「一日目/4月13日」



 ……彼女の夢を、見た。


 とても、暖かなユメだった。
 いつの日か、その焼き直しのような。
 新都で、二人並んで歩くユメ。
 あまりに美しい幻想。
 衛宮士郎にとって、何にも代えがたい理想。
 それは、最早虚構の中にしか存在しない。

「ん……」
 ゆっくりと目を開けた。
 もっとその余韻に浸っていたかったのだが、体の習性とは業の深いものらしい。クリアになった思考は、夢と現実とをはっきり区別している。

 もう何度目になろうか。彼女との夢は、結構頻繁に見る。
 触れ得ぬ彼女を、夢でも見ていられるなら。まあ、それも良いのかな、と。そう思うのが常であって、その夢を見ることに別段の趣もない。
 でも。あそこまで、楽しそうに笑っている彼女は久しぶりに見た。そんな幸せな夢だったのだから、少しは惜しむのも人間の性だろう。


 時刻は、五時を回ったあたり。窓から差す光は、明けの情景を思い起こさせる。
 彼女との、別れの陽光。
 綺麗な、とても綺麗な野原での、黄金の別離。

 ――――ふと。何故か。

 その先にある彼女が、頭をよぎった。
 其は避け得ぬ、孤独な死。
 とても、死んだようには見えなくて。まるで、幸せな少女の、寝顔のような。
 そんな彼女の、最期の姿を。

「…………っ」
 慌てて首を振り、イメージを振り払う。
 ……しかし。どうやら、遅きに失したようだ。
 何かが、頬を伝っている。

 何より強かったが、どうしようもなく儚い。そんな彼女が、暗い死の淵で、「その時」を待つ。
 その光景に耐えられるほど、俺は強くない。
 でも。二人が、お互いを大切にした結果なのだから。
 譲れぬ誓いを、守りぬいたのだから。
 だからそれは、これ以上無いくらいの結末なのだ。

 ――――そう。その、筈だ。

 ……なのに。何故、今日に限って。そんなことを、思い出しているのか。

 叶わなかった、その願いを。

 同じ時間を、過ごしていたい。
 何気ない言葉を、交わしていたい。
 手のひらを重ねていたい。
 柔らかな唇に口づけをして、細くて、しなやかな体を抱きしめて。
 好きだと、死んでも離さないと、伝えて。 

 その傍で支えて、精一杯幸せにしてあげたい。

「……ああ、俺は、」

 ――――――そういえば。
 その未来を、手に入れられなかったんだっけ……。




「先輩?起きていらっしゃいますか?」
 しばらく何も考えず、横になっていると、桜に声をかけられた。
「ああ、おはよう。朝飯か。……いつも悪いな。」
 どうやら、もう六時をまわっているらしい。最近、桜が朝飯当番のようになっている。自称台所番としてはなんとも不名誉なものであるが。
「いえいえ。私が好きでやってることですから。御礼には及びませんよ。」
「ありがとう。すぐ行くから。」
「はい。居間でお待ちしています。」

 いつもと、ほとんど変わらないやりとり。
 肉親を失った悲しみを、彼女は乗り越えようとしている。
「まったく……。」
 自身に呆れたのか。出てきたのはそんな呟き。
 我ながら、情けない。感傷に耽る暇があるなら、前に進まないと意味が無いのに。
 早く顔を洗って、居間に向かわなければ―――


「おはようございます、先輩。」
「おはようシロウ。最近ちょっと遅いわね。春だからって気が抜けているのかしら?」
「二人ともおはよう。ま、こう寝坊が続くと反論も出来ないな。
 ……と。藤ねえは?まだ来てないのか?」
「ギリギリまで寝てから来るって。昨日の夜も色々やってたしね。進路がどうとかブツブツ呟いてたわ。」
「そういえば、弓道場でもお仕事大変だって仰ってましたね。」
 言われてみれば、藤ねえも最高学年の担任である。それなりに人生を決める一年を持つ以上、仕事も増えるというわけか。
「寝過ごさなきゃいいけどな。ま、いい大人なんだし、その辺は自分で何とかしてもらうか。
 桜、まだ手伝えることあるか?」
「お料理は大体出来てますから、並べるのを手伝っていただけますか?」
「了解。」
 これが、最近の衛宮家の日常である。
 朝はこの面子に、藤ねえを加えた面々で賑やかに頂く。
 いつも藤ねえが大騒ぎして、イリヤがそれをからかって遊んで、桜が苦笑いして眺めている。
 俺はどっちつかずでたしなめたり、そ知らぬ顔で飯を味わっていたり。

