遠くから近くから聞こえてくるメロディに、疲れた耳を澄ませてみる。届くのは色の洪水に似た、様々な感情の洪水。浮かれるような、寂しいような、季節ごとに街に流れる音楽は変わる。一年を通して考えてみると、冬は、特にそれが顕著だ。彩りも色柄も、イベントすらも次々と入れ替わっていく。音楽は週刻みで入れ替わり、ふと気がつけば季節の流れに押し流されている。

 耳に自然と馴染むそれ、幼い日から、毎年聞かされ続けている。だから英語歌詞だろうと日本語歌詞だろうと関係ない。何を流している所でも、意識して記憶しようとした努力がなくとも、知らず知らずで口ずさんでいる。染み込むように、記憶にすり込まれた歌は、街に刻み込まれた人々の祈りだ。気がつかないうちに憶えていて、気がつかない間に自分も刻んでいる。流れるそれを文字に出来たら、きっと街が埋め尽くされてしまうだろう。それどころか、空も七色に変わってしまうかも知れない。テンポの良い奴も、穏やかな奴も、誰もどれもが弾んでいて、まるで街自体が巨大なメロディーボックスのよう。

 よその土地に比べて冬が暖かいと言われるこの街でも、イベント自体は余所と変わるところ無く進行していく。考えてみれば南半球なんて真夏にクリスマスだ。それに比べれば、木綿と絹とで豆腐を比べるような物だろう。ジングルベルが奏でられる、楽しげに人々は笑いあい、子供達はプレゼントを夢想してはね回っている。例年と何処も変わらない冬、ただ、去年よりも大きくなったか、年老いたかの違いで。

 誰かが居る。誰かが増えた。誰かが減った。隣に座る彼が、彼女がいつもと違う装いをしている。そんな些細だが大きな変化達。誰しも誰かに捕らわれていて、誰しも誰かに支えられている。ことさらに、自分はそれが顕著で。

 ぴりっと肌を引き締める冬の大気。冷たくて乾いたそれが、燃え上がりそうな心を常温に保っている。それでも、心は乱れてくる。規則正しく、弾みだした心臓。強く、熱く、命の鼓動を刻んでいる。走り出しそうになる。押さえているのは、僅かな違和感だけ。

 違う。あの夜とは違う。もっと、落ち着いた風の中。二月の風は寂しさすら感じる程で、冷たいくせに春を待つ希望に満ちている。今は違う、もっと刹那的な空気。お祭りのなか、クライマックスに向かって盛り上がっていく段階。

 だから違う。終わりに向かって走るむなしさはない。ただ、燃やし尽くす勢いだけが世界にある。

「おりょ? えみやん、そんな所で寝てると風邪引くよ」

「……うぃ?」

 と、言われたところで、視界がぐらぐらでどうにもならないのだ。思い当たるところと言えば、先程卒業生におごって貰ったトマトジュース。どうやらそれにでも、ウォッカが仕込んであったと見える。血塗れメアリーはご勘弁。

 まあ、普通にメニューに載っている品だし、少々苦いかと思った程度だから、ビールよりも少々高い程度に度数は抑えてあるだろう。とはいえ晩飯前、空きっ腹の体には、やたらとアルコールが堪えて仕方がない。

 店の裏路地で休憩していたところを見つかった、迷惑は掛けまいと思ってきたのだが、どうやら余計な気を回させてしまった様子。案外、先輩達が教えたのかも知れない。両脇を抱えられて、助け起こされる、とは言え、別に寝ころんでいた訳ではない。目の前が回ってどうしようもないから、しゃがみ込んでいただけ。視点が一気に高くなると、ざーっと血の気が引いていく音が聞こえた。

「おわ、顔色悪いな。飲まされた?」

「ミライッス」

「呂律が回ってないね、帰そうにもこれじゃ駄目か」

「すませんっ!」

「ああ、いーからいーから。とにかくテーブルで潰れてな」

 エプロンをネコさんに預けて、自分は先輩達のテーブルで突っ伏した、時折差し出される水の入ったコップに手を付けながら、うー、とか、あー、とか意味のない音を漏らしている。なんてカオス。じんぐるべーるじんぐるべーるぐるぐるまーわる。

 



