木戸を潜ると、白み始める空を見上げた。どれほど目を凝らしたところで、吐く息は白くならないし、もう、かなり明るい。じきに差す、力強い太陽の事を思いながら走り出す。出来るだけ速く、出来るだけ強く。息を切らせて走る。明ける夜を追う様に、昇る太陽から逃げる様に。

 五月になった。初夏の太陽は冬に比べると些か早く昇る、うっかりすると目覚めで後れを取るほど。山頂に辿り着くまでには、既に太陽は高くなっているのが常だった。これから夏至にかけてどんどんそれは顕著になっていくのだろう。遠い山並みも、だいたいが明るくなっている。負けじと、とも考えたが、これ以上睡眠時間を削るのは流石に拙い気がするので、そのまま捨て置いて夜明けの道を走る。

 このところ山門は使わなくなった。石段よりは、山道の方が刺激的でいい。獣も通らないような道無き道を行く。人の目を逃れる獣の様に、一直線に崖を駈け登る。時にはオーバーハングだってある。それでも迂回することなく、身体能力だけでそれを越えられる様に。もっと早く、もっと正確に。日々のそれが判断力の訓練にもなっている。時には道路に沿って山を回り込む事もあった。毎日アプローチを変えれば、同じルートと慣れる事も無い。

 ばさばさと枝葉を潜りながら頂上へと躍り出る。脚を止めて、走り回る血流に耳を澄ます。毎日たらふく酸素を食わせた体は、呆れるほどにタフになる。徐々に落ち着く鼓動に、太い息を吐いた。

 頂上から少し下った所に泉は移っていた。内側が崩れたのか、湧き出る場所が徐々に変わっている。手で掬うと、いつもの様に顔をあらう。染み込むような冷たい水が心地よい。もう少し暑くなったら、飛び込むのも気持ちがいいだろう。特に何も考えず、ざぶりと頭ごと沈めて冷やす。髪の毛の間から、冷たさが染み込んで来る。身震いする程の心地好さ、余りの感覚に、バランスを崩して泉に落ちた。


 帰り道は更に速い、下りの崖を文字通り跳ぶ。一歩間違えたら大怪我になる、瞬時の判断で足場を見極めて。

「と―――――!」

 踏み外した、バランスを失った体は瞬時に木偶に変る。脚の下には何もない。遥か五mの下に地面が見える。狙って飛んだのならともかく、足を滑らせての落下は訳が違う。鬱蒼と茂った森は昼間でもなお薄暗い、まったく解らない場所に頭から墜ちる。

「ぉぉぉぉおおおおぐっ!?」

 ―――――まず肩に衝撃、ついで、全身を打ちのめす感覚。絞り出された情けない音が、我ながら恥ずかしい。目の前に星が散る、トラックに撥ねられたような物だ。激しすぎて痛みすらない。肺から搾り出された空気が、呼吸の度に情け無い音をたてる。そのまましばらく滑落した、途中、岩の突き出ている場所があったりもしたのだが、避けるだけの余裕はない、叩き付けられてその度に苦鳴が漏れる。

「―――――は、くそ」

 落下してから更に二十m程下まで滑落した。落ち葉と腐葉土まみれになりながら、がたがたと震える体に活を入れる、無理矢理立ち上がると、怪我の状態を調べて行く。幸いどの骨も折れていない様だ、背中に大きな擦り傷こそあるものの、脱がなければ解らない程度。それよりも内側が痛かった。内臓を痛めていると良くない。頭を打っていたら、後で症状が出て来るだろう。

「く、仕方ない」

 後で医者の世話になるとしよう。























「金砂の剣」
Presented by dora 2007 09 23























   家に戻ると風呂場に直行する。いつもそうだが、今日は特に泥まみれでひどい。ジャージの下はともかく、上着は致命的に破れていた。

「あ、つ―――――」

 シャワーがやたらと背中の傷に沁みる。鏡越しに見た傷はそれなりに大きい、止まっていた血が、再びあふれ出す。消毒と、縫合は自分でやった、手が届かない程体が硬い訳じゃない。出来ることは自分でやった方が良いと思うだけ。

