濃紺から紫紺へ、そこから群青へと薄められていく空の色を、涙の枯れた瞳で見つめていた。結局心の整理は付かぬまま、冬よりも、もっとずっと早く上る太陽を見つめている。まっすぐ見ていられなくなるまでに、さほどの時間は掛からなかった。遠い山並みの向こうから、新しい一日がやってくる。眠りというリセットを無いままに、夏の朝日を吸い込んだ。

 軋む体を起こすと、大きく伸びを打って太陽に背を向ける。何時かの朝と同じ、此までの朝と同じ。八月の強い日差しが、夜気で冷えた体に熱を入れていく。プラグに火花を飛ばすように、体に最初の火を入れる。僧坊までくだると、厨房を覗き込んだ。寺の朝は早い、日が昇る前には、既に僧侶が動き始めている。

 朝食は皆済ませたのか、一人その場に残って、粥を差し出してくれる一成の世話になる。心からの礼と引き替えに椀を受け取った。飢えた体に粥は染み込むようだった。塩気も具もない、ただの白粥、ただ米と山の水を炊いたそれが、何よりも有難い。甘くて、薫り高いそれ。夢中になって食べた。

 余程長い間寝かされていたのだろう。無理矢理動かしたせいもあって、こわばった筋が痛い。礼を言って山を下る。何処かへ行く当てがあるわけでもないのだが、まだ家に帰る気にはならない。石段を下りながら考えた。ただ歩いているだけでも、座り込んでいるよりはマシだろう。せっかく天気も良いことだし、室内でふさぎ込んでいるよりは余程いいだろう。そう思って、新都まで足を運ぶ。

 駅前に出た。ベンチに腰を落ち着けると、それまでに見えていなかった物が見えてくる。時間に従って緩やかに色を変えていく朝の光景、留まる事無く流れていく人の波。毎日同じだけれど、けっして重なることのない風景。思いつきのままに彼女を重ねてみる。その違和感に笑った。やはり居て良い場所じゃない、もっと、綺麗な場所の方が似合うのに―――――

「は、ばかいえ」

 ―――――なんて勘違い。ひどいものだ、気がついたようで未だに理解していないのか。それこそ今、目の前を行く人をバカにしている。どれほど其処に覇気が無くとも、華やかさが無くても、美しさが無くても、かっこ悪さがかっこいい、そんな、懸命に生きる輝きが街には溢れている。

 だから、本当に彼女に似合うのはこんな風景。一生懸命で、必死で、幸せになりたいと願う人々の中で理想を体現する。道に迷いそうになった旅人の足下を、松明で照らすように。

 かつては百の松明を束ねた様に輝く剣で、それをなしていた彼女。

 それが似合わないなんて、本当の意味でセイバーを侮辱している。

 ああ、きっとそうなのだろう。本当の戦いとは、目に見える敵を切り伏せることではない、怪物や魔術師と戦う事でもない。



 ―――――戦うとは。
         ただ必死に日々を生き抜くこと。










 バスには乗る気にならなかった、財布の中身は無い、いくらかの小銭が、ポケットに入っているだけ。とつとつと、一つ一つの記憶を確かめながら橋を渡る。夏の熱い風、それでも海から吹き上げる河の風は、僅かに涼しい。過日の襲撃で砕かれた河畔の公園も、修復は滞りなく進んでいる様子だ。夏休みだろうと関係ない、工事関係の機械音が橋の上まで届いている。

 下を覗き込んでぞっとした。正気に戻れば恐ろしく高い、やらなくなってからほんの僅かな時間だというのに、今はもう跳ぶ気にはとてもなれない。覗き込むだけで身がすくむ思いだ。こんなこと、余程追い詰められ出もしない限りやりたくはない。毎日続けていたからこその中毒症状、遠坂の魔術ですっかり毒気を抜かれた体は臆病なほどだった。

 橋を渡りきり、しばらくのあいだ続いていくなだらかな道を歩く。商店街は朝の賑わいを見せている、誰もが疑うことのない、続いていく日常がある。緩い坂道を下から見上げる。割と目新しい風景、この場所を、こんな具合に見上げた事はあっただろうか。様々な色の屋根が、高台に向かって伸び上がっていく。右と左に別れて、高さと色合いがまちまちに変わっていく。右側は碧く、黒く。左側はカラフルに高く伸び上がる。あっちには、俺の家、あっちは間桐と遠坂と―――――山間にある、いくつかの建物。



