“衛宮、ちょっと出てきてくれないか?”
“―――――いや、きちんと会って話さないきゃいけない事だと思うんだ”
“雨、なのにな。ゴメン、面倒掛けるけど”
“じゃあ、三番街のキー珈琲で待ってるから――――”
長雨は続く、霧のように降りしきる水滴は、どちらかと言えば秋のそれのよう。流れる車窓から、灰色の街区を眺めている。七月に入って梅雨も本番になったのか、晴れ間をこのところ見た記憶がない。陰鬱な空に飽きて、いい加減苛立ちだけが募る。そのくせ蒸し暑い、湿度が高すぎて、部屋干しにしても洗濯物が乾かないくらいだった。幸いそれ程洗う量が出るわけでもないので、いざとなったらコインランドリーに持ち込むことにしている。
到着を告げるアナウンス、ドアの空気が抜ける音、アイドリングストップ。バスを降りて傘を広げた。空を見上げれば、傘からはみ出した眼に、じわりと染み込んでくる冷たい雨。暑いくせに冷たいそれは、肌をじっとりと湿らせて、どうにも気が滅入る。
目的地までは停留所から徒歩で五分ほど、何処にでもあるような喫茶店、気どったところは欠片もない。入りやすく、利用しやすいことだけが取り柄のチェーン店。うっかりすれば気がつかずに通りすげてしまうような、特徴のない止まり木。なじみでもなければ、知り合いが居るわけでもない。入ったことのない店だ。
ベルの音、からんからんと軽く響く。重たい空気に似合わず、爽やかな音。何処か牧歌的で僅かに和む。扉を開けて、待ち合わせなんだけど、と、店の人間に伝えた。
「お連れ様がお待ちで御座います」
タイムラグ無く返事が返る。どうやら、喫茶店で待ち合わせなんて酔狂なことをしているのは、俺達だけらしい。そんなに珍しいことかと首をかしげて、あちこちに輝く液晶の灯りに納得した。そも今時は携帯電話、場所が解らなければ掛ければ良いだけのこと。わざわざ店員なんて第三者を挟むこともない。
案内された席に、美綴が座っている。アンニュイな顔を外に向けて、アイスコーヒーのストローを回していた。深いくせに短い呼吸、溜息じみた、いくつもの。
「おう」
「……衛宮か」
珈琲。そう告げて席に座る。最初に一度目があったきり、気まずそうに彼女は視線を外に向けている。釣られるように視線を捨てる。耳に届くのは店内のざわめきと、車が走り抜ける音。巻き上げられる水たまりの飛沫は、喫茶店の窓に遮られて何処かくぐもっている。
珈琲はすぐに出てきた、深い色合いが、目に心地良い。口を付けて苦さに表情を崩した。これはとてもではないが飲めた物じゃない。さほど良い店ではないとはいえ、出来合のそれは煮詰まってひどく苦い。二口目以降を飲みたいとは思わなかった。
「呼んだのは美綴だろ。衛宮か、なんて御挨拶」
「ん、そうだな」
互いに飲み物に口を付けるでもなく、視線も合わせることなく。ただ沈黙に耐えかねて、窓の外に眼を逃がす。どうやら先程よりも雨脚が強くなったらしい、ぱらぱらと水滴の弾ける音。水たまりに広がる波紋は、小さいがその数を増やしていた。
照明の具合がおかしいのか、昼間なのにまるで夕方のよう、光量の乏しい店内は、暗い話をするのに最適すぎる。しっとりと重い空気、森林の湿った空気とは違う。肌に貼りつくようで、テーブルの感触すら癇に障る。それも気分のさせるものなのだろう、他の席には、笑顔が見える。
「で、話ってなんだ」
「ん、まあ、何というかな」
歯切れが悪い。いつもはもっと快活な彼女なのに。電話で呼び出されたときから、こんな具合だった。おかげでこれからどんな話があるのか、電話越しにも察しが付いてしまった。普段は鈍いくせに、こんな時だけ鋭いのもどうかと思う。
小さく短いが、確かな溜息。言い出しにくい話題だ、それも仕方がないだろうと思う。付き合いだしてから二ヶ月が過ぎていた。その間に齟齬は広がる一方で、時間が埋めてくれるかと思ったが、決定的な溝が二人の間にはあるようだった。
「……だいたい言いたいことは解るから、言ってくれて構わない」
「―――――――そっか」
楽しい話じゃない、そんな事は解っている。寂しげな笑顔。笑顔には違いないのに、下手な泣き顔よりも胸に刺さる。ちらちらと電灯が揺れる、寿命が近いのか。こんな時にトラブル何て苛立つだけだからやめて欲しい。
