―――――いつからか、ですか?

 衛宮の奴をおかしいと思ったのは、春先のことでした。

 彼奴が良く笑うようになったのは、自分としても喜ばしい事なのですが。

 邪推ともとれるかも知れませんが、どうにも妙な胸騒ぎがしてしまって。

 はい、どのように、ですか? …………うまく表現が出来ないのですが、あれは突き抜けた、と言うよりも、振り捨てた―――――否、やはり邪推にしかならない。これ以上語ることは出来ないでしょう。


 失礼します。そう言って退室する少年を見送ると、大河は大きく息を吐いた。教頭と話をするよりも疲れた気がする。外を見た、落ちかかる太陽が、制球ネットの上に引っかかっている。雲が薄くかかっているのか、さほど眩しくはない。どっちつかずのホームラン、まるで、今の自分のようで口元が苦く歪む。

 もう一度長く息を吐く。昼間、浮かない顔をした教え子に声をかけると、心配事は自分の弟分の事だという。彼の言葉に耳を傾ける間、心当たりに愕然とした。あまりにも近しい故に気がつかなかったのか。その、緩やかな変化を見逃していた気がする。

 三度目、今度のそれは短く太く。後手に回りすぎていると思う、もし、彼が振り切った後ならば、今更言葉を重ねた所で届きはしないだろう。

 ぞっとした。「私達」の前では、今までと変わらない。それは、そのままで良いと言うことで、身近な人に接するように、多くの人に接する彼は、とても穏やかな笑顔で、その変化を己は良しと見ていたのに。

 そんな表情は、見たことがなかったのに。

 私達に笑いかけないと言うことは、彼なりの無言のアピールなのではないか。思春期の多感さがもたらしたSOS、違うかも知れないが、そうも思える。

 言われてみればとも思う。まるでかつて憧れた人のように、透き通った遠い目をしていることが、あったのではないだろうか。見過ごしていた。責める者があるわけではないが、己が己を責めてやまない。

 日常に思い当たる要因は。

「ある、よね。―――――いくつも」

 とくに。

 そうだ、彼女は大きいだろう。

 夕焼けの窓に、一人の少女を思い浮かべた。まっすぐで清冽で、強い瞳の少女。僅かな期間だったけれど、間違いなく彼女がそれに起因していて―――――

「ああもう、やめやめ! 考えても解るかってのよ」

 窓の外に目を向ける、じき夕暮れだ、赤く染まっていく校庭に、一人黙々と走る少年の姿がある。目を疑った、だが、程なくして諦めにも似た納得感が心に居座る。

「ばかな子」

 声は、震えていた。

 理由は理解できなかった。

 ただ、遠くなっていく事が寂しいのかも知れない。























「金砂の剣」
Presented by dora 2007 09 02
























   ノイズ、擦れ合うような羽音、視界に掛かる物はどこかモザイクじみて鬱陶しい。いやさ、そんなものじゃなくて、これはざあざあと波が打ち寄せる音。灰色と灰色と灰色、曇り空の下にあるのは鈍い色に荒れる海。遠くは白い光が差していて、近くになるほど雲が厚い。見知らぬ暗い色の浜辺に立っている、遠い向こうにある物を透かし見るように、目を細める。

 断線、昨日と今日が繋がる瞬間。見えているようで何も見えては居ない。目を擦ったところで、あやふやな視界に映る物はない。貧血とも光量不足とも違う、目を懲らしても、何も見えはしなかった。一筋の黄金、何時か見た、剣の輝きに似た。遠い水平線の果て、雲と海の狭間に太陽が見える。ゆっくりと黄金から赤に染まる視界、夕暮れ時なのか、日差しがやけに眩しくて目を閉じる。落日、昼と夜の狭間、遠い日と今が重なる時。

 回転していない、動いていない、考えることがどうしても出来ない。はっきりしない頭を鈍く揺すった、頭痛に近いうずき、ぼうっとしていてつかみ所がない。どうして此処にいるのか。いつから此処に立っているのかは覚えていない、ずっと此処で待っていた気もするし、たった今辿り着いた気もする。

 波の音以外は何もない、風の音も、どこか遠い。






「シロウ」






「セイバー」

 じゃりじゃりと、雑音混じりの、懐かしい響き。

 聞こえた声に振り返る、海風は少し強くて眼を細めた。久方ぶりに見る彼女は、白い衣装を風に吹き流している、何処か、故郷の麦わら帽子に似たものを被っている。風が体のラインを教えていた、幾度も見た、そのカラダ。焼き付いて離れないそれを綺麗だと、ただ思って見つめている。

