緩やかに滞る時間、見知ったはずの景色。本来なら流れていくそれらが何時までも留まり続ける。停滞は濁った水のよう、単色なら透き通った水も、混ざり続ければ雑色に変わる。辿り着くところは黒だ。それでも、日々を見続けることは苦痛にならない。

 切っ掛けは祈り。願いでもなく、誓いでもなく。淀んだ世界を切り裂く光の様なそれは、誰かの笑顔。うっかりすれば泣き顔のようなそれ。誰なのかは解らない。ただ穏やかで、優しい笑顔。だっていうのに胸が痛い。切り裂かれるようで、揺すぶられている。失われることが解っていると、泣き叫びながら睨み付けている。やめればいい。だけども止まれない。だってそれは彼女が望んだことだから。

 それは、誰も失われて居ない楽園。誰一人として欠けず、誰一人としてあぶれない。そんな楽園の夢を誰かが望んだ。それでもそれはそいつの望みじゃなくて、僅かな齟齬からズレが大きくなっていく。

“そうだ―――――”

 なんでもない夕暮。

 なんでもない切り込み。

 なんでもない―――――

“―――――俺は聖杯戦争を解決する”

 ―――――その、答。

 だけど尊いもの。譲れない咎、誰にも渡せない大事な願い。己が成さねばならない宿命。

 それを聞いて笑った。眩しい笑顔で、晴やかな、いつか望んだ笑顔で。この誰一人失われていない楽園で。誰もがその終りを望まない、彼女ですらその在り方を甘受している。だって言うのにこの身はそれを終らせる。

“いいのか”

 と、聞けば―――――

“貴方の剣で在り続ける”

 ―――――などと。

 やられた。そんな顔は反則だ。そんな顔をされたら戻れなくなる。いつまでも見続けて居たくて、痛くてこの身が獣に墜ちて行く。





 ―――――ヤメロ、ヤメロ、ヤメロ、ヤメロ―――――!

 堪え性のない夢、暗転する視界、最後の夜に走り出す。衝撃と熱さ、遠目から見ればそれが拳と鋭利な刃物によるものだと理解できる。だが砕かれたとうの俺は理解できない。ただ、ぎゃん。と、小さく吠えて大地に沈む。此処には居ない。

 ―――――イテエ、コノヤロ、テメエ、コノナックルパート―――――!

 視点が入れ替わる。有限にして無限、終わらないくせに終わりのあるこの身。認識しきれない数は無限と同意。故に終わりはない、だというのに、俺はそれを終わらせるという。拳と切っ先に微塵と砕かれる、しまいには焼き付くされた。此処での俺は此処までで、視界が移り変わればまた走り出す。

 ―――――ハシレ、ハシレ、ハシレ、ハシレ―――――!

 見覚えのある景色、見覚えのない角度から見る。いやさ、これは幼い日に見た角度、屋敷の中を走り回って、塀の上にまで走り出した日。様々な角度に俺が居る。見渡せば無限の大軍勢。どうして彼女が彼女と一緒にいるのか、日常の象徴とも言うべき、戦闘には向かない衣服。どちらかと言えば桜のそれの方がこの夜には相応しい。抵抗は苛烈で、どれほどの波を押し込もうとも押し返される。それでも止まらない、ぐだぐだになりながらも舌を垂らして襲いかかる。

 ―――――ジャマダ、ノケロ、イテエ、ササッタ―――――!

 邪魔だからどかす。殺すんじゃない、あくまでどかすだけ。日常には彼女が必要だ。人間らしく在るために彼女が必要だ。だからどかす。この手でどかす。この爪でどかす。その時に、横にどかすだけ。悲鳴、おかしな話、どかそうとしたところで、この爪は単一の目的しかなす事が出来ない。だったらそれでも構わない。必要なのはあの日々だけ。彼女と過ごす日常だけ。彼女の笑顔だけを守れるのならそれでいい。囲い込んで閉じこめて、籠の中の鳥みたいに愛でるんだ。

 ―――――ヤメテ、コエエ、カゲガ、ギャー―――――!