「やっぱり、無理みたいだ」
「ああ、みたいだな」
引き留めることはない、此で終わりだというのなら、それを受け入れなければならない。そうやって今まで生きてきた。これからもそうやって生きていくのだろう。
「ごめんな、衛宮。あたしはどうしてもアンタが理解できなかった――――」
吐き出すように、溜め込んだ物をぶちまけるように。長い溜息と共に、優しく別れは告げられる。
「謝らなくていいよ、美綴はきっと悪くない」
「それ間違ってると思う」
「そっかな。理由、教えてくれるか?」
「……そうだね」
聞かなくても解っている。けれど、聞いておかなければいけない気がする。きっと俺自身は見ているだけで理解していない。彼女との溝は決定的だけど、この先生きていくのなら、学ばなくちゃ行けないことだ。
「衛宮のことは好きなんだ。……けどさ、友達以上って感じじゃないんだ。何て言うかな、あたしだけ盛り上がってて、衛宮はそれを一歩引いたところから見ているっていうか」
それは、凄く解る気がする。ほら、今もこんな話をしているのに、自分は大して辛くない。どちらかと言えば、美綴が申し訳なさそうな顔をしている事の方が胸が痛くて。
「衛宮はあたしのことを好きになれたか?」
「ああ、きっと自分で思ってるよりも」
「でもな、きっと衛宮のソレは錯覚なんだ。ずうっと思ってた、まるで恋愛小説をなぞらえているみたいで、心がどこか遠くに在るみたい。それで思ったんだ、お前が本当に好きになったらこんな物じゃない、今の衛宮はまるでエンジンを積んでない車みたい、あたしはそれに代わることが出来なかった」
「え――――?」
突き、刺さる。言葉が、胸に痛い。
別れの言葉だって平気だと言うのに、なんだってこんな事で血の気が引いていくのか。
「衛宮はきっと、真似をしてるだけなんだ。まがりなりにも幸せを知っていた頃の自分の真似を。だから、あたしにはそれが理解できない」
「―――――――」
今度は自分が言葉を失う。一気に漂白されていく頭、考えることが出来なくて、ただ美綴の声を聞いている。
「全部だ、全部肯定された。何でもそれでいい、美綴は悪くない。あたしが望んでいたのはそんな上っ面の関係じゃなかった。もっと衛宮とは本音でぶつかりたかったんだ!」
真っ白なノートに書き込むように、彼女の言葉だけが、脳裏に書き取られていく。
「けどさ、ようやく解ったんだ。それが衛宮士郎の本音、本気でこっちの事しか考えていない。基本が自分の事じゃなくて誰かのこと。あんたには自分ってもんが無かった」
身震いするように己の身をかき抱くと、悔しげに美綴は目を伏せる。
「悪いけどさ、そんな奴には付き合っていられない。解るか、衛宮。アンタのことが正視できないんだ。言葉の一つ一つ、やることなすことその全部が痛々しくて無理してるみたいで。そばにいるだけでこっちまで磨り減りそうで耐えられない!」
「それ、は……」
否定できる、事じゃない。
「だからもう、やめよう。お互いがらじゃなかった。だから、綺麗にさよならして友達に戻ろう」
「……ああ」
声は掠れている。目を背けていたことを、首をひねられて見せつけられた。まるで人間になろうとしているロボット。空っぽというのは、知らないのと同じ。
「明日からはまた友達だ。湿っぽいのは天気だけにしておこう。――――ここはあたしが持つから、ゆっくりしていって。じゃあ」
最後だけはいつもの美綴で。きびきびとした動作で、はっきりとした口調で。それでも、決定的な決別を言い残して美綴が店を出て行く。一度むっとするような風が吹いた、外からのそれは、此方の心を嘗め溶かすかのようにキモチガワルイ。
ああ、まったく言う通り過ぎて頭に来る。
幼い頃に落とした、大事な物。それに代わる者を見つけて、それをまた失って。あまりにもそれが明確すぎて、漠然とした子供の頃とは違って。その穴に、代わる者がないと思い知らされた。
本当に美綴の言うとおり、結局の所、俺は彼女を透かしてアイツを見ている。苦い苦い珈琲を飲み干して、言葉の苦さに首まで浸かる。
―――――これが彼女との顛末。
七月一日にあった、本音に至らなかった言葉の行方。
「金砂の剣」
Presented by dora 2007 10 04
