつ、教室後方に位置する自分の机に腰掛ける。


「……いいのか、あれ……っと、おはよう一成」
「うむ、おはよう。まあ、良いわけが無い。だがな、徹底的な綱紀粛正よりは多少のガス抜きが必要、ということもあるわけだ。高校三年の夏ともなれば、尚更な」

 隣には、既に一成が出席していた。手にしているのは、世界史の教科書である。チェックマーカーの引かれている度合、教科書の汚れ具合を見れば、持ち主の勤勉さが窺い知れる逸品だ。
 なるほど、万夫不当・万人公認の生徒会長といえど、眼前に横たわる受験という大山脈を前にしては、他の生徒達と気分を共有せざるを得ないらしい。さもなくば、斯くの如き清廉な人物が賭け行為などを見逃すはずもないのである。

「珍しいな。こういうの真っ先に止めると思ってたけど」
「従前ならば当然だ。が、施策は時と場合による。変化も変哲も無い勉強の日々、降って湧いたようなイベントだから、な。生徒会としても、あまり容喙して支持を喪うことは避けたいのだ」

 なにやらとてつもない大事になっている、と、漸く士郎にも実感が湧いてきていた。一成ですらこれとなると、放課後の勝負時にはどれ程のギャラリーが来るというのだろうか。

「下手を打てば次世代が大変、と」
「まあな。こう見えて苦労しているわけだ。衛宮が一年後輩ならこうも悩まず済んだものを、全く」

 今年に入ってから士郎が幾度となく聞かされている愚痴である。ここまで完璧な生徒会長を頂いた学園というのは、幸せなのか災難なのか分からない。次代のトップは必然、前任と比べられるのである。とすれば、後継と目される人物たちも二の足を踏んでしまうのはある意味で当然だ。安定した組織経営とは、優秀なトップのバトン引継ぎがうまくいってこそ、であるのだが。現会長の悩みは、それなりに深い。
 教科書に目を落としつつ、苦悩のトップは続ける。

「五賢帝期、とは恵まれた時代だったのであろうな。まあ、焦っても仕方なしか。誰か良いのが居れば、推挙を待っている」
「ん。善処はする。頑張れ」
「ふ、それは衛宮の方だ。……しかし、何だな」
「と、いうと?」
「これでまた、弓道部人気も一段と上がろう、ということだ。無論、実力の上でも」
「どうだろうな。指導員待遇だし、そんなに変わるものでもないような」
「何、人の気など移ろい易きもの。その上あの女丈夫、中々どうして策士ではないか。衛宮がインハイのメンバーに入っている情景とて、十分に想像できる」
「む、そうかな」
「人の期待には応えずには居られまい? 今年は野球部も士気旺盛と聞くし、陸上は言うに及ばず。ふむ、また部費については考えねばならぬようだ」
「あー……」

 蒔寺楓、氷室鐘あたりを擁する陸上部と、最近になって大河が指導に乱入するようになった野球部。特に後者は、学内では有力でも地区レベルではトップレベルに到っていなかっただけに、新たな伝説も生まれるかもしれない。

「はは、アルプスから咆哮する藤村先生の勇姿が見えるようではないか。その辺りも、この夏の楽しみと言った所か」
「……ある意味、悪夢だけどな」

 しかし、楽しみでもある。仮にそうだとすれば、夏の一大イベントになることは疑いない。そもそも球場自体が近場であるわけで、アルプスは無理でも、外野辺りにならセイバー達を連れて行くのも悪くは無いだろう、と士郎は思う。

「まあ、とにもかくにも今日のイベントだ。しっかり頼むぞ、衛宮」
「了解。全く、大事になったもんだ」
「はは、そう言うな。有名税とでも思えばいい」

 からからとそう笑うと、一成は再び世界史の世界へと戻る。勉強と息抜きは両輪、両者が混在かつバランスが取れてこそ受験も上手くいく、とは、他ならぬ藤村先生の言であった。士郎は今更ながらそんなことを思い返すが、しかし。

(まさか、息抜きを提供する羽目になるなんて、な)

 苦笑しつつ、自らも古文単語帳などを引っ張りだしてみる。何につけ、今は集中を高める事が大切、と士郎も理解していた。没頭することは、自分の世界に入りきることでもある。時間の経過すら忘れる集中。彼の魔術鍛錬の副産物ではあるが、それは様々な部分に良い効能ももたらしていた。








