セイバーは、武に生きた人である。平時の雰囲気と、臨戦のそれを感じ取る機会にはそれを欠くことのなかった王であったし、許より騎士としての研鑽を積んだ人物でもある。
 彼女が道場に入って来た士郎に気付いたのは、彼が丁度弓を手に取ったときである。イリヤや大河との談笑の傍ら、道場内の雰囲気が変わったことを、彼女の感覚は逃さなかった。

 緊張した、と、そう言っていいだろう。前夜、抱いた不安。あるいは、その弓の腕が何か不吉なものを暗示しているのではないか、という懸念は、彼女の中で完全に消えてはいない。
 弓を手にした士郎の雰囲気は、明らかにいつもの彼とは違う。セイバーには、それが誰よりもよく分かった。卓越した武人として、そして、彼に最も近い人間として。

 この先の一挙一動とて、彼女に見逃すことは許されなかった。彼女の自負、それは、士郎の剣として、彼を支え、時に導くことである。弓を引くことが彼の一面を示すというならば、衛宮士郎という人間をより深く理解する為に、その行為を解釈することは不可欠であろう。


「――――」


 自然に、居住まいも正される。大河もイリヤも、彼女より少し遅れて、コトの当事者が揃ったことに気付いていた。それは、道場の中でも、その外でも同じことである。浮ついていた空気が、士郎と綾子の持つ雰囲気により、静謐かつ重いものに変わっていくことを、セイバーは感じ取っていた。









「…………」


 自然と、深呼吸になってしまう。この緊張感がたまらないのだ、と思いつつ、それに圧し潰されないための動作も、体が既に覚えていた。
 隣に居る、彼の存在感。否応無しに感じるそれは、無言のプレッシャーとなって綾子の上に圧し掛かっている。


(……だけど)


 それを意識しては、到底超えることの出来ない存在でもあった。それは結果であり、後からついてくるもの。今は、対峙する者、見る者、全てを排除して、ただ自分との戦いのみに没頭するのが、この次だ。



 勝負の方法は、射詰競射。己が外すまで交互に放ち、的に中る回数が多い方を勝ちとするやり方、平たく言えばサドンデスである。理論的には、互いに中て続ければいつまでも続く形式。だが、衛宮士郎という達人を相手に回すならば、勝負の方式はこれでしかあり得ない。

 射手の雰囲気に、道場内、のみならずギャラリーまでもが息を止める。緊迫感が漂う、というのは、こういう状況を差すのに他ならない。

 何せ、声が出ない。先ほどまでの浮ついた、例えばどちらに賭けたかという俗な話や、どちらが有利かという居酒屋的な会話が氾濫していた周囲と、明らかに違うのだ。

 二人が弓矢を手に取り、己と向き合い、本座へと歩みを進める。纏う空気は、ほぼ同じと言っていい。既に、そこに居るのはただの高校生射手では無い。互いが精神を研ぎ澄ます様は、達人同士の手合わせに似た張力を持つかのようである。

 ひとつだけ、違うとすれば。それは、そこに到るまでの過程であろうか。


 衛宮士郎は、「自身」の在り方ゆえに。
 美綴綾子は、衛宮士郎の在り方ゆえに。


 互いが、自分をそこまで高めることが出来たのである。


 その線が交差することは、無い。士郎がどこに向かっているのか。綾子の目指す先が何処なのか。それを見極めたならば、答えはいとも簡単に出ることだ。永遠の追跡行。士郎は、ただ、目的に向かって真っ直ぐと進む。綾子も、そんなことは百も承知。


 それでも、いつか超えてやる、と。
 尚誓えたことが、彼女の強さであった。


 だが、聡明でもある。超える、と思うが故に、その背中ばかり見ていては永遠に距離は縮まらない。
 超えるということは、背中など見なくなる、ということである。


 その為に。彼女は、己と対峙し、超えていくことに辿り着いた。
 アレを超えたか超えないか。それは、結果でしかない。
 己を高めて、そして、ある時に気付ければ、ヤツに放言してやればいいだけのこと。


 あたしは、ここまで来た、と。



 ――――そうすれば。
         アイツだって、少しは―――















   セイバーの感じる空気も、周囲のギャラリーと同じであった。いや、より真に迫ったものを得ていた、と言って良いだろう。古の時、そうした対峙は無数に見てきた――だけでなく、他ならぬ彼女自身がその一方であったことも、数知れない。経験から紡ぎだされる感受は、素人のそれとは明らかに別である。

