いよいよ、だ。
 見ていてくれよ、逢――と。僕は、心の中でそう呟いた。


 受験シーズンの始まりを告げる、センター試験初日。今日は、とても、とても大事な一日になるだろう。受験シーズン、良いスタートを切るためにも、絶対に成功させなきゃいけないテスト、と言っていいかもしれない。

 そのための備えは、万全にしてきたと自負している。逢という最高の彼女を得た僕は、公私ともに充実した高校三年生を過ごしてきた。ここで言う「公」とは、「学業」のことだ。二年終盤まではお世辞にも力を入れている、とは言い難い状況だったが、逢と付き合い始めてからは、「私」のほうだけじゃなくて、こっちのほうも充実してきた、という実感が、確かにある。逢と一緒に勉強したり、彼女に勉強を教えたり、また、支えてもらったり、といった中で、僕の高三受験勉強ライフは、自分の学習史上最高のクオリティを得た、と断言して間違いないだろう。

 センターのプレテストも、それなりの光を僕に提示してくれている。国公立、私学を含め、双方の第一志望安全圏の得点を安定して叩き出せる、というレベルにこそ到達することは出来なかったが、手応えがなかったわけじゃない。そして、そこから二ヶ月、更なる研鑽を積んだ僕に、死角などあるはずがない――!

「消しゴムよし、鉛筆よし……」

 机に置いた腕時計に目を移せば、時刻はテスト説明開始予定時間の、ちょうど5分前を示していた。一時間目の英語に備えて目を通していた単語帳を脇に置き、テスト用品の最終チェックを行い始める。マークシート用に少し先を丸めた鉛筆を5本、下書きその他用にしっかり尖らせたものを2本、合わせて「7」本……もちろん、その数字には意味がある。新品のシード消しゴムも準備済みだ。

「完璧だ……」

 僕が筆記具の確認を終えたのとほぼ同時に、教室のざわめきの質が変わった。視線を前に移せば、ちょうど試験官が部屋に入ってきたところだった。


 マイクのノイズが聞こえ、「説明を開始するので、筆記用具以外のものを鞄に仕舞うように」とのアナウンスが入る。僕は単語帳を鞄の中に入れつつ、高鳴る鼓動を収めようと、深呼吸を試みた。

(どれだけシミュレーションしてても、緊張するもんだな……)

 会場を支配しているのは、模擬試験とは全く違う空気。一発勝負の緊張感が、身体を駆け巡っていく。想像はしていたが、それを遥かに超える感覚だ。センター試験の説明が試験官によって行われている――にも関わらず、その内容が全く頭に入って来ない。試験官が教壇を使って問題用紙の配布準備を進めている、そちらに目が行ってしまって、気が逸るのを抑えられない。

(落ち着け……)

 説明が終わり、試験問題が配布され始める。自分の手元にも解答用紙と問題冊子が回ってきた。この中に、今年のセンター試験、英語の問題がある――当たり前の事実だが、そのことを考えると、この冊子が凄まじいばかりの威圧感を放っているように感じられる。

(色々、解いて来たはずだ……問題集も、過去問も、予想問題も)

 内容的には、それらと変わることは無いはずのものだ。落ち着いて取り組めば、決してこれまでと差がある結果など出るわけがない。そう、落ち着くこと、それが何より大事だ。いつも通りの心構えで、いつも通りの、いつも――




「――?」




 その時、ふと、僕は面を上げた。
 しん、と、教室が静まり返っている。
 腕時計を見ると、試験の開始まであと数分残っている。とすれば、試験官の説明が終わった、ということだろう。


 ……まずい。
そんなことにも気付かない、というのは、尋常じゃない。


「……――」

 不気味なほどの静寂。周りには人が、それも見知った学友連中も居るというのに、その存在を知覚出来ないほどの孤独を感じる。

 ……そうか、これが。
 これが、本番、か。


 つまり――


(一人、で)


 僕は――これからの一月強。
 一人で、独力で、テストに挑み続けなければ、ならないのか。

 誰も、助けてはくれない。誰も、傍に居てくれることもない。

 それは、すなわち。
 自分ひとりでなんとか出来なければ、即、おしまいということだ。

「――始め!」
「!」

 びく、と、その声で、僕は我に帰った。時計の針が、最後に見た時から数分進み、試験開始の時刻を指している。変な思考に囚われている間に、時間が進んでしまっていたらしい。

 しかし、事ここに到っては思い悩んでもいても仕方ない――僕はそう思い直し、鉛筆を握り締めた。

「行くぞ……!」

 少し、その感覚で落ち着きを取り戻せた――と、思った。問題冊子の一ページ目をめくり、英語の試験問題を読み始める。まずは、全体の俯瞰だ。

(例年と変わりないな。発音から始まって、穴埋め、並び替え……最後が長文、と)

 ざっと確認を終え、まずは発音問題を片付ける。よく聞かれる点中心の出題だ。これは、幸先がいい。

(次――)

 そして、穴埋め問題。これも問題はない。単語の意味、あるいは会話の流れさえ分かっていれば、ある程度は解ける。一見して分からなければ、飛ばして次に進めばいい。

(……悪くない、悪くないぞ)

 ここまでは、順調だ。そして、次が、並び替え問題。ここも比較的得意な分野だけに、なるべく早く終わらせて、次以降の問題に余裕を――、……。


「あ、れ」


 持たせたい、と、思っている――の、だが。

「……?」

 おかしい。解けない。
 いや、何故、この並びで……いや、あれ? これは、……違う、この順番では、意味が――

(つ、次だ!)

 ……そういうことも、ある。たまたま、難題が並び替えの先頭に来ていただけのことだ。そういう問題に対しては、拘泥するより捨てにかかるべし。最後に適当なマークをすれば当たる可能性もあるし、確実な加点を積み上げることこそが、センター対策の最たるもので――


「……え、……」


 しかし。
 それは、あくまで。
 他で順調に得点出来れば、という、条件下でだけの話だ。


(や、ばいだろ、コレ……!)

 その前提が崩れれば、全てが狂い始める。

 その前提を崩さないようにするには、自分が問題を解かなくてはいけない。

 でも。
 もし。
 自分の力で、問題を解けなかったら……?
 その時は、誰が、助けてくれるんだろう。
 誰が。



 誰も……?



(――ッ)

 ダメだ、並び替えは、今年は難しい、らしい。ならば、長文からだ。長文から終わらせて、落ち着かせれば、なんとか見えるものも、あるかもしれない――長文を、読解、して、問題を、解けば――、

 解くことが、理解することが、出来れば。
 そこには、また、仮定が混じっている。
 前提が反転したら、どうなるのか。
 解けなければ。文意を理解することが、出来なければ。
 一人で、何とかすることが、出来なかったら。



 それは、つまり。

 それで、今年は終わりってことじゃ、ないのか?



 空回りする思考。
 真っ白になる頭。


 ああ、そうか。
 コレが、そういうこと――、――なのか――

 つづく





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