「……うぉおぉ、スゴイナ、これ」

 日差しが強くなってきた。オレイマコソゼッコウチョウッ! てな感じにギラギラの太陽は、むやみやたらと照りつける。喧しいぐらいの蝉の大合唱、一週間しかない、それでも絶対の青春を謳歌してシャウトシャウトシャウト。暴力的で、精力的で、刹那的だ。ひどく熱い。白い光に焙られたアスファルトが、靴の裏側に粘り着く。陽炎が、やたらと道行く先に逃げ水を見せる。時折通るトラックが、熱風を巻き上げる。

 おかしな事に汗は出なかった、からりと渇いた肌で、薄ら寒さを感じながら歩く。動きすぎた後の脱水症状みたい、電解質が逃げすぎて、熱いのを通り越して体温だけが上がっているような感覚。体温が上がってきたのが、感覚的に解る。だって寒い、暑いのに寒い。まるでインフルエンザ、高熱で体の感覚がすっかりおかしくなって、暖房炊いた部屋で毛布にくるまって震え出すような。こりゃあ拙い。そう思って、手近な自販機でスポーツドリンクを買い込んだ。

「うひゃ、冷て」

 プルタブを引く、ぷし、と細かく散る水滴。口を付けて一気に流し込む、酸味の効いた液体が、甘さを伴って喉を滑り落ちてくる。舌の奥に感じる張り付くようなそれは、人工甘味料の甘さだろう。染み込むような錯覚、胃袋は水分を吸収しない。それでも、渇いたからだが潤されていくような。

 呷った視線のその先に、居ないはずの人影を幻視した。

「―――――」

 呼吸が止められる。瞬きと、音も。あらゆる感覚が遠ざかる。ただ視覚にだけ、その人影が焼き付けられている。蜃気楼なのか、それならまだいい。誰か似通った人を、空気の乱れで錯覚しているだけ。問題はそれが幻覚だった場合だ。とうとう其処まで壊れてしまったのか、諦観にも似た呆れが己を笑う。白い、夏物のドレスを着た少女が、此方を見下ろしている。目を擦ったところで、溶けるように消えた。遠目で良くは見て取れなかった、眩しかったし、陽炎も揺らいでいる。それでも。

「セイバーだった」

 幻覚なら幻覚で良い。化けて出たならそれはそれで。

「ようやく、夢以外で」

 触れられないとしても、言葉を交わせなくとも。衛宮士郎がそれを信じている事の証に他ならない。別に壊れてしまっていたところで構いはしない。会えないとは解っている、けれどもその影を背負い続ける。

 だから気になることは其処じゃない。

「そうだ、なんで」

 どうして、今の彼女は哀しそうにしていたのだろう―――――?



















「金砂の剣」
Presented by dora 2007 10 15




















   家に戻る頃には十時頃になっていた。割と長い期間戻っていなかったのか、そもそも俺が意識を失ったときはまだ七月だったはず。完全にぶっ飛んだ日付の感覚が、只でさえ乱れている頭を更にややこしくする。想像していた以上に庭木の葉が茂っている。ええと、二三日だと思っていたのだが、どうやらその程度では無い様子だ。

「ただいまー」

 玄関の鍵は開いていた。つまるところ家には藤ねぇか桜かイリヤが来ているのだろう。家主が不在だとしても、きっちり掃除が行き届いている辺り、桜は偉いと思う。綺麗に掃き清められた玄関に、靴を並べて上がり込む。並べられた靴の数は結構多い。家の中をぐるりと見回してみた。最後に見た湿った空気とは、まるっきり違う。まるで別の場所のように、風通し良く窓が開け放たれている。

