「先ほどは申し訳ありませんでした」
「あ、どうもー」



 セイバーの手にはコップが3つ。薬缶に入った烏龍茶にも漸く出番が来て、それぞれのコップを満たしていく。先刻、コペンハーゲンで振舞われたものとは別の味わいだが、やはり家主の茶葉選択がいいのだろう、と綾子は思う。冷えた咽喉越しとその後に残る爽快感が何とも素晴らしい取り合わせ。

 用意された和菓子に飲料の援軍も得たからだろうか。気の合う者同士3人、自然と話にも花が咲く。セイバーは学校での士郎のことを聞きたがり、綾子がそれに応えて士郎に関する学内の逸話を余すところなく語る。士郎はバツが悪そうだったり、照れていたり、慌ててツッコミ・口止めを入れたり、それをセイバーに見咎められ、説明を求められたり。

「――――だからコイツ、一部では“穂群原のリペアキット”とか呼ばれてるんですよ」
「……成程。献身もほどほどに、と諭してはいますが、やはりシロウは……」

 その表現で間違いは無さそうだ。というより的を射過ぎている。万事、言い出さない限り無償で修繕作業を請け負ってくれる士郎の存在は、学内でちょっとした評判だ。“近いうち良い万事屋になれるぜお前!”と言い放った黒豹の言葉が、その辺りを良く示している。

 じと目。似合わないそんな表情で士郎に目をやるセイバー。さもありなん、綾子の話からすれば、いつもの諫言はやはりいつも通りスルーされている模様。せめて自分が側に居れば、と幾度彼女も思ったか知れない。

 そんな、何か言いたそうな彼女の視線をモロに受け、しかし士郎は臆することなく真っ向対決。

「……む。皆が喜んでくれるならそれでいいと思うんだけど、どうだろう」
「滅私も大概に、と私は申し上げています。家臣の自主性を高めるには、時に委任することも大切です。シロウが何にでも力を貸すことはそういった所で弊害にもなりえます」
「……そう来たか……」

 そして敗北。セイバーが王様時代のことを言い出せば天下無敵。家臣を語るに「獅子王曰」などと冠されては、史上ほとんどの人間はただ平伏すしかないだろう。何故ならば、それは体験に裏打ちされた冷徹な真実であり、

「人を助ける。素晴らしいことです。しかし、自助の精神もまた大切なのです。学友の成長を促す為にも、自分の行為が彼らの人生にとて益となるのかどうか、考えていただかなくてはなりません。……聞いていますか、シロウ」
「…………はい」

 そして特に彼にとっては、愛妻のツッコミそのものだから。道理に太刀打ちできない正義の味方は何時でも彼女のシリの下なのだ。

「……くく」
「何がおかしい、美綴」
「その様子。や、いいですねえ夫婦ってのは!」
「な……ふ、夫婦……ですか……や、吝かではありませんが……それは……」

 そんな様子が面白い。飄々とした学校での士郎からは到底窺えない、反省モードの表情が。キリリとしたセイバーが滔滔と述べる正論に、反駁も出来ない様子とか。確かに学校で一緒に居る時間だって沢山あった。だけど、まだまだ知らない所、多かったんだな、と。




 もっと早く知ることも出来たらな―――――
 綾子は、そんなことさえ思っている。




(あー、……なんだな)

 得難い友人達。ちょっとだけ胸に引っ掛かる想いは、きっと気付かない方がいいのだろう。だけど、何時までも、この二人とは仲良くやっていけそうで、そんな友情を得られたことは僥倖だった、と綾子は思う。
 だから、きっと決着をつけたい。きちんと一緒の場に立って、そんな掛け替えの無い時間を過ごせたことを、悔いの無い形でもう一度。
 そうしないと、きっと後悔するだろう。

(だから、帰ってきて欲しいんだろうな、アタシ)

 笑って、青春ってヤツを一緒にコイツと、もう少しだけ過ごしていたい。これからも続いていく友情に、確かな素晴らしい時間が、その基礎となることを願い。少しだけ、遅かったこの想いが、このまま無駄にならないように。



 少女は、心からそんな会話を楽しんだ。続きは明日すればいいし、その続きだってまたどこかで出来るはず。



「コイツ、案外ムッツリなんですよ? これはアタシの読みなんですけど、多分衛宮は遠坂に」
「待て美綴! その先は――――ゴフ!?」
「綾子、続きを。凛にどうしたというのです?」



