人が何もしなくとも、足踏みするように前に進めなくとも。此方の思惑とは関わらず、緩やかに季節は巡っている。視界を通り過ぎていく息は白く染まり、遠かったはずの冬が、これから行くと、先触れを走らせている。
彼女と離れてから最初の冬。僅かな間しか一緒に居なかったのに、想うだけでこんなに胸が熱くなる。吹き抜ける風に月を見上げた、遠く高く掛かる円盤は、誰を見るともなく世界を写している。ただ冴え冴えと白く。
思い出したように、お茶に手を伸ばす。ひんやりとした感覚に首をすくめる。淹れてから長く時間が経ってしまった、既に冷たくなっているそれを掴み上げると、僅かな間流しに零すべきか打ち棄てるべきかを迷う。結局そのどちらも選ばずに、冷え切ったお茶を喉に流し込んだ。秋の風に晒されたそれは身震いするほど冷たくて。
強めの風が吹き始めていた。内側と外側から、ジワジワと熱が奪われていく。寒くはなったが、それでも動く気にはならなかった。今は遠い、懐かしい日の月夜のように、幼い時から変わらぬ定位置で遠い空を見上げている。
気がつくと、隣に人の気配があった。緩やかに流れる時間の中、月を見上げる影はもう、一人ではない。一度だけ視線を投げて、月を見上げた。座る音も、息も、気がつかないなんて。どれだけ気を抜いていたのか、緩み具合に苦く笑う。
「どうしたんだ、イリヤ」
「タイガがね、拗ねちゃって」
返せる言葉はない。どうしようもないことは、どうにもならないのだ。行き違った感情は、それと理解しているだけに摺り合わせのしようがない。
「そっか」
「あれからずっとよ、シロウ」
彼女が望んだ生活と、俺の望んだ生き方。一度道を違えてしまった以上、いずれはこの楽園も崩れていくのだろう。一度壊れた物は直らないのだ、どれほど上手に補修したところで、見えない傷が隠されている。其処に引っかかれば、また新しい罅が入る。
つまりは、水漏れのする土鍋と同じで。
イリヤは此方の表情を伺っている。おそらく、今この家に来る人間の中で、もっともそういう気配に聡いのは彼女だろう。育ちが御嬢なだけに、感情を読むとか空気を読むことに不慣れともとれるが、あれは読めないのではなく読まないだけだ。人一倍感受性が高い彼女は、誰よりも敏感故にあえて無視している。でなければ、その心の在り方故に潰れてしまうだろう。その真逆が自分だと思った。
「シロウはセイバーに会いたいの?」
「ああ」
質問は率直で分かり易い。
短く、それでも、返事には万感を籠めて。溜息としばらくの沈黙、それから、呆れたようにイリヤが笑う。
「やけるね、胸焼けしそうなぐらい」
「そうかな」
彼女はべーっと舌を突き出すと、持参したらしいどら焼きをゆっくりとかじり始める。小さな口が少しずつ平らげる様は、どこかウサギの食事を思わせた。白いもんな、などと似通った部分を捜す。特徴と考えれば色々出てくるだろう。我ながらよく似ている取り合わせだと思う。
「寂しい?」
「いいや」
「じゃあ、会えるとしたら会いに行く?」
「いいや」
意外そうに、彼女は目をしばたたかせた。考え込むような仕草、首をかしげる様も、遠くを見るような瞳も。その全てが、優しさ故のもので。
「どうして?」
「会えないから」
「カテイよ、もしもの話」
「もしもは無いよ」
そんな奇跡はない。もう十分だ。十年前のこと、去年の冬のこと。余りにも頻繁に出会しすぎて、次にぶち当たるのは天罰の類何じゃないかと疑ってしまう。
彼女の影が胸にある。それだけで歩いていけると思った。強く胸に抱いて、軋みを上げてもそれを信じて。
「シロウは強いね」
「強くなんか無い」
彼女の言うとおりに、本当に強かったら、俺はどうするのだろうか。
