白い。考えることを放棄させられた脳は、まるで真っ新な紙のよう。憶えることもない、思い出すこともない。
ただ、聞こえてきた言葉と音が、書き込まれるように浮かび上がっては消えていく。
“どう?”
“どうもこうも無いわね、すっかり依存してるわ。二週間毎日なんでしょ? 脳にそんな刺激与え続けてたらベトナム帰還兵みたいになっちゃうわよ”
“じゃあ、シロウは?”
“出来る限りのことはしてみるけど、もし焼き付いちゃってたら元には戻らないでしょうね”
“―――――”
“そんな顔しないで、まだ手遅れって訳じゃないわ。アンタが気がつかなければコイツもっとひどくなってた”
“ワタシね、もうダメだとおもったわ。シロウの言ってることとやってることが食い違ってる。自分がどんな感じになってるのか、見ているのに理解できてないんだもの”
“そっか……”
此処は何に近いのか、ただ見覚えのある物に囲まれている。
何もない場所。そのくせ、すべてが集約されている。
“ありがと、イリヤ”
“―――――なんで?”
“なにが?”
“なんでリンがありがとうなんて言うのよ”
“え? ほら、こんな奴でも友達だし、そんな相手が廃人になるのなんて黙ってみていられないじゃない。私は気がつけなかったから、気がついてくれてありがとう。おかげで減らないで済むわ”
“数少ないユウジンが?”
“そ、本音ぶつけられる相手がね”
“そう、だったらいいわ”
栄光と転落。奈落と高み。その一線は、刃の際であったりその外の理だったりするだろう。
その全てが言っている。
お前が■■■■場所は―――――?
と。
“手順を説明するわ”
“やってちょうだい”
“一週間の同調、徹底的に薬漬けにするの”
“……リン、何が悪くてアナタを頼ったかわかってる?”
“ええと、最後まで聞いて。薬って言っても、魔術的に調合した、回路を霊的に調整する薬よ。どちらかと言えば薬学的と言うよりも直接第三要素に作用するような”
“リンにそんなむずかしいことできるの?”
“ぐ―――――言ってくれるじゃない。確かにぶっつけ本番だけど、何事も経験って大事よね♪”
“……ジンタイジッケン?”
“人聞きの悪い、せめて薬学実習とか言えない物?”
“ムリね”
“う……じゃあ仕方ないか。ま、とにかく他に方法はないの”
“調べた限りでは?”
“そ、それ以上は時間もないし。あの雪崩れた書庫から発掘するのだけで夏休みが終わっちゃう。そんなに長い間意識を吹き飛ばしたままにしたら、士郎の体がどうにかなっちゃうし、かといって意識を残しておいたら、自力で脱出するぐらいの気概は持ってるしね。一度逃げられたらもう捕まらないわよ、きっと”
“そうね”
……悪いけど謎かけは後にして欲しい。今はとにかく真っ白けで、考える事なんて出来そうにない。
“じゃあ始めましょう”
“うん、やっちゃって”
“ばか言わないで、アンタも手伝うのよ。説明したでしょ”
“何を飲ませるかまではね、手順なんて説明されてないわ”
“うっ―――――それは、アンタが話の腰を折るから……”
“ふーん、ワタシのせいなんだ”
“ぐっ―――――ほら、飲ませにくいから鼻つまんで口こじ開けて”
“え、え?”
“いいからはやくやる! そうそう、良い感じ。ゆっくりと鼻放して”
“こう?”
“OK、これでしばらく様子を見ましょう。しばらくしたら第二段階よ”
“どうするの?”
“直接コイツの精神に働きかけるわ、ウィッチクラフトなんて湿っぽいのは得意じゃないけど、この際四の五の言ってられない”
“マジョのワザ?”
“そう、で、ここからが問題”
“え?”
“どっちかが意識に潜って、どっちかがそれを監視する。危なくなったら引き上げる。二人がかりじゃないと、今の私達じゃできないわ”
“マイニチ?”
