蝉の鳴き声もこの刻になればすっかり止んでいる。陽は疾うに落ちたというのに、残していった熱は未だに肌をジリジリ温めていた。
「えーと……ここだっけ、かな」

 穂群原女子の制服は冬木界隈で人気が高い。肩にかけるのは弓、そんなミスマッチがむしろ良く似合う。ブラウンの短髪が風に靡く様、彼女が未だ彼氏持ちで無いことを知れば、道行く人も驚くだろう。

「こんにちはー」

 から、から、と、来客を告げるベルが鳴る。顧問である藤村大河との関係もあり、何度かこの店には足を運んでいた。女主人のネコさんとはやけに気が合って、何回かバイトに入らせてもらったこともあったりする仲だ。

「いらっしゃーい……って、綾子ちゃん? 珍しいね。学校帰り?」
「そうですね。ちょっとそこのに用事がありまして……。今日はここ、と聞いていましたので」

 カウンターに腰掛けると、出されたのは麦茶、大き目のコップに並々と注がれた冷えたやつ。運動帰りには非常にありがたい。こんな気配りひとつ、それがこの店が繁盛する理由だろう。
 一礼してコップを取り、大き目の一口を咽喉に流す。淹れ方が上手いのか……ああいや、そういえば二年ほど前、部室の麦茶も似たような味だった。それを担当していたのは、当時使い走りだった、アイツ。

「いらっしゃいませー……って、オイ。何で居るんだ、お前」

 奥から出てきた少年が固まる。エプロンが妙に似合っているのが微笑ましいと言えば微笑ましいが、その言い方は無いだろう、と彼女も思う。

「なにそれ。アタシがどこに行こうが勝手だろ。……そうだな、友人の微笑ましい勤労精神を見習いにきた、とかでどう?」
「それがホントなら、な」
「あは、やっぱ厳しいね衛宮は。そんなんじゃ禿げるな、うん。ね、ネコさん」
「エミやんの禿げ頭……ん、似合わないなーそれ。もうちょっと気楽に生きたほうがいいかもよ、エミやん」

 言われて想像した若禿げ姿に、麦茶を吹きそうになる綾子。いやはや。それではセイバーさんの愛も冷めかねない。こっそり二人を応援している彼女としては、それはあまり歓迎できない絵だったり。

「……気をつけます。で、何のようだ、美綴」

 大笑いされて気を悪くしたのか、ちょっとふくれっ面の少年衛宮。……いや、案外コイツはいつもこうだったかもしれないな、と、長いようで短い高校生活を振り返る。

「何の用、ね……」

 グラスを弄りながら、肘をついて見上げてみる。む、と、少し赤くなる様はやっぱりまだ思春期の少年そのものだ。まあもっとも、そんな美綴綾子も、思春期真っ只中の少女なのだが。

 まあ、そんなことはどうだっていい。そろそろ受け取ってもらわなくてはならないものがある。床においてあった鞄を開け、彼女は一枚のプリントを取り出した。

「はいコレ。わざわざ渡しに来てやったんだから、そこは感謝して欲しいところだね」
「…………」

 士郎は渡されたプリントを一見し、怪訝な顔で綾子を見やる。さも、何でこんなもの持ってくるのだ? というように。

「お前コレ、弓道部の予選案内じゃないか。なんでコレを俺のところに」
「そりゃそうだ。お前、部員だから。昨日から」
「は……?!」

 さらり、と綾子は当然のように言い切っている。衛宮士郎が弓道部を退いてから既に2年近く。たまに弓の手入れ、道場の片付けに参加しているとはいえ、部外者であることに変わりは無い……はずであった。

 だが、手渡した文書(ワード作成・by藤村大河)には、確かに「衛宮士郎」の名前が刻んである。

「ちょっと待て。俺は入部願も見学申し込みもしたことない。何で突然俺の名前がクレジットされてるんだ」
「いや、その辺りは藤村先生がさ。後見ってことでちょちょっと」
「ちょちょっとじゃない! 俺は弓道部とは関係ないはずで、それはお前も分かってる筈だろ。こんなことして……」