 同時に、異質なものも感じていた。彼女は、そして他の騎士、武芸者達は皆、相手と向き合っている。如何にして、目の前の相手を超えるか。それが模擬戦であれ戦場であれ、自己鍛錬でも無ければそれを先ず考える。セイバーはそういう意味で、どこまでも「兵法家」であった。

 だが、綾子と士郎は、違う。衆目から見れば、互いが互いとの対決に向けて闘志を高めている、と見るのかもしれない。
 セイバーはしかし、悟っていた。それは違うのだ――と。

 己との対峙。彼女が書物の上だけでも垣間見ることの出来た、精神の在り方。
 それは今当に、眼前で展開されている二人の姿そのものであった。

 セイバーは、息を呑んでその動作を見守っている。形式通りの動作、だが、それは「形式で定められているからそうしている」のではない。何千、何万と繰り返したその動作のうちで、彼らは己を乗り越える道を辿る。弓を引く、という行為の中で克己する時、彼らがその形式を辿るのは、当為と言っていい所作そのものとなる。


 ……と、すれば。
 これはもう、相手を持つ「勝負」では、ない。


 それはただ、己の内。思い描く軌跡みちを通り、思い描くおのれ中るいたるかどうかの、純粋な行。

 綾子は、幾度と無くその道を通ってきた。「弓道部」に在籍して二年と半。その何時までの的が「士郎」で、何時からが「自分」だったのかは、彼女自身でも分かるまい。だが、それだけの数――――彼女は、道を歩んできた。それは、誰も否定し得ない、事実である。



 では。
 衛宮士郎は、どうだというのだろうか?



 少し、跳ねるように動いた自分の心音を、セイバーは胸を押さえて鎮めにかかる。彼にとっての軌跡とは、そして、的とは、一体なんであったのか。



 少年が、背負うと決めたもの。
 衛宮士郎が、受け継いだもの。




 目を逸らしたくなる衝動に耐え、セイバーは二人を見つめ直す。
 今、当に。彼女の戦いも、また、始まろうとしているのだ。












   射法八節とは、射の動作を八段階に分け、それぞれに名をつけたものである。



 一、足踏み。即ち、射位で的に向かい、両足を踏み開く。

 二、胴造り。即ち、足踏みを基礎に、上体を安静に置く動作、構え。

 三、弓構えゆがまえ。即ち、矢番え、弓引きに前置される準備の段階。

 四、打起しうちおこし。即ち、弓、矢を持った両の拳を上方に持ち上げる動作。

 五、引分け。即ち、打起しの位置から、弦を引き、弓を押して、両の拳を引き下ろしつつ、広げる動作。

 六、会。即ち、引分けを追え、的に狙いを定めて引き絞っている状態。

 七、離れ。即ち、矢を放つ――あるいは、矢が放たれたこと。

 八、残心。矢が放たれた後の状態。



 この一連の流れの中、射手は己と対峙し、描く軌道に矢を放てるかどうか、そこに到るか否かが決まる。


 先に射るのは、美綴綾子。大河が適当にコイントスで決めた順序であるが、彼女はその僥倖に感謝した。先に射る、ということは、先に自分との闘いに没入できる、ということでもある。そうなれば、あとは自分のフィールド。前に射られたならば、その具体的な軌跡を消すのにそれだけ労力が居ることになる。

 何せ、見なくても、分かる。それくらい、衛宮士郎の射というものは、彼女の中に深く刻み込まれている残像なのであった。そこに一分の乱れも見出すことは無いのである。それは昨日も目にして、再確認した事実。  どこまで、自分はやれるのか。全く、彼女自身ですら分からない。
 大海原に漕ぎ出す舵取りのような。そんな心持で、彼女は、静かに戦いへと踏み出していった。







 予想に反して大規模な催しにはなったが、建前上は「演武」のようなものである。士郎の肩書きが指導員待遇なので、練習の模範を示す、というのがお題目であった。つまり、審査や公式の大会でない。形式も、簡易版と言える立射である。


