「二日目/4月14日」
……今日も、彼女の夢を見た。
その笑顔を、忘れることは無い。
怒った顔も、あわてている姿も、安らかな寝顔も。
全てが、美しすぎる思い出として、己が内にある。
思い出ではなく、現実に。そんな彼女と、皆と一緒に居られる。
そんな、夢を。
昨日より鮮明に。より楽しく、より幸せな。
昨日の夢があんなに楽しいものだったから。夢の続きを見たいと、そう思ったのだろう。
時刻五時三十五分。普段どおりの起床。
掌には、まだ感触が残っている。夢の中で、その手を握っていた感触。
無論、現実に触れていたわけでもない。それは、単なる幻覚に過ぎないのではあるが、それにしても。
二日続けて彼女の夢を見られるなんて、僥倖と言っていいのかもしれない。
――――ひとつだけ、おかしなことがあったけど。
「…………何、で」
何で、涙のあとが。あんなに、楽しい夢だったのに。
顔を洗って眠気を覚まし、居間に入った。
しかし、今日はどうしたことか、桜もイリヤも来てはいないようだ。
代わりに張り切って朝飯を作っていたのは、虎。
「おっはよー士郎。今日は、桜ちゃん弓道部の用事で来れないってー。」
「おはよう。イリヤはどうしたんだ?」
「それがね、昨日、家の方にあのメイドさんたちが来たのよ。それで、しばらく城に居てもらいます、って言って持っていっちゃった。」
メイドさん……といえば、セラとリズだろう。何回かウチに表れた謎のツインメイド。
彼女たちが来るといつも、連れ戻すだのそういう話になっていた。しかし、イリヤもそこは主筋である。一喝して追い返してしまうのが常であったのだが。
「前は嫌がってたのにな。相当ごねただろ?」
「ん?そうでもなかったかなー。そんなにゴタゴタもしてなかったみたいだよ?」
そうか。もしかして、イリヤもホームシックなのかも。それとも、やっぱ主家として、本拠を空城にし続けるのもまずいということか。
「というわけなので、今朝はお姉ちゃんが張り切って作ってみましたー!」
「どういう風の吹き回しだよ。最近忙しいんだろ?」
「ふっふっふ。人間はね、限界になればなるほど気分がハイになるのよ?今なら空だって飛べそうだもん。」
いや、この人なら飛びかねない。魔術とか抜きにして。思考が既にすっ飛んでいることは言うまでもない。
そういえば、目も赤いしな。察するに徹夜明けであろう。
で、朝飯はというと、ホットケーキであった。ふんだんに乗せられたバターがまた。狙ってるのかこの人。
「まあ、作ってもらったのはありがたいよ。それじゃ、頂きます」
言って、口に一切れ放り込む。…………お?
「どう士郎?お姉ちゃん渾身の朝ごはんは」
「いや、意外だけど、おいしい。うん。藤ねえも少しはまともな料理できるんだな。」
「少しとは言ってくれるわねー。でも、見直した?見直した?」
「そうだな。ココだけなら十分お嫁に行ってもやっていける。」
「じゃあ、士郎に貰ってもらおっかなー。ダメ?」
「ダメ。何度も言ってるけど、そろそろいい人見つけなきゃまずいだろ。もう今年でにじゅ―――」
「それを言うなアアアアアア!!!!」
…………響き渡る怒号。声を物質化してぶつけてきたのかと思うくらいの衝撃。
何も逆鱗ってのは龍だけの話ではないようだ。……あれ?虎の尾を踏む、ってのもあるんだっけ。
何にせよ、この話題はタブーである。以上が結論。
「……ああでも、ホントに美味いよ、これ。今度は、イリヤと桜も居るといいな。二人とも藤ねえのこと見直すと思う。」
「ん。それでよろしい。それじゃ、私も頂こうかな。」
本当に久しぶりの、二人きりの食卓。
普段が賑やかになったからだろう。愉快痛快女教師との食卓とはいえ、それを寂しいと感じてしまう。
そんな中、少し、考えてしまった。
――――彼女が食べたら、どう言うのかな、なんて。
藤ねえに遅れること三十分。食卓の後片付けも済んだし、学校へ向かうとしよう。
「……おはよう……。衛宮くん……」
