「いいお天気ですねー」
セイバーは、空を見上げて呟いた。先日、近畿地方でも梅雨明けが発表され、遂に夏本番到来、といった感じである。梅雨が残していった水分はそのままに、それを太陽が照りつけ、蒸し暑さを生んでいく季節、と言っていい。
欧州の、しかも現イギリス地方出身のセイバーにすれば、ある種未知の領域である。正直、彼女は驚いていた。
「……しかし、凄い」
湿気の多さと太陽の強さ。雨も、そしてその後の日光も、農作物や大地には必須のものである。だが、大地で暮らし農作物で生きる人間にとってみれば、体に堪えることこの上ない気候と言えるだろう。
少し、頭がボーっとする。午後二時半を回り、峠は過ぎている。だが、それでも尚、夏の太陽は雄渾で、凶暴だった。
「さて、そろそろ出かけないと」
縁側で、コーラ傍らに置き、文庫本を右手、団扇を左手にパタパタとやっていたセイバーは、覚悟を決めて立ち上がる。今日の夜は夏野菜カレーだが、その材料調達の任務を彼女は負っているのだ。何時までも猫のようにうずくまっている訳には行かないのである。
居間に戻り、食卓に盆を置く。最近は本、飲み物、団扇を三点セットにして、盆に載せて縁側に行くのがちょっとした彼女のブームである。少しばかりそこからは離れないといけないのが残念なほど、愛おしい時間ではあった。隣に士郎が居てくれれば、その感情は倍化したりする。
「オクラ、ナスはあるのですね。ニンジン、ジャガイモ……ふむ、福神漬、あとは牛乳……」
冷蔵庫に貼りつけてあるメモを取り、玄関先へと向かう。買い物代は、ちゃんと士郎が封筒の中に用意してくれていた。後は自分の財布を持って、深山へと向かうのみである。
「……っと、忘れていました。ハンカチが必要ですね」
最近導入された、吸汗性の良いタオルハンカチ。士郎はどこで見つけてきたのか、セイバーが貰ったものはライオン柄の逸品であった。勿論のこと、彼女の中では既に宝物級のお気に入りである。
「では、行きましょう」
外は暑い。だが、元気を彼女から奪うほどではない。それは、もっともっと暑くなる、という8月にとっておかなくてはならないだろう。今からへばっていては、この夏は越せないのである――――
門をくぐり、交差点への道を歩く。
――――と、そうは言っても。
ジリジリと、容赦なく照りつけてくる太陽の熱。
少なくとも、それは。普段冷静なセイバーの頭をホットにしてしまうくらいには、十分な強さを持っていたのである。
「ふむ、中々良い」
スーパートヨエツは、深山区民の台所を支える店である。この時間、勿論メインの客層となるのは、夕飯を控えた主婦の皆様である。彼女たちにとって、夕方のキッチンは戦場だ。家族への愛が深ければ、自然食材選びにも気合が入る。
衛宮家は多少事情が違うが、セイバーも食材を見る目は十分に養われてきた。もとより、戦場の人である。「腐っているかどうか」というレベルは、実体験を以て理解していた。何せ、「腐っていても口にし」なければならないことも多々あったのである。それを応用すれば、新鮮さのレベルを判断することも十分可能であった。
「今日は質が良いようですね。カレーになるのが楽しみです」
かごに入れた食材を確かめながら、セイバーが呟く。士郎が作ってくれるカレーはどの意匠も素晴らしく、食欲も増進する為に彼女のお気に入りになっていた。夏野菜は始めてのレパートリーである。さて、どのようなハーモニーを奏でてくれるのだろうか?
牛乳を入れ、お茶菓子も選んでレジに並ぶ。衛宮家は最近エコにも力を入れており、当然のように買い物袋は持参である。一回につき、ポイントカードに5ポイント。こういう細かい努力も、いつか家計に身を結ぶのである。なにせ、500ポイントで500円の割引券が手に入る。これを利用しない手は無かった。
あまり嵩張る品物は無かったので、無理なく片手で持てる程度に収まった。それはそれで僥倖なのだが、さて。
「…………暑そう、ですね」
外の光景が、である。
何故だろうか。太陽が、先程より凶悪な様相を呈している。
アスファルトは焼け、陽炎が立ち上っている。おそらく金属製の自転車ストッパーは、触れられぬくらい熱されているだろう。
「む」
先ほど、家から出ようとしていた時とは大違いの感覚である。さて、何故だろう。時間としても峠を越しているはずで、現に今は3時も回ってしばらく、という時間帯。猛暑の勢い衰えこそすれ、更に増す、というのは若干不合理なのだが……?