 射手二人は本座にて一礼し、射位へと左足より歩みを進める。先手の綾子はゆっくりと、しかし確実に、己が幾度と無く行ってきた行為を、其処に再現する。




 執弓の姿勢を保ったまま、目線は的に。上半身は右正面へ向け、ゆっくりと両脚を踏み開く。


 下の姿勢が安定すれば、目線は的から切られ、体の正面を向く。
 手にする矢は、四本。それを足許に置き、甲矢、乙矢の二本を取り直す。
 次いで、築き上げた下肢の安定を礎に、上体を安寧に落着させる。重心を身の中心に定め、心気を丹田に収む。


 射る順は、初に甲矢、次いで乙矢。射に到る基礎を定めたならば、その姿勢、気力を保持しつつ、甲矢の矢筈を弦に番える。
 妻手めてを弦に取りかけ、弓手ゆんでで弓を握る。
 固くではなく、あくまで柔に。
 そして、再び的を――到るべき点を、注視する。



 整えた気力、姿勢はそのままに、呼吸にあわせ、弦を、そして弓を持つ両拳を同時に掲げる。
 北東、同じ高さに。そして、矢はあくまで水平に。流れは自然の運行――太陽が、月が昇るが如く。


 打起こされた弓は、左右均等に引き分けられる。
 掲げた時と同じく、両の拳は水平のまま。
 腕の力ではなく、体を使い、弓矢・身体で十文字を構成する。


 そして、「会」。
 射る直前の段。が、それだけの節では、無い。
 的中の可否、周囲の存在、疑念、雑念。あらゆるものを排することが、出来るか否か。
 端から見れば、一瞬。だが、射手は当に、克己の道中にある。
 あるいは永遠の過程。踏みしめて来た射法の道程が、そして、己の歩みが、凝縮される刹那。
 到り、残るは充溢せし気力、そして、完成された形。



 そこで、綾子の矢が放たれる。
 何時、放ったのか。それすら、感じさせることは無い。
 精神の完成が熟した機を告げ、矢を的へと誘う。


 清涼な弦音が、静謐な場内に響き渡る。
 手を離れた矢は、過たず的へ。
 綾子の視線も、また、的に向けられている。


 が、その視線は、的中を見ているのではない。
 放たれた姿勢は、踏破した道程の結実である。
 その先にある、末。彼女が見据えたのは、その一事のみ。


 湧いた歓声にも、十字が揺らぐことは無かった。
 静かに弓を倒し、的にやっていた目線を再び体の正面へやる。
 踏み外すことの無かった一の道程を経て、つぎへ。
 隣の動きは、まだ彼女の埒外であってくれている。



 それは、かつてない完成度だった。  これならば・・・・・あるいは・・・・―――――――
















 綾子の一の矢が見事に的を捕らえ、満場から喝采の声が上がる。だが、その声が当の綾子に届かないのと同じく、隣に佇む士郎にも、周囲の動いた空気は伝わらない。

 直ぐに喝采は収まり、動き始めた次の主役へと目線が集約された。実しやかに囁かれる「伝説」。今当に、その本人が、矢を引かんとしているのである。

 行程自体は、綾子のものと寸分違わない。足踏み、胴造りで気力を、そして姿勢を整え、弓を構え、矢を番え、打起した後、引き分ける。だが、「違い」ならば、程度の差はあれ、伝わっていた。

 綾子の持っていた威厳、行為の端々に滲み出る威圧感、そう言った類のものが、士郎のソレからは感じ取ることが出来ない。あるいは、普通の聴衆ならばこう評するのかもしれない。「淡々としている」、と。


 だが、少しでも弓を、あるいは武技を知っている者ならば、その表現が違った風に感じられる。
 淡々と、ということは、それが特別な動きでは無くなっている、ということであった。


 横たわる大河とて、その流れがはっきりと見えなければ、人々の目には「普通の川」としか映らないだろう。だが、そこには厳然と、自然の法則に従った「水の流れ」が存在する。
 士郎の射は、あるいはその「流れ」に喩えられるのかもしれない。「自然体」で引かれる弓は、まるで予めそう決まっているかのように、滑らかに動き、そして、行為を再現していく。