「だって、セイバーに会えないって知ってて、理想に届かないって知ってて、キリツグにも無理だってヒテイされたのに、それでもシロウは前に進むんでしょ? 出来ないことを出来ないと理解した上で」
「ああ。……はっきり言われるとなんだかへこむけどな」
「強いよ、シロウ。鉄みたい」
「鉄ね、どっちかって言うとガラスじゃないか?」
なんでも良いけど、と、口の中で小さく転がして。折れたって構わない、そも自分は剣のようで違う物だ。手には何もなくとも良い。砕かれても砕かれても這い上がる。叩き伏せられても立ち上がる。折れた剣でも、それを手に立ち向かう。己に課したのはただそれだけ。挫けないこと、振り向かないこと、ただ歯を食いしばって負けないと叫ぶこと。
そのためになら、己がどれだけ壊れても構わない。
「シロウ」
「ん?」
躊躇いがちな声。まるで賭け事への誘いのような緊張感。
「ううん、なんでもない」
「そっか」
言いたくないのなら、聞くこともない。
静かな心持ちだった。凪いだ水面の様で。
「……きにならないの?」
「気にするのはレディに失礼なんだと、イリヤが言ってた」
「そっか、ワタシが言ったんだ」
「そ」
二人で月を見上げる。
いつかこうしてオヤジと見ていた月を、オヤジのホントの娘と一緒に。不意に込み上げる物があった。俺にさえ、あれだけの愛情を注いでくれた人だ。彼が本当に抱きしめたかったのは、イリヤだったんじゃないかって。
遠い山間の城で、毛布にくるまって星を見ているのか、とか。
今、何をしているのだろうか、とか。
きっと考えて、胸を痛めていた筈だ。
「―――――」
「―――――」
爺さんの想いは、俺が出来るだけ伝えるから。きっと血を吐くほどに思った筈だから、それもきっちりと受け継ぐから。そう胸に納めて、それでも言葉はなくて。
そもそも、今の俺には、そんな事を言う資格なんて無い。
「ね、シロウ」
「ん?」
「いつか出て行っちゃうの?」
「たぶん」
それは間違いない。此処にいたところで、何が出来るわけでもない。だから家を出る、街を出る、この国を出て、己の出来ることの彼方へ。
「ワタシは、おいてかれるの?」
「そうだな、一緒に行けば良いんじゃないか」
「え、え、一緒に?」
「そう、一緒に」
他の誰も連れて行けなくとも。
藤ねぇは、この土地に生きていく人だから無理だけど。俺と同じ異邦人であるのなら、何処へ行こうとも、文句は出ないはずだ。
「そっか」
「だろ、でも危ないことはさせないからな」
「へいきよ、ワタシはシロウよりも強いんだから」
「そっか」
「ね、シロウ」
「ん?」
きゅっと、頭が抱き寄せられる。少し冷たくなってしまった手、暖かい吐息。頬に触れる唇の感触はまだ幼く。それでも、何か和むのは確かで。
「ワタシは、何があってもシロウの味方だから―――――」
「―――――ありがとう」
すぐには言葉が出なかった。
ただ、得難い温もりに包まれていると思う。
「金砂の剣」
Presented by dora 2007 11 02
「お茶淹れてくるから」
「はやく戻ってきてね」
風味はこの際度外視で、冷めにくいように、厚手の湯飲みを暖めておく。ポットから移し替えたお湯を、僅かに冷まして急須に注ぐ。適温はだいたい75℃。一煎目にしては高く、さりとて渋くならない程度に加減する。
寄り添って座っていたところで、寒いことには変わりない。いい加減足下とかが痺れてきた。それでも、どうした訳か縁側から離れがたくて、熱いお茶と共に再びあぐらを掻く。
「シロウもザブトン使ったら?」
「んー、いらないや」
差し出されるそれを受け取って、彼女の座布団を二重にしてやる。ぷっと頬を膨らませると、イリヤは其処に座らずに膝の間に入り込んだ。勢いよく振り回される、銀色の髪。シャンプーの匂いと共に、顎に頭ががちんとぶつかる。
