「……冷える……」


 寒の戻り、というやつか。吹き抜けた一陣の風に、体が反応し、大きく震えた。天気は快晴、突き抜けるような蒼い空が広がる、輝日の朝。だが、空気の冷たさは、文字通り真冬のものである。昨日まで数日、春を思わせる日和が続いたからか。寒さが、より一層身に堪える――そんな気が、しないでもない。

 が、しかし、寒気に負けてはいられない。今日は逢と、とある約束で待ち合わせをしているのだ。そうでもなければ、こんな寒風吹きすさぶ中、わざわざジャージで出てきたりはしない。一応、内側にはタートルネックに保温性の高いシャツも着てはいるが、それでも尚、寒い……こんな日は、普通なら、ウチでのんびり鋭気を養っている。仮に外に出るとしても、暖房の効いた建物でのインドアな娯楽を追及しているだろう。


 そんなぬくもりを棄ててでも、僕は今日、ここに居なければならない。
 その理由。すなわち「約束」とは、逢と一緒にランニングをすること、なのだから。


「ふっふっふ……今日のためにこっそり鍛えた成果を見せないとな……」

 そう。非常に地味に、ではあるが、努力はしていたと自負している。逢と付き合うようになってから、一緒に泳ぎに行ったり、ボーリングに行ったり、共に体を動かす機会も多かったんだけど、やっぱり、現役体育会系部員との差を痛感することはとても多い。逢は、歩く速さこそゆっくりだけど、瞬発力や持続力に関しては僕なんか足元にも及ばない次元に到っている。「日々怠惰」と「日々鍛錬」との厳然たる差が、そこにある。

 しかし、その現状に甘んじているわけにはいかなかった。「一緒にランニング出来たら楽しいなあ」という話から発展した、今日のイベントのために。いや、それだけじゃなくて、これから、逢と一緒に楽しく過ごすために。あるいは、将来における自分の健康への投資として――それは、引いては逢と末長く幸せに暮らすために、でもあるのだが――いや、結局そこに戻るか。とにもかくにも、少しずつでも体を鍛えることは、僕の将来のために必須の課題であることに気付いたのが、二週間ほど前のことだった。それから先、ジョギングや筋トレを毎日重ねてきた僕に、死角は無いと言っていいだろう。

「ふっふっふ……、……あ」

 鍛え上げられた体力を存分に示し、感心する逢と並走しつつ、楽しく語り合う未来を想う。自然と笑みがこぼれるではないか――と、そんな風にニヤついていた僕の視界に、愛すべき彼女の姿が映ったのは、その時だった。

(もう走ってるのか)

 逢は、坂道を駆け足で上ってきていた。既にウォーミングアップは始まっている、ということだろう。意識の高さを垣間見る思いだ。僕も見習わないといけない。

「お待たせしました、先輩。おはようございます」
「おはよう、逢。今日はよろしくね」
「はい、こちらこそ。よろしくお願いします。準備運動、してありますか?」

 運動で血行が良くなっているのか、逢の頬には少し朱が差している。しかし、彼女の家からここまで、短い距離でもないはずなのに、息もほとんど上がっていなければ、汗もあまりかいてはいない。流石は、水泳部の次代を担うホープ。心肺機能が高いレベルにあるのだろう。

「もちろん。教えてもらった通り、きっちりやってきたよ」
「ふふっ。それならよかったです。あの……」

 胸を張って答える僕を見て、逢は少しばかり心配そうな視線を向けてきた。

「無理は、しないでくださいね。怪我をしてしまったら、元も子もありませんから」

 うん。こっちのことまで気にかけてくれる、それが逢の優しさだ。とはいえ、それは僕に信用が無い、という意味でもある。まあ、こっちは単なる帰宅部なわけだし、それも当然……いや、これは、逆にチャンスかもしれない。杞憂である、ということを証明すれば、逢にカッコいいところをアピールできるじゃないか。

「ありがとう。でも、大丈夫だよ。こう見えても少しは鍛えてるしね。僕の情熱的なランニングに驚くなよ?」
「くす。楽しみにしてます、先輩」

 む。いたずらっぽい表情は極めて可愛いけれど、それはあまり信用していない顔だ。やはり、走る姿勢で信頼を勝ち取らねばならないようだ。

「それでは」
「うん。行こうか!」
「はい!」

 澄み切った、冬の空の下。僕と逢は、元気いっぱいな逢の声を合図に、僕と彼女は走り始めた。突き刺すような冷たい空気も、きっと、走り続けるうちに心地よいものになるだろう。