 高らかに打ち起こされた弓矢が引き分けられ、「会」の段に到っても、綾子が発したような、一種の緊張感は生まれない。十分に引き絞られた矢はそれ以上動かず、しかし、腕に蓄積されていく力、そして充ちていく気は、見ていても分かる程に明らかであった。
 それは、「引かぬや束」と呼ばれる、達人の到る業である。だが、それでも尚、その一連の動作は「自然」な流れでしかない。見る者もまた、それが当然のようにしか、見えないのである。


 流れのまま、士郎の矢もまた放たれ、中る。
 結果は、綾子のものと同じである。だが、与える印象は、やはり違う。「伝説」と呼ばれる射の正体に、聡い者は、少しずつ気付き始めていた。


 其れは、「中る」に到るまでの自然の流れ。川が、海に注ぐのと全く変わりは無い。
 正射必中。当に、この言葉を体現するのが、士郎の射であった。










   綺麗に弾かれた弦の音色。次いで、凪の水面に小石を投じるが如き音が響く。過たず、矢は的の中心へ。
 呆気に取られた、と言うのが正しいのかもしれない。あまりに自然な流れは、其れが特別なことであることすら忘れさせてくれる。


 どよめきや歓声は、ほとんど上がらなかった。ただ、一人の例外も無く、矢の軌道には引き入られるように見入っている。
 人が、何の造作も加えていない原野の景勝に魅入られるのと、あるいは似ているのだろう。無造作に見えるそこには確かに、秩序と呼ばれるものが存在し、躍動するエネルギーを感じさせてくれる。論者によっては、其処に「青写真」を見出すくらいに。



(……なん、と)


 それほど、衛宮士郎の射は圧倒的だった。
 セイバーも、引き入られたという意味では、他の観衆と何ら差は無い。
 美しい、と。無駄な意志も、不自然な所作も、一切排除した形。
 その造形に、ただ圧倒され、感動している。彼を最も良く知っているのは自分だ、と、そう思っていた。だが、またしても、セイバーは彼に驚かされている。
 新しい――のかと言えば、それには疑問符が浮かぶ。何時だって士郎は士郎だし、目の前で完璧な射を見せてくれた彼だって、それは「衛宮士郎」であることに変わりは無い。

 あくまで、彼は彼のまま。その、ひとつの示し方に過ぎないのだろう。


 だからこそ、見入った。彼は、こんなにも美しい。
 衛宮士郎という少年が彼女に見せてくれた、これも、彼の本質の内。


 だが、と、セイバーは再び、視線を士郎に戻し、気持ちを入れ替える。初見で、その技量、形のほどは明瞭に理解できたのだ。だが、其処に感じたものの中に、不安や焦燥を掻き立てるものは、未だ無い。

 次は、その先。士郎の射が示すものが何であるのか。外形ではなく、本質を見極める段である。













 自分でも、その好調さは怖いくらいであった。

 二本目、再び矢は的に中る。だが、綾子にとってそれは二の次でしかない。
 そこに到るまでの過程。そして、離れの瞬間に頂点を極める、己との対峙。

 それらの行程が、かつて無いほどに完璧なのだ。集中している、と言えばそれまでだが、それは今であっても積み重ねた練習であっても変わりは無い。

 それ以上の要因があるとするならば、それは。



「――――」


 再び、場内からどよめきが起きる。綾子の放った三本目の矢も、的を捕らえた。多少外周に近くはあるものの、中てるか外すかのみが問題となる以上、今この場でそれに関る思考は意味を成さない。

 同じく、士郎の矢も外れることは無い。全くの互角。結果、綾子は士郎に対し、後れることなく張り合っている、ということになる。

(そうか、あたしは今……)

 同じ平面に立っているんだな、と、綾子はふと考えた。それは同時に、過ごして来た2年強が間違いでなかったことの証左にもなる。まだ新入部員だった頃、隣で射ているヤツを、目標にしてしまった自分。それに追いつこうとして、得た答えらしきもの。

 かつてない精神の充溢が、それを実感させている。限りなく、同じ境地で。衛宮士郎の隣で、あの日、憧れた射手の前で、自分は自分と対峙しているのだ、と。






 だが。
 その意識は、綾子の限界を示すものでもあった。












   八本目の矢も、互いに外さず。一応立会人という名目になっている大河の指示で、的が架け替えられえる。尺二寸(36cm)の的から、八寸(24cm)の的へ。それでも尚、決着は何時になるか、誰にも見解は見出せない。