しかし、前に進まねば家に帰れない。ついでに言うと、三時のおやつにしようとしていたカキ氷屋さんにも辿り着けない。つまりここは、意を決して前に進むしかないのである。
セイバーは一歩を踏み出し、自動ドアの入り口に近づく。その少し前、彼女の肌に、爽やかな冷風が当たった。
「……あ」
そして、悟った。なるほど、コレの所為である。文明の利器とは素晴らしいものでもあるが、こうして人間の耐性までも奪うことがあるらしい。
つまりは、冷房。トヨエツはぬるくもなく冷たくも無く、環境配慮で適度な室温を保っている。その快適さに慣れたセイバーの体が、本能的に酷暑たる外の世界を敬遠しているのだ。
「全く、弛んでいますね。この程度のことで」
自分に言い聞かせるように呟き、セイバーは自動ドアをくぐる。
――――瞬間。
「むわっ」としか形容しようの無い空気が、セイバーを襲った。
「!?」
先ほどと同じ外気か、コレが。流石のセイバーも、戸惑いを隠せない。汗がすぐに頬を伝い、彼女お気に入りのライオンタオルハンカチの出番となる。片手が空いていることは、せめてもの幸いだっただろうか。
「……く」
ジリジリと照りつける太陽に、眩暈がするかのようだった。しかし、少しずつ慣れれば問題はない。不快さは確かにあるが、まだ大丈夫だろう。
そして、彼女にとっての最大の援軍、と言える存在が、と遠くに見えた。今日はアルバイトもないはずだ。もしかしたら、という期待はあった。勿論、彼女が「彼」を、見間違えるはずがない。
あたかも、炎天下の中で見つけたオアシスである。彼と一緒に食べるかき氷はさぞ美味しかろう。ケーキなどを一緒に選んでもいいかもしれない。そんなことを考えつつ、セイバーは彼にどうやって声を掛けようか、と思案する。
が。
(おや?)
どうも、様子がおかしい。いや、別に不審な様子があるわけではない。そういう意味ではなくて、士郎がひとりそこに居て、気軽に声をかけられる状況ではない、ということである。
有体に言えば、連れが居る。士郎を囲んでいるのは見覚えのある三人。俗に言う、「穂群原三人娘」の面々だった。
「詰まり、我々は日頃、汝に多大なる恩恵を受けている。そんなわけで、今日は特別に江戸前屋で褒美を取らせよう、という趣向なのだ」
「そーそー。この前もキックで破損したハードル直してくれたしな。まあ、好意は受け取っとけって」
「………………」
「――――――」
にこやかに接してくる鐘と楓。だがしかし、残る一人「三人娘の良心」三枝由紀香嬢がオロオロした顔色を浮かべている限り、その笑顔は決して信用ならぬものと思い給え、と、士郎は自分に言い聞かせた。
申し出はこうである。今日はたまたま部活も休みだし、どうだ衛宮、深山に付き合わないか、と。
士郎もまた、深山に行くつもりではあった。セイバーに買い物も頼んでいるし、もしかしたら合流できるかもしれない、と踏んでいたのである。ついでだし、と彼は考え、その申し出を受け入れた。
ただ、道中何かおかしかった。普段なら不敵な笑みを浮かべたり、莫迦騒ぎしたりする鐘と楓の様子が、である。妙に普通、と言ったら語弊があるだろうか? ともかくも、違和感を感じたコトは確かだった。
「で、何企んでんだ。そろそろ本題に入らないか」
「ん、何のことだ。それでは、我々に他意があるようではないか」
「無いのか? 葛餅おごりで?」
気前がいい。勿論200円やそこらのものであるが、それでも何かしら抵抗があった。裏にあるものが読めないというのは、案外プレッシャーがかかるものである。何が襲ってくるか分からない、という、ある意味伏兵に怯えるような心境になるためである。
「そうそう。別に、何か直してもらおう、ってわけじゃないからさー」
「……!」
「――!」
「……そうか。つまり、何か修理する以外のことはある、ってことだな」
ただ、ひとりボロを出す人間が居て助かった、というところだろうか。楓は見事に、自ら眼の前で落とし穴を掘って見せたのである。その罠は勿論、何の意味も為さない。
「……蒔の字」
「……もしかして、やっちゃった?」