 もうすっかり、その光景に慣れてしまって。
 それが普通なのだと。考えられるようになったはずだった。

 ――――はず、だったのに。
 ……夢のせい、なのだろうか。
 俺の隣、黙々と食べる姿が、足りない。
 彼女が、居るべき場所。そこにはもう、誰も座ることがない。

 そのことが、何か。
 どうしようもなく寂しくて――――




 朝食も終わり、時間は頃合。急がずともこの時間ならHRに間に合おう。



 学校へと向かう交差点。向こうから遠坂が歩いてくるのが見える。
「あ、衛宮くん」
「おはよう遠坂。挨拶くらいきちんとした方がいいぞ。優等生の変装を続けたいんだったらな。」
 今日は少し皮肉で返してみた。ここでの挨拶はそれなりに会話の趨勢を決めるので、頭を使うのだ。
「む。一端の口きくようになったわね。」
 新学期に入ってから、よく遠坂と登校するようになった。あの戦争以来、直接魔術の指導を受けていることもあり、今ではすっかりよき友人(従僕?)である。
「春はいいわね。ま、朝起きにくいっていうのは考え物だけど」
「春眠暁を覚えずってやつか?こう暖かいと、な」
 朝が弱い人間には追い討ちのようなものか。自分には良くわからない話ではある。
「今日は13日よね。そういえば士郎、明日は何の日か知ってる?」
 ……さて。思い浮かばない。2月や3月なら14日に意味もあろうが。
「いや、知らない。ホワイトデーの亜種でもあるのか?」
「あら、鋭いわね。オレンジデーっていうのよ。付き合ってるカップルが、想いを確かめ合う為に贈り物をするの。」
「へえ。また何か面白い風習ができたもんだな。で、それがどうしたんだ?」
「ま、恋人だのなんだのには全く関係はないけどね。そーいえば先月、何も貰ってなかったな、って」
 にっこり微笑みながら、何かを宣告する御嬢さん。
 ……ええと、それはつまり。
「……や、ちょっと待て。……俺、バレンタインに何か貰った記憶は無いぞ?」
「あら心外ね。何もあげなかったけど、その命があるのは誰と手を組んだおかげだったのかしら?
 それだけじゃないわよ。日ごろからお世話になっている師匠筋に対して、御祝儀の一つも出せないような没義人間じゃないわよね?衛宮君は」
 どこまでも、優雅に。しかし、内容はそれこそ悪魔の。その笑顔は反論を許さない。
「……まあ、感謝は、しています、けど。」
「おっけー。別に無理にとは言ってないからね?でも、楽しみにさせていただくわ。衛宮君♪」
 ここに、臨時出費が確定した。
 や、道理に反論できないのは正義の味方の証拠なんだよね。……まあ、そうでも考えないとやりきれない。放課後にでも新都でなにか見繕ってこないと……。
 でも、感謝しているっていうのは事実。何だかんだ言ったってこいつは俺を心配してくれる。上手く隠してるつもりかもしれないが、遠坂凛の本質から言ってそれを隠し切るのは不可能ってものだ。
 そんな彼女に、日ごろの感謝をこめて。
 何かプレゼントするのも悪くは無いかな、と。そう思ってみることにしよう。