月が変わって二日目、激変した生活には慣れないが、このぐずついた空模様はいい加減見慣れてきた。霧雨と呼ぶにはほど遠い、梅雨降りというには夏の嵐に近い。いつもなら明るくなるはずの時間も、まだ暗いままだ。
「関係ない、か」
空を見上げることもせず、靴紐を強く結んで走り出した。少しでも緩んでいると、濡れてどんどん緩みは大きくなる。こんな天気だから、僅かなミスでも死に近い。この間のように、下が落ち葉とは限らない。岩が突き出ていたら、そのまま帰らぬ人となるだろう。
合羽は着ない。黄色のレインコートは、もう俺の物じゃない。そもそもそんな物を着て出来るほど生やさしいことはしていなかった。より危険な方向へ、より激しい方向へ己を駆り立てる。
前日にふられた事も、走っている間だけは忘れられるだろう。
「―――――――“同調・完了”」
僅かな停滞、成功してからの日課に、身体能力の強化が加わる。体を魔力に慣らさせるのが目的だった、多少の暴走にも、血反吐を吐くことがないように。強化された共感覚、運用する脳が、負荷に悲鳴を上げる。視界が赤く染まるのに慣れろ。この程度で音を上げていては、本当に必要なときに届かなくなる。
弓の弦を弾くように、最初の一歩を踏み出した。出来る限り全速で、いつか彼女を抱いて走り抜けた森のように。踏み散らした落ち葉の代わりに水しぶきを巻き上げて走る、幸いこの時間なら目撃する者は少ない。この天気なら、例え見られたとしてもオートバイが走り抜けたぐらいに思ってくれるだろう。
いや、無理かな。どうだろうか。
速度を弛めず、山には向かわず橋へと向かう。ここのところ、どういう訳かお寺には近付きがたかった。歩道は使わない、出来るだけの速度で、そのまま橋の欄干に飛び乗った。ペンキの上に靴が乗る、着地の姿勢制御がうまくいかず、幾度か落ちかけた。今日は初めて上手く飛び乗れた日だ。何か良いことがあるかも知れない。
僅かに靴底が確かなものに噛む感触、そろりそろりと出来るだけ速く上を走る。鍛えるのなら、地味な方が良い。派手なのは飽きるし、何より無駄が多い。
派手なの、か。
「―――――――」
ふと思いついた、出来るかどうかは解らない、どちらかと言えばやらない方がよい。地面まで、約十五m。行けるか、それとも。
「―――――よし」
よしじゃねえ。内心呆れながらも飛ぶ。考えることが面倒になって跳ぶ。尋常な高さじゃない、五階建てのビルから飛び降りるようなもの。踏ん張る着地では体が駄目になる、着地まで約1.3秒、できるだけ落ち着いて姿勢を正し―――――――
「―――――っせ!」
着地は足の裏から、出来るだけ衝撃を殺しながら膝腰肩と横に転がる。それでも呆れるほどの衝撃が全身を翻弄する。なるだけ分散させてもこれだ、まともに体を伸ばしての着地なら、脚が砕けて当然だろう。まあでも、空挺部隊は十mから生身で飛ぶっていう。きっちりと受け身をとれるなら、案外と行けるのかも知れない。
立ち上がり様に走り出す。獣に退化したような感覚、息が切れるまで走って、更にその上を超える。気分はいやでもスッキリとする、ドーパミンもエンドルフィンもだだ漏れで、すっかり走ることに中毒を病んでいる。
この瞬間だけは何もかも忘れていられる。着地に成功したときの身震いったら他にない。これからは毎朝、高いところから飛んでみるとしよう。
オフィス街に入る手前、雑多なビルが立ち並ぶ。猿のように窓にとりついた、そのまま反動と勢いで壁面を上っていく。屋上にたどり着くまで、さほどの時間は掛からなかった。狙いを定めることなく、通りに面したビルの屋上を駆け抜けていく。
できるだけ上手く、出来るだけ高く、出来る限り速く。次から次へと現れる障害物を、遙か鳥の高みから跳び越えて行く。強化した握力のおかげか、手が届く距離に掴める場所が在れば、遠い建物もさほどの脅威は感じない。むしろ、落下する事の方が怖い。
「はっ! はっ! はっ―――――!」
犬のように舌を垂らして、燃え上がる体を宥めながら走る。めまぐるしく移り変わる景色に脳の処理が追いつかなくなってくる。ぎりぎりのライン、こっから先が能力を伸ばす限界越えだ。