交差点のところで、幽鬼のような遠坂に会った。
「おはよう。なんか、随分やつれてるな。」
「うん。ちょっとね、考え始めたら止まらなくて……。」
低血圧を絵に描いたような人である。十分な睡眠が取れないのはさぞ辛いだろう。美容の敵ともいうし。
「昨日のことか。腑に落ちる結論は出たのか?寝不足と等価交換できるくらいの」
が、遠坂は首を振って否定のジェスチャーを採る。
「全然ダメ。あっちも取り合ってくれなかったし。……ふぅ…………眠」
ちょっと話しかけないでー、という雰囲気を醸し出す彼女。しかし、そういうわけにもいかないのである。折角買ったのだから、プレゼントプレゼント。
「調子悪いとこ申し訳ないんだけどな。これ、昨日話してたやつ」
「……あー、そうか。冗談のつもりだったのに、悪いわね。」
嘘つけ。どう考えても催促だったじゃないか。
封を開けるや、遠坂は、
「……士郎、これ」
なんて言って、怪訝な顔をした。
「ん、気に入らなかったか?宝石なら実用も兼ねてるし、良いかと思ったんだけどな。もしかして、指輪つきは余計だったのか。」
確かに、遠坂の使途を考えれば無かったほうが良かったかもしれない。
それとも、安物過ぎて使い物にならないとか?質流れ品大セール!とか銘打ってたコーナーで買ったから、安いのは当然なのだが。
「そうじゃなくて。士郎、こういうものを贈るのはね……。ま、いっか。士郎がそこまで考えてるわけないし」
む。なんか引っかかる物言い。感謝の気持ちを表そうとちゃんと考えた結果だったのだが。
「で。桜にも何か買ってあげた?まさか指輪?」
「まあ一応な。遠坂にだけじゃ片手落ちだろ。指輪じゃないけど。」
「ならいいわ。あの子、初心だから勘違いしちゃうでしょうし。」
「は?勘違い?」
そういえば。昨日桜にプレゼントを渡した時―――
「あ、桜。これ、プレゼントなんだけど」
「ええええ?!せせ、先輩、あの、これは?」
「ああ、何かオレンジデーっていうのがあるんだろ?だからふと思い立って。いつもの御礼にと思って贈り物を……。」
「いえ、そういうことじゃないんです!あの、明日がオレンジデーって、知っててプレゼントなんですか?!」
「ん?ああ、まあ一応。」
で、やりとりはそこまで。
そのまま桜は真っ赤になって俯いて、黙々と夕飯の後片付けをするようになったのでした―――
「あー……」
「なに、もう心当たりあるの?」
「昨日、桜に渡した時は様子が変だったからな。何かそれで納得できたような、できないような……。」
「ホント、士郎は朴念仁だから……。」
そこには全く以って反論の余地がない。的確な評価は耳が痛くなるものである。
「むー。一生懸命考えたつもりだったんだけどな……。いつも迷惑かけっぱなしだから、その御礼にって……。」
「そういう気の利かせ方は天下一品なのにね。ああでも、それがまた士郎、か。」
くすくす笑っている遠坂。何がツボに入ったのだろうか。
「……はー、面白い。
ま、それはおいといて。やっぱり気になるのよ。昨日の話。だから放課後、二人で新都に行きましょう。じっととしてるよりはマシでしょ?貴方一人ほうっておくと何するかもわからないしね。」
「相変わらず信用無いんだな、俺。……うん、でも、遠坂と一緒なら俺も心強い。よろしく頼むよ。」
「ん。殊勝な心がけよ、士郎。忘れないでね。自分のこと省みないで動くのは、貴方の致命的な悪癖なんだから。」
「それも耳タコ、だな。何回も言われてるから、それくらいは……」
「分かってるわけないでしょ。貴方のこればっかりは一生ものよ。それに付き合わされるこっちの身にもなって欲しいものね。」
む。全くその通りなのだが、なんか悔しい気がする。第一だな……
「…………遠坂のうっかりぐせだって」
「何か言った?士郎」
「いや!何でも」
……やっぱり言い返せないのは、蛇に睨まれた蛙そのものなのである。これもまた、一生付き纏う力関係なんだろうか……?