「お帰り士郎、みんな来てるよ」

 ひょいと覗き込んだ居間からは、藤ねぇの声が届いてきた。声の位置から察するに私が家主と言わんばかりの貫禄で上座に座る藤ねぇ。まあ別にそれは構わないのだが、去年の秋まで静まりかえっていた我が家が、人々の憩いの場となっていることに違和感を憶える。しゃりしゃりと挽かれる小気味の良い音、どうやら誰かがかき氷を作ってると見える。とりあえず、身内の線から考えていこう、藤ねぇはシロップこそ誰にも譲らない物の、あまりに勢いよく回すので、勢い余ってぶっ壊したことがある。よって、衛宮さん家で藤村大河は氷挽き禁止なのだ。

 みんな来ているなら、イリヤと遠坂もだろう。お嬢様はやりたがるかも知れないが、あそこまでテクニカルな音は出せないだろう。年季の入った音だ。とすると、やはりお嬢な遠坂も除外。アイツが庭やら応接間やらでかき氷食ってる姿なんて想像も出来ねえ。

「と、なれば。いやいや、ひょっとすると」

 気まずさを押し殺して美綴も来ているかも知れない。ええと、玄関には靴が五足あった。内訳は小さいの一足、サンダル三足、ローファー一足。……と、小さいのは考えるまでもなくイリヤのだろう。サンダルの内、色気もへったくれもねえ突っ掛けは藤ねぇの。ライトグリーンのベースに、細かい編み革の奴は桜の、もう一足は見知らぬアイテム。ローファーは遠坂の靴だ。

 ……うむ、多分美綴も来ている。他に家に来る物好きなんて思いつかねえ。じゃあ桜だ、他にやりそうな奴は居ないっていうか、客としてきたならもてなされるのが美っちゃんの流儀だ。手を洗ってきて、改めて居間に顔をだす。カレンダーを見れば既に日付は八月の第二週、おおいこれ寝込んでたどころの話じゃないぜー。

「ただいま」

「お帰りなさい先輩」

 台所からの第一声、姿の見えない桜は、やはり氷を挽いている様。面々を見渡せば、予想通りに固まった美綴なんぞが氷を頬張っている。

「―――――お邪魔してるよ」

「おう、何もないけどゆっくりしてってくれ」

 軋むような固い声、だっていうのに、自分の声には棘も焦りもない、そのことが、逆に自嘲を誘う。一時の揺らぎ、彼女では俺が保てない。

 どっかりと座り込んで、出された氷イチゴに手を付ける。もちろん桜に礼を言うのも忘れない。坂を上がるだけでまた喉が渇いていた、ばくりとデカイ口で、でっかくすくった氷を飲み下す。まず冷たさ、それから、常温ではとても飲み下せない甘さ。うぅお来た来た! 沁みるような冷たさ、さんざ外を歩いて火照った体に、この刺激がたまらない。アタマイテー。

 内側から冷やされていく体、と、突然思い出したように汗が噴き出してきた。使われ方を忘れていた汗腺が、上がった体温を放熱せんと全開に開く。開くのはいいんだが……ええと、なんだこの量。なんか、さっき飲んだのと朝食ったのと、今食ったのが纏めて流れ出したみたいで、いきなりずぶ濡れなんだが。平気なのかこれ。

「―――――ははは、でさぁ、ってうぉ!? ……衛宮すっごい汗だぞ! 大丈夫なのかよ?」

「ええと、いや、まあ、ちょっと驚いた」

 遠坂とにこやかに話していた美綴が真っ先に気がつき、どうしたものかとティッシュを差し出す。―――――いやさ、他の面々も気がついては居たのだろうが、遠坂は笑いながら気まずそうに目を逸らすし、イリヤは遠坂を横目で流し見るし、遠坂は遠坂でまた目を逸らすし。ナルホド、これ副作用か何かか。桜は今度こそ桜自信の分を作っていて、藤ねぇはとっくに昼飯前の昼寝モードだ―――――うむ、心使いは有難いのだが、ティッシュ程度じゃまるきり焼け石に水だ。なおもなにやら取り出そうとする美綴を押しとどめて、桜に昼食の確認を取る。