 何せ、士郎の矢は8本とも、綾子のそれも7本まで、八寸にしてもその内側を捉えている。冷やかしで見に来た者も、部員として二人を模範としようとする者も、あるいは、真剣にその姿から何かを汲み取ろうとする者も。皆、共有する意識がある。

 互いの卓越した集中が、高密度な矢の痕跡を可能としているのだ、と。そのことだけは、誰の目から見ても明らかであった。

 二人はしかし、その間にも集中を切らすことは無い。弓道には「澄まし」という用語がある。即ち、本来の自分を見つめ、雑念を払う。この段になっても、あくまで対峙するのは自らであり、それは己の内的世界で行われる鬩ぎ合いに他ならない。

 ただ、……それには、本人でさえ、気付くことは無かったであろう。
 ことの起こりとは、得てしてそういうものなのだ。始まりは、ほんの小さな裂け目であっても。そこから入り込んだ湧水が、岩を割ることすら、往々にしてあるように。

 的が替えられ、再び起った綾子の心中。
 あるいは、それに類するものが、其処に巣食っていた。










「……!」


 九本目。果たして、その異変に気付いた者が、観衆の中、何名居たであろうか。少なくとも――大河やセイバー、桜は、僅かな表情のぶれを見逃さない。

(綾子……?)

 セイバーの表情が、僅かに曇る。内心の動揺――極限で戦う者が知る、一瞬の変化。それを、彼女の眼は捉えていた。


 綾子の矢は、中りはした。だが、残心の段にある彼女は、明確な違和感を感じ取る。

 暑い最中である。風すらも殆ど無い日中は、影に居る射手をも苛む環境と言っていい。綾子も士郎もそれは例外でなく、浮かぶ汗は隠しようも無いほどになってきていた。

 だが、綾子が感じた違和感は、そうした体の変化では無い。
 気力を充たし、自然と放たれ、中る。それが彼女の八本目までの矢だとすれば、九本目は彼女にとって、それとは明らかに異質のものであった。

(……え)

 それは、当事者ですら以外であった感触。それまで、そこに在ったのは、ただ自分のみ。いや、会を経て、離れに到る瞬間、その自分すら消え去り、矢がひとりでに・・・・・放たれる、その境地に彼女は到っていたはずだった。

 だが、今のは、違う。その純粋な境地とは、明らかに異質の離れ。
 正体も、彼女には分からない。ただ、その瞬間、彼女は何かを意識して・・・・・・・、矢を放していた。

(何だ、今の……)

 結果だけ見れば、的中。それも、矢は取り替えられた的のほぼ中央に刺さっている。
 だが、結果は、結果でしかない。そこに到る過程に間違いがあったならば、それは射手にとっては何の意味もなさないものだ。




 完成された射にしか、意味が無いのに。
 殊、衛宮士郎と対峙する・・・・・・・・・、今――――  












 綾子の動揺を余所に、士郎は難なく九本目を成功させる。それまで、士郎の自然体に見惚れていた周囲ですら、声を上げるほどの「ど真ん中」。だが、それに心を動かされていては、この場に立つ資格が無い、と、綾子は再び己の中での戦いに集中しようと試みた。


 だが――――


(……っ)


 この競技が始まって、初めて綾子は焦燥を覚えた。
 集中しきれていない。足踏みから丹念に動作を構築していくが、最後の所、正体不明の雑念を消す事が、出来ないでいる。



 十本目――――中りは、した。だが、内心の動揺は、覆い隠しようの無い所まで平静を侵食している。残心の姿勢、的に目を向けた自分が、無心になり切れていないのを、何よりも彼女自身が感じている。


(……なんで)


 綾子は、歯噛みして己が不甲斐なさを呪う。ここまで、あれほどの射をしてきたというのに、ここに来てこの様だ。
 原因の不明瞭さが、余計に彼女を苛立たせる。分からない。これまで、集中できないことなど何度もあった。だが、自分と対し、雑念を鎮め、そういう状態とは常に戦ってきた筈なのだ。

 そして、必ず克服してきた。目指す高みに想いを馳せれば、そこで立ち止まっている訳にはいかないのだ、と。
 だと、いうのに。こんな大切なところで、自分は――――


(まだ……!)