「ッ―――――!」
「あ、シロウ!」
大丈夫だと、別段振り向くこともないと。身振りでたしなめながら、座り込んだ妹を抱き寄せる。ただ愛情だけの抱擁、優しい温もりと、人の息づかい。触れている場所からゆっくりと温もりが広がってくる。それだけで寒さを忘れそうな、穏やかな体温。
「……あったかいね」
「そうだな、思ったより」
もっと早くにこうしていれば良かったかと、束の間思ってしまった。一笑に付して、切り捨てる。何をばかなことを。それは望んでも仕方のないことだ。自分は代わりにしかなれなくて、本当に欲しいのは互いに違う相手なのだから。
嘘で己はだませない、違和感に眼を瞑った所で、出来ることなど無い。
「シロウ、ヘンなこと考えないで」
「ああ、え?」
「今居るのはワタシ、ね、シロウ。ここにいるのはワタシなんだから」
ほら、こうして。
すぐに見抜かれてしまう。
「イリヤはサトリみたいだなー」
「サトリ……?」
「うん、人の心が読める妖怪の事」
「ヨウカイ? とかすの?」
「違う違う、ジャパニーズモンスター」
「あー! ひっどーい!」
「はは、悪い悪い」
屈託のない笑い、素直に。心の底から、素直に。あの時意識して振り捨てたそれの、僅かな記憶を辿ってまねる。そうしなければ、この世界に居られない。箱庭のような世界、幸福の形がこれでもかと詰め込まれた武家屋敷。いつか置き去りにする其処を、せめて今だけでも完璧で在るように祈る。
「ね、シロウ」
「ん?」
「シロウはさ、タイガがスキ?」
無論、そんな事は考えるまでもない。
「ああ」
「サクラがスキ?」
「ああ」
「ワタシは?」
「もちろん」
「ライガも?」
「ああ」
「それでも出て行くんだ」
「―――――そうだな」
「ね、シロウ、答えて。シロウは何を守ろうとして戦うの?」
「それは―――――」
死んだ人の理想、託された愛情、渡された祈り。己の内からこぼれ落ちた物など、欠片も見あたらない中で。
「シロウはキリツグと同じなの? 最後には、誰も彼もが天秤にのってしまうの?」
「それは―――――」
そうすれば計り違えることはない。だけども、それは―――――
「シロウ、きっとね、ううん、ワタシが言うべき事じゃないね。でも困ったな、それをシロウに言うべき人が二人ともこの場に居ないなんて」
言葉は返せなかった。静かな、祈りのようなイリヤの言葉。淡々と紡がれる声は、まるで託宣の巫女のように頼りない。
ふと空を見上げた。流星群のニュースは無かったと思う。それでも、今日は過ぎる星の数が多い。空気が澄んでいるせいか、流れ星がよく見る。
一際明るい星が、燃え尽きながら正面に墜ちていく。
「ね、シロウ」
「イリヤ」
膝の上で彼女が向きを変える。そっと両手で俺の頬を包み込んで、じっと強く瞳を覗き込んで。
「ワタシはね、シロウがスキ。愛してるわ、ワタシの可愛い弟」
一つ一つを刻み込むように。まるで、呪文の様な呟き。
「クチヅケは必要? いらないね、ここは彼女専用だから。ね、シロウ。出来る限りのことをしてあげる。だから星の揃うのを待って、ううん、きっとシロウは星を読む必要なんて無い。二度も巡り合わせがあったのなら、自然とまた星は揃っていくはず。ワタシがいて、貴方の魔術があって。だからシロウは出来る限りのことをして、壊れるぐらい強く、貴方に限界なんてないんだから、もっともっと強く、ただそれだけを念じて」
「……イリヤ?」
感じる。奇妙な違和感がある。嫌に饒舌なイリヤを見れば、遠くぼんやりとこちらを眺めている。上の空も良いところだ。目の前で手を振ったところで、反応は何もない。これはちょっと様子がおかしいぞ、と、声をかけようとした矢先に。