「よう! みっつー、今日こそ頼むぜ! あの天才工兵・バカスパナ、今日こそ持っていってくれ!」
「どこにだ。あと、みっつーて誰。あたし?」
「以外に誰が居ようか、いや、居ない! やー、いい加減遠坂衛宮の親密度が上がりすぎてんのよ最近。そろそろ大本命のみつづりんに起ってもらわんことにゃ、アタシの壮大かつ遠大なる遠坂補完計画にも破綻がさあ」
「みつづりん、蒔の言うことなどどうでも良いが、是非に勝って貰わねばならぬ理由はあるのだ」
「……みつづりん、止め。何さ、その理由って」
「古今、勝負事には思い入れを強くする為の隠し味のようなものがあってな。生徒同士の抗争とはいえ、その辺りに変わりは無い。まあ何だ、味わい深い一戦にする為にも、汝には頑張って頂かなくては」
「端的に言えば、賭けた、と」
「そうなる」


 昼休みの教室に、溜息がひとつ。朝から向こう、美綴綾子の周りではこんなやり取りが絶えないでいる。自ら蒔いた種ではあるが、ここまでの反応を起こすとははっきり言って予想外である。多少過熱気味の空気には綾子自身、戸惑いを感じていた。

「レートは」
「流石にブランクを考慮してか、汝のほうが高評価だな。ただまあ、相手も伝説の一翼。大差は無いと言っていいだろう」
「ふーん……」

 相手との実力差は己が一番良く知っていたが、確かに周囲には分からない話であろう。ただ、綾子とて負ける気は微塵も無かった。と言って、賭けに乗った生徒達の為に弓を引くわけでは全く無いのだが。

 勝手に算盤を弾いた“親友”にやや呆れつつ、綾子は側に居たもう一人の親友に話しかける。

「三枝は賭けたの?」
「え? わ、私はそんなことしないよー。二人にもやめよう、って言ったんだけど……」
「はは、やっぱりそうだろうね。うむ、こんな善意が間近にあるってのに、どうしてそこまで道を外せるんだか」
「それは違うな、みつづりん。こんな善意が間近にあるからこそ、我々は安心して悪意に走れるのだ。まだ人類には三枝由紀香が居る、となれば、良心の呵責も多少は軽くなるだろう?」
「……最低だ、お前ら。あと、みつづりん言うの、止め」

 口が回る人物は、何処まで行っても雄弁なものだ。同じく綾子の側で本を読んでいる沙条綾香などは大人しいものだが、一見すれば同じタイプに見える氷室鐘はその実そうではない。一般人だが底が知れない、という評判の一角は、この弁論術にもあるに相違なかった。

「理由はどうでも良いだろう。何はともあれ、我々の代議士票は汝のものと心得て頂いて良い」
「どこの大統領を決めるんだよ。……まあいいさ。応援には応えられるよう、努力する」
「宜しい。後は、あの無私の鬼をどうにかすれば……週末のイタリアンは、堅いな」
「……やめてよ、変な妨害とか」


 一体何処から出したのか、羽扇を構えつつ不敵に嗤う鐘に、思わず綾子も突っ込みを入れる。なるほど、蒔いた種は成長し、綾子ですらもう制御不能なまでに成長してしまったようだ。
 だがそれは同時に、士郎とてこの話から既に逃げられなくなっていることを意味する。鬱蒼と茂る植物は、飲み込んだ人間を逃がさないものなのだ。

(後は、あたし自身)

 友人との談笑に興じつつ、底では集中を高めていく。
 もう、時間はあまりない。昂る気持ちを、無私になることで0に戻す。



 その先に見える彼奴には、負けられない。
 それは、周囲の喧騒には関係ない。己の中、厳然とある男の姿である。



(ふふ……やっと、か)

 雌伏二年。追いかけていた……そう、あらゆる意味で追いかけていたソイツ。

 不敵な笑みは、心中に仕舞う。
 不思議と、自信はあった。

 追うものがあれば、人は近づこうとする。
 もしかすると。彼女も、士郎に近づこうと、成長しているのかもしれなかった。





  「……む」


 セイバーが学校に来るのは、これが初めてではない。

 弁当を届けに来たこともあれば、散歩の途中でふらりと立ち寄ったこともある。遡れば若干血生臭い記憶もあるのだが、それは今のこの場所には相応しくないだろう、と彼女は思う。