「同調開始」

 一息着いたところで、眼を瞑って回路に魔力を流す。戦闘機に自己診断プログラムを走らせるような物。くまなく神経と癒合した魔術回路が、異常を感知すれば教えてくれる。どうやら内臓は無事らしい、このところの訓練の成果が出ているのだろうか。やたらと鍛えられた横隔膜が守ってくれたらしい。



 何事もなく朝食を済ませて医者にかかる。こんなつまらない事で皆に心配をかけたくなかった。医者には山登りに行って滑落したと説明する。診断結果は全身打撲と脳震盪、頭痛だのなんだのの可能性があるので、何日かは様子を見る様に。との事。

 やれやれ。長く息を吐いた、どこかに気の緩みがあったのだ。少しの乱れが面倒を招く、今回は運に助けられた。たまたま命を拾っただけの事、次は死ぬかも知れない。今後は気をつけよう。ばかみたいだと思いながら自転車に跨がる。本当は走って行きたいところだが、医者に言われた様に無理を嫌った。




「お、衛宮が医者に掛かるなんて珍しいな」

 掛けられた声に振り返る。思いもよらない相手が其処にいた。気の強そうな笑顔を此方に向けて、腰に手を当てながら寄ってくる。

「美綴? 学校はどうしたんだ」

「あたし? 大学の下見ってことで休んだんだ」

 とは言え、午前中だけで事足りる。そう言うと、尻を乗せようとしたサドルに手を。きびきびとした彼女のことだ。下見が終わったというよりは、興味をそそられなかったと言った方が正しいだろう。僅かに視線を逸らして考えた、こちらの言葉に期待しているのか。彼女も笑ったまま何も言わない。

「良くなかったのか」

「さすが、察しが良いな衛宮は。捜せば良いところもあるだろうけど、それだったら、良いところがいっぱいある学校の方が楽しそうじゃないか」

 ごもっとも。



 じゃあ、と、手を挙げてサドルに跨る。午後はどうしようか、わざわざ走りに行く気もしないし、学校に行く気もしない。単語帳でも眺めるのがいいか―――――と。こぎ出そうとして。

「お、と、と、と」

 割と近くに聞こえる声と、違和感に車体を見下ろす。握っていないのに効いているブレーキ、どちらかと言えばパッドと言うよりも鍵掛けたまま走り出そうとしたときの感触。思い当たる彼女に、方眉を上げて視線を放る。にへへへへ、と気の抜けた笑い顔を見せながら、彼女はサドルを放してくれない。沈黙とも困惑とも違う、もっと軽い空気が流れていく。