「貴方は何―――指しているのですか」

 耳がおかしいのか、じゃりじゃりの言葉はひどく浮いていた。ぶれている。声のトーンが、と言うのでもない。機械で合成された音、彼女の物なのに決定的に違う。ばたばたと風が吹く度に声が紛れて消える。ばたばた、ばたばた、まるでビデオに録画されたそれ。手ぶれは強く、まともにとれているかすら怪しい。

「わからない、でも、お前が教えてくれたから」

 気高くあれ、と。何が出来るわけでもないが、模範たれと教えてくれた彼女。

「私は何もしていません、それは、シロウが自ら学んだことです」

 遠い夢、彼女の記憶。ふとしたことで踏み外しそうになる人の道を、踏み外しては行けないと前を向いて。

「セイバー」

「はい」

 泣きたくなるくらい、聞きたかった声。でも違う。これは、彼女の声じゃない。どうしているのか、何て事は考えちゃいけない。

 一際強く風が唸る。巻き上げられた波飛沫と、細かい砂が足を浚う。手を伸ばした、触れるか触れないかの所で、壁に当たった様に指先が止まる。焦れて、踏み出した。硬い物がある、こんなに近くに居るのに。

 寂しそうに彼女が笑う。伸ばした手が届くことなど決してない。

「シロウはどうしたいのですか?」

 問いかけに意味はない。そもそもこの会話に意味なんて無い。あの時の別れに全てがあるのなら、そこから先の事なんて全部が余計。それでもどうしてと、ただ問いたかった。だけど声は出なくて、代わりに壁だけがどんどん厚みを増していく。後ろから掴まれているのか、無限に絡み付く空気が距離を離していく、行くな、叫んだ気もするが届きはしないだろう。口だけが、何時かの朝焼けの微笑みで。愛していると言ったのか、それすらも届かないままに。

 離せ。俺は捕まっている余裕なんて無いんだ。振り切るように前へ、それに倍する距離が間に堕ちる。セイバー、セイバー、セイバー。一言叫ぶ毎に声は海風にかき消されていく、世界が暗くなっていく。夢。認識した途端に映像が文字に乱れて何かにすり替わる。焼き付いた笑顔だけが、いつまでも心に突き刺さる。

 夢は幻よりもはかない。

 起きれば忘れてしまう。







 落下感に似た浮遊感、目覚ましが鳴いている。

 胡乱な頭で体を起こした、夜明けまではまだ時間がある、とにかく顔を洗ってくるとしよう。

 久しぶりに良い夢を見た、ここのところ、夢にも出てこなかった彼女。しかめ面しいままに、一つ強く頷いた。出会えたのなら、それで良い。今日は良い一日になりそうだ、そう思って、布団から起き上がった。ただの一月前のことなのに、こんなに懐かしい。けれども―――――

「―――ああ。何も無い」

 ―――――其処に悔やむことはない、言い残したことも、やり残したことも。何一つ後悔する事なんて無い。前を睨み付けて生きる、過去に本当の価値を得る。そのために、俺達は意地を張り通したのだ。

 最期の時、全てを集めたような朝の光。駆け抜けた夜との、長い別れ。

 だけどもそれは終わりじゃなくて、それぞれの道を行くための分かれ道。

 俺がしたかったこと。

 あいつが抱いた夢。

 逃がさないと思えば、手を掴み止めることだって出来ただろう。

 それを、やらなかった理由なんて一つしかない。

 ほんの僅かな時間だったけど、それでもありとあらゆるものが揃った日々を。

 本当に価値ある物として、いつまでも胸に抱いていけるように。

 一時の感傷で、それを汚してしまわない様に―――お互いが美しいと感じたもの、それを必死に、最後まで守り通した。

 だから悔いる事なんてない。

 あいつが自分の時間をきちんと終えたように。

 俺も、この思い出に留まっている訳にはいかないんだから。

「だから―――」

 彼女の誇りを穢すまいと誓ったのなら、感傷は不要だ。こんなこともあったと、あんな奴が居たと覚えていて、俺は前を目指していればいい。大切な宝物を、つまらない感情で汚したくない。

 冬の水は身を切るように冷たい。体を震わせる痛みに耐えかねてタオルに手を伸ばす、それでも、もうじき春がやってくるのだ。巡る季節は留まることなく、ただただあの日を遠くにしていく。