「あの剣を担いなさい、シロウ」
などと、己しか知り得ない、秘匿情報が晒される。
「彼女を呼ぶのなら、それは絶対に外せない。剣は鞘の元に帰る物、あの輝く者なら、船を導く灯火に申し分ないわ」
ぞわりと鳥肌が立った。神託っていうのもあながち間違いじゃない、まるでドルイドの言葉のように、何かが憑依したように、虚ろな瞳のままイリヤが言葉を紡いでいる。
「……誰だ、イリヤじゃないな?」
『―――――黙って聞きなさい、■■■■■■者よ』
―――――っ。確実だ、様子は尋常じゃない。二重音声の様にダブって聞こえる声。今のイリヤには、確かに何かが取り憑いている。
『これから望むことは奇跡ではない、汝等の努力によって成される事。あの愚かな妹に、本当の安らぎを与えたいと望むのならば―――――力を貸してほしい』
心よりの言葉、涙が出そうなぐらい、優しさの籠められた。
「アンタは―――――?」
ぐらりと頭が傾く。ぐるりぐるりと視界が回る。突然襲ってくる、強烈な睡魔。瞼が泥のように重たい。まるで、今あった事を夢だと誤魔化そうとしているような。
『今は忘れておけば良い。お願いだから妹を助けて、意地っ張りなあの子を、どうか掬い上げて欲しい』
その、彼女によく似た誰かの声は―――――
『眠れ、納める者。貴方があの子を呼ぶのなら、私達は力を尽くして道を造ろう』
消える。
意識が闇に飲まれて切れる。無理矢理接続を切られていく神経、イリヤの意識はとっくに消えている。
『いずれ、また―――――』
声が遠くなっていく、同時に、現実も。
「は、そんなの―――――」
そんなの、冗談じゃない。このまま悪戯されっぱなしなんて、とてもじゃないけど柄じゃない。そっちが帰るならそれでも良い。だけども、追いかける者が誰も居ないなんて思うなよ―――――!
「―――――“同調開始”」
―――――解析開始・接続は外部からではなく内部から・夢ではなく現実への介入・触媒に小聖杯の限定使用・ラインの特定・解析終了。
パスは己の内側から通っている。根本は鞘に、意識しなかったとはいえ、此処まで勝手に自分の中を歩き回られると頭に来る。
意識は遠くなっていく。それを、意識して裏返していく。現実からずれた位相へ。半歩世界の理の外へ。
ぱちんとスイッチが切り替わる。蒼い蒼い扉の傍に、見たことは無いが、彼女とよく似た女性が立っている。
ええと、強いて言うのならば、セイバーをもっと育たせた様な。
「―――――まさか、な。追える程に卓越していたとは思わなかった」
声は固い。どちらかと言えば、敵対に近いニュアンスの表情。きっと此方を睨み付ける双眸は、彼女そっくりで目眩がする。ただどちらかと言えば、造作も体型もセイバーより全体的に丸みがあるような。
「そう簡単に―――――――」
「―――――だが、まだ青い」
―――――ばちん。
強制的にスイッチを切られてしまう、格の違い、自己よりも強い魔術師に、強烈なカウンターを食らった。気分的にはファイアウォールに引っかかったウイルスみたい。焼き尽くされこそしないもののクラック、回路が悲鳴を上げるのと同時に、確実にここ数秒のデータは飛んで消えた。
だから後は眠りに落ちるだけ。
だけなのだけれど。
ここで眠ってしまったら、俺でも風邪を引いてしまう。
体力のないイリヤなんて、間違いなくアウトだ。
だから、一度は起きなきゃいけないだろう。
「―――――よし、起きないと」
ぐらぐらする頭を押さえて起き上がる。夜はとうに更けていた様で、イリヤもぐっすりと寝息を立てている。
「……ふとん、敷かないとな」
抱え上げて、部屋に向かった。何か夢を見ていた気もするのだが、何だっただろうか―――――?