「なにさ」

「その格好から察するに、午後から登校なんて殊勝な事は考えちゃ居ないだろう?」

 ご明察。ペダルから脚を放し、もう一度向き直る。

「まあな」

 掴んだ両手を片手に持ち変えると、どこか、含みのある笑顔で彼女が言う。

「手を放してくれ、なんてつれない事は言わないよな」

「いや俺は言うぞ。用が無いなら放してくれ」

 ちょっと冷たく突き放してみるが、堪えた様子はほとんど無い。むしろ、柳に風と吹き流して、ずずいと此方に迫ってくる。

「用があるならいいんだろ、あるから放してやらない」

「む」



「衛宮さ、ちょっと付き合いなよ」

「いいけど、何処へ?」

 質問に答える気配はない。ただ、シニカルに笑ってぐっと腕を伸ばすと、いそいそと此方の背後に回り込む。

「んじゃ決まりな」

 そういうと、彼女は颯爽と自転車のフレームに脚をかけた。

「お、おい!」

「動くなよ。マウンテンバイクは二人乗りしにくいんだから」

 ぐっと上から押さえつける様に肩を掴まれた。

「あ、痛! おい、そこ傷!」

「男がちっちゃい事でぴーぴー言うな! ほら、此処で良いか?」

「っ―――――ああ、そこなら良いけど。……んで、どこ行くんだ?」

「ちょっと新都まで行こう、なじみのゲーセンに新しい筐体が入ったと聞いてね」

 まあ、別に構わないけど。

 こんな風に、誰かと遊びに行くなんて実に久しぶりだと思う。




「新しい筐体ってこれか」

「みたいだね」

 さっすが昼間、ゲームセンターに居るのは閑な社会人と、ドロップアウトした学生ぐらい。常ならば一杯であろう新筐体の前も、誰に阻まれることなく占拠出来る。

「時に衛宮」

「なんだよ」

 下からねめ上げるような視線、ガンつけられているようで、そのくせ口元は笑っている。

「運動神経に自信は?」

「人並みにだったら」

「そっか、じゃあ―――――」

 ちゃりちゃりと筐体に百円玉が投入される、途端に指向性を与えられる閃光とサウンド。ゲームセンター全体に響き渡る重低音。成る程、此奴はなかなか強烈だ。一段高い機械、八つの踏圧センサーと四つの押圧センサーが取り付けられた、その名も“Dance Dance Drunker2!!”DDRシリーズに対抗して作り出されたこの筐体、やたらと難易度が高いのがニュースにもなっていた気がする。なんでも年内に3が出るとかでないとか。

「……じゃあ、なんだよ」

「聞くのか?」

「言ってくれ、そこまで察しが良くないんだ」

 いやまあ、嫌な予感が沸いてきたのはともかくとして。

 そっかー、流石衛宮だ聞いちゃうかー。なんて小さく呟く彼女の満足気な笑顔。アレはアレだ、じゃんけんするときに、相手が初手にチョキ持ってくるのを知ってる奴の貌だ。要するに俺は、この場に付いてきた事自体、既に填められていた訳で。

「3ゲームで勝負だ! 総合ポイントで決定、負けた奴が勝った奴の言うことを一つだけ聞く、今更逃げるとかは無しにしてくれよ!」

「げ、なんだソレ―――――!」

 気がついたときには既に遅く。

 張り上げた声は、巻き起こったサウンドに軽くかき消されてしまうのだった。

「ああ、くそ、仕方ないな」

 こうなったらどうにか勝つべく、相手の動きをしっかりと見極めるとしよう―――――





「―――――イェイ!」

「……うぉぉ」

 一曲が終わる。びしっと決まったポーズは、大真面目にダンサーのそれで。たたき出されたスコアは96000、僅かにずれた4ステップを除けば、ほぼ満点の恐ろしい出来栄え。いきなりこんなの見せつけられたんじゃ、喉からは唸り声しかでねえ。筐体後方の安全柵に頬杖を突きながら、小さく驚嘆の声を上げる。

「どうだった?」

「―――――やるな、自分の得意分野で勝負とか言い出す辺り端ッから勝ちに来てるだろ」

「もちろん、で―――――どうだった?」

「いやそりゃあ……」

 うん、まあ。正直見とれた。脚捌きとか、激しくて鋭くて、それでいて無駄のない振りとか。タイトでシルエットの細い上下を着ているせいで、鍛えられた体の綺麗な線が、前を開いたパーカーの下に見え隠れする。何より、躍っている姿は本当に楽しそうで、その表情だけで純粋に綺麗だと思った。

「―――――汚いとか言う?」

 何処か自信なさげな声、己に恥じるところがあるならやらなければいいのに。せっかく楽しんだんなら、こっちの事を気にする必要なんて無い。

「いいや、イワナイ」

「お、潔いね。その心は?」

「綺麗だったから許す」

「ふんふん、衛宮らしい―――――って、ええ!?」

 何をそんなに驚いているのやら。俺に「かまわない」と認められたところで、自分で汚いとか言い出す以上は、填めたって自覚があるだろう。ダーティなくせにすうぃーとだぞ、美綴。