「桜ぁー、昼何にするつもりだった?」

「お素麺を茹でようと思ってたんですけど」

 何か他の物にした方が良かったでしょうか、なんて、ちょっと上目遣いで聞いてくる彼女に。

「いや構わないよ。で、俺ちょっと風呂浴びてくるから、遠坂に手伝って貰って」

 と、言伝て立ち上がる。頭を振ったらそれだけで飛び散りそうな気配、鬱陶しくて仕方がない。

 何だったら美綴も巻きこんじまえ―――――と続ける矢先に。

「え、遠? あ、え? ええぇえぇええっ!?」

 すぽーんと小気味の良い音を立てて赤くなる桜と。

「え、ぅええ!? ちょっと士郎! どういうつもりよ!」

 これまたいい音を立てて赤くなる遠坂。

「な、何事カアアアアアッ!? 敵襲!? さては敵襲か!? おのれ士郎め、久々に帰ってきたと思えばいきなりこの騒ぎかああああ!」

 ついでに二人の大声に驚いて起きた虎は、一直線に俺ののど頸に手をノバシー、ぐえ。

 ……いや、その。

 オレハ、ムジツダー。





「……とりあえず顔洗ってくる。いきなり氷食ったのがマズかったのかな?」

 う゛あ゛ー、とか唸りつつ。べっとべとになりながらも自室へと向かう、どうやら此処までは掃除しなかったらしい、僅かに埃のたまった箪笥の取っ手に、彼女なりの羞恥心を透かし見る。小さく笑って着替えを見繕うと、廊下に出た。汗は未だに止まらない、なるべく着替えを汚さないようにと持ちながら、風呂場の戸を滑らせて中に入る。

「それで衛宮くん」

 閉めた戸の、向こうから。

「用事は済ませたの?」

 と、控えめに訪ねる遠坂の声。着ている物を脱ぎながら、出来る限りぶっきらぼうに答える。

「完璧に。とは言い難いけどな、おいおい片付くと思う」

「……そう、良かった」

 声はまだ少し暗い、気負っているところがあるのか。

「遠坂」

「うん、何?」

「ありがとな」

「っ―――――水くさいこと言わないでくれる?」

 ばたばたと遠ざかる足音、どうやら、最近になって分かり易い感情表現を憶えたらしい。ホンネがだだ漏れで好感が高ぇ。




 つるつると素麺を啜りながら、話に花を咲かせる。とはいえ、風呂から戻ってきて以来、台所にかり出されて俺が話すことはあまりなかった。有難いと言えば有難い。ぶっちゃけ眠り姫の如く三年寝太郎ってたんで、何してたーとか聞かれても答えようがない。

「ふふん」

「何よ」

「じゃあとりあえず付き合った理由から」

「賭に負けたから?」

「冗談で言ったら本当になって」

 減ってきためんつゆを足したりしながら話に耳を傾ける。遠坂と美綴が、僅かに硬い空気で笑いあっていた。どうも例の賭の話らしい、引きつった笑顔で遠坂が「どうぞ何でもお申し付け下さいませ」なんて言っている。全く怯まない辺り、本当の意味であの二人は仲が良いのだろう。

「なに、何の話かなー?」

「え、いやその、遠坂さんと賭をしていたんです、どっちが先に彼氏作るかって」

「ちょ、綾子! アンタここでそれ言う!?」

 見ていて何だか嬉しくなった。遠坂が魔術師で有る以上、有る程度以上の仲の友達は作りにくい。だっていうのに、たまに見かける二人だけの語らいはひどく打ち解けて此処にいる時の遠坂の様。そんな気を許せる相手が居るなんて、此方まで嬉しくなって仕方がない。思わず頬が緩んでいた。

「ぐぐぐ、確かに私の負けだけど、アンタ達はどうなったのよ?」

「うぐ」

 からからと笑っていた声がぱったりと途絶える。痛いところを突かれたのか、美綴の視線が天井を三往復ほどして俺に据えられた。その、何というか。俺に助けを求められても困る。今はお前の彼氏じゃないし。

「―――――むむ、其処はわたしも気になるところなのだ、答えて美綴さん?」

「聞きにくいところをズバリと切り込みますね先生」

 ずずいっと詰め寄る藤ねぇに、苦く笑いながら美綴が返す。もう一度視線を此方に投げた、本当のところを言えば、悩む所など残っていない。片方だけ眉を上げて、小さく溜息を一つ。