“ええ、そんなに一回に時間はかけないけど。こいつ抵抗値が低い割に反撃となると結構過激だから”
“そうね、ナイゾウこわしてでも逃げるものね。いいわ”
“で、問題がもう一つ”
“なによ、まとめていえばいいのに”
“いや、ちょっと言いにくいって言うか……突入するのは私達の精神体な訳だけど、まるっきり本音でしかしゃべれなくなるのよ”
“ワタシはモンダイないわ、だっていつもホンネだもの”
“う、そ、そう? まあ、私も特に問題はないけど”
“だったらいいじゃない”
“そうね”
“で、どうするの?”
“目的と手段が入れ替わってるのよ、このバカは。だったら目的がなんなのかはっきりと思い出させてやれば良いだけじゃない”
“モクテキ、シロウのモクテキって?”
“さあ? 本人に聞いてみれば良いんじゃない?”
“アバウトね”
“まあね。じゃあ、取り敢えず治療は夜からにしましょう。何か士郎が言ってる様なら、ドイツ語でいいから書き留めといて”
“いってらっしゃい、ガッコウ?”
“そ、二人して行方不明なんて言ったら、痛くもない腹探られちゃうから―――――よろしくね”
「金砂の剣」
Presented by dora 2007 10 10
たゆたっている。
場所は定かでなく。
時間は定かでなく。
自己も定かでない。
どろどろに熔けている、まるでシチュー鍋のよう。何処に何があるか解らない、記憶と経験のスープが煮立っている。意識はコンソメの様に鍋に溶けて、ゆるゆると時間のおたまにかき混ぜられている。最初と最後が解らない、どうして此処にいるのか思い出せない。そもそも考えることを放棄させられているのに、何が出来るというのだろう。
混ざり込んでくる誰かの意思、抵抗の意思がないのを良いことに好き放題。記憶と交ざって何がなにやら。
ねえ、シロウ。ワタシがわかる? イリヤ、イリヤスフィール。なんでもいいから思い出して。凄いね、どろどろしててもうなにがなんだか。ねえシロウ、お兄ちゃんはワタシを守ってくれるんでしょ? だったら起きて、立ち上がって剣を執らないと。
ちょっと衛宮くん、聞きたいことがあるんだけど。貴方の目的ってなんだったの? 今の貴方はそれと手段が逆転してるの。わかる? 何がやりたかったのかを思い出せない限り、いつまでもこのままよ。それは私も嫌、せっかく仲良くなったのに、こんな所で大事な友人に居なくなられたりされたくないの。ああもう、皆まで言わせるなバカシロウ!
シロウ、なんだか頼りないよ。守ってくれるって言ったのに、これじゃワタシがナイト役じゃない。くちづけしたら眼を覚ます? あんなチュウトハンパな状態じゃなくて、ワタシを受け入れてくれた時みたいに、かっこよく眼を覚ましてくれる? お願いします、神様。もし本当にいるのなら、ワタシのシロウを返してください。
失敗したかな、でも結構ぎりぎりよね。アンタがはっきりしない限りこちらから語りかけても無駄っぽいけど。かといって薬弱くするとどうなるか解らないし。ねえちょっと、私もこまってるんだけど、無視してないで何とか言ってよ。こんな儀式やったこと無いし、人の心なんて踏み込んだこと無いし、不安で仕方ないんだから。
シロウ、五日経ったよ。アタマバカになったの良くなった? クサったサカナみたいな目、もうしてない? 心配だよ、誰よりも心配してる。ねえ答えて、そんなに生きてるのは苦しいの? 大丈夫だよ、私がついてるから。キリツグみたいにいなくならないで、母様みたいにいなくならないで、お願いだから。