 夜は更ける。笑い声は尽きない。そんな明日を弓道場で迎えることが出来れば、それはどんなに素晴らしいだろう。
 打算とか勝負とか、もうそんなことはどうでもよく。綾子はいつしか、ただそんなことを純粋に願うようになっていた。












「というわけで、明日また、でなッ!」


 強調も強調、三文字共にvのマークを上につけたいほどの発音で、綾子はそう宣うた。それが5時間ほど前、彼女が衛宮邸を辞する時のセリフである。

 捨て台詞でそう言われては「明日回答求ム」と最後通牒されたようなものだった。まだ考え中、と牽制していた士郎にとっては、ある意味敗北の瞬間である。綾子は行動が速い。彼が反駁しようかと思った瞬間にはもう、その背中は遠ざかっていた。



(むう……)


 所変わって、夜の帳も下りて久しい。愛しい人の寝息は心を落ち着かせてくれる何よりのBGMだが、今日に限ってはそれも通用しないようだった。

(さて、どうしたもんかな)

 仰向けから体を90度回転、士郎はセイバーの方に向き直る。無垢な寝顔に和む思いはしたが、妙案は浮かばない。まあ、それも道理。今の彼に選択肢は二つしか見えていないのだから、策も案もあったものではない。

 どちらを選んでもそれなりにグッドエンド、そこそこにバッドエンド。綾子との約束は果たせる。桜や藤ねえは喜んでくれるだろう。だが、その他の部員はどう思うのか。射る場所は限られている。彼一人が部に戻れば、それだけ練習時間は減るだろう。もし本格復帰なんて話になれば、大会枠の関係もある。それを受けても辞退しても角が立つ。ああそう、こういうのが袋小路というのかとかなんとか。

 懊悩は深い。もっとも、事態はもっと単純なはずなのだが、人間迷い込めば色々と見えなくなるものも多いのだろう。他人が大切な彼にとっては、確かにそうなるに十分な課題だった。

 ただ、彼は一人ではない。得てして、一人で答えが出ない時は相談すればいいものである。彼は意地っ張りでもあったので、自分からは言い出さないのだが、傍らに添う彼女はそれを補って余りあるほどの洞察力&包容力を持っているのだ。


「ん、……」
「あ」


 久々に竹刀を共に握り、運動した分体も活性化していたのだろうか。先刻の夜は少しばかり烈しく、セイバーも疲れたのか、眠りに入るのは早かった。彼は当然、その眠りもまた深かろうと思っていたので、多少不意打ちを喰らった気分。

「悪い……起こしたかな」
「……いえ。自然に目が覚めたのですが……ふぅ……」

 士郎が物音を立てたわけでもなければ、彼女に触れていた部分――――腕枕を動かしたわけでもない。それでも尚、こんな時に目が覚めてくれるのだから、夫婦だのなんだの言われるのだろう。

「……シロウ……どうしましたか? 何やら浮かぬ顔を……」
「あー、まあ、ちょっと、な」

 部屋の照明は落としてある。ただ、晴れた雲間から差し込む月明かりで、室内はちょっとした幻想的雰囲気を纏っている。その光の分だけ互いの顔も分かるのだろう。セイバーは、表情のちょっとした変化も見逃さない。

「……綾子のこと、ですか?」
「ん。ま、そんなとこだ」

 鋭いなあ、と彼は苦笑する。表向き整備用品を借りに来ただけの筈なのだが、彼女には既に感じるものがあったらしい。

「ふふ。それで、いつも通り一人で抱えていた、と」
「む。何か棘があるぞセイバー、それ」
「おや。何か、違いましたか?」

 セイバーはにこりと……いや、どちらかと言えばニヤリと破顔わらい、士郎のほうに体を寄せる。いつもとは少し違う雰囲気。士郎は少し疑問を抱きつつも―――――


「ええ、随分と仲が良いのですね、綾子とは。あれほど和やかにお話になるのですから……ふふ、世の少年少女とは、そうして語らうものなのですか? 学校でもいつもそのように?」


 すぐに解決。うりうり、と士郎の弱点を的確に衝いてくる彼女は強い。そう、彼が全く歯が立たないほどに。


「…………」
「……冗談ですよ?」


 冷や汗一条。彼自身やましい所は一切無いのだが、こうして詰問の真似事をされると心臓に悪いことを学習する。やはり、妻は強い。“惚れた弱み”というのは、どうやらこういうことでもあるらしかった。