 我が者顔だ、だがそれでもおかしくはない、だって此処は俺の家、屋敷を襲った訳じゃない、ただこの手に取り戻しただけ。喝采と、歓声。その中央で無惨にも蹴散らされる俺達超弱ぇ。利点と言えば数で勝るだけ、圧倒的な数で押しつぶすのみ。でも、此処にも居ない。

 ―――――バカダ、ナンダ、オニダ、ヤメテ―――――!

 激震、ざわめきを席巻する咆哮、背後から現れた鬼、秋には似付かわしくない、できれば節分にでも出てきてくれ。豆じゃ退治できそうにはないが、とにかく今は勘弁してくれ。なんだってこんな時にって、ああそうか。今は最後の夜。アイツがクラスを取り戻すわずかな時間。

 ―――――ドイテ、ヤメテ、シヌカラ、タスケテ―――――!

 バーサーカー。衛宮にとって超えるべき象徴。だがそれも本体だったらの話。こんな分身共じゃ話にならない。そも残骸、残骸を作り出す者に敵うわけがない、ただ砕かれて微塵と亡骸を散らすのみ。勘弁してくれこれじゃイジメだ。

 ―――――キャー、キャー、キャー、ヤメテ―――――!

 やってられっか。関わり合いを避けた一群が坂道を駆け下る。必死の鬼ごっこ、後ろから鬼が駆けてくる。超速え、悲鳴と粉塵、いやあアレは血煙か。蹴散らされる。後ろの視点がぶつんぶつんと消えていく。だが、それでも一対無限。一人でも俺がいるのなら見渡す限りに俺が居るのと同じ、ゴキブリなめんな。一匹みたら家が占拠されたと思え。

 ―――――ハシダ、ヒャッホウ、オトセ、ワタレ―――――!

 群れを成して進む、泳ごうとは思わない、ひ弱なこの体では、対岸に渡り着くよりも海にたどり着く方が速い。だから橋を渡る、最も苛烈にして華麗な抵抗。雨のように降り注ぐ魔弾、屍の群れが更に病みついて倒れていく。

 ―――――ハラガ、アタマ、トイレ、コノアマ―――――!

 それでも走る。七月の再現、ただ獣のように走る、アタマを白くして、ただ走る。病み色の雨を抜けた、ほっとしたの束の間、この先に待ち受けるのは熟練の殺戮者、幾たびもの危機を皆殺すことによって解決してきた錬鉄の英雄。容赦のない剣の雨が、振るわれる双刃が残骸を亡骸に変えて川面へと叩き込む。

 ―――――テメエハ、ネコデモ、サカナデモ、ユミデモカツイデワラッテロ―――――!

 ……なにも車道を走る理由などない。匂いがする、気配が残っている場所へと足を向ける、歩道にそれた一団が、新都へと上陸する。後ろからは鬼が来る。前には無限の切っ先が居並ぶ。横へそれたところで文句を言われる義理など無い。じき鬼は合流するだろう、その後はこの橋が落ちることなど無い。だったら、迂回してその先を落とすべくハシレ―――――!

 ―――――ハァ、ハァ、ハァ、ハァ、アハ―――――!

 駆ける、駆け上る、駆け抜ける。無人の街路を駆ける、無人の街を駆け上る。真っ暗な月夜に獣が走る。どうにか辿り着いた一匹が、目を逸らした瞬間に世界を真っ黒に染める。互いの目、赤く輝くようで何処にも感情がない、殺せ、殺せ、殺せ。まるでいつかに被った泥の様。

 ―――――、―――――、―――――、―――――、―――――?

