「にしても、直るまで二週間、か……」
「……」
本当、それは、僕にとっても予想外だった。この高度なサービス網が引かれた社会において、まさか「風呂の部品交換でシャワーが二週間も使えなくなる」なんて。こんな事態、夢にも思ったことは無かったと断言できる。
「災難だよな。……ま、でも、銭湯ってのは楽しみだよ。どんなとこなんだろ」
ぽりぽり、と、チョコレートコーティングが施されたプレッツェルをかじりつつ、楽しげに杏子さんがそう言ってくれる、それだけが救いだ。そして、近くに銭湯があってよかった。それも数軒。これで、定休日を気にせず、一日のラストに汗を流す施設を確保できることになる。これからしばらくは、毎日銭湯通いになるだろう。
と――
「……」
「話でしか聞いたことないし、な。家族でも、行ったことなかったから」
もう一本、箱からプレッツェルを取りだしながら、杏子さんが、そう呟いた。
その過去を、僕も知っている。気軽に口にするには、あまりにも惨い、彼女の見てきた光景。
それでも、――愁いも、嘆きも。彼女の表情からは一切窺えない。
……それが、彼女だ。
杏子さんのその在り方が、心に、鈍く、重く響く。
かけられる言葉など、見つからない。
言葉で何とかできることと、できないことが、この世には、厳然として存在する。
ただ。
だと、しても――
「だから、楽しみでもあるんだ。あんたと一緒に行けるんだし」
「……」
――杏子さんがそう想ってくれるなら――それは、少しでも、僕がここに居る意味がある、ってことじゃないだろうか。
「……」
「ん? 何しけたツラしてんのさ。ほら、そこだろ? はやく行こうぜ」
「……」
杏子さんが、僕の袖を引っ張って、そう促す。
苦笑しつつ、僕は彼女の求めに応じて、少し歩みを速めた。
銭湯の灯りは、街を静かに照らしている。のれんをくぐれば、そこはもう伝統文化の世界。「普段使い」と「特別な場所」、矛盾するその性質を内包する、それが銭湯という存在だ。
「……」
「あ、サンダルはここに入れるのか……」
杏子さんに下駄箱の使い方を教えて、自分の靴も納める。未だに木の鍵を使っている辺りが、なんとも極渋な趣だ。
そのくせ、入口の引き戸を開ければ、銭湯にしては少しばかり近代化したホールが待っている。「番台」も、名前こそ昔のままだが、実際はフロントに近い形。休憩所はかなり広く取ってあり、湯上りの客が何人かくつろいでいる。
「……」
「この番号のロッカーを使う……のか」
入湯料を払って受け取ったロッカーのカギを、杏子さんは珍しそうな視線で見つめている。バンドのついた鍵も、杏子さんにとっては新鮮なものだろう。
「それにしても、一緒に入れないってのは残念だよなー」
「……!」
唐突に、杏子さんはそんなことを言いだした。 ……いや、まあ、同感、では、あるけれど。
「あんたも?」
「……!」
いたずらっぽく笑っているところを見ると、どうやら分かっていて言っているらしい。この辺りが、杏子さんの意地悪なところである。
「……」
「あはは、冗談だよ。赤くなるなってー」
「……」
……やっぱり、か。
まあ、とはいえ、別にからかわれようが構わない。愉快そうに笑みを浮かべている彼女を見ること、彼女らしく居てくれることは、僕の幸せでもあるのだから。
「……」
「ん、分かってる。それじゃ、また後で」
滑らないように、と杏子さんに伝えると、彼女は頷き、手をひらひらと振りながら、女湯のほうに入って行った。
しかし――そうか。
うん。
「……」
湯上りの杏子さん、か。いや、そりゃいつも見てはいるけど、それはそれ。銭湯で目撃するその光景は、また、新鮮で感動的に違いない。
「……」
そんなわけで、僕の心は既に、入浴後に飛んでいる。
ちょうどいい。風呂は、心を空にして楽しむのもまた乙なもの。
そんな楽しみ方が出来るのも、全ては、杏子さんのおかげである。心から彼女に感謝しつつ、そして、風呂上がり、爽やかな石鹸の香りを漂わせる杏子さんを脳裏に浮かべつつ、僕は男湯ののれんをくぐった。
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