「さて、タッチ」

「おう、見てろよ」

 そんなことよりなにより、今はとにかく反撃だ。負けっ放しとかやられっぱなしは性に合わない。階段とかどこから上る何て無視だ。百円玉を放り込むと、ハイタッチからステップに一気に飛び上がる。

 指示されている足下の矢印は八方向、情報を訂正、更に前後左右にオーバーステップする矢印が四つ。これがDDD1との違いらしい。四本の支柱に取り付けられた四つのセンサー。合わせて十六の光が俺を睨み付けている。

「は、っふ―――――」

 ―――――やべ、緊張してきた。体を動かすだけに、他の奴に比べてこの類のゲームはちょっとした見物になる。プレイヤーが上手ければその時点でアイドル決定だ。美綴がプレイした段階でギャラリーが沸いていた。次の奴はどんな動きをするのかと期待の眼差しが超痛ぇ。

 もう逃げ場はない。此処で引いたら男が廃るし、何より格好付かなくて仕方がない。

 美綴も初めてのプレイ―――――って事はなさそうだ。日付別ランキングにちらほらとAYAKOの名前が見受けられる。やられた、そう思いながら振り返ると、さっと目を逸らしたアイツは確信犯。間違いなく。

 セレクトからセッティングを前のプレイヤーと同じに。次々と表示される情報、ハード、アップテンポ、テクニカルステップ、テクニカルターン……他にもテクニカルと表示される項目が色々追加されていく。ええと、これ全部やらなきゃ、あの点数に追っつかないのか?

 小さく溜息を吐いて、スタートボタン。もう一度だけ振り返った、後ろで見ている美綴に指を突き付けて睨み付ける。見てろ、最高点をたたき出してやる―――――!





 ―――――で。

「完敗だ、どうやっても勝てん」

「ふふん、ようやく負けを認めたか」

「いや、難しい」

 トータルスコアで十万点近い差を付けられて、衛宮士郎はあっさりと敗北したのだった。

「はっはっは! そんな簡単に攻略されてたまるか!」

 鼻高々と勝ち誇る美綴、此奴の凄いところは、それがけっして嫌みに見えない闊達さだと思う。

「どう頑張っても90000以上が出ない、どれだけ注ぎ込んだんだ?」

「受験勉強の息抜きに通ってるからね、結構入れ込んだよ」

「なるほど、ストレス解消には良いかもしれないな」

 1ゲームこなした所で、その時点での勝敗は決定した。かといって黙って負けるわけにはいかない。しらばっくれた罰に、ハンデとして回数を10ゲームまで増やした。美綴の体力切れを狙ったのだが、基本的にタフな体力おバカ二人なために、結局差は付かず開かずで終わってしまった。そのあともリベンジだ、おう受けて立つなんて幾ゲームもこなした俺達は、小腹が空いたなどとのたまいつつ、ゲームセンターから離れると、川沿いのファミレスでドリンクバーなんぞを頼みつつ、こうしてだべっているのである。

「ありゃ難しい」

 とにかくソレしか出てこない。あれだ、“一秒間に四種類のステップをこなしながら、一秒ごとに一つのターンと上半身の振り付けまで即興でこなさなければならない”とか、尋常でない努力が必要なんじゃないだろうか。如何に運動神経が優れていたところで、“ダンスとは如何に体を使うのか”を知らなければ話にならないと思う。

「だろー?」

 それでも面白かったのは確かなのだ。傷の痛みすら忘れて踊り狂って来た。ぎしぎしと軋む体、が何だか鍛えていない頃に戻ったような気分。普段のトレーニングでは使っていない部分の筋肉まで悲鳴を上げる全身駆動。なるほどこれならダンサーの体の締まりも納得いくという物だ。