 まだ、終わっていない。
 まだ、終わりたくない。
 だって、今、終わってしまったら―――――――



 並んで戦っている、この時間が終わってしまう。
 もっと・・・アイツと・・・・、張り合って、居たい、のに――――














(――――ぁ)














 そうして、綾子は、己の敗因を直視した。
 何ということは無い。それは結局のところ、ごくごく単純な一事に過ぎなかったのだ。


 キリ、と、胸が痛む。
 成る程、まだまだ修行不足。それはやっぱり、不可避の原因だったのだ。


 動揺した心のまま、綾子は弓を引き、そして、離す。
 その、持ち主の心を反映した弦音は、わずかな乱れを残し。


 矢は、的の僅か下を、虚しく通って行った。









 衛宮士郎と、並んで、弓を引いている。
 アイツと同じ平面で、勝負できている。


 かつてない集中も、過程も、全て、隣の人間に起因したこと。


 そう、……それは、最初から、綾子の胸の内にあったのだ。
 彼女自身が、無心に到りて、尚。その存在を、彼女は胸に抱き続けていた。


 “衛宮士郎”という存在を、無に出来なかったこと。
 最後の矢は、未だ修行不足の自分に向けた、戒めの外れだったのかもしれない。













 その結果に、満場がどよめいた。
 端から見れば、それまでほぼ完璧だった綾子の射が、突然乱れたというようにしか映らないのだろう。
 だが、内心の動揺をわずかながらも感じ取っていた大河や桜、セイバーにとっては、それは必然の結末であった。

 それを見届け、士郎が行射に入る。観衆の、セイバーの、そして、今や自らの戦いを終えた綾子も、彼の動きに見入っている。

 今、当に。最後の一矢が、放たれようとしていた。


















 余程心構えをしてきたのだが、結果的にいえば、拍子抜けだった、と言うしかない。


 そんな風に、セイバーは考えていた。不吉な予感――それは、彼が義父と仰いだ人の姿を、彼女が知っているからか。いずれにせよ、セイバーが間近で感じた事実――衛宮士郎には、「自分」が無い――そのことが、あるいは弓道に言う「無心」の境地を生んでいるのだろう、と、そう考えていた。

 それは、外れては居ない筈だった。そこに居るのは確かに、「衛宮士郎」その人である。彼は彼の在り方そのままに射て、そして中てている。何処までも自然体、それでいて、意識せずとも「無心」になれる。それが、彼の卓越した技量の正体である。

 だが、その先にセイバーが考えていたことは、些か見当違いだったのかもしれない。
 あるいは――――




 その姿に、彼女は目を奪われる。放たれた矢が、過たず的を得る。正射必中、百発百中。それは彼の在り方を示し……あるいは、その未来を暗示しているかのよう。

 だが。その先に見えるものに、セイバーは不思議と不安を感じなかった。
 今、目の前に居る「彼」は、確かに、真っ直ぐに道を歩いていくだろう。
 なのに、その姿に危うさは感じられない。「自分が無い」……などと、そんなことを自分に感じさせたくせに、今の彼はしっかりと其処に居てくれる。
 確固たる意志。それが、彼に在ることが、感じられたから。

 具体的なものは、分からない。だが、それが悲観すべきものでないことを、彼女はどことなく感じ取っていた。
 真っ直ぐで、向こう見ずなだけでは、無い。
 無心の、その先に。彼は、何かを見出している――と。セイバーは、彼からそう伝えられているかのようだった。

 全く、堂々としたものである。何故そうなるのか、セイバーには、そこまでの理解は及ばない。しかし、時間は半永久。とすれば、ここで得たものを基礎に、士郎をもっと探求し、理解を深めるのが、これからの自分の役目である。

 しっかりと、不安を与えさせない士郎の姿。それだけで、今は十分すぎる。
 彼が歩み、そして、自分が側で支えるならば――その道を外すことは無い、いや、外させることは決してない、と、今。セイバーは、確信を持って彼を見ることが出来ていた。


(ふふ……)


 そうなれば、格好良いものではないか、とセイバーは思った。

 正直、ずるい。こんなにカッコいいところがあるならば、出し惜しみせずに見せてくれれば良かったのである。
 真剣な表情も、今は、少し和らいだ。今はただ、しっかりと、その勇姿に浸らせてもらおう。……自分を、ここまで心配にさせたのだから。