 しばらく、彼は彼女に話をした。事の顛末。そして、自ら袋小路に嵌り込み、セイバーに助言を求めたいことなど、色々と。

 セイバーは、真剣な顔で士郎の言葉に耳を傾ける。士郎が語り終わって少し、彼女は思案するように目を閉じた。そして、数瞬の後。



「何を悩むことがあるのですか」



 目を開いた彼女は、柔和に微笑んで、士郎にそう語りかけた。

「そうかな?」
「ええ」

 しっかりと。自信を持って答えてくれる彼女が頼もしい。何時だって、彼の背中を支えてくれるのは、セイバーだった。今も同じ。迷っている士郎に、明確な道を教えてくれる。

「シロウは、戻るべきです」
「…………」
「あれほど楽しそうに友と語らえるなら、その時間を無駄にしてはいけません。もう二度と、手に入らない瞬間なのですから」


 穂群原という学校で、友と弓をとり、同じ時間を過ごすこと。これだけは、今後どう望んでも再び手に入ることが無いものだ。士郎にも、それは実感として迫っている。


 だが彼は、セイバーの言葉に、少し別の心情も感じている。





 それは、見たことも無い筈の光景。
 夕焼けの中、共に、学園を歩いた日のこと、とか。





 微笑ましさと同時に、彼女は歯痒さも感じていた。綾子と士郎が語らう空間。それは確かに彼らが共有していたものであり、そして、彼女は経験していないもの。


 いつも側に居たい、と思っている。彼の全てを、側で支えて居たい。
 だが、叶わない場所もある。其処では、彼を支えるのは自分ではなく。


 例えば、それは。先程彼が心安い表情を見せていた、綾子達、友人の役目なのだ。


 彼の周りには友がいて、そして、彼らの中には士郎が居る。自分で自分を持てない少年にとって、そんな周囲の存在が計り知れぬほど重いことを、彼女は十分にわかっていた。

 だから、一言一言に力を籠めて。セイバーは、士郎に語りかけている。


「大切にして下さい、シロウ。綾子も、大河も、桜も、それを望んでいるでしょう」
「ん。――――だけどな、ほら」


 セイバーの言うことを、彼は良く理解していた。その籠められた心情にも触れた今、そこまで踏み込んで解決したい問題が、新しく彼を捕らえてさえいる。

 だが、まだ別の課題はあるのだ。彼が入ることは、必ずしも部員にとってはいい話ではないはず、というのも真実。











 ―――――と。
 セイバーは、いとも簡単に、そんな彼の憂慮を飛ばしてみせた。











「ならば、先達として、模範として復帰なさってはどうですか?」






「え――――」
「何も、試合に出たり、練習の時間を分かち合ったりする必要は無いでしょう。シロウの射は他人の範たるもの、と聞いています。貴方の指導から、後輩が学ぶものも多いのではありませんか?」
「…………」
「範を垂れ、指導するだけならば角が立つことも無いでしょう?」


 士郎は、そのまま仰向けになり、天井に見入っていた。考えたことも無い。自分が何かを教えられるなど、そんな考えは彼には程遠いものだ。

 だが、その言葉に、どうしようもなく動いている自分が居る。


「……シロウ?」

 しばし、思案を纏めるように、彼はそのまま動かなかった。
 やがて、セイバーは自分の体が、少年の胸に抱かれたことに気付く。

「………―――」
「ありがとうな、セイバー」



 今回もまた、彼女に助けてもらった。



 一方的とはいえ、果たせないと思っていた約束も。
 自分のことを心配して、度々誘ってくれていた姉の言葉も。
 後ろめたさを感じさせてしまっていた、後輩の心にも。


 やっと、応えることが出来そうだった。


 背中を押してくれたセイバーに、彼はいくら感謝してもしたりない。士郎の心に触れ、セイバーも微笑を浮かべ、抱擁に応じる。静かに更ける夏の夜。二人はいつしか、満たされた心のまま、再び夢の世界へと誘われていった。

















「それじゃ、行きますか」


 翌朝。快晴の空は、夏に相応しい蒼を呈し、眩いほどの光が空気を満たしている。
 そんな登校直前のこと、彼は荷物を取りに部屋へ戻っていた。


 そこには、いつもの学生鞄と。
 ひとつだけ。普段とは違う、余計な荷物が用意されていた。


 ……to be continued.







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