まったく探り当たらない、これは完全に失敗ね。廃人とまでは行かないけれども―――――ああもう。ねえ士郎、いい加減返事ぐらいしなさいよ。それとも返事も出来ないぐらいに壊れてるの? それならそうと言ってね……バカじゃないの、そんなこと言った所で返事なんか無いってのに。ああ今日はもうやめやめ! ―――――ねえ士郎、お願いだからちゃんと戻ってきて。アンタが居なくなったらまた接点がなくなっちゃう。ねえ、士郎。楽しいの、みんなで笑ってるのが。衛宮くんと笑ってるのが楽しいの。
一週間たったよ、シロウ。リンがみんなには暗示を掛けたけど、サクラには効き目が薄いわ。どうしてか解る? きっと解らないよね、知らない方が幸せよ。だから、そんなことはどうでもいいわ。ねえシロウ、ワタシもね、決めたの。もしアナタが眼を覚まさなくても、このまま壊れてしまっても、ワタシがアナタを守ってあげるから。どうしてなんて聞かないで、姉貴は弟を守るものなんだから。ね、ワタシの可愛い大きな弟。
何も、考えられない。
疲れ切った脳は何も起こさない。感情が枯れたかのように、何も考えない。考えようという気にすらならない。ロボトミーの手術、きっとそう、今はただ枯れ果てて、この無限にたゆたっていたい。
―――――でも、それを許せない。
風を感じている。優しいそれではない、いつかの屋上で吹き荒れた暴風じみたそれ。
輝きを感じている。瞼を貫いて意識に働きかけるそれ。涙がこぼれそうなほどに、意思と覚悟を寄り合わせた光。
遠い場所から。遠い時の彼方から。
誰かが俺を覗き込んでいる。
―――――前に進むと、貴方が誓ったのなら。
そうだ、前に進む。そのために忘れて、書き換えて、前に進むために忘れて、忘れるために前へ。
それは、何を忘れるためにだっただろうか。
覗き込んでいる。シチュー鍋の中を遠坂が。
反応……? 衛宮くん、解る? 今貴方がどうなってるか!
アタマガイタイ。ここしばらく経験したことのない頭痛。久方ぶりに頭を認識。かちりと有るべき所に感覚が収まる。
目的、目的は最後まで理想を貫き通すこと。
そう! そうなの、じゃあ、その理想ってなに?
それは―――――
頭痛、激しくてひどい、それを考えちゃいけない。思い出してしまう。また繰り返し、結局その果てに摩耗する。頭が痛い、血管が倍に膨れ上がったみたい、痛覚のない脳が痛むのは、それだけで命に危険があるからで。理想、その、誰もが幸せに暮らせる世界は―――――
―――――子供の頃、僕は正義の味方になりたかった。
いったいだれと。
―――――みんなにきらわれたとしても。
だれの願った理想郷だったのか―――――
そう、無くしたものは帰らない。失った物を足がかりに、人は前へと進んでいく。だったら、今の俺を支える物はなんなのか。
―――――最後に一つだけ―――――
ノイズ、がちりと填る世界、無限に居並ぶ剣の墓場で、ただ一振りの黄金を見つめている。握りしめた途端、小さな稲妻が走る、小さな、ほんの僅かな光だというのに、貫くようで余りにも強いそれ。火の消えていた体に一発でエンジンが掛かる。ガキンガキンと音を立てて引き起こされる撃鉄。二本の回路にバカみたいな量の魔力が流れ出す。何も出来なかったあの頃とは違う、半年の間、鍛えに鍛えて容量の大きくなった回路、限界は最初から無視している。理不尽に応える為には上限なんて定めていられない。己の事などどうなっても構わない、ただ拘束されることなど我慢できなくて。回転数を上げろ、回せ回せ回せ、出来る限りの高速で、この身を拘束する全てを吹き飛ばすために―――――!