 それが、美しい思いでのままでありますように。

 さてと、とっとと着替えて日課に出かけましょうかね。







 弾み息を噛み殺して走る、夜明けは近い、暗く迫る石段をひたすらに前へ。繰り返してはや半月、最初の頃こそ悲鳴を上げた足も、今では長く耐えるようになっている。長い長い石段を駆け上る、切れそうになる息を、無理矢理に吸い込んだ。山門を踏み越えて、柳洞寺の境内を走り抜ける。更に奥へ、暗い山道を獣の様に走る。

 視界が開けた、辿り着いた其処は冬枯れの荒れ地で、何もかもが薙ぎ払われた場所に、こんこんと湧き出す泉が一つ。竜が住むとされて、どんよりと淀んでいた池は、不浄な物が切り払われたとばかりに清冽な流れとなって未遠川に注ぐ支流となっている。荒い息を吐いて、顔を洗った。冷たく冴えた水が肌に沁みて心地よい。

 遠い地平を見た。あれから、これが衛宮士郎の日課になっている。遠い山並みの向こうから太陽が顔を出す、手を伸ばした、其処に誰かが居るかとでも言うように。彷徨わせて指を握りしめ、踵を返す。此処にあるのは思い出だけだ、他には何も有りはしない。

 鋭い光、眩しさに目を閉じる。見えない中に、焼き付いた人影。照らし出される世界の中、太陽に背を向ける。一度空を見上げた。もう帰らなければならないだろう。今は春休みだが、藤ねぇが朝飯を食いにやってくる。虎を暴れさせないためには、できるだけ早く帰らなければならない。目標は自宅まで四十分、帰りは人目のない山中を駆け下る。ペースは最初から度外視していた、そんな事はスポーツ選手が考えていれば良い。





 家に着いた、まだ鍵が掛かっている事を確認して、風呂場に直行する。洗濯機に着ている物を投げ込むと、埃と汗をシャワーで流した。熱い湯と冷たい水を交互に浴びる、火照った体と頭がゆっくりと正常な状態に戻っていく。

 彼女と別れてから、一月が経っている。驚くほど凪いだ心は、何事にも動じない。街で見る、金色の髪も意に介さなかった。不思議な話、あれだけ焼き付いてしまった故か、偽物の色程度では心を揺することが出来ないらしい。正しく懐かしむだけで、それ以上はない。

 冷蔵庫からペットボトルを取り出すと口を付けた。水が喉を滑り降りていく、乾いては居たが、其処までひどく、と言うことはなかった。

 部屋に戻り、衣服を身につける。いつまでもパンツ一丁だと虎に剥かれかねない。

 台所に向かうと、仕込んで置いた食材に手を付ける。コンロを全開にして、一気に仕上げてしまえば、後はご飯が炊けるのを待つだけだ。手を休めてカレンダーに目をやる。もう春休みに入った。年度が上がれば学年も上がる。いつまでも同じ事をしては居られない、そう思った。進路のこともある、自分がどうするべきか、未だに掴めて居ないのが問題だった。

 誰かのために、と一言で言うのは簡単なのだが、それでなにをするのか、というのは難しい。自分に何が出来るのか、自分が出来ることは何なのか。それをきっちり見定めなければならない。今できることと言えば、ひたすらに己を鍛えることだけだった。

 いつかは海外に行こうと思っていた。英語は遠坂と藤ねぇに協力して貰えばどうにかなる、と思う。留学するのも悪くはない。イリヤの事が気がかりと言えば気がかりだった。それも、一緒に海外に出て悪いという事はないだろう。

 学ぶことも体も、限界までいじめ抜いて、倒れるまで動き続ける。それで何が出来るか解らないが、何もしないよりはマシだろう。兵隊の基本は走ることだという、一番分かり易い悲劇を回避するためには、戦場に足を運ぶこともあるだろう。鍛えて置いて損はない。だから、ただ走り続ける。誰にも止められない速度で、誰にも止められない生き方を。

 平均睡眠は三時間ほどに切り詰めていた、週に一度、長く眠ることもある。問題は無いようだった、驚くほどに体力が向上している。問題は、それを如何に使うかだった。

 炊飯器の電子音に我に返る、半分眠っていたのか、意識は残したまま、意識が分散しているときがある。我に返るとひどくスッキリしているのが常だった、今日も多分に漏れない。さて、そろそろ桜が来る頃か―――