「おい藤ねぇ、美綴に聞くよりもこっちに聞いた方が早いと思うぞ」

「いやさ弟よ、直接聞き出すのは面白味に欠けるとは思わないかね」

「趣味の悪い、じゃ聞かれる前に答えてやる」

「えー!」

 文句ぶーぶーな姉貴分を座布団で押しのけて、もう一度けじめを付けるために、はっきりと口にする。

「五月からつきあい始めて、七月の頭に俺が振られて、その後は今までと同じだ」

 しん、と、蝉まで泣きやむ冷たい空気。八つの視線が、俺ではなく美綴に向けられる。

「―――――ええと、俺、なんか不味いこと言ったか?」

「んー、ちょっとな。それじゃあまるで、あたしが悪者みたいじゃないか」

 振られたーじゃねーなんて言いながら頭を振る美綴女史。

「なんでさ、俺が振られたのは確かじゃんか」

「せめて別れたって表現が使えないもんかね、それなら責任も半分こってもんだろうに。あたしに押しつけるとは見損なったよ衛宮」

「だから、なんでさ。振られたってことは俺に落ち度があるからって事じゃないか、悪いのは俺で、美綴は悪くない」

「アンタはそう思ってても回りはそう思わないの、見ろよな、さっきの視線。針の筵みたいな気分味わわせないでくれる?」

「む、そりゃ悪かったけど」

「けどもへたれもない」

「むむ」

「そう言う時にはなんていう?」

「むう、ごめん美綴」

「宜しい」

「おう」


 むう、なんだか釈然としないが、一応それで良しとしておこう。今更波風立てることもない。フッタの振られたのの話題なんて、当人が揃っている以上みんな疲れるだけで得る物なんて無い。

「じゃあ士郎が悪いんだ」

「ああ、そうみたいだな」

「むう、ずいぶんさっぱりと言い切るわね。士郎は未練とかないの? 美綴さんの事、嫌いになっちゃったの?」

「嫌いになってなんか無い、今でも美綴のことは好きだし、良い奴だと思ってる。だけどそれだけだ。女としてとか彼女としてとか、踏み込んだところまで俺達はいけなかった」

「美綴さんも?」

「ええ、まあ。端的に言って衛宮の言うとおりです。っていうか、衛宮アンタぶっちゃけすぎ」

「悪いな、でもこれぐらいやっとかないと藤ねぇは後まで引っ張るぞ。言ったことも聞いてない振りするからな」

「ハイハイソコー、人の目の前で陰口をたたかなーい」

「違うぞ藤ねぇ、陰口じゃない、これは悪口っていうんだ」

「黙れ屁理屈小僧!」

「そもそもほじくり返したのは藤ねぇだろう!」

「こおの、調子にのりおって! 道場へ来い士郎! その腐れた性根をたたき直してくれるわー!」

「おお上等だ! 返り討ちにしてやる! 剣道やってた頃と全く同じだなんて思うなよ!」

「笑わせるなよ小童!」

「黙れタイガー!」

「オ・モ・テ・ニ・デ・ロ!」

 があああああと吠える藤ねぇ、ちょっと硬くなっていた空気が、一気に和んでいく。

 よしよし、これでいい。これなら問題なく、また日常に戻ってこれる。




「そうなんですね、言ったもの勝ちなんですね、ああでもとても私じゃ言えない……!」




 ……むう、なにやら桜が隅っこで苦悩している。何か呟いているようだが、まあ盗み聞きは無しにしようか。







 夏の日差しは夕暮れを遠くに追いやるかのよう、それでも暮れる太陽に。三々五々と来客が散っていく。

「シロウ、本当にダイジョウブ?」

「ああ、いや、ゴメン。世話になった」

「いいけど、高く付くんだからね」

「ん、恩に着る」

 イリヤは泊まっていくのだと言う、別にそれは構わないのだが、問題は俺の隣で寝るというのだ。それはいささか倫理的にあれだと思うのだが―――――

「なんで? たまにはいいんじゃない? わたしもこの半年で士郎の自制心は嫌というほど見てきたから。まあ、他の子が同じ事言い出したら制止するけど、イリヤちゃんは士郎の義妹な訳だし、そんなちっちゃい子にどうこうする人間じゃないのも知ってるし、何も言わないわよ」

