(あ、……もう四時、か)


 かち、と、分針が動き、「12」を指す。時針は「4」の位置。即ち、午後四時。私がこの部屋に来てから、いつの間にか三時間半が経過したことになる。時計は、先輩が二年生の時、私がプレゼントしたもの。室内気温は二十五度、湿度は四十五%――中々、快適といえる条件だ。

 最後に休憩を取ったのは、確か二時前。そこからずっと、先輩は一心不乱に机に向かっている。ひたすら問題に向かい続けるその姿に、普段の優しい、ふんわりとした感じは、全くない。真摯に、ひたむきに、先輩は目標に向けて、取り組んでいる。

 センター試験まで、ちょうどあと一週間。年明けから先――いや、去年の年の瀬から、先輩の受験勉強に対する打ち込みようは、より深いものになっている。もともと、三年生になってからは真剣に取り組んでいたけど、ステージが更にひとつ上がった、という感じ。

かといって、先輩は、私との時間をないがしろにしたりはしなかった。少しは、私も覚悟していたんだけど。特に、年末からは、一緒に居られることが相当少なくなったり、とか……色々と。

 もちろん、その想像は、少しは当たっていた。三年生には予備校の講義もあるし、学校の講習もある。私も私で水泳部の練習が忙しくなってしまって、冬場に入ってからは、一緒に遊びに出る、ということ自体が難しくなってしまっていた。

それでも、一緒に居られる時間は最大限に取ろう、と、先輩がそう心がけてくれているのが、伝わってくる。先輩が部屋で勉強をする時、傍に居てくれると嬉しい、と言ってくれたのは、とにかく嬉しかった。先輩曰く、「逢が居てくれた方が集中出来る」とか、なんとか。それが、本当かどうかは分からないけど、実際、近くで見ている先輩の集中力は中々のものだと思う。私も、邪魔にならないようにしながら、飲み物を用意したり、部屋の気温や湿度を調整してみたり、と、ちょっとしたサポートをさせてもらっている。

そして。

「……限界」

 こうして、先輩の集中が限界を迎えた時、ゆっくりと休んでもらえるようにするのも、私の役目かな、と思っている。
 先輩は椅子から立ち上がると、ふらっとした足取りでこちらに向かい、ベッドに腰掛けている私の横に倒れ込んだ。

「お疲れ様です、先輩」
「うん……十五分、だけ、休むよ……」
「ふふ。じゃ、十五分後に起こしますね」
「いや、寝たら……ダメかな。なんか、今寝たら、取り返しのつかないことになりそうな気がする」
「なるほど。じゃ、何か飲み物でも持って来ましょうか?」
「んー……や、一人で残ってたら寝そうだし、僕が行くよ。ちょっと冷たい空気にも当たりたいからね」
 そう言うと、先輩は身体を起こし、部屋を後にした。足取りが覚束ないのが不安だけど、それだけ努力した証と言える。その後ろ姿を見送ると、私はベッドから立ち上がった。
 先輩の机には、センター試験の数学問題集と、ノートが広げられている。消しゴムのかすがそこかしこに散らばり、シャーペンがノートの上に放り出されていた。「勉強」している、ということを、強く感じさせる光景だ。
「……あ、そっか。来年は、私も」
 こんな風に勉強しなきゃいけない、のか。そう思うと、気持ちが重くなる。私は、先輩みたいに、努力することが出来るだろうか。

(それに)

 その時、先輩は、傍に居てくれるか、どうか。
 そもそも、大学生になった先輩と私の関係は――いったい、どうなっていくんだろう。

「っ」

 いけない。どうも、思考が変な方向に向かっちゃってる。そんなことより、今は、先輩のことを全力で応援する、それだけだ。

「うー」

 私が再びベッドに腰掛けるのとほとんど同時に、先輩が部屋に戻ってきた。手には、赤い牛マークのエネルギー飲料。ふらつく足取りでベッドに近づくと、私の横に腰を下ろした。

「堪える、ぜ……ふっ」

 とあるボクシング漫画の最終回みたいな姿勢で、先輩はそう呟いた。いや、何もここで格好つけなくても、と、私は思わず笑ってしまう。ユーモアを忘れていない、というのはいいことだ。心に余裕がないと、良い結果は出ないものだから。

「まだ燃え尽きるには早いですよ、先輩。それにしても、数学は大変そう……あ、でも、数学は得意分野ですよね」
「そうなんだけどね。むしろ、センターの数学はマークシートだからこそ難しい、ってところもあるんだ」
「はあ。そういうもの、ですか」
「解き方をドン、と与えられちゃうと、逆に思考が広がらなくなるんだ。自分で思いついた内容なら自由に書きすすめられるんだけど、予め用意されてると入りにくい、というのがあるんだよね」
「なるほど」


 先輩は解説しつつ、赤牛飲料のタブを起こした。独特の香りが、鼻をつく。ごく、ごく、と、先輩は缶を傾けながら咽喉を鳴らし、

「効くー……ッ……!」

 ――と、心地よさそうな声で、小さく叫んだ。

「疲れてる時は、キンキンに冷えたこれに限るなあ……」

 そして、そう言うと、身体を私の方に倒してくる。これも、最近の、「いつものこと」だ。

「何より、逢が居てくれるし。もう、完璧だよ……」
「ふふ」


 私は、少し大きい甘えん坊の肩を抱き寄せて、頭をそっと撫でてあげた。少し胸に「当たる」格好になるけど、気にするような仲じゃない。

「ああ……幸せだなあ……」

 私もです、と、私は、先輩の耳元で小さく囁いた。先輩と一緒に過ごせる時間は、いつだって、私にとっての宝物。こうして、受験前の時間をいっしょに過ごしたことも、いつか、かけがえのない想い出になっていくだろう。

「ありがとう、逢。うん。勉強もいい感じだし、ここまでは順調に来てる。去年は受験なんて乗り越えられる自信全く無かったのにね。逢のおかげだよ、ホント」
「いえ、私なんか……それは先輩が頑張っているから、ですよ」

 そう。しっかり机に向かって、黙々と経験値を積んでいく。「受験」という壁を越えるには、その繰り返しをこなしていくしかない。それも、明確なゴールの見えない戦い。模擬試験や予想問題、といった目安はあるけど、テストをクリアできる実力がついたかどうか、はっきりしたことは誰にも分からないし、本番で予想外のミスをしてしまうかもしれない。そんな色々な重圧の中でも、勉強して手応えを得ているのは、やっぱり先輩自身が頑張っているからに違いない。



 ただ、それでも。
 そう言って貰えるのが、嬉しくないわけもなくて。



 ああ、ダメだ。
 多分、私、今。きっと、表情にそれが出ちゃってる。
 照れ隠しに、私は、先輩を思いっきり抱き寄せた。




「あ、逢?」
「先輩! 私、応援してますから、ね!」
「あ、ああ……ありがとう」


 本当に、本当に、愛しい人。先輩の成功を、私は祈らずにはいられない。先輩のために、受験勉強を笑顔で終えられるために、もっとしっかりサポートして行こう、と。私は、先輩の温もりを感じながら、改めて心に誓っていた。


 つづく





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