「おはようございます」







 呼び鈴の鳴る音、玄関の開く音、それに次いで、彼女の声が聞こえる。時計を見れば、いつもの集合時間に少し速い程度、これなら鮭も間に合うだろう。

「おう、おはよう桜」

「おはようございます、先輩」

 いそいそとエプロンを身につけ、ここから先は任せてくださいと胸を張る彼女に台所を明け渡す。桜は一月前よりも更に料理の腕を上げていた、もう洋食では完全に敵わない。ただ、牙城だけは崩されることを良しとしなかった。遠坂にも負けるものかと、和食だけは伸ばしている。丁寧な仕事と、しっかりと手間を惜しまなければ、後は素材次第で何処までも引っ張っていける。

 今更手順の説明は要らないだろう、何を仕込んであるのかを手短に指示して台所を明け渡す。唯一の気がかりは―――

「鮭、気をつけてな」

「む、最近先輩の鮭はソリッドですから、頑張ります!」

 ―――ええと。

 どちらかと言えばソルティなサーモンの訳だが、鮭の分際でソリッドってのは、どういう意味だろうか。

「桜。スマン、意味がわからない」

「あ、えっとですね、最近塩の振り加減とかがもの凄い細かくて、少しでも時間が違うとアレだなーと思って」

「そっか? でもそれぐらい手加減してくれ、和食まで桜に抜かれたんじゃあ、俺の趣味まで取られちまう」

 中華は遠坂の独壇場だし、洋食は桜に丸投げだ。最後の砦だけは死守したいものだが、うっかり焼き加減を盗まれそうで恐ろしい。

「コツがあるんですか?」

「それはヒミツです」

 塩振ったときに見る脂ののり具合と、そこから推察される脂の量、したたり落ちた油の焼ける音。コツと言えばそんなところだろうか。

 さておき。

「じゃあ、任せた」

「はい、任せちゃってください」

 桜は可愛らしく笑いながら胸を張ってみせる。ちょっとそれにドギマギしつつも、気を取り直して出来た物から皿に並べていく。

 


「どうですか?」

「いいんじゃないかな、九十点」

「……うう、点が辛い」

 口では良いと言いながらも、一瞥して鮭を戻す。ほんの僅かにではあるが、焼き時間が短かった。皿に染み出した脂が、揺すると僅かに流れ出す。眉に力が入った、これでは九十も怪しい。もう一絞り落とさないとダメだろう、皿に貯まった脂の量が多すぎて、これでは食欲を殺いでしまう。

「ええと……」

「かして」

 如何にした物かと思案するのを見て手を出した。手早く焼き網に移し替えると、バーナーで軽く表面を焦がす。一度グリルから出して温度が下がってしまった以上、完璧な焼き加減は求められない。強火で短時間、長くは出来ない。配膳完了まであと少し、時間もなかった。余計な脂だけを落として、もう一度皿に盛る。

「そ、それで何点になるんですか?」

「んー、九十一点ぐらいかな」

「うぅぅうっ」

 小さく縮まりながら唸る桜。

「……ソリッドです、エッジが効いてます、良いんじゃないかとか言ってるくせにやりなおしとか普通じゃないです」

「何か言った?」

「いいえ!」

 ……なにやら気になることを言われていた気もするが、まあ、それは置いておこう。うむ、このレベルなら、まだ抜かれる事はないかも知れない。ただなー、この娘さん。学習能力がもの凄く高いからなー。

 油断はならないと自戒しながらお茶を淹れる、さてはて―――




「そろそろかな」

「そうですね」

 ―――――ごっはんー、ごっはんー、しっろうのごっはんー♪

 聞こえてきた歌声に耳を傾ける。組んだ腕とかいい加減に力が抜けた、心なしか視界も傾いている気がする。

 ほら、なんだ。何て言うのか、とにかくアレだ。

「……うーむ」

「……あはは、ご近所迷惑ですね」

「何処より衛宮さん家にな」

 苦笑いしながら桜が言う、むっつりしたままそれに返すと、ばたばたとデカイ足音が玄関から上がってくる。二十五過ぎて朝っぱらから公道カラオケってのはどうかと思う。しかも人の名前連呼して。

「しっろう〜! さっくらちゃ〜ん! おっはようなのだー!」

「おはようございます藤村先生」

「朝飯、できてるぞ」

「まってました!」

 ひゃっほーいと愉快に叫びながら座布団に着地する。着地というのは比喩じゃない、文字通り飛び上がってからのタッチダウン。埃が舞うからやめろと言いたいが、ぼふ、と鳴った柔らかい音の他に、飛び散る物はない。いったいどんな物理法則が作用しているのか是非とも解明してみたいところだ。簡単な大学なら、学位ぐらいはとれるだろう、きっと。