「でも衛宮は凄いと思う」

「なんで」

 心底感心した声に、皮肉めいた物を感じないでもない。半眼で見上げるが、どうも含みはない様子だ。

「あたしが最初にやった時は、どう頑張っても二万が上限だったのに、いきなり七万だろ? こりゃあ三日も通えばDDD2通になれるね」

「面白かったけど、其処までやりたいとは思わないな」

「だろうな、そう言うと思ってたよ」

 なによりそんな楽しみは俺に分不相応だ。どさっと背中をソファに預ける彼女に、苦く笑ってみせる。で、だ。俺は結局美綴に負けてしまった訳なのだが。

「で、俺は何を聞けば良いんだ?」

 あんまり無茶は無しにして欲しい物だ、できればもう一度弓を持て、なんてのも勘弁して欲しい。まあ美綴の事だから、インモラルな要求はないだろうが、なんだかあの笑い方が気に掛かって仕方がない。

「それは、まあ、まだ後ででいいよ」

「……?」

 何となく歯切れの悪い彼女を見て、視線を更に落とす。目に映るのは空の皿だけ、ドリンクバーとサンドイッチを頼んだ物の、意外と空腹だった事に気がつかされるだけだった。これじゃあちっとも食った気がしない。

「物足りない気がしないか?」

 腹の虫が鳴りそうな気配に、伝票を押さえて立ち上がった。

「話がわかるね衛宮」

「ラーメンでも食いに行くか」





 そうして。

 飯食いに行ったりボーリング行ったりバッティングセンター行ったりと、どちらかと言えば男友達との発憤娯楽コースを、なんのかんのとさんざんに遊び回って、夕刻まで街を彷徨う。ゆっくりと傾いていく夕焼けに、帰途につくことにした。

「さて、そろそろ帰らないとな」

「そっか、衛宮は主夫だもんな」

 時折途切れる言葉もそのままに、脚は緩やかに動いている。

「……その言い方には断固抗議するぞ」

 どういう訳か、橋の上まで付いてくる美綴に、跨るタイミングを逸したまま道を歩く。このまま歩き続ければ、やがて道にも終わりが来る。そういえばまだ聞いていない事もあったと、向き直って口を開く。

「なあ」

「なに?」

 橋の上は風が吹いている。陸の上とは違う、何処か冬に気配を残した冷たい風。一息に突っ切ってしまいたいところだが、彼女の脚は過ぎゆく日を惜しむかのようにゆっくりと動いている。それに付き合って、自転車を押した。

「俺は何を聞けば良いんだ?」

「は? 面白い聞き方するね衛宮は―――――ってそりゃそうか」

 中程で足が止まる。此方は自転車に、美綴は欄干に寄りかかって、夕焼けから顔を背けた。顔に掛かる前髪が鬱陶しいのか、左手で髪を押さえながら、彼女が眼を細める。

「そうそう、負けたからな。でもいきなり脱げとかは無しだぞ」

「誰が言うかいンなこと、し―――――と、男が女に言う事じゃあるまいし」

 小馬鹿にしたような口調、だけども口元は苦い。うっかり出かけた名前はアイツの物だろう。故人を笑うほどに堕ちては居ない。

「で?」

「そうだね……」

 遠い潮風。海猫の声を聞きながらゆっくりと橋を渡る。暗くなりかけた水面。流れを妨げる船の残骸。夕日と、風と。

「―――――」

 うなじの毛がざわついている。

 ああ、また思い出している。懐かしむとかよりも、もっと色濃く。呆れるほどの焦燥に目の前が暗くなる、正しく過去の物とするには、まだまだ時間が足りていない。切っ掛けが欲しかった、変わっていくためには、なんでも構わない。何が始まりになっても良い。ただ、俺は前に進んでいくのだから。