 閃光、地響きと轟音。先頭の一団が何かと交戦開始、よし、ヤッチマエ。そう思っていられたのも全くの束の間、ヤベエと判断したときにはもう遅い。ああ、これならば地獄絵図など生やさしい。あそこには、どれだけ苦痛に歪もうとも、生き物の絞りかすが存在している。ここにそんなものは存在しない。苦痛も生の執着も無く、ただ根源的な恐怖と破壊、その果ての創造が残されている。粉塵と微塵、牙も爪も、肉も骨も一緒くたに無に帰される。圧倒的な原始の暴力、ついにはその姿を確認することすら出来ない。

 ―――――、―――――、―――――、―――――。

 それでも辿り着いた、ようやく辿り着いた。此処はオレタチの願いを叶える場所。幾度も妨げてきたバカの終末、月への梯子を掛ける場所。他の何処にも彼女は居なかった。だから、居るのならば此処に。嬉しかった、だらしなく舌を垂らして、真っ黒に染まっているであろう建物へと近付いていく。振り返れば誰も居ない、俺一人になってしまったが問題ない。可能性があるのなら無限に変わるこの特性は、彼女が相手だろうと容赦は―――――容赦されてない。

 ―――――、―――――、―――――、―――――。

 無い。ビルを埋め尽くす可能性がない、もっと分かり易く言えば、辿り着く可能性がない、ようやく彼女の隣に戻れるって言うのに、その可能性なんざこれっぽちも無い。ただ静かに荒々しく、月へと至る梯子を風が覆っている。





「貴様達が何を願うかは知らない」





 ―――――ああ、そうだ。

 獣である限り、この夜は越えられない。























「金砂の剣」
Presented by dora 2007 10 23
























   刮目せよ願いの残骸。ビルを覆う風は真なる聖剣の鞘、まどろみの理想ではなく、血塗れの拳で掴み取る本当の理想郷への入口。正面からしか進入は許されず、そんな可能性は―――――


「ここは我が望みにして我が主の願いを叶える場所」


 ―――――そんな可能性はない。彼女が居るかぎり、此所は通れない。

 見よ黄金の輝きを担う者を。

 ここに真なる守護者、気高き少年の祈りを守る本当のセイバーが存在する。

「それをよしとしないなら互いの立場は明白だ」

 剣が光を帯びる。淡く輝いたそれは、やがて強く直視出来ない程に強く。

「いざ我が剣にかけて応えよう」

 迸る光の奔流。

 その優しい痛みにかき消されながら、いつかの坂道を思い出して行く。







 ―――――そうでしょう? この誰も失われていない理想郷で。
         貴方だけは失われたものに価値を見出だしている―――――







 その痛々しい祈り。

 あからさますぎて泣けてくる、大きすぎる信頼。

 他の誰よりも俺の在り方を理解して、己が失われる事を知って、それでも泣きたくなるぐらいの笑顔で。万色を通り越して黒、そんなぬかるむ悪夢を切り裂く朝日のような祈り。いつか叶えと願い続けた、優しい終わり。それを、彼女は信じている。

 深い湖を覗き込んだような瞳、静かな覚悟と確かな誓い。なにより、未来を目指すその心。

 あった事をあった事として。失われたものに価値を見出だすために。

 感覚が消滅していく。擬似的に与えられたそれは、夢の中でだけのもの。ひとたび暗転すれば、触覚と嗅覚、聴覚視覚味覚の順で現実へと回帰する。

 そうしてまたいつも通り。狂おしく、痛ましく、彼女の記憶を求め続けるのだ。正気に戻れば、繋がりを求める衝動は強く強く―――――





 ―――――目を開ける。暗いのはまだ時間が早いからなのか。視界にかかるノイズはひどく、まるで目を圧迫されていたかのよう。体のだるさを押し殺して起こした途端、灼けるような頭痛に倒れ込む。痛くて熱い。風邪でも引いたのか、体の節々が痛くて目眩がする。

「なんで、痛」

 思い当たる理由がない、いや、思い当たる理由。繰り返される四日間、あれが、己の頭の中で起きたことならば理屈は通る。無論一般論ではない、現実の理から一歩はみ出した魔術使いの理。深く息を吸った、回路に魔力を流していく、ゆっくりと、だが確実に。まるで澱が溜まっているかのよう。ほんの僅かな夢だというのに、まるで何年も使っていなかったかのように回路が錆び付いている。