―――――色の夢、白と青、金と赤、碧とそれぞれの肌の色。
ざあざあと波の音。何処か遠い砂浜、ノイズで出来た空。
雲は複雑に重なり合い、差し込む日差しは荒れる海にモザイクを描き出している。
日中、夕方のような明け方、明け方のような日没。時間の狭間。
オルゴールの音、細い金属を金属が弾く、高く澄んだ音色。
体を起こして、吹き付ける砂に眼を瞑った。風が強い。こんなに海から離れていては、いつか埋まって消えてしまいそう。立ち上がって波打ち際を目指す。誰かと誰かが話している。見知った二人だが、彼女たちの言葉は親しげと呼びがたい。
「そっか、じゃあ、使えばいいのね」
ぼんやりとした意識で見る視界。イリヤが居る。初めて見る異邦人、二人だけの世界に、割り込める意思があるらしい。今までとは違うのか。遠くから聞こえる声に、耳を澄ませる。
「それは?」
「いいよ、セイバーは気にしないで。助けて貰ってるし、何よりシロウの為だし」
「誰かからの贈り物ですか?」
興味を隠しきれない様子で、彼女はイリヤの手元を覗き込んでいる。音色はそこから聞こえてきているようだった。なおも気にかけるセイバーを邪険に睨むと、イリヤは表情を一転させて、まとわりつく子犬をあやすように笑いかける。
「気にしないで良いって言ってるのに、ほら、起きたみたいだから」
「う、ま、まあそうなのですが」
「なに?」
「その、いざ声が届くとなると、気恥ずかしくて……」
「がたがた言わないの、せっかく今日は私が手伝ってあげるんだから」
「う、その、申し訳ありません」
「ホラ、はやく行って!」
「は、はい!」
…………。
何を、やっているのだろう。
強い風に耐える様に、焦りながら、押し殺しながら彼女が歩いてくる。届かないと知って、いつものように手を伸ばした。幾度も見た夢。幾度も届かなかった指先。後一歩の所で、見えない壁に阻まれる。
今日も。
そうなる。筈、だったのに。
「――――――――――――――シロゥ?」
声が聞こえる。呼ぶ声が、確かに。弾かれるように顔を上げた、指先は、滞ることなく前に進んで―――――――
ぱちり。と、指先に電気が走る。伸ばした指先が、彼女の頬に触れる。
「―――――――あ」
それは、いつかの夜に撫でた其処と同じで。なめらかで、柔らかくて、暖かい肌。
ばきりと罅が入る。僅かに開いた空間に、ばしんばしんと亀裂が入っていく。
そっと指先で包まれた。優しく。ただ優しく。
「セイバー?」
「ぁ―――――――」
呼んだ。
名前を呼んだ。
「シロウ」
名前を呼んで、名前を呼ばれて。泣きそうになった。哀しくて悲しくて、だって言うのに嬉しすぎて。
「夢、なのか」
「……はい」
そう、夢だ。
「これは、夢の続きなのですね」
届かない夢だ。
「私が、見たいと望んだから―――――――」
こんな、切ない夢を見ている。
「これなら」
これならいっそ、届かない夢の方が、良かったのに。
それなら只の夢。
ただ、愛しい記憶に浸る夢。
微睡みの中で、想いを確認するだけの夢だったのに。
「これなら、これなら―――――――!」
気がついてしまえば、ただ痛くて。
だって双方向。鏡越しではなく、ただ向かい合っていたなんて。届かぬ思いを消せないままに、求めたままに情熱のままに。
張り裂けそうだった。通れるのは、僅かに声と手首だけ。分厚い壁は健在で、そこから先は、意地でも通すまいと確かに其処にある。
「でも」
ああ、それでも。
「よかった」
一方通行ではないと解ったから。夢だけど、届かぬ心ではないと知ったから。
壁があろうとも、時が流れていようとも。
「届いてたんだ」
ここでは変わらなく、彼女と出会えるのだから。
「顔を上げてください」
「ああ」