 まあ、それくらいさせてくれても、罰は中らないでしょう? シロウ。















   まだ、勝負は決まっていない。だが、彼女は、敗北を誰よりも早く認めていた。
 それは、士郎が百発百中を誇る射手だから、では無い。自分の中。無意識下、彼の存在を最後まで無に落とし込めなかった、己の戦いにおける敗北である。

 とすれば、もうこの競技に意味は無かった。彼女は姿勢を崩さない。しかし、どこか晴れやかな気分で、何の気兼ねもなく、士郎の射を眺めることが出来る、ということは、確かである。


(へえ……)


 改めてみれば、其れは、あの時と全く変わらなくて、その実、とんでもなく変わっている。

 変わらないのは、その完璧さ。足踏みから胴造りを経て、気力が全身に漲る様子。見事なまでの均整を誇る打起し、そして引分け。完成した十文字は、射手の理想系そのものだった。

 変わったところは、与える印象。かつて、綾子は畏怖すら覚えたものだった。
 何故、中るのか。どうして、彼は、外さないのか?
 いくら見ても、分からない。その完璧なことは分かっても、彼を其処までに導く精神の行程に、全く理解が及ばなかったのだ。

 それから、二年と少し。弓道部を彼が去ってからも付き合いは続いていたおかげで、何となく見えてきたことがある。どこまでも人に尽くし、頼まれたことを無下にしない少年。それはきっと、自分を押し殺してでも、他人の為に尽くす事が出来る人間だから出来ることなのだ、と。

 とすれば、射の時だって、自分を無に出来ていたのだろう。雑念の一切入らない、無心の境地。そこに空恐ろしさを感じたのも、「何も無い」ことへの漠然とした恐怖だった、と、思える事が出来る。



 だが、今はどうだろうか。



(ホント……)


 変わったな、と、彼の隣で綾子は思う。昨日も薄々気付いていたことだが、そんな不安は、今の彼からは伝わってこなかった。
 威風堂々。ただ、其処に、完璧な射手が、確固たる存在として、在る。

 それが何故なのか……を考えたとき。綾子にはひとつ、思い当たる疑問ことがあった。





 あれだけ説得しても、動かなかった士郎。だが、ここに来て彼を動かしたものは、何だったのだろうか?





 その答えを、綾子は感じ取る。「自分が無い」士郎なのに、その存在を感じさせるのは――――


(……なるほど、ね)


 彼女の斜め後ろに居る、少女。セイバーという、彼の想い人。
 士郎にとって、何より大切な人であることを、綾子も良く知っている。

 その人が、彼と共に在るならば。その不安を消し、安定を与えてくれているのは、彼女の存在であろう、と、彼女は思い至ったのである。

 思えば、なんとも似ているのだ。綾子の無二の親友でもあるセイバーを前にしたとき、彼女から感じる安心感。それと彼の射を合わせれば、きっと、こんな感覚を得られる。
 二人を良く知り、親しくしている友だからこそ、――――綾子は、それを理解することが出来たのである。


(あはは……うん、なるほど……)


 超えようとした存在は超えられず。そして、その中に在る少女の存在を感じた。
 完膚なきまでの、敗北である。

 綾子は士郎の姿を眺めつつ。
 それを、はっきりと認めていた。





 そうして、矢は放たれる。
 当然のように、真っ直ぐな軌跡を描き、其れは的を捉え。
 勝負の結末は、誰の目にも明らかになった。

















 何より大切な「自分」を、喪ってしまった少年。
 だが、誰よりも大切な少女が、今は其処に存在している。

 剣と鞘、と形容されるように。二人を結ぶ絆は強く。「衛宮士郎」は、セイバーを側に迎えて、再び世に存在している。

 存在すれば、居場所が出来る。そして、其処で、周りとの繋がりが生まれていく。少女達が感じた、安心感は、当に其処に起因するものだった。


 傍らにセイバーが居なければ、それも叶わぬこと。
 だが、今、彼と彼女は、ここに在る。そして、綾子や、様々な人々と、共に過ごしている。


 無心の先に、在ったもの。
 其れは、彼が確かに、そこで存在する証であった。





 epilogue.



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