 呼吸と共に大源を汲み上げる。出来る限りの効率で、受け入れられる限りの量を。質と許容量、吸い上げる速度、上昇させるべきパラメーターは多い。

 ノイズ。まだ目が慣れていない。がちりとスイッチを切り替える。今ならば出来る気がした、理屈ではない、感情論にも劣る僅かなひらめき。望めば手に入る、そう思って、あの晩も剣を願った。ここから先は試したことのない世界。だが、無茶をしなければ上手くもならない。壊れるか、壊れないか。ぎりぎりのラインでその時点の限界を模索する。前回失敗した理由は特定出来ていない。だったら一から見直すまで、最初のステップから、一つ一つ考え直していく。

「“―――――――投影、開始トレース・オン”」

 創造理念・鑑定。名剣、王の座をもたらす器物。未来を切り開く者。輝く者。与えられた条件は希望と理想。王権の象徴。英雄の手に握られる者。幻想としてしか存在し得ない、完璧な王を導く者。先導者。ブリテンを導く者として、祈りを託された者。道標、がちりと一つの枠に填める。

 基本骨子・想定。理想を託される器物、危機に瀕するブリテンを救う者。王冠では理想に過ぎる、王錫では理想に足らぬ。守る者ではある、だが鎧では前進に欠ける。選び出されたのは剣。深く岩に突き立ち、決して抜けることのないと思わせる巌。英雄達の眠る墓所に、ひっそりと埋められたウーサーの剣。遺志を継ぐ者。がちりと一つの枠に填める。

 構成材質・複製。近隣諸国でもっとも優れていると言われた鉄。混じりけのない黄金。腕の良い職人達。妖精郷の零れ物。英雄達の願い。絶対の勝利。がちりと一つの枠に填める。

 制作技術・模倣。灼熱の銑鉄、選りすぐられた鋼鉄。柳のようにしなやかで、金剛石のように硬い。何よりも、明るく刃の中が仕上がらなければ上手くない。どれほど切れ味鋭かろうと、黒い剣では意味がない。広い戦場に於いて、どこから見ても“王は此処に”と叫び立てる鋭い明るさが欲しい。一群の先頭、雷光の如き切っ先を立てて走る王騎。必要なのはその輝きだ。細く伸ばされ寄り合わされる鋼、行く通りもの鋼の組み合わせ、その果てに生み出される剣身。刻み込まれる妖精文字により、この世の物とは半歩理のずれた世界に踏み込んでいく。がちりと一つの枠に填める。

「―――仮定完了。是、即無也オールカット・クリア・ゼロ

 足音。ぱたぱたと軽い、あの時の音を思い出す。確かに響く冬枯れの芝生。

 ずきん、と、頭が痛む。

 よく似ている。あの夕暮れの笑顔と、土蔵に入って来た彼女の笑顔は似ている。二度と忘れない。きっと忘れられない笑顔。それを見るためなら、なんだってやってやると誓った程の。

「先輩、起きてますか?」

「ああ、今着替えるからちょっと待ってて―――――いや、先に支度しててくれるか?」

「はい! 任せちゃってください!」

 襖の向こうから、嬉しそうに撥ねる気配。信頼に応えようとする様はいじらしく、なんだかこっちまで笑顔を釣られそう。

「さて、任せるんだったら」

 日課の鍛錬でも、こなしてくるとしましょうか―――――







「―――――298、299、300!」

 額に流れる汗を拭う。十月とはいえ、ここ数年はいっこうに冬の気配を見せない。何処か夏めいた空気の中、道場でいつものように筋トレをこなす。一時ほどの無茶はしなくなっていた。それでも、アスリートめいた運動を己に課し続けている。

 小一時間ほども体を虐めると、そろそろ料理も仕上げにさしかかる。できあがる前にひとっ風呂と、タオルを担いで風呂場に向かう、と―――――

「―――――お、気が利いてるなぁ」

 どうやら風呂は沸かしてあるらしい、こりゃ結構なお点前で、と、鼻歌交じりにシャツを洗濯籠に放り込む。別に此処までしてくれなくても良いのに、彼女は俺の家政婦でもなんでもないのだから―――――なんか錆びた臭いがするな。