 一歩先に出た逢の身体は、リズミカルに揺れ、僕を導いてくれている。
 なんと、清々しい絵であることか――そう、青春だ。かくなる光景を、青春と言わずしてなんとしよう。

 後は、存分に楽しむのみ。坂を駆け下りながら、僕は今日という日を心から喝采していた。







「……はっ、……はっ……」
「……はぁ、……はぁ……」


 ……と、そんな風に、僕が心から愉快であったのは、最初の十分ぐらいだった……ということを、今、告白しなくてはならない。学校の前を発ち、町を抜け、河原に出るころには、僕の最初の余裕は、雲散霧消していた。

 逢のランニングペースは、かなり早い。逢が走っている姿は何度も見ているからそれは理解していたし、そのペースに合わせられるように練習してもいたつもりだったけど、どうやら甘かったらしい。

 むう……無意識に、自分に合わせたペースにしてしまっていた、のだろうか。

(……けっこう、しんどくなってきたぞ……)

 なんにせよ、それが偽らざるところである。体力的にはまだ無理は効きそうだけど、足に来ている疲れが地味に厄介だし、喉も渇いてきた。鼓動もはやくなっている。「ランニングの最中だから楽しくおしゃべりは無理でも、目と目でコミュニケーションを取りながら、楽しく走るんだ」なんていう当初の妄想は今や、ゆめのまたゆめ、と言っていい。

「……先輩?」

 しかし、ここで脱落するわけにはいかない――僕がそう決意を新たにし、顔を上げた瞬間、逢の心配そうな声が耳に届いた。逢は少しペースを緩め、僕と並走するような形になっている。

「あの、大丈夫ですか? ちょっと、ペースが落ちているような気がして」

 声音と同じ、少し心配そうな表情の逢。……いやはや、カッコ悪い。彼女にこう心配させてしまった時点で、僕の負けだ。十数分前、僕が抱いていた天をも衝く意気は、どこへやら。今は、苦笑いしか浮かばない。

 しかしながら、だ。逢にそう聞かれたら、回答は決まっている。

「ははっ、このくらいなら大丈夫だよ」

 ――うん。もちろん、大丈夫じゃない、問題だ。
 が、時として、漢の意地は、心にもないことを申し述べる事態を、我々に強制するものなのだ。

「……そう、ですか?」
「ああ。ほら、集中しないと危ないぞ、逢」
「あ、はい」

 自分が出来得る最大の爽やかさを表情に浮かべ、僕は笑顔で逢にそう答えた。

 果たして、彼女は信じてくれただろうか。表情には自信があるが、呼吸の乱れや流れる汗は誤魔化しが効かないものである以上、繕う術を持たない。しかし、そう答えてしまった以上、それが嘘にならないよう、全力を尽くす義務は発生する――!





 ――とは、いえ――





(こ、公園まで、もつかな……)

 理論値と現実は常に乖離するものである。逢に伝えた虚勢と、現実の体力の関係もまた、同じ。ランニングの中継地として予定している公園までこのペースがもつか、と聞かれれば、……非常に微妙な心境にならざるを得ない。ウルトラセブンに例えれば、額のビームランプが点滅している状態、というのが、今の偽らざる僕だ。

(――いや。疑問形じゃ、駄目だ。もたせるんだ――!)

 そう、逢に無様な姿を見せるわけにはいかない。そうだ、そうだよ。ウルトラセブンだって、瀕死の身体を引きずって改造パンドンに勝ったじゃないか――僕は、あそこから何を学んだんだ!

(やってやる、やってやるぞおおおおおお!!!!!)
「うおおおおおおおお!!!!!」
「せ、先輩!?」


 心中の気合は、咆哮となって冬空へと拡散していった。「覚悟」が奏功したか、さっきまでより辛くもなければ、足の痛みも無いように感じる。

「ランナーズ=ハイ」。今の僕は、当に、その境地に到っているのではないだろうか。そんな気がしてきた。僕は逢の驚きを余所に、彼女を抜き去り、更にスピードを増して河原のランニング・ロードを駆け抜けていった。










 ――そして、数分後。
 僕は「気のせい」という言葉の意味をよくよく噛みしめることになった。










「……はぁ、……はぁ、……はぁ……」
「せ、先輩? 大丈夫、ですか?」
「……はぁ、……はぁ、……うっ、だ、大丈……」
「……大丈夫じゃ、ないみたいですね」


 結論だけ言ってしまうならば、僕は公園まで、ペースを落とさずに走りきることに成功した。
 それは、それでいい。面目は保った、と、言えなくは無い。けど。僕は「その後」までは、考えていなかったと言うしかない。

