「――お、おお!」

 むくり、と、彼が目を覚ましたのは、正午少し手前のことだった。海の家が用意した日陰と大きな氷と扇風機のコラボレーション、そこに疲労というスパイスが加わり、極めて心地良い朝寝になった――と、起きた彼は大きく頷いた。

 体力は、かなり回復している。さて、もうひと遊び――

「……っと」

 そう思ったが、傍らを見れば、

「――すぅ、……」

 と、逢が穏やかな寝息を立てて眠っている。逢も、少し疲れが出ているのだろう。三泊四日の旅、これからのことを考えれば、ここでの求刑は大いに後々の役に立つに違いない。

「……可愛いなぁ……」

 その寝顔に相好を崩すことしばし。時折、逢より先に起きて、こうして寝顔を堪能するのは彼の何よりの楽しみであったりもする。
 そして、いつものことではあるが、その寝顔は「起こす」ことを躊躇わせる。

「ふむ」

 さて、どうしたものか。これから遊ぶ体力は完全に戻っているが、未だ夢の世界にある逢を引っ張り戻すのは彼としては避けたいところだ。
 このまま海の家でもうしばらくのんびりしていてもいい。そのための道具や本も少し持って来てある。それも、選択肢の一つだ――が。

「よし」

 彼はそう呟くと、逢を起こさないようにゆっくりと立ち上がり、ゴーグルとシュノーケルを手に取った。少しばかりの功名心が、彼を動かしたのである。すなわち、「ちょっと先に海に出て、さっき行っていなかったところを探索しつつ綺麗なシュノーケリングスポットを探し、逢に披露しよう」という魂胆だ。

「また後で、逢」

 小さな声でそう言うと、彼は海の家を出て、再び白砂を踏みしめつつ、海に入った。先刻は浜の真ん中あたりで遊んでいたが、今回の目標は西側、である。珊瑚の群生があり、色々と海の生物を見られる、と、そんな情報を仕入れていたのだ。

(ふおお……)

 ちょうど身長より少し深いくらいの海に到ったあたりに、その珊瑚礁は広がりを見せていた。何故こんな色をしているのだろう、と疑問に思う程の鮮やかな色彩をした魚達が、ところ狭しと泳ぎ回っている。竜宮城――というのは、こういうところから着想を得たのではないか、などと、彼はそんなことまで考えてしまった。

(これは、是非逢におススメしないと――!)

 善は急げ、と、彼は海中で身体を旋回させ、岸を目指さんとする。潮の満ち引きから考えても、今から先一時間程度がここで泳ぐベストタイムと言える以上、あまり時間を無駄にしては居られない。


 ――が、しかし。その動作が、彼にとって痛恨の一撃となってしまった。


「――な、に」

 彼は、ヤバイ、と、「ソレ」が彼を襲う直前、直感で理解した。いつもと違う筋肉の使い方をしたからか、――何より、準備運動を完全に忘れていたから、か。自分は、その代償を支払うことになるだろう、と、悟ってしまった。


(!!!!!!!)


 激痛が、脚に、ふくらはぎに走る。攣った、のである。
 水中で足を攣ることがどういう帰結を招くか、知らない彼では無い、というか、現在進行形でその事態に陥った今、それがどれほど恐ろしいことなのか、身を以て体感してしまっている。

 とにかく、泳げない。足の一本が激痛により動かせないため、水中で身体を制御することが不可能になるのである。呼吸のために海面から顔を出すための動きが不可能になる、というのは、致命的とさえ言っていい。

(ヤバイ……コレは――!)

 流石に、彼も焦りを隠せなかった。準備運動をしなかった己の愚かさを、今更呪う。
 脳裏に、逢の顔が過って行く。あるいは、これが走馬灯、というものだろうか。とすれば、己はもう、長くは――

「!」

 と、そんな諦観を抱きつつあった彼の身体が、その時、強い力で引っ張られた。

「……!!!」

 直後、しっかりと身体を抱かれ、岸の方向へと身体が動き出したのが分かる。その感触は、彼のよく知っている人物のものに、まず間違いない。

(逢……)

 自分の身体を抱いてくれているのは、海の家で寝ていた筈の、彼女だった。さながら、人魚のようなスムーズさで、逢は浜まで一気に彼を運んで行ったのだった。







「ですから、起こして連れて行ってくれればよかったんです。私が起きて後をつけてなかったら、どうなっていたか……」
「……はい」
「少し深いところに行くなら、余計二人一緒じゃなきゃダメです。先輩も泳げるのは知っていますけど、それとこれとは話が違いますから」
「……ごめんなさい」
「準備運動しないで泳ぎ始める、って、一番やっちゃいけないことです。特に疲れている時は足も攣りやすいんですから、今日は念入りにストレッチしてからでないと。朝はちゃんとやったのに……」
「……面目ない」

 そして、数分後。そこには、砂浜に正座する先輩と、彼を厳しく説諭する少女の姿があった。

「もう、心配させないでください。今日は、本当に危なかったんですから……」

 怒りながら、逢の目にはうっすらと涙さえ浮かんでいる。彼を助け、安堵した反動でもあるだろうか。その様子を見て、彼はますます後悔の度合いを深める。今回ばかりは、自分が浅はかだったと言わざるを得ない。

「反省してます……」
「分かってくれればいいんです。さ、一回海の家に戻りましょう。しっかりマッサージしておかないと、また再発しちゃいますから」

 彼の衷心からの反省が伝わったのか、逢は苦笑しつつ、正座していた彼の手を取って立ち上がらせた。

「っと」
「だ、大丈夫ですか? 先輩」
「あー、どうだろう。あまり大丈夫じゃない、かな」

 足を攣った時にジタバタしたのが影響しているのか、先刻の睡眠で回復した体力は完全に失われていた。同時に、まだ痛みが残る足では砂浜を歩きづらく、彼はややバランスを崩して逢に支えてもらう羽目になった。

「踏んだり蹴ったり、ってヤツか……あ、でも」

 逢に肩を貸してもらいながら、しかし、彼は転んでもタダでは起きなかった。頭の中に、ある「ひらめき」が生まれたのである。

(そうか……そうか、そうか。これは、いい機会だ。またとないチャンス、と言っていいじゃないか……)

 海の家へと歩みを進めつつ、彼は自らの思い付きに内心快哉を叫ぶ。
 今まで、逢に一度もしてもらってないことを、してもらう機会を掴んだのではないだろうか――と。

「ビキニの逢に、膝枕をしてもらう……これは、勝てる……!」
「っ、な、何言ってるんですか、この期に及んで、先輩っ!」
「え、あ、ご、ごめん!」

 その内心が駄々漏れになってしまっていたのに気付いたのは、逢からの烈しいツッコミがあってから、だった。顔を真っ赤にする逢に詫びを入れつつ、しかし、彼は固く決意していたのである。


 海の家に戻ったら、頼みこんでみよう――と。




 日は未だ高く、休息と治療の後には、また楽しい浜辺の遊びが待っているだろう。
 それからも、ま旅行の時間はたっぷりと残っている。なんやかんやと言い合いつつも、全てが大切な思い出になるはずだ――。



 





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