「あたしと付き合う、何てのは―――――」

「いいよ」

 冗談めかした美綴の言葉に、二の句も聞かずに返事を返す。

「―――――ないか、いや、無いな。言うはずが……って、ちょ、えぇ!?」

「何だ、冗談なのか?」

「いやまあ、ちょっと考えては見たけどそれは無いかナーとかって本気か衛宮!?」

「俺は構わないけど」

 別に、構わない。切っ掛けがあったから、それで変わっていくと思うから。崖を登るような物、とりつく島もない絶壁も、指先一つ掛かれば踏破する事も出来るのだ。

 だから、俺も。

「落ち着け衛宮、いいか? 確かにお前とあたしは友人だが、そう言う仲じゃなかった筈だ。ほら、それに好きだとかそう言うの置いといて、付き合うとか付き合わないとかってどうなんだ?」

「まずお前が落ち着け。美綴」

「な、なに」

「好きだから付き合う奴が居るなら、付き合ってから好きになる奴だって居るだろ」

「う―――――でもな、あたし達は……」

「嫌か?」

「うぅ!―――――え、あ、えと」

「どっちなんだ、俺もう帰るぞ?」

 わたわたと此方の言葉にあわてる彼女を、ただじっと見つめている。揺るがない視線、揺るぎようがない。そんな余裕なんて何処にも残していない。

「―――――嫌じゃない、けど」

「そっか、じゃあ宜しくな」

 そう言って右手を差し出す。此方の顔と手を、途惑いがちな視線が幾度も往復する。

「な、なんか違うんじゃないか?」

「知るか、俺だってそんなに経験がある訳じゃない。ほら」

「ああ、うん―――――うわ!」

 シェイクハンド、そこからそのまま引っ張る形に。

「ちょ、衛宮!?」

「どうせだからさ、晩飯食って行けよ。人数が多い方が賑やかで良いだろう」

「あたしは構わないけど、それより手! 手!」

 上書きしていく。誰かとの記憶を、アイツの思い出に。

 忘れるな、忘れて書き直せ。うっかり被った熱湯のような物、火傷はひどくてもいずれ癒える。

 わたふたと慌てる美綴の手を握りしめたまま、橋を渡りきって家を目指した。





「はいお茶」

「あ、おかまいなく」

 借りてきたネコの様におとなしい美綴を、居間に置き去りにして支度に掛かる。どうやら今日は遠坂も来るらしい、藤ねぇと桜とイリヤと、俺も合わせて六人か。久方ぶりの大人数に、気合いを入れて包丁を握る。生憎旬の物だけでは、おかずが足りそうにない。冷凍の物からとにかく量を揃えて行こう。

「鰯の甘露煮だろ、焼ほっけだろ、キュウリとシジミの酢の物に、芋の煮付けと。ちょっと醤油色だな」

 彩りが足りない気がする。野菜室にはいくらか買いだめがあっただろう。女性陣ばかりな事だし、サラダのひとつもやっつけようか。

「だったらパプリカにレタス、えー大根もいっとくか。水菜とあといくつかと」

 一口サイズに切り分けて冷水に晒す、サラダは歯触りが命だ、水をしっかり吸わせておかないと、あのぱりっとした食感にはならない。

「……なんか今ひとつ足りない気がするな」

 それはおいおい作りながら考えればいいか。はてさてそろそろ―――――

「む、来たか」

 チャイムからしばらくして玄関の開く音、複数の足音がやってくる。これは藤村さん家ご一行か。虎とイリヤと桜が纏めてやってきたのだろう。どやどやと賑やかな気配に、美綴が体を硬くする。

「しーろーう、ごはんまーだー?」

「おう、もうじきだから茶でも飲んでまっててくれ」

「あ、その……こんばんは」

「あ、美綴さんだ、こんばんはー」

 ……。

 いつもの事ながら超スルー。

 彼女を見つめてダレコイツみたいな視線を此方に投げるイリヤとか、完全に見つめ合ったまま固まってしまった桜とかほっといて、自分はのんきに夕刊開きながらお茶としゃれ込んでやがる。