「ちょ、このバカ!」
「シロウ!?」
目を開く。意識は明瞭で体も軽い、流される魔力が弱った体を鋼に変える。跳ね起きて距離を取った、事態を把握しようと辺りを探る。遠坂とイリヤ、他に人の気配はない。俺の中に入り込んでいたのがはじき出されたのか、体勢を崩して遠坂はイリヤに助け起こされている。どうして拘束されていたのか、理不尽に対する怒りが沸々と沸き上がる。咎められる理由はない、衣服は着ている、そのまま飛び出そうと出口に向かって駆け―――――
“彼女達の必死な願いを、貴方は確かに記憶している”
―――――ぎしり、と、軋むように一度振り返った。
「シロウ、帰ってくる?」
「―――――」
遠坂に言葉はない、ただありのままを受け入れようとした強い瞳がある。それでも、あいつの願いを憶えている。
「士郎」
声は低くて感情もない、いざ何も答えず飛び出そう物なら、殺害すら辞さない彼女の覚悟。だけど知っている、アイツがどれだけ暖かい団欒を望んでいるのか、誰と語らえる事に喜びを見いだしているのか。そのために、誰が必要だと叫んでいたのか。
「―――――戻る、だから、少し時間が欲しい」
そう言って、歩いて外に出た。誰も追ってくることはない、何があっても誰にも責など背負わせない。目指す場所は遙か、もう一度星を見るために。
長く長く続く石段を登る。梅雨が明けたのか、それとも合間の晴れ間なのか。空には夏の星が輝いている。石段に照り返す星明かり、誰も居ないはずなのに、其処に人影を幻視する。否―――――
「……衛宮、か?」
「一成―――――」
見下ろす少年に言葉はない、こちらから、かける言葉も。ただ、階段を上りきる。横に並んで、気まずそうに頭を掻いた。なんと言った物か、とにかく申し訳なさで一杯になっている。知らず知らず、言葉の端々で一成のことを拒絶していた。それがなんとも言葉にし難くて。
「どうしてこんな時間に?」
「なに、鳥がやけに騒ぐのでな。寺に入る不信心な盗人が居るとは思えぬが。―――――まあ用心のためと、零観兄に言われてな。不審番に出てきたところだ」
座るように促された。異論はない、腹を纏めた。一成に言っておかなければならない言葉がある。ひんやりとした石段の一番上に、二人で腰を掛けた。
「しばらくだったな、用事は済んだのか?」
低く静かな声。微塵も嫌気など見せない、本当の心遣い。
「ああ、何て聞いてる?」
友人の声はいつも通りだった、何か気負うわけでもなく、訝しむ気配もない。
「藤村の親戚に用事があるとか」
「そうか、まあ、そんなとこだ」
「詳しくは聞くまい、もとよりそんなところに真が有るとは思えん」
「そっか」
一成は解っているのだ、俺の居なくなった理由を。
「己が言う用事というのはだな、衛宮。お前の心の用事の事だよ」
「……ああ、済んだ」
「そうか」
「うん」
二人して、星を見上げた。遠い空に瞬く星は、街の中に比べてひどく深い。満点の星空が、街灯りに妨げられず輝いている。遠い星、あの日、掴むことを夢見た。
「悪かった一成、ここのところ、お前を避けてた」
「気にするな、その程度でどうにかなる縁でもあるまい」
「そう言ってくれると助かる、気を悪くしたろ」
「いささか、な。だがそれも理由有っての事だろう。己の知る衛宮は無碍に人の言葉を切り捨てることはしないからな」
―――――は、と、小さく息をのむ。
一成は立ち上がると、空を見上げたまま言った。
「恐らくは彼女のことであろう、二月の僅かな間だが、衛宮の楽しそうな顔を幾度見たことか。二年半の付き合いになるが、あんな顔をしたお前は初めて見た。この男は、己の良き友は初めて己のために生きる星を見いだしたのかと、内心喜んだ物だ。だからな、このしばらくは本当に見ていられなかった。以前と同じかそれ以上に、胸の奥に空いた傷を埋めようと足掻いている。そんな具合に見えてな。見ていられなかった」