 公園に着いた瞬間、僕はクールダウンもままならず、膝に手をついて動けなくなった。ただ呼吸をするだけで精いっぱい。心臓はバクバクと全身に血液を送り、脳は半分酸欠状態で疲労困憊。今は、一歩歩くだけのことがとんでもなく重いタスクに感じられるほどだ。

 無茶の代償、である。全く以て、カッコ悪いにもほどがある。
 でも、せめて、逢には、平気な顔を見せておかないと。

「はは、そんなこと……」

 勢いよく顔を上げ、笑顔で逢に向き直った。
 その――つもり、だった。
 けど、次の瞬間、僕は天地上下が定かでない感覚に襲われる。

(た、立ちくらみ、……が……)

 急に頭を上げたのが悪かった、らしい。平衡感覚を失い、血の気が引き、体のバランスが崩壊するのを感じる。
 これは、……まずいか……と、思うまでも無く、まずい。



 倒、れる……



「先輩」
「!」


 前後不覚、天地が逆さになったような感覚に次いで、全身から力が抜ける。そして、きっと僕は、両足で立つこともままらなくなる。
 そう、僕は覚悟した。

「とにかく、一端休みましょう」

 ――けど、僕が実際に倒れることは、無かった。多分、こうなることを予測していたんだろう。
 触れ合う箇所から伝わる、柔らかい感触。

 僕の体は、逢に支えられていたのだ。

「よいしょ、……これで、歩けますか?」
「……うん、何とか……」
「それじゃあ、ベンチで少し横になりましょう」

 肩を貸す格好を作り、逢は、微笑みながらそう言ってくれた。もしかしたら、水泳部の練習でも似たような場面に遭遇していたのかもしれない。僕は逢の助けを借りて、なんとかベンチにたどり着くと、タオルを枕にして横になった。

「ありがとう、逢……」
「ふふっ。お礼はいいですよ。当然のことです。少し、呼吸を落ちつけておいてください。私、何か飲み物買ってきます」

 逢はそう言うと、自販機のある方へと駆け去っていった。
 しばらくその背中を見送っていた僕は、ひとつ大きく深呼吸をして、視線を空へと向けた。

「……はぁ……、……ふぅ……」

 嗚呼、澄んだ空。「どこまでその蒼さを誇るというのか――!」って、誰の台詞だったかな。
 それにしても、全く以て情けない。一緒にランニングしよう、と誘って、張り切ってトレーニングしたのに、結果がこれってのはちょっと酷い。公園まではペースを落とさずに来られたけど、今の状況を見れば、逢に迷惑をかけたのは明白だ。

「ほんっと、何やってるんだ、僕は……」

 逢と走りたい、その志は間違っていなかった筈だ。しかし、自分の実力を過信したのは自分の非である。この体験は次に活かすべき糧となるだろうし、それはそれでいい。
 ただ、たった今、この瞬間、逢に負担をかけてしまっている悔しさは、消えようもない。

「……はぁ……」
「先輩、お待たせしました」

 と、僕が嘆きに浸っている間に、いつの間にか逢が帰ってきていた。逢は僕の視界に顔を出すと、ペットボトルを差し出し、僕の頬につけた。冷たい感触が、運動で火照った顔に、心地良い。

「これ、私からのおごりです」
「い、いや、後で払うよ」
「ふふ。いいんです」

 逢の笑顔は、いつも、僕を救ってくれる気がする。
 ……少し、気が楽になった。僕は苦笑しながら起き上り、逢の差し出したペットボトルを受け取った。

「ありがとう、逢」
「はい」

 逢が、僕の隣に腰を下ろす。
 ペットボトルのふたを開け、口をつける。水分がのどを駆け下りていく、この感触……たまらない。

「はあ……生き返る……」
「運動した後は美味しいですよね。それにしても、先輩、凄い汗」
「そう、か……な……」

 それで、気が緩んだからか――また僕は軽いめまいを覚えて、頭を手で抑える羽目になった。まだ、体力は戻ってきていないのだ。

「先輩?」
「だ、大丈夫……」
「には、見えませんね。ほら、無理しないでください」
「え、逢……」

 くい、と、逢は僕の体を引っ張った。こちらが抵抗出来ないような、絶妙な優しさだ。僕は、逢の為すままに、体を倒して――



 ――って、……この、頭の後ろにある、張りがあって……でも、やわらかい、……感触は……!



(ひ、膝枕……!)