「あ、そうだ。言い忘れてたわね。」
教室も間近のところ、くるりと振り向いて、遠坂が言った。
「指輪ありがとう、衛宮君。嬉しかったわよ。
ふふ。期待しちゃってもいいのかしら?」
少し頬を赤らめて上目使いに。お世辞でもなんでもなく学園一の美少女が、そんな事を。
……や。なんていうのか?反則?時代が時代なら、どんな国だって一撃で傾いてしまうのではないだろうか。
しかしまあ、場所が場所である。100%嫌がらせなのだが……。
「え、あ、いや。そう言って貰えれば」
「あら、なに赤くなってるの?冗談よ。」
「はあ……。……ま、わかってはいたけどな……。」
「ふふ。楽しんでもらえた?」
いじわるそうに笑いながら、それでも、その仕草はとても暖かいものに感じられた。
やっぱりこいつ、芯からいい人なのである。
「そうだな。それでこそ遠坂だ。」
「どういう意味かは聞かないでおいてあげるわね。
それじゃあ衛宮君、また放課後に」
そういうと、優雅に遠坂は教室に入っていった。
今日もまた、視線が痛い。周りの人にすれば、デートの約束に聞こえなくもないし。謂れもない報復には十分注意しないと……。
今日も、普段どおり時間は巡っていく。
いたって普通の授業に、ドタバタの虎印HR。新学期特有の、活気ある雰囲気に包まれている学園。
世界は、いたって穏やかに回っている。
様々な出来事が起こった冬は既に去り、春となった。
春は、誕生の季節という。
死の季を越えて、やって来る祝福の時。
その陽気の中で。自分は、今朝の夢のことを思い返していた。
――――――春が本当に、祝福の季節ならば。
「……俺は」
何を、考えているのか。
それは、恥ずべき考えだろう。
一瞬の、気の迷いから出た、妄言。何故、そんなものが頭を占める。
――――――あの姿を、もう一度――――――
「……は。莫迦な」
思わず、首を振った。あの夢が、美しく、幸せに溢れたものだったから。そんなコトが、浮かんでしまったのだろう。
何より、在り得ない事と。
自分自身が、一番知っているはずだから。
「おや珍しい。こんな所で待ちぼうけかね、お兄さん。」
校門で遠坂を待っていると、弓道着姿の美綴に声をかけられた。
「美綴か。そんなに珍しいか?俺が立ってるのが。」
「だね。放課後は生徒会か、直行バイトでしょ?こんな所で暇そうにしてる衛宮なんかあまり見ないからね。」
まあ、確かにそうだ。それにしても、遠坂といい美綴といい、どことなく似ていると思うのは自分だけか?仲良いって言うし。
「で、美綴こそこんな所で油売ってていいのかよ。仮にも最上級生なんだから、示しがつかないんじゃないか?」
「これも弓道部のため。次代の中心は桜だからね。私がちょっと出てる間、部内の指導をまかせてあるわけ。そろそろ桜にも独り立ちしてもらわないと。」
カラカラと笑いながら堂々と宣う美綴。誠、後輩思いの良い先輩だ。朝、桜が学校に早出したのも、その辺りに理由がありそうである。
……単に自分が面倒くさがりなのではないかと、突っ込みを入れたくなった気もするが。あくまで気のせいだろう。
「お待たせ、衛宮君……あら、綾子も一緒?」
と、タイミング悪く遠坂がやって来た。
……美綴は意地悪く笑った後、
「なんだい衛宮、待ち人は遠坂だったのかね。……ふむ。」
なんて、思案顔で居る。……なんか、嫌な予感もするが。
「や、仲良きことは美しきかな、と。遠坂、初の恋人は衛宮と見定めたのか?」
「冗談。こんな何時死ぬかわかんないヤツ彼氏にしたら、こっちが持たないわよ。」
はて、何時死ぬか?と、美綴が首を傾げている。……ていうか、そこまで快刀乱麻な言い方をしなくてもいいと思うのだがどうか。