 少年少女が共同生活、学問を気兼ねなく経験、修練できるという世に、セイバーは訪れるたびに感嘆を覚えるものだった。穂群原学園はいつも、中々に活気の溢れた学び舎である。セイバーも、その雰囲気が好きだった。何より、彼女の大切な人が通っている場所である。其処が良いイメージを持てる場所であるなら、それは素晴らしいことであった。

 ……だが。


「いつもとは……違う?」


 放課後が訪れる少し前、穂群原学園の通用門で彼女が感じた雰囲気である。活気が、という意味では、それは普段と大差ない。だが、それだけでは、ない。

(ある種、異様な……これは、似ている……)

   単語にすれば、熱気、と言えばいいだろうか。セイバーの時代、騎士達が腕を競った大会(トーナメント)で、例外なく場を包んでいた空気であり、現代でも同じ空気は、テレビを通じて見る各種のスポーツ試合で感じる事が出来ている。

 それが、学園から感じられた。若さゆえの活気が溌剌としたものであれば、熱気はこう、立ち上る噴煙の如く勢いのあるものだ。

(シロウと綾子の勝負が、原因……としか、考えられませんね)

 あるいはライバル校を招いての対外試合など、という可能性もあるが、それをやるとしたら週末の休みだろう。その程度のことが判断できるくらいには、セイバーも現代になじんでいる。とすればやはり、その辺りが妥当な予想と言って良い。

「少し早く来て、正解だったようです」
「そうねー。タイガにはちゃんと言ってあるから、道場の良い席を早く取っちゃいましょ」

 セイバーと共に居るのは、銀髪の少女。彼女もまた、騒ぎを聞きつけた一人である。セイバーが出かける支度をしている時、押しかけてついていくことを強引に認めさせた彼女だが、流石に迷惑になると思ったのか何時もの供廻りは連れていない。既にイリヤは弓道部に何回か出向いているし、半ばマスコット扱いされているのが現状だったりもする。

「そうですね。顔見知りの貴女が居て良かった」
「外からだと見づらいかもしれないしね。さて、……って、あれ」

 門から中に入りつつ、道場へ……と言う段になって、セイバーとイリヤの視界に見慣れないものが飛び込んできた。いや、もの、というよりは、状況と言うべきか。

「……盛況ですね」
「想像以上だわ」

 既に、外から窺うことが出来る位置には場所取りの生徒が群がっている。お祭り好き、と言えば言葉は良いが、まだ時間としてはホームルーム中のはずであるわけで、校則違反であることは明らかであろう。

 言うまでも無くセイバーは美人であり、一緒に居るイリヤも人目を引く御嬢様である。そんな二人が連れ立って道場に入っていくのだから、好奇の視線を集めるのは当然である。そんな目線を感じつつ、二人は道場の中に入った。

「流石に中までは居ないわね。セイバー、こっち」
「あ、はい。……なるほど、これが弓道場ですか」

 静謐な空気であった。外は夏の陽気であるが、陰になっている室内ではやや涼しい。イリヤの案内で少し高くなっている応接スペースに案内されると、セイバーは静かに腰を下ろして道場内を観察した。

「いい空気ですね。研鑽には丁度良い」
「そう? 私には分からないけど……だとすれば、タイガやアヤコの功績ね、それは」
「? 桜は入らないのですか?」
「私に言わせればまだまだよ。もうちょっと、長としての意識を持ってもらわないと」

 魔術師としても一流の彼女は、客観的に物事を見ることも出来るのだろう。良くはやっているが、もう少し前面に出てきて欲しい、とは他ならぬ綾子からセイバーが聞いた評価でもある。