工事現場に飛び込んだ、組み上げられた鍛管の上を、下を、横を、全力で走り抜ける。あらゆる高さから飛んでみる、足場は、突き出た鉄パイプのみだ。地面はない、細すぎるなら掴むだけで次に移動する。
昨日はここまで見えなかった。昨日はここまで反応できなかった。昨日はここまで動けなかった。昨日は昨日は昨日は昨日は―――――――
「は、は、は―――――――はははあはははははあはははは!」
爽快感、突き抜けたような感覚。何もなくてもただ楽しい、飛ぶのも走るのも墜ちるのも楽しい。頭の中が漂白されていく。これ以上は何も要らないと思った。
見えるのはただ視界、考えなんて遠くの方に飛んでいって、ただ懐かしい剣だけが脳裏に閃いている。
「はははは――――は―――ぁ?」
不意に現実に引き戻される、腕時計のアラーム、そろそろ帰らなければ朝食の支度に間に合わない。地面に降りたって、息を整えた。狂熱が、濡れた体からもうもうと湯気を立ち上らせている。どくどくと血を流す心臓は強く、荒く震える息が、湯気を吹き散らしている。
雨粒は大きくて強い、何時しか土砂降りになっていた。降りしきる雨が頭を冷やしていく、冷静になっていくのが嫌で、再び地面を蹴った。
体が冷えれば心も冷える。それが、耐えられなくて地面を蹴った。
走れ。
走れ。
真っ赤な視界が真っ白に変わるまで走れ。
二週間が経った。新たな訓練方法に変えて、最初はまったく言うことを聞かなかった体が、徐々に思い通りに動くようになって来ている。何より、橋から公園に飛ぶことが快感になっていた。もっと高く、もっと勢いを付けて。飛ぶ高さを徐々に上げながら自分の限界を探っていく。二十mまでは強化していれば跳べた、半分なら生身でも行けるだろう。帰り道の途中、誰かに呼ばれた気がしたが、振り返ったときには視界の外に消えていた。角で声かけんな。
荒い息を吐きながら、玄関に転げ込む。今日も雨脚は強めだ、洗濯物が乾かなくてイライラする。只でさえ汚して帰ってきているというのに。はやく梅雨明けが来ないかと、新聞の天気予報を恨めしげに睨む。そろそろコインランドリーに行ってこようと思った、泥水が撥ねた洗濯物は染みが落ちなくなる。トレーニング用のジャージだからとは言え、気分のよい物じゃない。
カレンダーを確認する。夏休みまで、残すところは三日になっている。誰にも縛られることなく、ただ己の為に使える日々がやってくる。どのみち訪ねてくる者もそんなに多くは無い、旅行に行くとでも言っておけば、それで理由も事足りるだろう。
走った後の虚脱感に身を浸しながら、シャワーを浴びる。体が小刻みに震えていた、疲れ果てる程動いては居ないはずなのに、ひどくだるい。このところ、走っているとき以外は考えることが億劫だった、薄く笑って、風呂場の床に座り込む。
なんてことはない、ただ、脳神経が疲れ果てているだけで。あれだけ無理をした後なのだ、運動量はともかく、刺激に悲鳴を上げたのだろう。
「は、はは―――――――」
まだ走り足りない。溺れてしまいそうな不安が、常にある。それも走ってさえいれば忘れられた。走ってさえいれば――――
「―――――と、誰か来たのか?」
どたどたと足音が上がってくる、ずいぶんと早い。この時間にくるのは誰だろう、思い当たる人間はなかった、だらしなく口を開けて、流れ込む湯を時折吐き捨てる。溺れることはない、溺れても、別に構わない。
足音の主はどうやらあちこちを探し回っているらしい、強化の名残、鋭くなった聴覚が挙動を伝えている。やがて何処にも居ないと確信したのか、最後に探し残した風呂場へと足音が来る。どうやら火急の用事らしい、動くのは億劫だが、とにかく外に出るまで待って貰おうと――――――
「シロウのバカ―――――ッ!」
「うわあああああああっ!?」
がらがらぴしゃーんと勢い高く、風呂場の戸を開けてイリヤが叫んだ。
「な、ななななな、入って来ちゃだめだからな!」
大あわて。超びっくり。超大騒ぎ。たらいで取り急ぎ前を隠した、あと、イリヤが濡れると拙い。コックをひねって後ろに逃げる。
でもそんなの関係ねー。
長靴下が濡れるのも構わず、イリヤは眉をつり上げてこちらに迫ってくる。頼む、勘弁してくれ。何を怒っているのか知らないが、どうにも家に来るお嬢様方は言い訳不要の勘違いをしてくださる方々なんだから!?