「さーて風呂風呂―――――」







「あ、桜ちゃん、タオル其処に置いておいてくれる―――――」







 かぽーん。

 風呂場に響く間の抜けた音。

 いったいどっちがタライを落とした音でしょーか。

 ……え、ええと、その、ええと。

 リカイしたくない。目の前に広がる光景を、脳は必死に否定している。

 だって冗談じゃない。小学生じゃないんだぞ、っていうか、なんでアンタが家で朝に風呂使ってるんだ?

 ああ違う。昔見た彼女とはずいぶんと変わってしまった。

 落ち着きの出たフォルム、しっかりとした土台を覆う筋肉、その上を、適度に柔らかく包んだ脂肪。適当な生活を送っているとはとても思えない、貼りのある肌。メイクなんて最低限しかしていない、もとより目鼻立ちのはっきりとした顔立ち。湯に濡れて、何だか驚くほど新鮮だ。いやちょっと待て、のんきに観察なんかしてる場合じゃないぜー。

 こ、こ、コロサレル?

 食われる?

 凍り付いた空気、間の抜けた湯気が晴れていく。固まったままの姿勢で、藤ねぇの視線が上下に三回ほど往復する。その度に変わる顔色、浮かび上がる玉のような汗。っていうかぶっちゃけ下見んな。俺も俺で隠せば良いんだろうけど、人間あまりの出来事に直面すると、体も頭も完全に

凍り付いて動かなくなるらしい。

 ゲットレディ。今は良い、動き始めた瞬間に全てが始まる。どちらかが反応した瞬間、きっと決壊するダムみたいに大騒ぎだ。

 ……どうしよう。

「に―――――」

 やべ、動いた。

「その、藤ねぇ、ちょっと待て、話せばきっと解るはずだ―――――」

「にゃああああああああああああああああああああああああああっ!? しろうに視姦されたああああああああああああああああああああああああああッ!!」

 なんだそりゃー!

「なッ!? やめろ人聞きの悪い―――――ッ!」

「見るなばかー! 出てけ! この、素っ裸! ストリーキングオブキングめー!」

「なんだそれ、ってか石鹸投げんな! 言われなくてもすぐに出るから!」

「ぶらぶらさせてんじゃないのよー! 出るって言うなら開けた瞬間に閉めろばか!」

「ぶらぶらとか言うな! 予想外だったんだよ! 痛っ、桶投げんなバカ虎!」

「私を虎と呼ぶ……ふ、ふーんだ! そんな事言ったところで見せてなんかやらないんだからー!」

「そんなことは誰も期待してねえッ!」

 ……どたばたがらがたと、致命的な音を立ててタライの直撃した棚の荷が崩れ落ちる。どれだけの力が籠もっていたのやら、辺りに散らばった荷物は片付けを考えると億劫すぎて溜息が出そう。