「帰れる?」

「なんとか」

 気をつけてねー、なんて気の抜けた声に送り出されて、すっかり人気のなくなった道を歩いていく。しかし何だってこんな日に限って警察来るかな。幸い藤村に詳しい古株の巡査長だったため、注意止まりで済んだ物の、うっかり新人にでも出会していたら、コペンハーゲンの営業許可まで取り消されかねない。不注意から、えらい迷惑をかけてしまったものだ。と、頭を掻きながら空を見上げた。星は見えなかった、重い雲が月すら隠している、雨は降りそうになかった。重たいくせに高いところに雲が流れていて。

 いまひとつおぼつかない足取りで家路を辿る。この時間になると、街の灯りもずいぶんと数を減らしている。オフィス街に至っては廃墟の熱の無さ。それでも熱の冷めないのは、若い者達だけだ。若い者と言っても、二人連れは何処かへ消えてしまう。楽しそうに寂しそうに、すり寄る様に人々は集っている。コンビニの前で、ファミレスで、道ばたで、駐車場で。何処にいても変わらない、それも、集いの形なのだから。

 坂道の手前、喉の渇きを覚えて、自販機に歩み寄る。缶コーヒーにするか、緑茶にするか、HOT表示の前で指を彷徨わせる。決めかねて汁粉のボタンを押した、電子音に次いで、ごと、と重たい音がする。ホラーだったら人間の部品でも出てくるところだが、生憎こちらは現実に生きる身だ。

 結構寒い。そう思って、プルトップを引いた。ぱきっと軽快な音と共に湯気が流れ出していく。口を付けて、一息に飲み下した。火傷するほど熱くはなく、かといって、平気な顔をしていられるほど温くもない。喉を流れていく熱さに身悶えする。それは、どこか心地よい灼熱感で。

 吐き出した息はここしばらくで一番白かった。煙でも吐き出したんじゃないかってくらい、熱さに痺れる口を、冷気に晒す。あっという間に冷えてしまいそうでやめた。とにかく空腹だって事を思い出させるぐらい、汁粉は温かく、甘かった。



















「金砂の剣」
Presented by dora 2007 11 09




















 家に帰り着くと、灯りは既に無かった。ここしばらくでは珍しい、誰も、迎える者の無い帰宅。それでも律儀にただいまを言って、靴を脱ぎ散らかして上がりこむ。なんだかんだで体は冷えていた。とにかくひとっ風呂浴びようと、浴室に向かう。

 途中覗いた居間には、暖めてくださいと言わんばかりの器の数。皿に移していない所を見ると、メニューを軽く暖めるのには、レンジよりコンロが良いらしい。ストーブに火を入れて、部屋を暖めておく。きしきしと廊下を往復する間に、空気も優しく暖まっているだろう。さて、ざっと風呂に入って来ますかね。



 鍋の中身はロールキャベツ、なるほど、これならじっくりとスープを吸わせた方が上手くなる。ご飯だけはレンジに放り込んだ。メインの他に、漬け物を取り出して並べていく。こうして一人で食べるのは久しぶりだった。帰りが遅くなると、それだけで見える景色も違うらしい。

 いつか盗み見た、桜のレシピを思い出す。茹でたキャベツで、ベーコンと挽肉を巻いてスープで煮る。トマトを一緒に入れるのがコツなんだとか。箸で割ると、じゅわりとスープが染み出してきた。熱々のキャベツと、合い挽肉のうまみが何とも言えずご飯を勧める。うっかりすると出汁殻になりかねない挽肉も、上手に処理してあるようだ。ナツメグとローズマリーが効いている、臭みをしっかりと消して、肉の香りだけを引き出してあった。煮すぎると肉は硬くなる、それを防ぐために、しっかり煮こぼして臭みを取ったスジ肉を混ぜ込むのだとか。そうすると、ゼラチン質の舌触りが、喉越しをよくしてくれるんだそうだ。

 舌鼓を打って、ご飯を掻き込んだ。ぴりっとしたブラックペッパー、香り付けに効かされた白ワイン。一番外側に巻いてあるベーコンも、買っておいた肉屋の塊ベーコンからスライスしたものだろう。脂身の甘みが違う。燻製の香り高い、何よりもうまみが違う。これだけあれば他のおかずはいらないだろう。

 春先に二人でコンソメを仕込んだ事を思い出す。二十リッターの馬鹿みたいにデカイ寸胴に、これでもかと材料を仕込んで煮詰めたスープ。先程覗いてみたところ、だいぶ少なくなっていた。そろそろ仕込まなければならないだろうか、今度日曜日にでも提案してみようと思う。料理は唯一の趣味と言って良かった、美味い物の為なら、少々予算がかかったところで文句はない。