「士郎は、聖杯戦争の遺物って何だと思う?」
 そんなことを言い出したのは、学校への上り坂。
 なんでそんな事を聞くのか、疑問には思ったが、遠坂の顔は先程までとは打って変わって真剣そのものである。
「……何も無い、っていうのが正しいんじゃないか?だって、あの戦争では」
 そこで、言葉を切った。そのあとは、言わずとも解るはずだ。
 確かな出会いと、思い出。聖杯戦争が遺したものは、それくらい。
 自分は彼女と出会い、遠坂はヤツと出会って。それでも今は、どちらも居ない。
「でも、なんでそんな事を?」
 問いには答えた。その理由を聞くくらいの権利はあるはずだ。
 あれから二ヶ月弱、遠坂の口からその言葉が出ることはあまりなかったし。
 ……何より。世間話には重過ぎる。
「………ごめんね。こんなこと聞いて。でも、変な話を耳にしたのよ。」
「変な話?」
「そ。協会のさる懇意筋とだけ言っておくわ。その人が、昨日私に聞いてきたのよ。何か、具体的に残っているモノはないか、って。」
 遠坂が難しい顔をしている。それも当然だろう。あの戦争についてはもう、後片付けまで全て終わったようなものだ。今更になって出る話題としては、唐突過ぎる。
「聞いてくるって事は、興味があるってこと、か……?」
 如何に土地の管理者とはいえ、協会が極東の一魔術師に意見を求めるってことは、そういうことになるんじゃないだろうか。
「でしょうけど。でも、今しがた士郎が言った通り。聖杯戦争が遺した物なんか無い。それが答えのはずなのよ。私が報告した中に、協会が興味をもつようなものは無かったはずだし。
 ま、あっちが信じたかどうかは別って話でもあるんだけど。でも、何か引っかかるのよね……。」
「遺物……な。」
 いつか聞いた話を思い出した。協会にはそういった秘蹟の類や、優れた魔術関連の物、人を回収するための魔術師も居る、と。
「確か、そういうのを回収するのって……」
「そ。戦闘に特化した魔術師のお仕事ね。今回の戦争にもそれっぽいのが一人参加してたわ。」
「ランサーの元マスターだったか?協会で“戦闘に特化した”なんて言われてるなら、凄かったんだろうな。」
「実際に見たことは無いけどね。まともにやり合ったら私でも歯が立たなかったでしょう。まして士郎なんか、逆立ちしたって真二つになるのがオチよ。」
 さらりと、とんでもないことを言ってのける遠坂。その顔が冗談を言う顔ではないから尚更痛い。
「ここで議論するのも不毛ね。なんか嫌な感じもするし、この件に関しては私が調べてみるわ。何かわかったら連絡するから、その時は協力して。」
 で、こき下ろしたかと思えばこんなことも言う。俺は遠坂にどう思われているのか。一度、機を見て糺さねばなるまい。
「了解。変なことに首突っ込むなよ。」
「もちろん。私は誰かさんと違って自分が大事ですからね。
 それじゃ衛宮君、私はちょっと綾子に用事があるから。また今度お会いしましょう。」
 気がつけば学校の前だった。遠坂が優等生モードに入っている。
 今更と言えば今更だが、その豹変っぷりには一種の清々しさすら覚える。満面の笑みと優雅な立ち振る舞いは流石というべきか。かつては憧れた姿に、一瞬だけ見惚れてしまった。
 ……あくまで、一瞬だけ。
「ああ。じゃあ、また。」
 そう言って、教室に向かおうとしたのだが。何か周囲の視線が痛い。穂群原男子連中の殺意だとか呪詛だとかが、空気に満ちている。……や、前に一回浴びたからそういう類には敏感なのだ。
 知らぬが仏とはこのことか。アイドルとは所詮偶像。……で、それを知ってて演じてるヤツほど性質が悪い、と。
 これは、つい二ヶ月前に知った教訓。


「おはよう衛宮。今日も元気そうで何より」
 教室に入り、席に着くと、いつもどおり一成が挨拶をしてきた。
「おはよう一成。新学期の雑務は片付いてるのか?」
「大体は、な。取るに足りない案件に妙に抵抗があったりと、どことなくあの女怪の影を感じぬでもないが。」
「また遠坂か。まあ、張り合ってこない遠坂なんか遠坂じゃないしな。一成だってやりがいがあるだろ?」
「はは。至極御尤もだが、冗談ではないな。」
 笑って彼は席に着いた。
 朝の光景は、以前の日常そのもの。
 こんな姿を守ったことには、胸を張っていいのかもしれない。
 何気ない普通の会話、いつも通りの学校生活。こんな平穏こそ、何にも代えがたい幸せな時と、気付いた今ならそう思える。

 だからこそ。そんな幸せを、彼女に。そう、願ったのだ。



 学校での時間は何事も無く過ぎていく。
 午前中の授業を受け、昼は一成と生徒会室で昼食。午後も何の変哲も無い授業。
 その中で、遠坂との会話が引っかかっていた。
「何も無きゃいいけど……な。」
 聖杯戦争、その響きが頭から離れず。
 春の穏やかな光景に、何故か浸ることができなかった。




 学校が終わってからヴェルデに寄ってみた。
 朝方遠坂から催促されたし、遠坂にプレゼントをするなら桜にもイリヤにもしなくてはならないのだ。この辺は男の意地であったりなかったり。
 しかし女の子とは多彩な趣味をしているもの。どれが定番、ということもない気がする。
 遠坂は例外だが。
「宝石が一番喜ばれそうなんだけど。そんなお金も――と。無いわけでは、ないのか。」
 幸いといっていいのか或いは不幸なのか。先日丁度まとまったバイト代が入ったばかり。無茶な日雇いだった分、額は高く多少の無理は利く。……少し台所に影響が出るかもしれないが、それはそれ。
 どうせ買うのだ。それなりのモノを用意して、感謝させてやろうか。そんな邪神も頭を擡げてきた。
 と、いうわけで。
「仕方ない。弟子は誠意を示すもの、だな。」
 遠坂には安売りの宝石でも買ってやろう。イリヤと桜には同じくらいの小物でも買っていくことにして。
 なんていうか。柄じゃないな、とは思うのだが。