「……鋭いな、一成。だいたいそんな所だ」
「亡くしたのか?」
「違う、だけど、もう会えない」
「そうか、余りにも清い姿であったが、文字通りに神仏の類であったか」
「……」
「まあいいさ、上がれ衛宮。ずいぶんと窶れている。ろくに腹に収めて居らぬのだろう? 何もない枯れ寺だが、粥でもしんぜよう」
「いや、まだやることがあるんだ。粥はそれが済んでからでいい」
「お山か」
「……一成、君はいつから心が読める様になったんだね?」
「お主ほど感情の顔に出る男もそうはおらん、喝」
からからと笑う。こちらの気負いすら吹き飛ばして。
それじゃあ、また朝にでも。
そう言い残して山門を潜る。背中に置かれるように、ぐらついた脚を支える様に言葉がかけられる。
「返事はしなくて良い、だが脚を止めて聞け」
僅かに振り返る、と、友人はからからと笑いながら言った。
「―――――人を頼れ衛宮、お前は決して一人ではない」
有難すぎて胸が詰まる。返事とか言おうとしたら、それだけで嗚咽が零れそうだ。
傷が癒えることはない、心の傷は蒼く深く刻まれている。だから強くなろうと誓って。
それで、知らず知らずの間に回りをささくれ立たせていたのか。なんて本末転倒。
「ありがとう一成、お前のおかげでまだ前に進めそうだ」
答えなんて、四月に彼が叫んでいたのに。
ここしばらく来なかったお山の頂、夏草は高く生い茂り、強者共が夢の後。戦いの名残など何処にもなく、ただ夏の乾いた風が吹き付けている。一頻り草を踏み倒して、スペースを作る。青臭い草いきれに苦く笑って体を横たえた。ただ、空に星が瞬いている。
きちんと向き合わなければ行けない。何を求めたのか、何を亡くしたのか。
「セイバー」
呼びかけは自然に零れた。二月以来、あえて口に出すことの無かった呼び方。彼女の仮の名前。
「俺、間違えてたみたいだ」
堰を切ったように色づいていく視界、あれほど鮮やかに思っていた季節が、なんと色褪せていた事か。桜の花びらに喜ぶでも、新緑に微笑むでもなく、ただただ己は失った冬に思いを馳せている。
その、本来なら枯れた色で埋め尽くされる季節。たった二週間の出来事が、今はこんなに暖かい。外の誰かを好きになろうとして、そのやり方が解らなくて。自分に出来る事なんて、関係を築き上げていくことだけなのに、それすら上手に出来なかった。
あまりにも色濃いセイバーの記憶。衛宮士郎の根底を打ち砕き、新たに積み上げた、たった一度のホントの愛情。
如何に手を伸ばそうとも、はや手に入らぬ星の瞬き。彼女を思うことは、空に手を伸ばすことに似ている。体を起こした、そのままじっと遠い流れる雲を見ている。
「セイバー、お前のこと、結局忘れられないのかも知れない」
忘れようとして、思い出すまいと己を偽って、結局周囲を巻き込んで自滅の道を進んでいた。憶えていればそれだけで狂いそう。だっていうのに、忘れるには狂うしかない矛盾。どうすればいいのか解らない、ただ、壊れていく事で己を繋ぐしかない。
―――――前に進むために、己は忘れていけると信じ込んだ。
結局、それすら果たせず……心がいびつに歪みだした。
本当の事なんて、もう何処にもない。
セイバーを愛している。愛していた、じゃない。愛している。それだけは口に出せなかった。一度言ってしまえばそれだけで気が狂う。決して安っぽくならない言葉、命がけの誓いは、死者に捧げた物ではない。
あの瞬間、確かに生きていた彼女に捧げる物なのだから。
それを忘れられると信じた。忘れて、新しい記憶に生きていけると信じ込んだ。そうしなければ意味がない。互いの未来に進む、終わりではなく始めることだった離別。その全てを尊重して、彼女を尊い物として、俺が汚したらいけないと信じて、あの時見送ったのに。