 ―――――なんて、虎の一声で一日の終わりが決められたりする。




「さて、寝るか」

「うん、おやすみなさい!」

 眠たい。あれだけ寝ていたはずなのに眠たい。どうしてこんなに眠たいのか解らない。疲れては居ないはず、どちらかと言えば寝過ぎて起きていたいぐらいなのに。

「ふぁあぁぁ」

 蕩けるように眠りに落ちる。

「ね、シロウ」

「んー?」

「シロウのふとんに、入っても良い?」

「何もしないならいいよー」

 ごそごそと動きがある、人がたの温もりが、そっと隣に滑り込む。

「……えへへへ」

「んー」

 右腕を貸してやる、とにかく落ちてしまいそうな意識をつなぎ止める。せっかく俺のために力を尽くしてくれた彼女が、眠りに落ちるまでは、と。

「なんだかうれしいな、こんな風に誰かの隣で寝るのはね、ほんとうに久しぶりなの」

「―――――そうか」

 父もなく、母も居らず、ただ冬の城で、たった一人で。

 寂しかったろうなー、と、ただ綺麗な気持ちで考えて。

「え、え?」

「よしよーし」

 枕にした腕毎抱え寄せて、長く積もった優しさを、彼女にと。

「おやすみイリヤ」

「あ―――――ん、おやすみなさいシロウ」

 安らかな、安らかな眠りを―――――











 ―――――ファーイブミニッツ。

「……ゴメンシロウ、やっぱり暑いから戻るね」

「……おう、俺もそうした方が良いと思う」

 ああ、クーラーの無い部屋で、八月に添い寝なんてやってられっかー。



































   ―――――ふと。
         夜更けに、目が覚めた。



































「―――――」

 虫の音が聞こえる。秋のそれとは違う、夏の虫の、力強い鳴き声。

 空気は清く澄んでいて、夏のどんよりとした夜とは思えないぐらい。

 空に掛かる月は高く、びっくりするぐらいにあかるくて。

 やってみようと思ったのだ。

 できるかどうかは解らない。

 ただ、思いついたのならやらない理由もない。

 回路を鍛えた成果、まだ試していないと思って。

「そーっと……」

 イリヤを起こさない様に部屋を出る、人形のように静かな眠りを邪魔しないように。

 庭に出て、大きく息を吸う。胸一杯の夜気は、それだけで心が洗われそう。雲は一つも浮いていない。碧い碧い海の中に、大きな海月が浮いているよう。ざくざくと伸びた芝を踏み分けて、庭を横切っていく。

 大気は辛と凝っている。まるで此方の緊張が移り変わった様、庭に降りた途端に、虫の音も潮が引くように止んだ。病み色の空、遠く見渡せるくせに、何処か濃い空気。こんな夜はいつも成功しない。あまりにも濃すぎる大源は衛宮にあわないのか、回路の許容量を容易く超えて汲み上げた魔力が暴走する。

 だからと言って、やらない理由にはならなかった。

 軋みを上げる土蔵の扉を、出来るだけ静かに開いていく。修理してからというもの、音がひどくなった。油を差さなければ行けないと思いながら、もう半年が経っている。CRCを持ってきて、吹き付けてみた。余計なことをしている。幾度か注してみたものの、音は消えない。どうやらもっと根本的な部分から、直さなければいけないらしい。

 軋みを上げる鉄扉といえばハドリアヌスの城門か。開ける度にモップで大量の油を流し込まないと、これっぽっちも動かなかったとか。

 やっぱり余計だった。つまらない時間を食った。そう思いながら、シートの上に腰を落ち着ける。誰かの目を盗んでここに来るのも、本当に久しぶりだった。

「―――同調、開始」

 眼を瞑る。

 イメージするのは、一振りの剣。豪奢にして繊細、王権の象徴にして、彼女の写し身。この手に三度写して、危機を救ってくれた剣。

 がちりとスイッチを引き下ろす。引き金は頭に、ぶちまける勢いで魔力を回路に流す。

「“―――――――投影、開始トレース・オン”」

 回路に流れる魔力は今までとは違う量、大きすぎて軋みを上げていた設計図が、油を垂らされて様にスムーズに流れていく。

“―――――創造理念、鑑定”