 一鍋平らげて、大きく息を吐いた。いや満足、こんなに美味いロールキャベツは作ったことも食ったこともない。とうとう愛弟子は自分を追い越してしまったのだなー、と、ひどく感慨深い。まったく、洋食に関してのみならず、最近では和食でも指導される始末だ。とうとう先日鰹箱まで購入させられてしまったほど。まあ、自分で引いた鰹節は、これまた感慨も一級品なので文句はないのだが。




 洗い物を片付けて自室に引っ込む。今日の復習と、翌日の予習。それから、自身に課した語学の課題。英語に関しては、だいぶ理想に実力が伴ってきたと思う。今度、英検でも受けてみるかと問題集を買い込んでみた。思いの外自分に力があると知って、なんとも言い難い嬉しさに拳を握った。

 海外に行くつもりなら、やはりしゃべれるべきだと思う。だけれども、自分の英語力はブロークンもいいところだったので、指導を頼んだ遠坂も当初は呆れるばかりだった。余りにも抜けてしまった表情を思い出して、苦笑がこぼれる、藤ねぇまで巻き込んだ夏休みの集中指導は、下手な塾よりも厳しかったんじゃないだろうか。何せ行きたくないからって言っても逃げれる場所なんてない。

 筆記、文法、読解力に関しては、遠坂の持ってくる英字新聞が課題だった。流石に一日で「此を訳せ」なんて言われた時は本気で山にでも逃げ込もうかと思ったものだ。結局逃げ出すことなど出来ずに、地獄の特訓を開始する羽目になる。逃げ場である台所は悪魔と桜によって封鎖された。

『畜生トイレと風呂しか行くとこねー』

『うだうだ言わずにさっさと辞書ひきなさい』

 なんて会話が一週間。思い出すだけで頭が灼けそうだ。それでも、毎日それだけの分量を訳していると、法則性が徐々に掴めてくる。一月もすると、単語も文法も、ジワジワと染み込んでくるのがわかった。そうなると人間現金な物で、勉強するのが楽しくなってくる。理解が進んでいくのが、自分でもよっく解るのだ。

 そうこうしている辺りで、段階が一つ上がる、今度は、英文を読むだけで意味を拾えるようになる事が目標。辞書を頭の中に叩き込むような物、日本語の新聞を読むのと同じように、英字新聞を読みあさる。海外事情は日本のそれよりも詳しかった、アプローチとしては間違っていないと思う。

 基本さえ習得すれば、後は早かった。毎朝新都まで走って、駅で新聞を買って帰る。日課に毎日一時間の英語学習が組み込まれる。大事なのは記憶した単語の数ではなく、読めることとしゃべれること。ブロークンでも構わないからと、ひたすらに英語で意思の疎通を図る。

 こうなるとすねてしまうのがイリヤだ。彼女の母国語は、どう頑張っても遠坂と桜にしか通じない。藤ねぇに至っては、イリヤがドイツ語でしゃべっていると、そそくさと何処かに逃げ出してしまう。逆に驚かされたのが雷画爺さんだ。片言ではあるが、どうにかドイツ語での意思疎通には至ったらしい。

『どうだ、坊主、年なんざ関係ねえぞ! テメエも兄貴分気取るならこれぐらいやってのけろ』

 なんて言われてしまった日には立場がない。

 よくよく話を聞いてみれば、イリヤも日本語だと細かいニュアンスが伝えられなくて、なんとももどかしい思いをしていたらしい。其処へ俺の英語学習だ、いい加減頭に来たのだろう。話をしている後ろで、なにやらどかどかと家が揺れる大移動の響き。心配になって見に行けば、教材だと言ってセラとリーズリットが山のようにドイツ語の本を持ち込んでいた。

『この程度も読みこなせないようではお嬢様を滞在させるなど片腹痛いことです』

『シロウがんばって』

 有難い励ましをありがとうきのこ頭巾メイデンズ。ディーザーシロウとか呼ぶな。もう発音どころか読み方すらテンパってる言語。まあそれでも、此一つ憶えるだけで周辺言語のとっかかりになるっていうから学んで損はない。ようやく一つの責め苦から解放されたと思ったのに、再び文献と格闘する日々が始まったのだ。アーウムラウト、ウーウムラウト、オーウムラウト、エスッチェット。だあ! くそ!