「バカシロウ! 朝っぱらからなに無茶してるのかと思ったら、橋から跳ぶなんてやりすぎなんだから!」
ナルホド見てたのか。でも其処はイリヤが気にする所じゃない。
「だいじょうぶ、怪我してないから」
やんわりと諭すように言う、そう怪我してないから問題はな―――――
「そういうことじゃない!」
―――――どうやら、俺の与り知らぬ次元で問題らしい。
「む、無茶もしてないぞ?」
「充分ムチャよ! なにあの高さ! シロウはサーヴァントでもなければ重力制御が使えるわけでも無いのに!」
「いや、強化と受け身だけで結構行ける」
「そ・う・い・う問題じゃなーい! 強化だってあんなにムチャなかけ方して、それで無理してたらすぐにハイジンになっちゃうんだから」
「大丈夫、そうならないための訓練だから」
「訓練って呼べるレベルなんてとっくに超えてる! ああもう! バカ! テッパン! ジャンキー!」
激怒、イリヤ爆発。何だかこちらが喋れば喋るほどガソリン焚き火に放り込んだみたいになってる。でも困ったな、なんで怒られてるのか俺にはさっぱり解らない。
「な、なあイリヤ?」
「何よ、謝ったって許さないんだから!」
逃げ場はない、飛び出そうにもそれにはイリヤを押しのけなければならない、リングのコーナーに追い詰められたボクサーの様。腰に手を当てて仁王立ちする彼女から、できるだけ離れようと壁際まで下がる。それ以上近付くなよー、もう下がれないからなー。
「ええと、俺、なんでそんなに責められてるんだ?」
「―――――――っ!」
表情が消える。ただ見開かれた目は、あり得ない物を見るようで。畏れるように、イリヤがぐらりと後ろに下がった。
「イリヤ?」
「―――――そっか」
呆然と、掠れた声で。
「シロウ、こわれちゃってたんだ」
そんな事を、小さく呟いた。
―――――――失礼な。
「撤回を要求するぞ、別に俺は何処も悪くしてないし、おかしく何て―――――」
すっと再び前に出たイリヤが、俺の頭を支える。表情の無い、白い貌。
「ワタシの目が見られる?」
声にも温度は乗らなくて、ただ、呪文めいた魔韻がこちらの意識に干渉する。
「――――見れるけど、それがどうかしたのか?」
まともに動くのは口だけだ、手も足も痺れたように動かない。視線は彼女の瞳に釘付けで。
「どう見える? シロウは、私の目にどう映ってる?」
「どうって―――――――」
ひどく狼狽して、いやいやしながら逃げ出そうとする姿。みっともない、今にも泣き出しそうで壊れかけのおもちゃみたい。
「―――別に、いつもと同じだけど」
掠れてはいる、けれど、声に動揺はない。そう思いたかった。だっていうのに、映し出された俺は余りにも情けなく逃げようと藻掻いていて。
「そっか」
「イリヤ?」
前髪に隠れてその表情は伺えない、ただ、声に色はない。何を考えているかも、見て取れはしない。
「朝ゴハン要らないから」
「え……?」
「リンにも伝えないと」
そう言って、イリヤは風呂場から出て行った。溜息と共にその後ろ姿を見送った、やれやれだ。どうやら日中は、遠坂も混じって吊し上げらしい。最悪それに虎が混じる事を考えると、ああいや考えたくない。溜息を吐いてバスタオルを被った。がしゃがしゃと頭を拭きながら、億劫さに溜息を吐く。ハンギング、高く吊せっ! 断りたくても断れねえ。
「出来るとすれば先延ばしにすることだけだけど……」
それだって立場を悪くするだけのことだ、ここはおとなしく、さらし者にされるとしましょうか。