「……やれやれ」

 取り敢えずはパンツに脚を通す。流石に丸出しではどうにもならない、ええいくそ、俺の風呂タイムを返せー。

「……うううう」

「なにさ」

 聞こえてきたうめき声に、反射的に返事をしてしまう。

「見、た?」

「知るか」

「見たんだ」

「うるさいな、だったらどうだって言うんだよ」

「……見られた〜」

「……ぐ」

 声のテンションはいつもと違う。て言うか、なんかおかしな温度。何処か湿っぽくて苦手な空気だ。

「……もうお嫁に行けないよう」

「元からだから安心しろよ」

「……しろうが意地悪なこと言うよう、このいけず」

「ほっといてくれ」

 反射、言葉の大半は意味がない。考えなくても彼女相手なら転がり出るもの、身内だから、頭を使う必要もない。確かにそうだった。

「ねえ」

「なんだよ」

 その。











「じゃあさ―――――しろうが貰ってくれる?」











 嫌に、心のこもった一言を聞くまでは。

「他にいけないのならさ、しろうが貰ってくれるの?」

「―――――ッ」

 言葉が出てこない。裸の衝撃もさることながら、こっちはもっと爆弾じみている。

「あ―――――」

 声が出てこない。舌の根が乾いてしまって、下顎に張り付いてしまったかのよう。

 だってリカイした。感覚で、直感で、何年も聞いてきた彼女の声。藤村大河の、本気の言葉。冗談めかした所はなくて、ただストレートに意味だけがこもっている。

「そ―――――」

 黙るな。黙るな黙るな黙るな。口を開け、混ぜ返せ、今ならまだ間に合う。沈黙は敵だ、こんなに居心地の悪い空気の中には一秒たりとも存在していたくない。動け、考えろ考えろ、喋れ、話せ―――――!

「は、はは、冗談だよな」

「―――――そっか」

 滑った。声が緊張で滑ってこけた。裏返った笑い声、誤魔化しようがないぐらいにひどい。

「年上だから? 八つも離れているから?」

 そんな事はない。だって少し前までだったら、二つ返事だったと思う。いいよ、なんて軽く言って、結果的に藤村の跡継ぎにされたとしても、それはそれでアリだったかも知れない。

「ねえ、何でかな、美綴さんもダメだったんでしょ? どうして士郎はダメなのかな」

 怖い。何が怖いって、それが解らなくて怖い。いや、きっと壊れていくのが解っている。今まで築き上げてきた、居心地の良い日常が失われてしまう。それが怖くて血の気が引いている。

「お姉ちゃんだから? でも、一緒に暮らしてる訳でも無ければ、血が繋がってる訳でもないよね」

 藤ねぇの声は静だ。だから、それが余計に恐ろしい。

「ねえ、どうして? ―――――ううん、私もね、本当は解ってるんだ―――――」

「それ、は」

 言わせてはいけない。その先を、言わせてはいけない。

 でなければ壊れてしまう。今まで取り繕ってきた何かが、押さえ込んできた物があふれ出してしまう。

 やめろ、やめるんだ藤ねえ。それを言っちゃダメだ。だって言うのに、何で―――――何でこの口は動かない―――――?











「―――――ほんと憎らしい、へんなのにしろう、とられちゃった」











 声には感情が伴っていない。

 一時の迷いだとしても。

 憎らしいと、聞き逃せない言葉がある。

「誰の物でもなかった。こんなに身の回りに女の子が居ても、士郎は誰の物でもなかった。それだったら良かったのに、誰の物でもないのなら、私は見ているだけでも良かったのに。だっていうのにセイバーちゃん、来てすぐに私の居場所とっちゃった。  それでも、良かったのよ。彼女が士郎の事好きで、士郎もセイバーちゃんの事好きだって解ってたから。きっとずっと一緒に居てくれて、言葉通り士郎の事、守ってくれるんだろうって信じてたから。ああ、この娘だったら言葉の通り。大丈夫だろうって信じられたから。  だって言うのにさ、朝起きたら居ないって。
 故郷に帰っちゃったって。
 もう二度と会うこともないだろうって、もの凄く感慨深げに。なによそれ、どうして握りしめておかなかったのよ! このバカ! ばかしろう! そんなに離れても忘れられないぐらいだったらどうして! 誰も邪魔なんかしないのに、なんでいっつも自分から捨てちゃうの!? 美綴さんとの事だってそう、きっと彼女が邪魔してる。セイバーちゃんの事思い出すから、最後の一歩が踏み込めない。安心よね、安全で、やきもきすることはあっても頼りに出来る。それだけじゃない? みんなが此処にいる理由。士郎は良い奴だからみんな好きになる。だけど其処まで、そこから先にはどうしても踏み込んでくれない。だって忘れてないから、居なくなっちゃった子のこと、ずうっと忘れてないから」