『まあ、これだけ高校生の間にやっておけば、大学に進学した後に語学系の単位で困ることはないんじゃない?』

 遠坂の言うことはもっともだった。なんせネイティブと、それ並に話せる語学教師が六人―――イリヤとメイデンズ、特に二人のメイドは。

『ドイツ語以外で話しかけられても私達は返事をいたしません』

『シロウファイトー』

 ……とまで言ってのけやがった。それから遠坂と藤ねぇと桜。洋館立ち並ぶ冬木に地区だからかなんだかは知らないが、間桐の家も語学教育には熱心らしい。慎二も中学の時からドイツ語話せたのを憶えている―――も居る。これで話せなければ脳みそに直接書き込むしかないんじゃないだろうか。




 課題を終えて目頭を揉む。一息着きに、台所に向かった。何にしようかと指を彷徨わせ、少しだけ良いお茶を淹れることにする。少し熱い程度に湯飲みで冷ましたお湯を、高いところから急須に注ぐ。二分半ほども蒸らせば、薫り高く色濃い一番茶が楽しめる。最近憶えた贅沢、何も考えず、何もせず、ただお茶の香りと味だけを楽しむ十分間。

 そうして、ようやくここからが自分の時間。七月に新都図書館から掘り出してきた本を、ノートに訳していく。表紙に一頭の赤い竜が描かれた、古い本。呆れたことに手書きのそれは、更に驚くべき事に羊皮紙だったりするのだ。英語であるのがせめてもの幸い、言い回しが古いことにはこの際眼を瞑ろう。いっそ博物館にでも飾られるべきじゃないのかと首をかしげたくなる様な代物を、今日も紐解いて読みふける。

 イリヤから貰ったポケットラジオに電源を入れる。適当にチューナーを合わせれば、良い具合の曲にぶつかる事がある。今日は一発だった。BGMは民謡を、ラジオで流れている曲を、だらだらと脳みそに染み込ませて。寂しい歌だった、愛する人を何時までも想う男の歌、届かないと知ってなお、想い続ける歌。パセリ、セージ、ローズマリーとタイム。そういえば、この曲はイギリスの民謡だったか――――――

 分厚い鋲打ちされた革の装調を、指先で摘む、ページ自体がやたらと硬い為、こうしていなければ勝手に本が閉じてしまうのだ。内容は装調同様に、異様な物だった。まるで見てきたかのように事細かに記された風景、息づくところさえ感じられるような、リアリティ溢れる描写。だと言うのに、写本めいた訳し違いなど無い。

 一人の男の手記だった、具体的な人名、地名、時代は明記されていない。ただ、戦乱の時代だったと、其処にはある。長く続いた争いに国土は荒廃し、民は疲弊し、王国は力を失い傾いていった。男は一人の少女を見守っていた。いずれ王位に座る星を頭上に抱いた彼女は、約束の場所で、契約の剣を手に取る。余りにもそれは彼女の物語に酷似していて、最初に読んだとき、震えが走った程だった。

 だが、新しい。この本は新しすぎるのだ。羊皮紙が使われなくなったのがここ数百年だとはいえ、それでも一千五百年近く前の彼女とは時代が違いすぎている。とはいえ、この紋章は彼女の王国で使われていた物。謎は深まるばかりだった。

 図書館の司書は首をかしげていた。蔵書であるならば、何らかのシールが貼ってあるはずだと。冬木には外国人も多く住んでいる、個人所蔵の物が紛れ込んだのかも知れない。そう言って、彼女は、未整理の寄贈図書の棚に、この本を置いた。良ければ貸して欲しい、どうすればよいだろうか。と、問うと、どうせなら持って行っても構わない。そう、カウンターに置かれたパソコン越しに言われた。渡りに船だった。

 しおりを挟んだ箇所からページを開く。出来るだけ己の学習にもなるように、声に出して読む。

「――――――I called her name in a withering voice.」

 本を読むことは、魔術を行使する事に似ている。己の内に没頭するか、内容に没頭するかの違い。見知らぬ世界に手を伸ばして、ゆっくりと静かに没入していく。





 ――――――枯れ果てた声で、彼女の名を呼んだ。掠れたそれに応える声はなく、ただ引き取る寸前の息がある。横たえられた体は既に冷え切っていた。この温もりが消えるときに、彼女もまた失われるのだろう。白く色を失った頬は、朝霧に晒されていた為か。まるでその色を吸い込んだよう。眼窩は落ちくぼんで、失った血の量を感じさせる。