だませなかった、誰も知らない嘘を吐いたところで、決して自分だけはその嘘にだまされる事が出来ない。誰が知らなくても、例え天すら見過ごしたところで、自分だけは決してだませない。俺は、俺をだますことができなかった。だから今、こうして罅の入った心を引きずって生きている。
壊れてしまおうか。
その方が、楽だろうか。
決して届かない星に焦がれ続ける事が、どれだけ苦しいことなのか。
「それでも」
そうだ、それでも。一度気がついてしまえば、瞞されてる振りすらも出来そうにない。だったら壊れてしまおう。届かぬ指を精一杯伸ばして、届かない声を喉が裂けるまで張り上げて。この始まりの場所で、本当の事を叫ぼう。
「―――ああ。何て欺瞞」
―――――其処には後悔しかない、言い残したことも、やり残したことも。あまりに多すぎてそれだけで泣き出しそう。前を睨み付けて生きる事のどれだけ難しいことか。過去に本当の価値を得る。そのために張り通した意地の、どれほど無意味なことか。
最期の時、全てを集めたような朝の光。駆け抜けた夜との、長い別れ。
だけどもそれは終わりじゃなくて、それぞれの道を行くための分かれ道。
俺がしたかったこと。
あいつが抱いた夢。
逃がさないと思えば、手を掴み止めることだって出来ただろう。
それを、やらなかった理由なんて一つしかない。
ほんの僅かな時間だったけど、それでもありとあらゆるものが揃った日々を。
本当に価値ある物として、いつまでも胸に抱いていけるように。
一時の感傷で、それを汚してしまわない様に―――お互いが美しいと感じたもの、それを必死に、最後まで守り通した。
間違いだったとは言わない。
おかげで本当の気持ちを理解した。
あれこそが、本当に生きると言うことを畏れた、子供の我が儘だったことを。
「だって―――――」
だって当たり前、生きている限り辛いことだってある、難しい局面も、汚らしいところだって幾らでもある。それを、見たくないと。お互いの綺麗なところだけ見つめて終わりにしようと。本当に相手を知ることなく別れてしまおうと。
何て欺瞞。苦労も苦悩も背負った積もりで、その実責任は全部時の流れのせいにして。
今更叫んでも、遅く。どれほど願ったところで届かない願いを。
立ち上がった、肺も裂けよと息を吸い込む。ただ呼ぶために、逢いたいと願う彼女の名を叫ぶために。
「―――――セイバァァァァアアアアアアアアアアアアアアアッ」
遠くの山並みに木霊する。何事も起こることはない、ただ吸い込まれるように、声は夜へと溶けていく。肺の中から全て振り絞って、次に吸い込んだ息からは嗚咽が零れ出す。
「セイバー……」
膝から力を抜く、どさりと、その場に身を崩す。やり場のない愛情に土を掴んだ、どれほど地面を叩いたところで、癒されることはない。叫んでも、届かない。
セイバーは居ない。
アイツは、自分の時間を終えている。どれだけの遠さなのか。一千五百年はあまりにも長い。
セイバーは居ない。
二度と俺達が出会うことはない。
セイバーは居ない。
アイツはもう死んでしまったのだ。遠く、墓標すらない時間の彼方に。どれほど捜したところで、見つかるはずのない理想郷に眠って。何一つ、本当に言いたかった言葉を伝える方法はない。顔をくしゃくしゃにして、星空に手を伸ばす。あの日見上げた碧い二つの星、流れる金砂の髪に、見えぬ剣。振りかざされた黄金の剣と、越えられないと覚悟した夜。切り開いたのは、二人がかりで―――――
どうすればいい、どうしようもない、何を目指せばいい、ただ、俺達が望んだ理想に身をくべて。
誰もが泣き顔を見ずに済むように。
みんなが、笑って暮らせるように。