 ほんとに不可解。目の前に鎮座する疑問の塊を横に置いて、いつもであればそろそろ顔の見える彼女の事を訊ねる。

「イリヤは?」

「んー、もう来ると思うけど」

 声に招かれるように、小さな足音が廊下をやってくる。

「おはよう」

 襖が小さな音を立ててゆっくりと開く。いつもは“どちらかと言えば騒がしい、むしろがらりスパーンとダイブぐらいは当たり前”なのに、そう内心首をかしげて目をやると、眠そうに目を擦る、それでも寝間着では絶対に外へは出てこない妹分二号の姿があった。

「おはようイリヤ。珍しいな、眠そうじゃないか」

「ちょっとね、タイガを手伝ってたら遅くなっちゃって」





「ん」

「いっただきまーす」

「いただきます」

「いただきます」

 よそったご飯に箸を付ける。いつも通りの朝だ。明るくて騒がしくて、何一つ欠けるところのない日々。忙しなく動く箸と、つぎつぎと入れ替わる茶碗、減っていくおかずにお茶の催促。ご飯はともかくお茶ぐらいは自分で淹れろとかちょっと言いたい。

「ねーねー、桜ちゃん」

「なんでしょうか」

 さも気になることがあるように、藤ねぇが口を開く。割と真剣な顔、珍しくまじめなことでも考えているのだろうか。

「この鮭だれが焼いたのかな?」

「う゛」

 って、食い物絡みか。

 桜も詰まる事なんてないのに、俺の評価はともかく、普通に考えれば上出来な部類だ。必死にアイコンタクトを桜が謀っている様なのだが、生憎と自分、鈍感で通っているので。平たく言ってさっぱりワカラナイ。

 そんな複雑に飛び交う思考も、僅かにたじろいだ桜も視界に入れず、藤ねぇは鮭をつつきながらご飯を口に運ぶ。っていうか口に物入ってるときにしゃべんな。品がないぞ。

「だれ?」

「……ええと、どうしてでしょうか?」

「んー、すっごくおいしいから何だけどね」

「やった……! 聞きましたか先輩!」

 ああ、聞いた聞いた。ソレより何より嬉しそうだな桜。じつに良いガッツポーズだ。だがそっちを見られなくなることぐらいは察してくれ。






 ―――――さて、洗い物も片付いたし、食後のお茶も淹れた。一心地付いたところで、イリヤに気になっていることを訊ねておこう。

「なあイリヤ」

「ん、なに?」

 此方の視線の意図するところに気がついたのか、一度目を合わせると、イリヤは藤ねぇに視線を投げて小さな溜息を吐いた。いかにもな肩凝ったーって感じの仕草だが、見た目が幼すぎるせいかなんとも決まっていない、流石にそのナリで「ワタシ肩こりとか在るのよねー」って言われても正直頭より先に感覚から信じがたい。

「手伝ってたって、何してたんだ?」

「シンロシドウだって、一人じゃ終わらないから知恵を貸してってタイガに言われたの」

 ……すごいなイリヤ。人生相談に乗るような物だぞ、それ。

「へえ、具体的に言うと?」

「えっとね、期限過ぎて出して来ないひとの奴をネツゾウするんだって」

 そっか、捏造か。人の一生左右する問題だから相当頭抱えるだろうなーって!

「そっか、俺には出来そうもないなって何やらせてんだばかとら!」

「うぐ! だ、だって仕方ないじゃない、そうでもしないと今日までに終わりそうになかったんだもん、職員会議、今日なんだからね!」

 お茶と大福なんぞをつまみながら、テレビを見ていた虎が驚いて跳ねる。その口から出てくるのはいつも通りの必死の言い訳なの、だ、が……どうした訳か今日に限って嫌に強気だ。

「だからって、部外秘じゃないのかアレ!?」

「いいんだもーん、イリヤちゃんは私に関わってシマッタ以上関係者だもーん」

「待て。待て待て待て待て。アンタに職業倫理なんて物は無いのか」

「ワッタシニホンゴワッカリマセ〜ン」

「テメ、この―――――!」

「いいのよシロウ、ワタシは誰にも言ったりしないから」

「そう言う問題じゃないだろ」

「いいじゃないですか、ちょっと見られたぐらいで減るような物でもないですし」

「桜まで……!?」

 ……む、なんだ?