「まあま、テレなさんな。結構お似合いかもよ、お二人さん。いや、衛宮も果報者って言うのかね、末永くお幸せに」
美綴は一人で盛り上がっている。ここで反論したら自ら墓穴を掘るのと同じだろうし、大人しくしているほかはない、か。
「ま、いびり殺される前に、一つ決着を付けに来てよね」
そんなことを言って美綴は去っていった。
……やっぱり、遠坂の本性を見抜いているところは流石と言うべきだろう。
「じゃ、行きましょうか。しっかりね、士郎。」
先ほどまでとは違い、魔術師としての空気を漂わせる遠坂。まだ半人前の俺には、ここまでの雰囲気は醸し出せない。やはり、まだまだ修行の道は長いみたいである。
せめて、気を引き締めるくらいのことはしておこう。
二人で歩く新都。まあ、なんていうか、滅多にあることではないので多少緊張もする。
「ホントは昼間じゃないほうがいいんだけど」
自分から提案しておいて、そんな事を宣う遠坂。そりゃ、そうなのだが。
「見回りにはなるだろ。ここの管理者なんだから、それくらいの義務はあるんじゃないか?」
「まあね。今でも偶に夜は回ってるし。……で、ここで間違いないのよね。」
「ああ。まだ残ってるかな?」
新都の駅前、丁度冬木の重要な建物はこの辺りにある。ヴェルデなんかは言うに及ばず。大企業のビルとか、冬木の公の機関などもこの辺りに集中している。
「そうね。これは確かに魔力、魔術行使の跡……。
でも、これじゃ弱すぎて、どこで何をしたかまでは解らないわね。ここから得るものはないわ。」
「了解。じゃ、もう少し続行だな。」
「そうね。ここまで歩き回ってるんだから、少しは何か引っかかってくれないと癪よ。」
この辺も、遠坂の気質である。魔術師の体質ってのはそうなってるものなのか、無駄が本当に嫌いなのだ。
……が、しかし。
夕方まで見回りを続けたものの、結局、手がかりらしい手がかりも見つからなかった。遠坂はかなり不機嫌そうになって、今にもこちらに八つ当たりしてきそうである。
そんな事態を回避する目的もあったりして。随分長く歩いたからという名目で、公園で少し休憩を取ることにした。
「なんか、無為に時間を過ごしちまったな。」
「特に変なところもなかったものね。……なんか気分悪いなあ……。」
夕焼けの公園。そこかしこで遊んでいる子供達も、じき夕食をとりに帰るのだろう。
そんな光景を眺めていると、視界の端に鯛焼きの屋台が見えた。
「あれ?こんなところに屋台なんか出てたんだ。」
言いつつ、小腹がすいていることに気付く。
「遠坂も食べるか?買ってくるけど。」
「士郎のおごりなら歓迎よ。」
「ったく、お前は……」
ぶつぶつ不平を言いながら、鯛焼きを二匹購入して戻った。結構おいしそうな焼き具合である。
一匹取り出して、遠坂に渡してやる。
「あら。場末の屋台にしては上出来じゃない?」
「そうだな。案外穴場かも……」
暖かい出来立てだし。冬本番ならもっとおいしさも引き立つのだろう。
しかし、鯛焼きを頬張る遠坂なんて、あまりお目にかかれるものではない。なんとなく似合わない感じもするし。
やっぱり、こういうのが似合うのは――――――
――――なんの脈絡もなく。
何でもない話のように、切り出してしまっていた。
「――――なあ、遠坂。」
「ん?どうしたの?」
――――やめろ。そんなこと。
言った所でどうなるわけでもないのに。
「あいつなら、さ。これ食べたら、どんな顔して、どんな事言ったかな。」
「ちょっと、士郎?」
「おいしいです、とか。もう一個いただいても?とか。嬉しそうに食べるんだろうな、きっと。」
遠坂から、反応は無い。やはり、こんなことを言うものではなかったか。