 突然部員復帰を言い渡される少年の、こんな反応ももちろん綾子は頭に入れてある。だからこそこんな策を採ったのだ。部活のアフター、弓道部顧問たる藤村大河に相談し、結論付けたこと。それは―――――

「ま、仕方ないだろ」
「なんでさ!」
「このまま逃げられたんじゃアタシの面子に関るってこと。ま、アタシだけじゃないんだよね。衛宮士郎の射を見たい、ってヤツは何人もいるわけさ。それにほら、アレは慎二が強引にやったことだって誰だって知ってるし」
「……だからといって、お前な……」

 不満そうな顔を、士郎は隠そうとしない。ネコさんは相変わらずニコニコしながら場を見守っているし、二人の少年少女は互いに一歩も退く様子を見せては居ない。……もっとも、である。

「だいたいだ。こうでもしなくちゃ逃げ続けられる、と思わせたお前が悪いんだぞ、衛宮。2年以上はぐらかされ続けてるんだ。そろそろ責任とってもらってもいい頃だろう」
「……く、……だけど、それは」
「問答は無用だね。まあ、私だって鬼じゃないし。明日まで待ってやるから、ちゃんと夕刻には道場に来て結論を聞かせてよ。……ま、きっと断れないけど、ね」
「……?」

 我に策あり。何も、勝負は腕っ節だけで決まるものではない。こと兵法と言うモノは、如何にして相手を自分の間合いに持ってくるかが勝負、である。
 美綴綾子は、密かに二の矢を引き絞る。

「……むう」
「ま、今日はこれくらいだし、ね」
「あら、もう上がり? ちょっと美味しいの入ってるんだけどねえ。飲んでかない?」
「是非一献、と言いたいんですけどね。そこな真面目君に怒られそうなので。またの機会に、ですね」
 ん、と女主人はあっさりビンを引っ込めて、またねー、と気軽に挨拶をする。エプロン姿の少年はプリントとにらめっこしたまま、とりあえず第一ラウンドはこれでよし。美綴綾子は、ドアの鐘を鳴らして外に出た。

(あとは、藤村先生と桜、それと……)

 明日の夕刻。さて、彼はどんな出で立ちで道場に来てくれるのだろうか。

 ……もっとも。
 その答えは、彼女の中ではとっくに出ているものだったのだが。






 猛暑日も夜になればマシになる……などと、そんなのは甘い幻想と思い知る。だが、遠くに見えた家の明かりは、そんな暑さとは異質の温かさ。門の前、待ってくれている人を見れば、その思いは一層強くなる。

 星でも読んでいたのか、雲ひとつ無い夜空を見上げていた彼女は、彼の気配に気付いて、その方向に振り返る。

「おかえりなさい、シロウ」
「ああ、ただいま」

 柔らかな微笑が、ゆっくりと体に染み渡る。待っていてくれた彼女と軽くキスを交わして、仲良く門をくぐっていく。戸を開ければ、いい匂いが居間から流れ出て、夕食の献立を想起させてくれていた。

「シロウ、今日はお疲れですか?」

 セイバーは居間への途上、そんなことを聞いてきた。さて、と士郎は考える。確かにバイトを入れてはいたが、そんなに疲れるというほどのものでもなく。

「いや、別に? 何かあるのか?」
「ええ。道場でひとつ、と思いまして。何日か開きましたから、お疲れでないのなら、是非」
「ん、そうだな。お願いするよ、セイバー」
「はい」

 にこやかに答える少女に、少年の相好も自然と崩れる。

 だが。

 そのおよそ1時間後。衛宮士郎の心が更に衝撃を受けることに、彼はまだ露ほども気付いては居なかった。



 ……to be continued.


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