 ―――――元々は、かの土地に伝わる名剣だった。遙か遡れば“理想を求める願い”に端を発する。歴代の英雄に受け継がれてきたウーサーの名剣に、マーリンが掛けた選定の術。反則と言えばそれまで、竜の因子を持つ物にしか抜けないようにし向けられた剣。

“―――――基本……骨子、想定”

 理想の象徴、百の松明を束ねた明るさ。稲妻の様な切っ先。輝く物として願われた形。その威光の前にひれ伏せと。何人たりとも敵うものは無しと。

“―――――ふぅ、ふぅ、ふ、ぎ、あ……構成材質、ふく、せい”

 流れていく銑鉄、思いも寄らぬほどの高温で精錬された鋼鉄。無論、ただの火ではこの温度は作り出せない。魔術師の魔力から生み出された高温、十分な量の鋼を手に入れる為の炉心。一部の支配階級にしか、許されることの無かった冶金技術。鉄と、チタン、ニッケルに、僅かに珪素。燐と硫黄は出来る限り排除する。それから、魔力と人々の祈り。

“―――――制作技術、も、模倣、あ、ぎあ、あ”

 鍛造、大鎚の一撃毎に籠められた魔力がほとばしる。太陽そのものを鍛えているような輝きが、細工場を満たしている。鍛え上げられ、刻み込まれていく魔術文様、ルーンのそれとは又違う、ドルイド特有の、複雑かつ流麗なそれ。磨き抜かれた棒状鍔。蒼い、鞘と揃いの柄。宝玉は無数にちりばめられ、王権の象徴として。また、魔力の増幅器としての役割を覚え込んでいく。

 こうして剣は作られた。だが、これではまだ新作の剣に過ぎない。積み上げた神秘すら、この投影なら再現してみせる。

“成長経、験―――――あ、あ、ぎあ、ががああががが”

 幾人もの英雄が柄を握った。

 幾度もの戦争に振るわれた。

 あまたの死を乗り越えてた。

 多くの者を導いてきた。

“ちく、せき、は、あ、あ、あ年月、再現……!”

 ある時は戦場で、あるときは玉座の前で、またある時は持ち主すら傷つけて。

 太陽の光を受けて。雷光を照らし返して。月光をこれでもかと吸い込んで。

 竜の魔力を食らって、達人の業を刻み込んで、担い手の祈りをその刃に映し出して。



 ―――――そうして、選定の剣の前に立つ。



 遠い歓声、近い風の音、草を踏み分ける足音は二つ。

 その場所は踏みにじられていた。国中の力自慢が競い合って剣に手をかけたのだ。鮮やかな草地は緑の泥に変わり、草いきれに土の香りが混じる。強い瞳の少女が、剣に手を掛けようと歩いてくる。震える指先を叱咤しながら、くらくらと眩む視界を保ちながら。それでも、両足を大地に踏みしめて前を睨む。

 呼応する魔力、剣のために用意された体、体のために仕立てられた剣。恐ろしくなるぐらい、鋳型と鋳物と言うぐらいの整合性。剣の威光の前に、ひれ伏して倒れ込みたくなるのを堪える姿も凛々しくて。

 そうして、僅かに振り返る。戦いを恐れる少女の心、置き去りにするそれに、別れを告げるように。誰も拾い上げることのない心だけれど、それが在ったことを剣だけは忘れない。彼女も、また。

 もう一歩踏み出して指を伸ばした。残すところは三歩ほど、僅かな距離が、ひどく遠いよう。





「が―――――」

 ばちんと接続が切れた。まだ足りないのか、あの時とは違う。鍛えられた回路でもまだまだ足りない。今度は出す側が狭すぎる、流せる容量が大きくても、放出量が小さければ同じ事。

 まだ足りない。

 まだ、想いが足りない。

 これだけ焦がれても、まだ足りない。

 〜To be continued.〜



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