「―――――」

 まあ、どうせ後で噴火したみたいに疑問が吹き出すのだろう。それまで放っておいても害はない。むしろ今下手につついて、支度の手に手間を拾うのはよくないだろう。

「シロウ」

「えっとな、同級生で弓道部の元主将の―――――」

「ああ、っと美綴綾子です」

「で、こっちがオヤジの娘の―――――」

「はじめましてアヤコ、イリヤスフィール・フォン・アインツベルンよ、好きに呼んで頂戴」

 ん。

 こっちはこれで良し、と。問題はそっちで固まってる桜だろう。

「―――――ううむ」

 ありゃあれだ、初めてここん家で遠坂見たときの反応の同じだ。打開策としてはもうちょっと俺よりも口が回る奴が欲しい所なんだが―――――と、折良く来客。

「お邪魔します」

「ナイスタイミングだ遠坂、ちょっと頼む」

 廊下を渡ってきた彼女の背中をぐいぐい押していく、ぱんぱんと気安く背中を叩き、廊下から押し込むと無責任に台所に戻る。さて、後は仕上げだけだ。上げジャコ散らしてサラダ完成させちまおう―――――と。

「は? 何を―――――って」

「え、遠坂?」

「何で綾子が居るの?」

 ―――――こっちもフリーズか。二人ともそっくり同じ顔して美綴の事を見ている。

 視線に晒されるアイツはたまったもんじゃない、気まずい空気に、嫌気がさしかけている。今要るのは俺のフォローか。

「昼間遊んでてな。そのまま飯に誘ったんだ」

「―――――ああ、なるほど」

「そうだったんですか」

 かちりと動き出す秒針、まだぎこちなさは残る物の、それなりになめらかに動き出す桜と遠坂、ようやく視線から解放されて、ほっとした表情を見せる美綴。

「しかし衛宮くんも急よね、手でもひっぱられたんじゃない?」

「うえ!?」

 ストレート。ど直球な状態描写に、美綴のテンションが振り切れる。一呼吸で赤くなる顔。桃色の気配に感づいたのか、唐突に顔を上げる虎。自分の言った言葉に今ひとつ実感が追いつかない遠坂。

「……せ、センパイ手、繋いだんですか?」

「あ? ああ、付き合う事になっt―――――はぐっ!?」

 ばしんと顔に衝撃、ついでに視界ブラックアウト。いやさコレはどっちかって言うとアイアンクローがくいこんで、覆われた視界にモザイクが掛かってるだけ―――――

「いっ、痛い! 痛い! 誰だこの手!? ずっ、みし、い、いた、ぎ、あ、あああ!?」

「んんぅーふふふふふふ、奥手じゃ無いのよねーしろうは。いっつも突然女の子連れてくるし、気がついたら不純異性交遊まっただ中みたいになってるしぃ」

 指! こめかみに指食い込んでる! 割れるから割れるからマジでやめてえええ!

「ふっ、藤ねぇ!? ぎしって、ずが、い、ぎしぎししぃっ!」

「んうふふー、いいからぁセンセイにこたえなさぁい」

「な、にを……?」

「―――――今度はどうやったのか、答えろこのエロガキがぁぁあああああああ!」

「え、衛宮ぁー!」

「ぎっ!? あぎぎぎっぎいいいいいいいっ!? ひぐっ―――――」

 ブラックアウト。今度こそ本当。でも起きても痛みきっと消えない。

 ああでも、こんな日常って大事で、藤ねぇも俺のこと心配してこんな事―――――なんて思えるかばっかやろー。


 ―――――ああ、鍋がコゲル。
         今夜はこんなにも、ツキガ―――――キレイダ―――――

 〜To be continued.〜



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