「やっぱり、横になってないとダメですよ。先輩が落ち着くまで、このままでいましょう」
「う、うん……」


 逢の優しさが身にしみる。そして、ジャージごし、とはいえ、直接感じる逢のやわらかさも。逢の太ももが、今まさに、僕の後頭部を支えてくれているのだ。
 走ったばかりなのに、柔らかい。質のいい筋肉とは、普段は驚くほど柔らかい、そんな話をどこかで見た記憶がある。あれほど鍛えている逢なのに、太ももは、こんなにも、……いや、知ってはいた、いたんだけど、こうやって、体力が消耗してギリギリの状態で味わう膝枕、なんとも素晴らしい……ちょっと、汗でジャージが湿っているのも、……

「……先輩」
「は、はい!」

 逢の素晴らしさについて脳内で詩を紡いでいた僕は、逢の言葉で我に返った。

「顔色、悪いですよ? やっぱり、今日はここまでにしておきましょうか。いつでも続きは出来ますし」

 む、やっぱり、顔色は悪いのか。逢の目から見てもそう、ってことは、やっぱり無理がたたっているのは間違いない。
 ただ、――やっぱり、僕もまだ十代半ば過ぎ、回復力旺盛な年代、ということか。もうしばらく休憩すれば、多分、問題なく動けるようになる、と感じている。

「んー、後もう少し、待ってくれるかな。それで、大丈夫だと思うんだけど」
「そう、ですか?」

 首をかしげる逢に、自分の観測を伝える。無理が祟ったのなら、無理をさせずに回復させればいいだけのこと。この後は銭湯まで行って、汗を流して、また二人でゆっくり遊ぶことになっている。何とかなりそうなのに、中断させるには、あまりにももったいない。

 それより、だ。逢にここまで心配させてしまったのが、とにかく、申し訳ない。

「うん。……ごめんね、逢」
「え……」
「いや、こっちから誘ったのに、さ。足を引っ張ったみたいになっちゃって」

 心底からの、お詫び。偽らざる本心を、僕は逢に伝えた。

 しかし――

「ああ、そんなことですか」
「え、そんなこと、って……」
「全然気にしなくていいですよ、先輩。むしろ、私は嬉しいんです」

 きょとん、とした顔から、逢の表情が微笑みに変わる。

「先輩と一緒に走れて嬉しい、ってことです。……それに」
「……」
「先輩が頑張って走り込んだりしているの、少し見ちゃいましたから」
「え、そ、そうだったの?」
「はい。本気でやってくれてるんだ、って、ちょっと感動しちゃいました」
「は、はは……」

 ……全く、知らなかった。秘密の特訓、のつもりだったんだけど、これは失策。
 まあでも、いいか。逢がこんなふうに笑ってくれるんだから、それは、それで。

「応援してますよ、先輩。今度は、私がトレーニングに付き合いますから♪」
「……ありがとう、逢」

 なんか、結局、一人で空回りしていたようだ。逢の言葉が、ひとつひとつ胸にしみて、心配し、落ち込んでいた自分がバカみたいに思えてくる。
 でも、良かった。逢が喜んでくれることこそ、僕の至上の喜びでもある。逢がそう言ってくれるんだから、今日という日は、それだけで価値があるものになった、と言えるだろう。



 そんな、とある晴れた、冬の朝。
 さて。もうしばらく、逢の膝枕を、のんびり堪能させてもらうことにしよう。





 久々の七咲さんSS更新です。3月21日のキトキス6で本にしようかな、と思っていたものをHP用にアレンジしてみました。また本にする際には加筆訂正&すてまるさんの挿絵や漫画を加えてグレードアップさせようかな、と思っています。

 アマガミ本編で逢さんがランニングをしているのを目撃するシーンがあるのですが、そこに着想を得た一本ですね。あのイベント絵はとてもお気に入りでして、一生懸命に、ひたむきに打ち込む、眩しい彼女の姿が凝縮されている、と感じています。その時はまだ告白以前なわけですが、それを恋人になった後にやるとどうなるかなあ、と考えて、SSにしてみましたw

 そして――膝枕は正義。理想にして希望。アヴァロン。

 この後、二人は銭湯に行って、湯上りにまたイチャイチャしながら帰路に就くわけですが……ふふふ、いやあ、青春っていいものですなあ……w

 余談ですが、作中に出てきたフレーズや豆知識の出典元は、それぞれ蒼天航路、高校球児ザワさんですw それぞれの作品を知っておられる方は、ニヤついて頂ければ幸いでございますw

 そうそう、こちらはアマガミとは直接関係ありませんが、頂き物ページにすてまる様から頂いた、2011年年賀絵を掲載いたしております。可愛らしい「ウサギ」さん達をご堪能あれ!

 それでは、お読み頂きましてありがとうございました!<(_ _)>

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