「セイバー、お茶要る?」
「勝手に使って良いのですか。部のものを……」
「いいのよ。許可は貰ってあるわ」

 イリヤは勝手知ったる風で茶筒を棚から取り出し、ポットでお湯を沸かす。弓道部では人気の高い彼女は、そう言った特典を既に与えられているのである。

「ほう、イリヤスフィールもお茶を淹れられたのですか」
「普段は絶対しないけどね。セラが怒るし。でも、それは私を見くびりすぎよ、セイバー」

 そうですね、とセイバーは苦笑する。お姫様だが、藤村組や衛宮邸での生活を経て、イリヤも大分庶民生活に慣れてきているのだろう。

「楽しみね。ふふ、弟の勇姿はしっかり見届けてあげないと」
「……そうですね」

 時計に目を移せば、士郎に告げられた時刻まで、あと30分ほど。傍らの少女との談笑も自然、お目当ての少年のことが話題の中心となる。

 どんな姿を、彼は見せてくれるのだろうか。

 不安もあれば、楽しみもある。抱いた懸念が杞憂であってくれれば言うことは無いが、そればかりはいくら心配しても詮無きことである。


 今は、ただ。
 士郎が見せてくれる姿から感じることを逃すまい、と。セイバーもまた、しっかりと見届けることに全力を傾注しよう、と誓いを立てていた。







「……やっぱり、こうなるか」

 眼前に広がった光景を前に、士郎は嘆息し、呟く。弓道場はかつてない賑わいを見せている、と言っていいだろう。唯でさえ娯楽の少ない3年生を始めとして、部活途中で忙しいはずだろう各運動部系の部員達までもギャラリーには加わっている。

 過熱した校内の雰囲気から予め想像することが出来たとはいえ、かなりの人だかりには苦笑せざるを得ない。あまり目立つのもなんだな、と思った士郎は、出来るだけこっそりと道場に入ろうと試みたが、しかし。

「よう英雄、期待してるぜー!」
「俺達の昼飯は託した!」
「モテ杉オマエ! 美綴さんにまで手を……ッ!」
「週末の合コンはオマエにかかっている! 頼むから逝け!」

 などと、陰陽様々な感情入り混じる声を浴びることになった。愛想笑いで手を振りつつ、士郎は漸く弓道場の扉を開ける。

「……やれやれ。と……」

 ようやく喧騒から逃れた、と思ったが、道場内でもあまり状況は変わらないらしかった。弓道部員と知り合いの生徒、あるいは衛宮伝説を知る年下の部員など、輝ける視線が士郎に突き刺さる。

「や」
「矢、じゃないよ。ったく、こうなること分かんなかったのか?」
「全くね、あたしも予想外。単に部内勝負で終わるはずだったんだけど、ねえ?」

 先に来着していた綾子は、至って自然体である。昨日のことで吹っ切れたのか、眼前の勝負にいい意味で集中できているようだ。よって、周囲の喧騒ですら楽しんでいる節がある。

「ま、その方があたしに勝ち目があるってもんだよ。ほら、あそこ」
「あそこ……って……!?」

 綾子が指差した先には、士郎が良く知っていて、かつこの道場に珍しい顔がふたつ。大河と桜を交えた談笑で士郎にはまだ気付いていないようだったが、金髪のと銀髪が映える少女達の目的が何であってここにいるのか、士郎には分かりすぎるほど分かってしまった。

「そうか……イリヤが居たのか……」

 セイバーが来る、ということ自体は士郎にとっても想像のうちだが、彼はどこからともなく見守ってくれる、というくらいのことしか考えては居なかった。セイバーが弓道場に入ることは無いだろう、と思ってのことだったが、しかし、想像というものはいつも現実に斜め先を行かれるものでもある。当にセイバーは、射手を背後45°からしっかりと見られる位置に座っているのである。

「あたしもビックリしたけどね。イリヤさんはともかく、セイバーさんも、ねえ」
「……同感だ」

 とはいえ、これで余計に下手は打てなくなったわけである。士郎は気を引き締め直しつつ――――




「さて」




 立てかけてあった、弓を取る。

 瞬間。士郎にとって、周りの全てが、無に帰る。

 精神の集中は、ここに極致へ。
 心地良い、と感じるのは、何故だっただろうか。
 ともあれ。これならば問題は無かろう、と、士郎は己の状態を冷静に分析し終えた。


「……じゃ、やりますか」

 綾子もそれを見て、士郎が臨戦状態に入ったことを知る。

 鬼気迫る、と言えばいいだろうか。
 それは恐らく、その道に通暁した者にしか分からない変化だろう。


 背筋も、自然と伸びる。
 今、まさに。彼女が超えようとしている壁は、目の前に立ち塞がったのだ。






 ……to be continued.



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