言葉に促されて、伏せていた顔を上げる。不思議と涙は零れなかった。ただ、熱くなった目頭が痛い。
「よかった、シロウは、シロウのままだ―――――――」
恐ろしい夢をみたのだ、と。
枯れ果てた俺と斬り合う、俺を切り倒す夢を見たのだと。
「大丈夫、きっとそんなことにはならないから―――――――」
言葉は要らない、だって言うのに声が聞きたくて仕方がない。もっと近くに寄りたかった、だけども、時間が近付いて来るのが解って嫌だ。
「―――――――明るくなってきましたね」
「ああ、じき朝らしい」
東の空が金色に燃え上がる。緩やかに、確かに、逃れられぬ速度で太陽は動いている。
「また、お別れですね」
「でも」
「皆までは、続きは、私に言わせて欲しい。―――――――やっと貴方に逢えた、それだけで、十分な気もします」
「そうだな」
「シロウ」
「セイバー」
「……時間です」
「そっか」
ぱちん、と、何かがなっている。
ぱちん、と、世界が塗り替えられる。
ぱちん、と、足りなかったピースが渡される。
それは、奇跡を願う心。
逢えないから、逢いたいと願う心。
最後の剣の欠片は、希望ではなく、決意でもない。
ただ、逢いたいと願う心。
距離が離れていく。放すまいとして、絡めた指を強く握りしめた。引きつける風は強く、それでも放したくないと力を込めた。彼女も同じなのか、指先に入る力は際限なく、痛みと痺れに指が千切れそうになっても決して放しはしないと願うように。
だから終わりは突然訪れる。いつものような目覚めではなく、切り離されるような衝撃とともに。
もしも願いが叶うのなら。
私は貴方の手を放さないでしょう。
胸を引き裂かれたとしても。
私は貴方を許すでしょう。
笑いたければ笑ってください。
決して私達はそれを笑わないから。
笑いたければ笑ってください。
私達はそれを誇るから。
そんな。
ウタに似た祈りの形。
ふとんから起き上がって、窓を開ける。今日は一際吐く息が白い。それ程冷え込んだわけでもないから、恐らくは湿度が高いせいなのだろう。
雲は高く風に棚引いている。良い天気だった、乾燥しがちな季節でも、意外な程に冬木の空気は乾かない。海に面しているせいだろうか。中学校の授業で習った気もするが、もう忘れてしまった。
そういえば、と、未だにふとんで寝息を立てているイリヤに目を落とした。どうも藤村の屋敷で、イリヤを学校に行かせてやりたいと、雷画爺さんが言い出したらしい。本人的には行かなくても問題ないらしいのだが、世間的にも人間的にも行った方が良い気はする。
ただ、問題は彼女の年齢だろう。順当に育っていれば、彼女はとうに十九なのだ。自分も外見に惑わされるせいで、義姉だということにどうもなじめない。こんなに頭の硬い人間だったかと、首を振り振り額を叩く。
だって見た目は小学四年生がいいとこだもんなー。
ざっと顔を洗うと、いつものように道場へ向かう。念入りに、一通り体をほぐすと、いつものように体を動かし始める。特に重たい物を持ったりはしない。ただ、自分の体重さえ自由に出来るのであればそれでいいだろう。
腕立て伏せ、まずは普通に。十回ごとに手首から先を変える。手の甲で、拳を立てて、五本指で、十回ごとに指を減らして、親指だけ使わないで。念入りに意識を通す、駆動する筋肉の種類毎に、関節事に、出来るだけ無駄のない、スムーズな動きを覚え込ませていく。
百回を一セットに三セット。腹筋運動と背筋運動も同様に、ひねりを加えながら、鍛える位置を変えながら、噴き出す汗で冬でもずぶ濡れになる。意識するのは細かいところまで。骨盤回りのインナーマッスルも動かしていく。
懸垂は梁を使う、順手と逆手で、それぞれ回数をこなす。引っかけるのは指先だけで、親指も、握ると言うよりは下から支える程度に。できるだけ片手でもチャレンジする。自己記録は十五回、今日こそは―――――――と頑張っていつもと同じ回数で落下する。いや難しい。