でも、何故か。話すことを、止められないでいる。
「あいつの夢を、見たんだ。すごく楽しいユメを、二日続けて、さ。
昨日は、新都に行く夢で、今日のは、遠坂も皆も一緒になって、家で大騒ぎしたりする夢だった。」
「………」
「だからかな。ちょっと、思っただけなんだ。もし、あいつがいたら、って。」
前、遠坂に言ったことがある。
あの選択に、後悔は、無い。
彼女に、未練は、無い。
二人の大切なものを、貫き通した結果。
それを大事にするなら、結末は、あれしかなかったのだから。
だけど。
もし。
――――――手と手を取り合って、未来に進めたのなら――――――
そこには、どんなセカイがあったのだろう。
「……今日はおしまいにしましょう、士郎。収穫が無かったのも収穫のうちよ。貴方も、疲れてるみたいだし。」
遠坂が、そんなことを言い出した。話の飛躍に一瞬戸惑う。
「え?まだ俺は大丈夫だぞ。それに、魔術師が動くならこれからなんじゃ」
「うるさいわね。……そんな、泣きそうな顔して。大丈夫だなんて、思えるわけ無いでしょう。」
泣きそう?俺が?
何をバカなことを。むしろ、泣きそうな顔をしているのは、遠坂のほうだと思う。
「どうしたんだ?遠坂。なんか辛そうだぞ。」
「なんでもないわよ!夜の見回りは私がやるわ。士郎は帰って休んでいなさい。……これは、師としての命令よ。」
そのまま、遠坂は走って行ってしまった。
どうにも、腑に落ちない。別に疲れているわけではないのだが。
「何だよ、一体……。」
ぽかんとしながら、遠坂を見やる。
その背中は、いつもの自信に溢れたそれではなく。
やけに、小さく見えて仕方がなかった。
――――――interlude ex−1
「はあ……。」
当てもなく新都を歩きながら、遠坂凛は幾度となく溜息を漏らす。
溜息の理由になりそうなことは、昨日今日と色々あった。
しかし、やはり直接の原因は、先程少年が見せた顔に他ならない。
(なんて顔するのよ、あいつは……。)
それは、どうしようもなく、悲しい顔。
夢のことを楽しかったと語るクセに、ちっとも笑ってなんかいない。
勿論、本人は笑っているつもりだったのだろう。………だが、彼女には。
その笑顔が“嘘”と、解ってしまっていた。
「それ」は、彼にとってどれだけの意味を持っていたのだろうか。
自分が、サーヴァントを失った時を思い出す。
表向き、強がってはみたけれど。正直に言えば、認めたくなど無かった。
令呪を通じた、その存在が感じられなくなる。目の前が、真っ暗になったような感覚。
彼とて、同じだっただろう。
―――いや。
愛し合って、認め合った不器用な二人。傍らで見ていても、微笑ましいほどお似合いだった恋人達。
「………私には、わかんないのかな。」
その彼女を失った胸中など、最初から慮れるものではないのかもしれない。
何日か前のこと。彼は、未練など無いと、言い切った。
それもまた、事実だろう。未練など残して、あの決断が生まれるはずは無い。
だけど。
“未練”と、“願望”は、必ずしも一致しないだろう。
決断に後悔は、未練は無くても。
一緒に居たいと、そう願う彼の心は。消してしまうことなど、最初から出来なかっただけである。
ならば。
叶わぬ願いを抱えた彼は、どうなるというのか――――
「……私は、莫迦だ」
彼が落ち込んでいるなら、無理矢理にでも立ち直らせようなんて思っていたのに。
もしかしたら。それは、ただの言い訳だったのかもしれない。
結局、こうして、遠くから見ているしか出来ない。
無力な自分に、呆然としているだけ。
家に帰ると、彼女は電気も点けずソファーに倒れこんだ。優雅たれ、なんていう家訓は思い出してやる気も起きない。