「うん。見事にね……。やっぱりちゃんとお願いしたほうがいいんだよ、最初から……」
由紀香は最初から、楓が墓穴を掘ると見透かしていたかのようである。流石は二人の保護者、と、士郎は変な感心の仕方をした。
「えーとね、少し、力を貸して欲しいの。あ、衛宮君さえ良ければ、なんだけどね」
「?」
「……ふむ。端的に言えば、陸上部は君の力を欲している。ああ待て、別に入部しろ、というわけではないのだ。ただ、この前ウチの三年男子エースが故障してしまってな。練習再開までの一週間ほど、下級生に範を垂れるスプリンターが不在になったのだ」
「そーそ。でも私達も記録会あるし、あんまし構ってらんないのよ」
鐘は首肯しつつ、後を受ける。
「そこで、汝だ。一週間とは言わん。3日でいいので、下級生の練習を見てやってはくれまいかな。ああ、それも放課後の少しで構わない。汝の身体能力は折り紙付きだし、学内では有名人だ。汝ならば、下級生も指示に従おう」
「そういうことなんだけどね。本当、衛宮君の都合が悪かったら、全然……」
「ん、そういうことなら構わないよ。少しでいいんだろ?」
「え、いいの?」
由紀香が顔を輝かせて、士郎の肯定に喜色を現す。もとより、頼まれれば拒めないのが士郎である。それに最近は少しずつ、彼にだって変化は現れているのだ。それくらいのことならば、と、彼は快く引き受けた。ただし、と、もちろん釘を刺すのも忘れない。
「いいけど、回りくどいことするなよな」
「そこは大いに反省しよう。だが、我々の感謝の気持ち、と思ってくれれば有難いな。彼奴が復帰すれば、何かしらアレからも礼が行くだろう」
鐘は笑いつつ、いつもの様子で語りかける。猫を被るとは何も、彼の師匠に限ったことではない。いや、あるいは、類は友を呼ぶ、か。士郎は苦笑しつつ、そんな感慨を心に浮かべていた。
……と。
そんな様子を、セイバーは眺めていたのである。
別に、そのまま声を掛けて構わなかっただろう。というより、普段のセイバーならそうしたに違いない。別に三人とは知らぬ仲でもなし、買い物途中でバッタリ、というのも何も不自然な話では無いのである。
ただ、ほんの少しだけ。僅かだが、「シロウを驚かせてみよう」とか、「シロウと二人でかき氷を食べに行きたい」とか、そういう欲が、セイバーに生まれていただけのことである。その逡巡が、セイバーをして、彼女たちに声をかけることを躊躇わせてしまった。
「……おや」
どうやら、三人は士郎への用事が済んだらしい。会話は最後まで和やかな様子で進んだらしく、帰途に着く三人の表情は一様に明るかった。士郎も笑顔で彼女たちを見送っている。
さて、次は自分の番だ。セイバーは勇んで、士郎の後ろから声を掛けるべく、彼の方へと近づいていく。
……しかし。
(……あ)
そのセイバーの思惑は、またも空振りに終わることになった。
その原因は、これまた類型的に同じ根源を持っている。
「……綾子?」
またも偶々通りかかったのであろう来客が、士郎の横に収まっていた。
「そこで聞いたぜー。陸上部のコーチやるんだって?」
「コーチって言うか、後輩を見ててくれ、って頼まれただけだぞ。教えられるような技量があるわけじゃない」
「お目付け役、ってか? でもま、コーチみたいなものでしょ」
「……やけに絡むな」
「そりゃそーさ。声かけてるのはこっちが先なんだから、ね」
イヤミで言っているように聞こえなくも無いが、綾子の表情は何時も通りの爽やかさである。こういう所はかなわない、といつも士郎は感じてしまうのだが、それはそれ。まさかこんなに早く話が広まるとは思ってもおらず、彼も苦笑せざるを得ない。
「……ま、近日中には、ね」
「ん?」
「何でもない。で、ヒマ?」
「まあ、一応、な」
ただ、セイバーを探していたりはする。そんな訳でトヨエツに向かおうと彼は考えていたので、その旨だけは綾子に告げた。
「トヨエツね。ん、丁度いい。あたしもなんか飲み物欲しかったんだ。自販機より安いでしょ?」
「あそこなら冷えてるしな。じゃ、行くか」