ここから下半身、二十キロの鉄棒を天秤担ぎに背負って振り回す。腰が捻れきったところで反対に、三十回でこれは充分。腰椎が充分にほぐれたら、今度は爪先から力を順に上に持ち上げていく。イメージするのは竜巻。棒の先端まで意識を通すように。動かす力と止める力、軸の力を養っていく。
跳躍、とにかく高く、助走はしない。ただ天井めざして飛び上がる。着地の衝撃は全身で細分する。地に這うように低く、そこから、伸び上がるように高く。蛙の様に無様に、猿のようにはしこく。ああ、かっこわるいナー。
「……だあああああっ!」
ばたーんと体を投げ出した。いい加減流れ込む汗で目が見えない。だけども、気分はスッキリしている。一日の懊悩をこの時点でリセット。これなら、また藤ねぇと話すことも出来そうだ。
ぜーぜーと荒い息を吐く。爽快感。ただ、酸素が足りない。汗を拭おうにも、今日はタオルを忘れてしまっていた。日課だって言うのに間が抜けている。仕方がないから腕で拭くと、流れた汗で余計にひどいことになった。
……仕方ねえ、風呂入りに行くか。
道場から足を出す。と、ふわりと視界がタオルで覆われる。見覚えのある縞柄の洋服が、奪われる視界に、僅かに見て取れた。
「おはよう藤ねぇ」
「うん、おはよう士郎」
元気はない。まあ、それはそうなんだろうけど、どうしたらいいだろうか。
考えるのは余り得意じゃない。
仕方がないから、そう、仕方がないから実力行使に出ることにしました。
「しょんぼりすんなよタイガー」
「うお、朝からいきなりタイガーとは、お主さては喧嘩を売っているな?」
「売ってる、竹刀持てよ」
「解ってる? 私これでも―――――――」
「段位も実力も知ってる、けどな、今のはな垂れ剣なら俺が勝つ」
「言ったな小童、思い知らせてくれよう!」
言葉には切れがない。だけども、此が五分後も続くとは思わない。だって体育会系。もとより腐った気分は動かせば振り落とせる物だ。それに、せっかくぶっ壊れにくいカーボン竹刀買ったんだ、どうせだったら壊れるまで使ってみたいじゃないか。
「さあて小僧、最後に腕を見たのは何時だったかな」
「小学生のときか、中学卒業ぐらいじゃなかったか?」
「そっか、じゃあ、強くなっただろうね」
「藤ねぇ」
しんみりと竹刀を握る彼女に、ちょっと懐かしさが沸―――――――
「じゃ始めー!」
―――――――いや、沸かない。懐かしさがどうののこうと言ってるような場合じゃない。
スイカ割りの勢いで面打ちが迫る。ぱしーんと炸裂音、かろうじて逸らした一撃から、焦げた匂いが立ち上る。間違いない、あれは竹刀を持った途端に、一片の曇りもない闘志を相手に向ける。そう訓練されていた、今では遠い伝説。
冬木の虎、藤村大河の姿だ。
「ああ!? 汚えぞ!」
「問答無用ォォォォオチェストォォオオオオオ!」
連撃、面、振り切って胴へ、弾けば弾いた小手を狙って逸らせばそのまま突きに。ってか防具ないよ、防具着てないんだってば。それも剣道の動きとは少しばかり外れた極道剣法。逆胴とか割と狙ってくる辺り、かなりやる気だ。
「フゥハハハー! 逃げ回って居るのならばいずれバターにしてくれる!」
「こっちの台詞だ、敷物にしてやるから覚悟しろ!」
ああ、大丈夫。これなら、しばらくは心配要らない。際限なく速度を上げる切っ先から、うじうじとした物がふりしぼられていく。
……さ、此処からの問題は、如何に俺が打ち倒されずに撤退するかになる訳だ。
〜To be continued.〜
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