 私は己を呪った。こうなることは、彼女が生まれる以前より解っていた事だというのに。どれほど星を読もうとも、運命を変えることだけは出来ないのだろうか。非情だと嘆いたところで、時を戻すことは出来ない。再び運命に挑む気には、とうていなれなかった。

 国のためにあれと、己を律した。国のためにあれと、王すら礎石に変えた。国のためにあれと、娘の人生をねじ曲げた。代償は皆、失敗と死で。笑わせる。道具として作り出したこの娘に、強く引きつけられていたのも確かなことで。

 星に手を伸ばす人々の様に、私は彼女を。

『――――――は、はは、何と愚かな娘よ、愚かな妹よ、ははははははは!』

 髪を振り乱して女が笑う。さも愉快だと、これ以上のことは無いと言わんばかりに。

『どうだ、妹よ! お前が意地を張るから私も意地を張る、そのあげくがこの様だ。王国は滅び、お前は死に至る傷を負い、民は潰えた。満足か? 満足なら笑うが良い。私は笑う――――――はははははははは!』

 女の言うように、娘は頭に深い傷を負っていた。施術を試みることすら無駄だと、病み色の呪いがこびり付いている。癒すことは出来ない、それは己の力を超える執着による物。呪いによって編まれた刃が、深く頭蓋を抉ったのだ。呪いの主にすら解けぬ、強力なくくり。もし弾き返せていたのなら、確実に魔女を滅ぼしただろう。怒りは沸いてこなかった。これは既に予言されていたこと、それも、己の手によって先見されていたこと。

『どうにか言ってみるがいい! 邪険にして申し訳ないと、許しを請えばいい、そうすれば此処まですることもなかったのに――――――っ、はは、ははは』

 地面を睨み付けることをやめ、顔を上げた。笑い声と言うには、あまりにも悲痛なそれ。聞くだけで胸を切り裂かれる嘆きの声。女は既に笑っていなかった。棺に縋り付いて、大粒の涙をこぼしている。笑い声に聞こえたのは、哀惜の慟哭だったか。

『ねえ、なんとか言って。こんな積もりではなかったのだから、お前が少しだけ態度を変えればここまではしなかったのに、どうして最後まで意地を張り通すの――――――』

 女の声から漏れ出でているそれは、確かな愛情だった。この場にいたってようやく理解した感情可愛さが転じた憎しみが、さらに転じた深いそれ。初めは、義父への憎しみだっただろう。母を力ずくで組み伏せて我が物とし、己と姉妹を愛する父親から引き離してしまった義父王への憎悪。無論その子が憎くないはずもない。

 だが、確かにあったのだ。父は違えども、同じ腹から生まれた妹への愛情が。

 母から聞かされた、お前の妹なのだ。という言葉。ただ、己の内に最初に湧き出したそれを、愛情と受け取るのに彼女は幼すぎた。愛情と憎悪は相反する感情だと、思いこんでいたが故に。

 違うのだ。憎悪とは、愛情と同じ物。ただ色が違うだけの、同じ執着の形。彼女のそれはねじ曲がり歪んでしまったが、それ故に混ぜ物をする隙間も無いほどに密度の濃い感情。人の生き死にさえ、左右するほどの。

 だから、犯したのだ。

 王妃に化けてまで。犯したのだ。その色濃い愛情故に。

 いつか音を上げると。息子の事も含めて、頭を下げに来ると。許して欲しい、父のことも含めてと、いつか許しを請いに来るだろうと。

『どうして、どうして――――――! こんなになるまで来ないの、ああ、血がこんなに、止まらない、どうすればいい、とまらない! アンブロジウス! 見ていないで助けて!』

『……妃殿下、貴女様の呪いは強すぎるのです。私には到底解くことなど出来ない』

『そんな、死んでしまう、妹が――――――』

『仕方がないでしょう、それは、貴女が関わる運命だ』

『ああ――――――そんな、ことが』

 たおやかな手が血に塗れる。黒く固まりかけたそれは、まるで死そのもののようにまとわりつく。

『馬鹿、馬鹿な妹。こんなに傷が冷えて、こんなに汚れて――――――治れ、我と我が父の名と我が主の名に於いて命ずる、疾く去れ、在らざる戒めよ!』

 ほとばしる強き光、死に瀕した者すら癒す光も、彼女を癒すには至らない。頭の傷は深く、刻まれた呪いもまた深い。繰り返し、繰り返し、無駄と知って尚紡がれる祈り。呪いばかり吐いてきた口からあふれ出す本当の祈り。ただそれも、長く積み重ねられた呪いには、とても打ち勝てぬ。彼女が生誕してより二十六年の長きに渡ったそれ。言葉の力だけで、並の呪詛を弾き返すほどに高まってしまった圧力。魔女の言霊とあれば尚更だった。泣き崩れる彼女を引きはがす。船出の時は近い、亡骸になる前に、異郷へと彼女を運ばなければならないのだ。