綾子はそうと決まると、士郎を先導するような形でトヨエツの方向へと歩みを進める。
士郎も談笑しつつ、そんな彼女の後ろを着いていくのだった。
……そして。
そう、そこでセイバーが顔を見せれば、それで済む話だったのである。
だが、何故か――――セイバーは、彼女のほうに向かってきた二人から、咄嗟に体を隠してしまった。
理由は不明。
炎天下、照りつける太陽が、少しずつ鬱陶しい。
「……人気があるのですね、士郎は……。女生徒達に……」
恐らく、だが。自分が何を呟いているかにも、彼女は気付いていないのだろう。
とはいえ、後を追わないわけにもいかない。セイバーは汗を拭うと、そのまま二人の後ろを歩き、再びトヨエツの方角へと向かっていった。
「じゃあなー。また来週」
「おう。またな」
そんな挨拶を交わして、綾子はスポーツドリンクを手にして家路についた。
尾行の形になる上、トヨエツで買い物の品々まで持参しているセイバーは、もう一度スーパー内に入るわけにも行かず。身を焦がすような暑さの下、士郎が出てくるのを待っている。
そして、漸く「その時」が来た、と、彼女は判断した。まだこちらには気付いていないようだし、このまま声をかければ、漸く彼女の本願が達成できるだろう。
あと、ほんの数メートル。
たったそれだけの距離なのだが、しかし。
七夕も近い。そんな昔話を思い出してしまうような、間の悪さである。
「シローーーーーー!!!!!」
「……!? ……ッ、ぐは!?」
突撃一閃。セイバーから見て9時の方向から、超速で士郎のもとに飛び込んだ人影がある。
白いその小さな影は、しかしタックルの仕方を心得ていた。自らへの衝撃はほぼ0にしつつ、纏ってきた運動エネルギーをそのまま士郎の鳩尾近辺にたたきつける。見事なまでに不意を討たれた士郎は、危うくトヨエツのガラス戸を突き破って店内に出戻りするところだった。
「い、イリヤ……げほ……な、何を!」
「こんにちは、シロウ。本当に暑いわねー」
「じゃなくて、だな……」
イリヤは夏に相応しく、涼やかなノースリーブである。そこだけ見ていると爽やかだが、その後ろから現れた二名となると、話は全く違っていた。
「最近リズと開発した新技よ。ね、リズ」
「うん。こんにちは、シロウ。本当に暑いね」
「……さっき、聞いたな……。で、何の技だって?」
「バイツァダスト・フロム・アインツベルン。この前プロレス番組見てて、開発した」
「あー……プロレス、ね」
「ええ。マスク・フォン・ティーガーとの戦いに勝つには、タッグ戦が一番だと開眼したわ。シロウならきっと、受けきってくれると信じてたし」
「……いやな信じられ方だな……。お、セラも一緒か。今日はケーキ?」
「ええ。しかし、本当に暑いですね。これだから日本は……」
平然としているリズに比べると、セラの疲労は明らかだった。というより、このうだる熱さの中、あの長袖セーラー服を未だ着用しているのだから恐ろしい。見ているだけでも暑そうである。
「……ふう……」
「あ、ケーキ屋行こうか。ここだと暑いしな」
「む。何故我々が貴方と……」
「うん、私もそのつもりでタックルしたんだし」
「イリヤが行きたいって聞かなくて」
「……本当に……暑いというのに……しかも御嬢様……ふう……が、このような……」
本格的にセラがばて始めている様子を見せ、士郎は苦笑しながらケーキ店へと足を向ける。何だかんだ言いながら、結局仲が良いのがこの三人なのである。主従というよりは、最近は親友のように見えてきているな、と、そんな感慨を持つ士郎であった。
そして、騎士王は、というと。
「イリヤスフィール、セラ、リーゼリット……また、女の子、ですか……」
流れる汗も、最早体温調整に役立たなくなってきている。
むう、と、何度呟いたことだろう。
少しずつ、少しずつ。
日焼けするように……セイバーの心に、「くろい」部分が広がっていくのだった。
…to be continued.
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