「……士郎……?」
宝石を取り出して、呟いた。
普段ならキレイに見えるはずの石は、暗闇の中、悲しみを湛えているようにさえ感じられる。
その姿は、彼に重なる。
彼の瞳の先にあるのは、如何な未来か。
「……私に、どうしろっていうのよ……。」
怒りなのか、それとも哀れみなのか、その区別すらできず。
彼女は、形容しがたい感情に、苛まれていた。
interlude out
「投影完了」
夕飯を終え、桜と藤ねえを見送ったあと、薄暗い土蔵で日課を行いながら考える。
「やっぱり、何かおかしい、か。」
複製した「剣」を眺めて、出てきたのはそんな呟き。
どうも、投影が上手くいかない。いや、投影自体というより、精巧に創り上げるべきイメージ自体に問題がある。簡単な剣ですら、そこに綻びができる。形は剣でも、これではなまくらとも言えやしない。
簡単に言えば、集中力の欠如。投影において、根幹を為す要素が欠けてるってこと。
調子を確認したら、遠坂には悪いけど一人で見回りに行こうと思っていたのだが。これでは遠坂の言った通りである。
やはり、一流の魔術師ともなれば観察眼も一級品ということか?
「強化、開始」
今度は、強化魔術を試してみる。
が、こちらも上手くはいかない。投影と同じ。対象構造の把握に綻びが生じている。
「なんか、二ヶ月前の水準に戻ってるな。」
思わず苦笑いしてしまう。あの頃は周りに苦労をかけっぱなしだった。遠坂にいたっては呆れ果てていたし。ま、呆れられるのも至極当然な腕だったと言ってしまえばそれまで。
コツなんか完全に掴んだと思っていたのだが、やはり調子というのは悪い時には悪くなるもののようだ。自覚は無いが、やっぱり疲れているんだろう。
悔しいが、今回は遠坂に感服。流石は師匠である。
ふと、窓から差す月明かりに気をとられた。
その明かりは、照らされた庭の情景を感じさせてくれる。
月の光に誘われたのか。少し、外の空気を感じたくなった。
外に出て、夜空を見上げる。
「キレイだな……。」
月は、正円ではない。それでも、雲ひとつない空には美しく映える。
また、彼女のことが、頭に浮かんだ。
こんな夜に、出会った少女のこと。
月の姿は変わることはない。
何世紀も前の異国の話。彼女も、戦陣の最中で、その居城で、たった一人、月を見ていたのだろうか。
その胸に去来せし想いを、推し量る術は無い。
気付いてあげる臣も居ず。
語り得る友も得ず。
そんな彼女の支えになってあげられたのは、俺の誇りと言っていいだろう。
……今、彼女を偲ばせる跡は、この地に残っていないけど。
ただ。中空に浮かぶ月の、儚げな景色は。
彼女と共有する光景ではないか。そんなことを、思った。
今日は調子が悪い。こんな日は、すっぱり寝てしまうのもいいだろう。遠坂には本当申し訳ないのだが、巡回の結果は明日また聞いてみたらいい。
「それじゃ、おやすみ。」
誰にでもなく、夜空を見上げながら、言った。
……いや。
誰に向けての呟きか、そんなことは自分が一番良く知っている。
同じ月を、見上げていただろう彼女へ。その姿は見えないけれど。
月を通して、想いが届いたら。
それは、どれだけ素晴らしいことなのだろう。
部屋に戻るのも面倒だったから、そのまま土蔵で眠ることにした。
……何より、ココは特別な場所。
あいつとの思い出の起点なのだから、そこで眠りたい、と。そう思った。
今日もまた、夢の世界へと歩みを進める。
また、彼女に、ユメの中で出会えるのだろうか。
せめて、そこだけでも―――
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