『妃殿下、貴女に彼女は救えない。なぜならば、王の唯一のゆりかごを貴女が奪ってしまった。帰る場所を奪ってしまった。民も、友も、国も、あらゆる全てを奪ってしまった。妃殿下、貴女には救えないのだ』

『あ、ああ、っ――――――あああぁぁぁぁぁぁあああああ!』

 女の声に空が泣いた。最初に一滴、次に、三滴。強く雨が降り出した。この地方にしては珍しい、大粒の冷たい雨。ばちばちと撥ねる雨滴が、視界を白く染め上げていく。

 体を冷やしていく、冷たい雨の中で。




『――――――そうか』  静かな声で。

『本当に愚かだったのは――――――私だったのか』

 魔女は初めて、己の罪を受け入れた。




 死すら生温いと己に呪いを掛けて、永遠に朽ち続けようとも在り続け、永遠に贖罪の祈りを捧げ続けようと。世界が滅びを迎える、その時までと。

 かけるべき言葉はなかった、自分に出来ることなど何もない、残された力は、かの島へ船を渡すことに使わなければならないのだ。

 そうだ、出来ることはない。出来る力もない。



 だが――――――やらなければならない事が、
              私に残されているのではないだろうか。



 私だけにしか、出来ない事が。

 充分だろう。十年、十二の大戦、荒廃した王国の再興と滅び。それを一手に担ったこの指に、安らぎ一つ与えることが出来なくて、何が王国一の魔術師か。何のための業か、何のための力か。

『……手は、無くもないか』

 鍵である白銀の林檎を弄びながら言った。罪深いことだと、己を憎む。また、呪いを吐いて永遠に人を縛り付けるのだ。自嘲した、半魔の身には余りにも相応しい。

『妃殿下、世界に身を捧げるのです』

『なに?』

『稀代の魔女たる貴女なら、その資格は十分にあろう。世界の僕となる代償に、鍵を捜して欲しい』

 王が行き過ぎた時を巡り、王と共にある資格を探し出せたのならば、あるいは――――――

 女は涙を拭うと、まっすぐな目で言葉を促している。是も非もなかった、ただ、方法があるのなら成すと、決めたことだと体の芯に飲み込んでいる。

『鍵とは』

『貴女も知っているだろう、かの王の剣だ』

『……いずこより捜せと?』

『私にも判らない。妃殿下が、無限に続く未来の果てから、王の見た夢の時を捜し出すのです』

『人の身では辿り着けない、そう言うのか』

『如何にも。大海より、一粒の雨粒を見つけ出す様なもの故』

 無限に繰り返される時間の中から、ただ一度きりの、安らぎの夢を探し出す。不可能を形にした理想だった。それでも、女は静かに頷くと、一度目を閉じて言った。

『是非もない』

 強い言葉、それ自体に意味のある、契約の序文。存在が乖離していく。命も喜びも捨てて、ただ誰かのためにと祈る形に。肉体が崩壊する。剥がれ落ちた殻は、最早只の土塊に過ぎない。

『かの剣が見つかるのならば――――――』

 可能性はある。時が流れれば、呪いも形を変えてしまうだろう。そも、神秘が世界より失われた時代が、訪れているやも知れぬ。そうなれば此方のものだ、時を止めて、息を殺して、世界の修正から逃れた理想郷で時を待つ。かの剣が、灯台の様に輝く時を――――――





「――――――The shine of that sword like the lighthouse.」

 しおりを挟むと、本を閉じた。今日はここまでにしておこう、もともとそれ程量を読む質ではない。一度に無理をしたら知恵熱を出してしまいそうだ。只でさえ、三種類の言語で一杯一杯なのだ、此以上、他の誰かの人生を背負い込んだら、それだけで潰れてしまいそう。それでも――――――

「……背負うんだろうな、きっと」

 もし、もしも彼女が此処にいるのならば、全身全霊を掛けて、背負って生きるのだろう。

「うん、間違いない」

 断言できた。それだけは、絶対に間違いなくて。

  〜To be continued.〜



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