蝉の音が気になり始めて、どれくらいになるだろうか。周囲にはそれなりの緑が残る朝・衛宮邸の玄関にも、そんな季節の音源はしっかり届いていた。

 板敷きの上にはありふれた鞄と、少し特殊な荷物。それらの主である衛宮士郎は、昨夜に想いを馳せつつ靴べらを取る。

「シロウ、忘れ物です」
「っと、悪い。コレが無いとキツイからなー」

 弁当までは完璧だったが、添える水筒を忘れては片手間もいいところ。今日のような炎天の下では水分補給が必須となる。冷え切ったお茶を魔法瓶に備えて登校するのは、生徒の常識と言っていい。余談になるが、彼が2L入りのそれを忘れると、同学級男子数人が水源を失うことになる。

 水筒を受け取りつつ、士郎はセイバーに声をかけた。

「ありがとう、セイバー」

 その言葉は、二重の意味を持つ。忘れ物をフォローしてくれるという、彼女の気配りに対して。そしてもう一つ、彼の背中を押してくれたことにも。

「ふふ、どういたしまして。それでは、シロウ――――」

 こうして見送ってくれる人が出来て、それからは登校前の些細な時間さえ大切になった。そんなことにも、彼は感謝の言葉を述べたいと思う。

「いってらっしゃい。帰りをお待ちしています」
「ああ。行ってくる」




 見上げれば、空は透き通るような青。そんな陽気に心を晴れやかにしつつ。彼は荷物を二つ携え、家の門をくぐった。









 数は少ないとはいえ、学校への坂にはぽつぽつと生徒の姿が見える。彼とて知り合いは少なくない。そんな中には、彼が所属していた部を知る者も居た。肩に担いだ荷物は注目度としてはそれなりで、


「あれ? どーしたんそれ。復帰?」
「んー、半分当たりー」


「おはよー衛宮。そうか、ついに弓道部も本気で全国を……。我が高の武名、君に託した」
「おはよう。その辺は藤ねえに頼む」


「……へー。上手くやったんだ、綾子」
「……驚かんぞ、今更」


 などと、反応も様々。一々ある程度真面目に返答しつつ、ラストの奴あかいあくまだけには蹴りをくれてやる。勿論のこと、サラッとかわされる挨拶のようなものである。


「んー、でも意外だったな」
「何が」
「もうちょっと時間かかると思ったんだけど、ね。どんな心境の変化? 出来れば師匠として把握しておきたいんだけど」
「人の内面に踏み込むなー。言っとくが、読心も禁止だ」
「……そっか。その手があったわね」
「…………」
「な、何よその顔! ホントにやるわよ!?」


 得難い友人のうっかりを再確認しつつ、歩みは学校へ。凛は色々探り出そうとするが、まるで暖簾に腕押しだった。彼に特別な気負いも、まして特別な日だという認識も、今や無い。

 あと半年となった学園生活を、いつも通りに過ごす。その中で、綾子との約束を、こんな形で果たそうというだけのこと。


 登校途中の師弟漫才、それが校門を潜るまで続くのも、普段どおり。
 さて。今日は、どんな一日になるのだろうか。










 頭上より容赦なく照りつける太陽から、そしてまた、彼の荷物に追及の矢を放つ朝練陸上部員から逃げるようにして屋内へ。暑いながらも湿度がそう高くないからだろうか。校舎の中は夏とはいえ、屋内に相応しい冷気を湛えていた。

 下駄箱発廊下経由、そして教室へと彼は進路を取る。早めの出陣だった為、クラブ組以外の生徒はまだ少ない。窓からふと外を見れば、陸上部と並んで野球部がランニングを敢行している。……何故か、大河がその集団を牽引していることについては、彼は深く考えないことにした。3年にとっては最後の夏。悔いの無いように予選を迎えるなら、ある意味最良の選択と言えなくもないからだ。



 廊下を進み、彼のクラスまでもあと数歩を残すのみ。校舎に入ってからは数人、普段の付き合いはあまり無い人間と挨拶を交わしただけだった。

(……けどま、こんな時は大抵……)

 彼の予測では、それで終わるはずも無い。大抵こんな時は、会ってしまうものである。朝練の途中だろうが、そんなことは関係なく。聖杯戦争を駆け抜けて醸成された彼の第六感が、それを告げる。



 案の定……と、言うのか。がら、と開いた教室後方のドア。昨日よく見た栗色のショートが、通った風に靡いている。


「――よっ!」


 視認は一瞬。その間も感じさせない明るさで、綾子は笑った。少年の肩に掛かる荷物がその理由。あんまり嬉しそうに見えたから、彼も釣られて苦笑した。


「おはよう。これ、頼んでいいか?」


 おう! とそれだけ言い、ぽん、と肩を叩き。彼の弓を持って、綾子はそのまま駆け去った。一成辺りが見たら目くじらを立てる光景だろう。だが士郎は、そんな彼女の背中から爽やかさを感じる。言葉にしなかった「また後で」は多分、当然すぎて忘れたのだろう。





 それが日常だった日々を、もう一度始めようとしている。
 だから、そう。特別に気負う必要も何も無い。肩の荷物を託した彼は、本当にいつも通りの心境のまま、教室に入っていった。



 ……to be continued.




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