何も確かな物など無い。だから、始まりの誓いだけを、胸に刻んでゆく。
狂おしい愛情に心を刻まれながら、色褪せることのない記憶に苛まれながら。
そうだ、なくしたものは帰らない。
死者には二度と会うことが出来ない。逢いたいと思えば思うほど辛くなるのに、人はそれを忘れることが出来ない。かけがえのない思い出として埋めていくか、死の重さに潰されて己も消えてしまうか。
困ったことにどうしたらいいのか解らない。潰れてしまいたいのに、一番最初に誓った言葉がそれを許さない。なんて意味のない誓い、もはや誰に恥じることもないというのに。それでもその言葉に縛られている。
―――――じいさんのゆめは、おれが―――――
何て呪い、それも自縛、二度と解くことの出来ない理想を、背負い込んで。届かないと、絶対に叶うことのない夢だと思い知らされたのに。それでも俺は星に手を伸ばしてる。まるで古き時代の船乗り、何の標もない海に、北極星を見つめている。
―――――いらない、そんなことはのぞめない―――――
歩いてきた。踏み越えてきた。積み上げた亡骸の道を歩いてきた。直接手を下したわけではない、それでも、助けを求める声を踏み殺して来た。その果てに奇跡すら拒絶して、無くした物は帰らないと、今までに積み上げてきた全てを無に返す事などできないと言った。
亡くした人の叫び、進んだ人の祈り、あらゆる全てを背負い込んで、あらゆる中身を振り捨てて背負い込んだ。ただ俺だけが生き延びた償いに、誰かの為に有ろうと願い続けた。例え、それがどれほど歪な生き方だとしても構わないと。俺が何かすることで、誰かが笑顔になるのならそれで良いと。
そうだ、それが最初の願い。
だっていうのに、今更自分の我が儘に振り回されている。十年前、衛宮士郎が失った場所に入り込んで、壊れかけたロボットを人に変えてしまった少女。黄金の輝きと共に、塗り固めていた全てを払い去って、本当の夜明けを呼び込んだ彼女。
そうして、夜明けと共に消えたセイバー。
持って行かれた。全部、全部持って行かれた。
情熱も。
愛情も。
誇りも、誓いも、言葉も、願いも、祈りも欲望もありとあらゆる全てを抱き込んだまま。
「セイバー―――――セイバー、セイバー、セイバー!」
喉も裂けよと張り上げる、決して届くことのない声を振り絞る。どれだけ静寂に吸い込まれようと、届かせようと叫び続ける。
「セイバァァァァアアアアアアアアアアアアアアア―――――ッ!」
泣きじゃくっていた顔を上げる、もう流す物はないと、涙腺が腫れて痛い。しわがれた嗚咽も、先程枯れ果てた。
「生きていくしかないのか」
そうだ、生きていくしかない。どれほどその生に飽いたとしても、アイツが必死に繋いでくれた生を無駄にすることは出来ない。
「生きていくしないんだな」
きっと耐えられない。アイツが居ないってだけで、此処まで壊れてしまった。大事な物はもう、何も残っていなくて、何一つこの世には残っていなくて。
「生きる」
遠い日の誓い、アイツに託された俺の未来、最初の誓い、アイツが願った、手の届かぬ尊い理想。それを背負って生きていく。そのためには、壊れていくことすら好都合だ。他の何にも目を取られる事無く、他の何にも揺るがすことは出来ない。
ただ此処にある。全てがかつて此処にあった。それさえ憶えていられたなら、前に進んでいけると信じた。
辛くとも辛くとも、これ以上辛いことなど無いだろう。だって感じない。もうこれ以上の痛みなんて無い。
顔を上げろ。
前を向け。
―――――朝日に誓え。
喩えこの身が狂おうとも、彼女の理想を求め続けると。
〜To be continued.〜
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