 わめきちらされる言葉に意味はない。

 ただ、言葉の一つ一つが胸に突き刺さる。暗い感情。意味はなくとも、それは至極まっとうで反論のしようがない。

「ねえ、答えて」

「ああ」

「それでも彼女が良いの?」

「ああ」

「居なくなっちゃったのに?」

「ああ」

「もう居ないのに?」

「ああ」

「おかしいよ士郎」

「そうだな、きっとおかしくなってる」

「そっか」

「悪い、藤ねぇ。俺―――――」

「出て、もうじき桜ちゃんくるから。出会したら拙いでしょ」

「……ん」

 からりと渇いた音を立てて、風呂場の戸を滑らせる。澱が溜まっている。重たくて、どうしようもない。

「あれ、先輩?」

「藤ねぇが使ってたんだな」

「あ、ごめんなさい、入っちゃいました?」

「いや、なんで?」

「ほら、その、何て言うか……」

「―――――」

「桜ちゃん、アレ持ってきてくれたー?」

「あ、はーい。大丈夫です!」

 桜の後ろ手に弄ばれる物。どういう訳か、家のトイレに常備してある女性用品。恐らくは、学生の頃から藤ねぇが置いていたのだろう。

「……だいたい事情はわかった」

「そ、そうですか、じゃあその……」

「ああ、向こうで待ってるから、風呂空いたら教えてくれ」

「はい、じゃあ、お茶でも淹れますか?」

「いいよ、自分でやる」

 出来る限りいつも通りに。

 出来る限り平静を装って。

 出来る限り、同じ顔をして居間へと向かう。

 お茶を飲む気にはならなかった。ただ、重苦しさと憤りだけがある。何て愚かな自分。こうなることなんて、考えなくても解りそうなぐらいなのに。





「先輩、空きましたよー!」

「おう、今行くー」

 重たい腰を持ち上げて、今度こそとタオルを引っかける。握りしめていたところが湿っぽくなっていて、なんだか爽快感の欠片もない。

「あ……」

「……」

 途上、廊下で藤ねぇとすれ違う。当たり前のことだ。この狭い屋敷の中で、出会さない何て事はあり得ない。

 言葉もなくすれ違う。目は合わなかった、ただ、やりきれなさだけが残って脚を止めた。

「藤ねぇ」

「士郎、ごめんなさい」

 振り向くことは出来ない。己の吐いた言葉の醜さは、彼女が一番熟知している。だから、何を言うにしても、顔を伺うことは彼女に失礼だろう。

「ちょっと気が立ってた、ごめん。生理、急に来ちゃったから」

「うん、みたいだな」

「謝るから」

「ああ」

「だから、お願いだから、もう来るななんて言わないで」

「……ああ」

「此処も私の家なんだから」

「ああ、知ってる」

「私は、士郎の、士郎の―――――」

「姉貴なんだから、だろ」

「―――――いいの?」

「いいよ、藤ねぇは、藤ねぇだ」

「そっか、私は、お姉ちゃん止まりかぁ」

「……」

「それでも、いいや。ごめんね、憎らしいなんて言って」

「ああ」

「憎く何て無いから、帰ってきても、受け入れられるから、大丈夫だから」

「ああ」

「だから居なくならないで、これ以上、家族が減るのなんて嫌なんだから」

「大丈夫」

「切嗣さんもセイバーちゃんも居なくなって、士郎まで居なくなったら桜ちゃんも居なくなっちゃう。そんな寂しいの耐えられないから」

「解った、居なくならない」

「士郎」

「ああ」

「そんなに簡単に返事しない方が良いよ」

「え?」









「きっと我慢できなくなるから、士郎は、切嗣さんの息子だから」









 ―――――Do you know知っているのですか?

 Writing in me, and word of wish私にかけられた、祈りの言葉を。.

 Only the curse and the word that can be received according to the person人によっては、呪いとしか受け取れない言葉を。.

 The word that can exist only in the ideal sworn on that promised nightあの約束の夜に誓った、理想の中にしか存在できない言葉を。.

 Do you know貴女は、知っているのでしょうか―――――?



 遠い声。居間のテレビから流れてくるメロディー。

 下手くそで、間違いだらけの即興歌。あまりにも填りすぎて、BGMじみている。

 〜To br continued.〜



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