 なんか、なんか違うぞ。まるで俺がおかしいみたいじゃないか。形勢が悪いぞ、なんだこれ。

「だいたい、こんなに時間掛かってるの誰のせいだと思ってるの?」

「なんだそれ、俺が悪いみたいじゃんか」

 ナウ、凍り付く部屋の空気。

「―――――」

「―――――」

「―――――」

「え、なに、なにさ。なんでそんな顔で俺を見てる」

「シロウって本当に自覚無いよねー」

「あはは、先輩ですから」

「ホント、しっかりしてるみたいで割と自分のことは置き去りなんだから」

「そのくせクラスの人の進路相談に乗ったりしてるんですよ」

「……末期的ね、ソレ。今日だけはタイガに同情するわ」

 ―――――。

 ええと、ひょっとして。

「俺、悪い、みたい?」

「みたいじゃないくて、わ・る・い! 士郎だけなんだから、進路希望表提出していないの!」

「……え、お?」

 ええと、考えてみれば出した記憶がない。言われてみれば、確かに。はたして提出期限っていつだったっけ?

「なあ、藤ねぇ」

「二週間前、それが二回目の締め切り」

 此方の意図を汲んだのか、すぱーっと竹刀で障子をぶった切る勢いな藤ねぇ。でもそれちょっとおかしいんじゃないだろうか。

「二回目って締め切りって言わないんじゃ」

「シャーラップ! そも一回目をブッチして良くも私の前に平気な顔して出てこられたものだな!」

「人聞きの悪い、それじゃまるで俺だけが一回目から出さなかったみたいじゃない―――――」









「―――――ほぉう?」









 ―――――む、なんだろうか。

 こう、投げてはいけない物を、ぽいって投げちゃったみたいな空気。

 ほら喩えるならニトロとか。







「―――――あ・ん・た・だ・け・だぁぁああああ!」







「うぉ」

「よりにもよってア行よ!? ア行! そこまでエレキじゃないってのに文章挿入とか良くわかんないんだからね!? ああもうアンタ衛宮じゃなくて“輪宮”とか“を宮”だったら良かったのに! 職員会議に提出しなきゃならないのに手書きなんてぞっとしない! あと! それから! 私を虎と呼ぶなぁぁぁぁああああああああああああああ!」

「うわぁ無茶苦茶だー!」

「無茶苦茶なのは貴様の頭じゃクソガキがー! さも出しましたみたいな顔をしおって、人が信頼して任せておけばこの有様、おお嘆かわしい! どうしてこういう駄目なトコとか切嗣さんに似ちゃうかな! で!? 進路は!? いまならまだ間に合う! 捏造に付き合ってくれたイリヤちゃんもきっと許してくれるだろうっ! それとも何か? ニートにでもなりますとか言うつもりか? そんなたわけたことは天が許してもこの藤村大河が許しはしない、笑い飛ばして虎の穴に放り込んでくれる、ああ笑いすぎて片腹どころか脇腹痛くなる程にしごきまくってくれるわ!」

「片腹も脇腹も同じ意味じゃ―――――」

「やかましい! もう少し空気読んだボケかませ! で! 進路は!」

「ほ、法政方面―――――」

「あんたの学力じゃ無理!」

「ぐはっ!?」

 ひ、ひでぇ!? いきなり叩き潰すかフツー!?

「じゃあ、海外留学―――――」

「ええいおとなしく就職とか大学進学とか言えんのか貴様は! まあいいでしょう! とりあえず職員会議で吊し上げてくれる! 放課後の呼び出し進路指導室一週間監禁コースは覚悟しておくこと! 以上! 行ってきます!」

 びしいびしいと指を突き付けて一頻り用件を叫んだ後、あまりにも男らしい踵の返し方で藤ねぇが出かけていく。

「じゃ先輩、戸締まりお願いします」

「お、おお、うん」

 さて、桜も出たことだし。

「イリヤ、お茶のお代わりは?」

「お気遣いありがとう、でも大丈夫よ」

「そっか。どうする? 俺もそろそろ出かけるけど」

 少し寝るのなら、鍵を預けて行くが、と。

「いいわ、ワタシも行きたいところがあるし」

「ん、じゃあ気をつけてな」






 進路、そうだった。考えるべき事はまだ沢山あって。

 一人の学生に過ぎない自分に、出来ることなんてそんなになくて。

 もっといろいろやらなくちゃ行けないのに、こんな所で足踏みしてる。

「焦っても仕方がないけど、やっぱり焦れるよな」

 じりじりと身を焼く炎に、思いを焦がす。そんな三月が過ぎていく―――――

 〜To be continued.〜



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