 買い物を終えて、夕暮れの新都を歩く。
 朝のユメが、頭の中で鮮明に蘇る。
 こんな情景の中、ユメでは、隣に彼女が居た。とても、とても幸せそうで。暖かい表情をしていた。
 シロウ、そう呼んでくれる声。この上なく美しい姿。忘れるべくも無い。
 しかし。
 ユメの中の彼女は。自分の幸せを、笑顔で喜んでくれていた彼女の姿は。衛宮士郎が紡ぎだした、都合の良い世界にしか存在しないもの。残酷な虚構、そう言ってしまえば、それまでである。
 それは、結局――――――

「あれ?」
 ふと、違和感を覚えて、歩みを止めた。
「今のは……」
 何か、普通とは違う空気。丁度二ヶ月前。幾度と無く味わった、その欠片のような。
 辺りを見回すが、あるのは雑踏のみ。ありふれた新都の日常風景。
 そこに、違和感の元になりそうな因子は存在しなさそうだ。気のせい、と思いたいのだが……。
 魔力の残滓。これは、その感覚に近い。
「何で、こんなところに?」
 朝の話が頭を過ぎる。一応、遠坂に電話を入れておくのもいいだろう。どうせもう晩飯の支度だし、どっちにしてもそろそろ帰らなきゃいけないのだ。

 そう決めて、ふと。
 今が、何かに似ている気がした。
 雑踏の中立ち尽くし、空を見上げる。
 なんと見事な、焼けの天か。
「ああ、そうか――――」
 そんなことは、夢の中でも思っていたこと。
 意味もなく、微笑む。
 それが、キレイな思い出であり続けることは、俺にとって何より重要なことなのだ。
「――――――」
 もう一度、夕焼けを、目におさめた。何時の日か。彼女と見た、美しい景色を。
 また、あいつと一緒に見たいなんて。そう思った日もあった。
 そんなコトを、思い出して。



「で、確かなのね?その違和感って」
 晩飯も終わり、只今電話口の相手は遠坂。お互い未だにアナログを地で行く携帯未保持者である。故に、連絡はメールなどと洒落た真似はできない。
「確かだ。はっきり感じたからな。あれは魔力だと思う。」
 むー、と呟いたまま、遠坂は黙り込んでしまった。どうも遠坂は考え事を始めると相手が見えなくなる傾向にある。
 ………………思考すること、およそ二分。長い沈黙に耐えかね、遠坂の思考に割り込んだ。
「もしもし?何を考え込んでるんだ?」
「あ、ごめんね。一応色々と考えてみたのよ。
 士郎も知ってのとおり、冬木の魔術師は間桐、遠坂、衛宮に、今はアインツベルン、それだけのはずよ。だから、外来の魔術師でも来ない限りそんなことはないはずなんだけど。
 知り合いに会ったわけでもないのよね?」
「そうだな。でも、外の魔術師、か。」
「貴方の御父上みたいに、協会からはぐれた魔術師がふらっとやってきて、とか。それもそれで問題はあるんだけど……。」
 ……だけど。おそらく、共通して頭にあるのは、あのことだろう。
「もしかして、朝の話に関係あるのか?その調査に来てるとか」
「かもしれない。でも、そうだとして、そんな仕事を専門とする魔術師がそんな跡を残すかしら。」
 確かにおかしい。任務が任務だし、コトはなるべく公にしないようにするだろう。
「じゃ、なんでさ。」
「それが解れば苦労はないでしょ?」
 御尤も。別にそれに関係しようがしまいが、こちらに関わり無い話のような気もするけど。
「それとも俺達が考えすぎなのか」
「うーん……。そうと決め付けるのも早計かな。
 しょうがないか。ダメ元で一回あっちに聞いてみるわ。碌でもないことが起きてからでは遅いしね。」
 ダメ元、というか。ダメに決まってる気もする。まあ、それ以外手があるの、と聞かれたらどうしようもない。
「そうか。ま、頑張ってくれ。」
「ほどほどに、ね。それじゃ、お休みなさい士郎。また明日」
 そう言うと、電話は切れた。
「……む……。…………ま、なんだな、アレだ」
 語らぬ受話器を眺めながら、思わず一人ごちた。
 結局、俺に今できることなんて、何も無いことを祈るだけってこと。
 ――――全く。相も変わらず無力なものだ。



「はー……。」
 大きくため息をついて、寝床に入った。
 それも道理。なにか、やけに疲れた一日だったし。
 心には様々な感情が残っている。
 朝は哀愁を。夜は憂慮を。
 明日また、日常をいつもどおり過ごせるのだろうか。
 いつか感じた不安と、似た感覚を抱いたまま。
 また、眠りへと落ちていった。



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