重たい腹の底を抱えて、自室に入る。敷きっぱなしの布団に素っ裸のまま転がった、桜が来るまで一眠りするのも良いだろう、人の気配が有れば、目が覚める程度に眼を瞑っておく、何をするのも億劫で、朝食の仕込みもない。今日は腕を振るって貰うとしよう。
十五分ほどもすると、チャイムの後にいつもの声が聞こえる。流石に丸出しは拙いので、ズボンまでは履いておくことにする。ああいや、シャツも着ておかないと桜が困るか。しばらくしてから桜が起こしに来た。おはようございます。ああ、おはよう桜。何て事はない、いつも通りの朝。やがて藤ねぇが混じって、半年前の光景が広がる。何の異常もなく、何の変化もない。仏頂面でご飯をよそう俺と、いじられて顔を赤くする桜と、いつも明るい藤ねぇと。
「ねえ、士郎」
「ん?」
「最近、なんか無理してない?」
「してない、いつもと同じだけど」
とりとめもない会話、意味らしい意味はなく、笑いが有ればそれで良い。別に笑いが無くたって構わない。暗くなることなく、俺に構うことなく、藤ねぇと桜が穏やかに暮らせているのならそれでいい。
「センパイは―――えと、その主将と」
「ああ、聞いたか桜も。そうなんだ、フラれちまって」
「―――――ぁ、ごめんなさい。言いにくいこと聞いちゃって」
「気にするなよ、仕方のないことだ」
舌鼓を打つ、今日の鯵は焼き加減が完璧だ。とうとう桜の焼き魚もこのレベルに達したらしい。溜息と共に愛弟子の姿を見る、此方に向けられた視線は、病人を見る様で痛々しい。軽く流して、二杯目をよそう。いい加減和食でも追い抜かれる日が来てしまったのかと、正直感慨深い。他の皿もバランス良く、見た目にも鮮やかに盛りつけられている。ああ、不思議なのは、こんなに美味しくて綺麗なのに、二人の箸が進んでいないって事だ。
「なあ、どうしたんだ」
「え?」
「あ……」
「二人ともおかしいぞ、全然食べてないじゃないか」
まったく、どうかしている。俺のことを気にする前に飯を食え。皿がいつまで経っても片付けられないじゃないか―――――
「―――――おかしいのはセンパイの方です」
「ああ、桜、お茶か? ちょっと待って―――――」
「どうして、そんなにいつも通りなんですか!? あんなに仲良くしていたのに!」
「そんなに急がないでくれ、零したら後片付けが面倒くさい」
「士郎、ちょっと。桜ちゃんの言ってること聞こえてる?」
「聞こえてるよ、俺がおかしいって言うんだろ。気が利かないって事じゃないのか、茶も出さないで」
「ねえ士郎、ちょっと黙って、私の言ってることを聞きなさい」
「黙るのは藤ねぇの方だ、桜、ちょっと待って―――――」
「――――――――――――いいえ、黙るのは今此処にいる全員よ」
襖の開く音、聞き慣れた声、それから。
白、テッパンのような音、打ちのめされる意識に、漂白される神経。幾ら過負荷に対して鍛えたといえど、スタングレネード並の魔力は俺の抵抗値じゃ防げないに。正気に戻るまで、あと十秒程。それまでに、アイツの二撃目が此方の意識を綺麗に消し飛ばしてくれる。
額に触れる掌の感触、強烈な衝撃と痛烈な爆音。突然の閃光、視界を焼き尽くしたそれば思考能力を奪う。白い闇に飲まれて意識が遠ざかる。
その、闇に墜ちる直前に。
「廊下で聞いてたけど、話に聞いてた以上ね。これはちょっと厳しいかも。―――――悪いけど衛宮くん、貴方に夏休みはないわ」
硬くこわばった、戦友の声を聞いた。
〜To be continued.〜
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