唐突だが――時を遡ること、およそ1900年。




「……むう……」


 かつて、欧州に覇を唱えた古代ローマ帝国――その最盛期・ハドリアヌス帝治世下の「世界の首府」ローマ。
 人口100万とも言われるこの都市で、一人の男が、公衆浴場に籠り、深い思考にふけっていた。

「確かに、小規模な浴場が息を吹き返した……それはいい。しかし、もう一歩先に進めることは出来ないだろうか……?」

 その男、「真のローマ人」、ルシウス・モデストゥスは、温浴室(カルダリウム)の天井を見上げながら、そう呟いた。彼自身が手がけた革新的大浴場の人気に押され、経営の危機に陥ったこのような小規模浴場を、ルシウスは自らの策で救って見せていた。その才覚、手腕は、既にローマの浴場好きに轟いている、と言っていい――しかし。彼は、その名声に腰を落ち着けるような男ではなかった。

「静かに、落ち着きつつ湯を楽しめるのがこの規模の浴場が持つ特質だが……それを損なわぬよう、更に民が楽しめる方法を見つければ……浴場の経営は更に盤石なものとなるだろう……」

 ルシウスは一人ごち、火照った体を冷ますため、浴槽から上がった。熱から解放された体に快気が満ち、更なる健康増進を感じさせる、この瞬間。そして、そうした気分を楽しめる浴場を、ローマ市民のために敷設してきた自負。ルシウスはそうした誇りを、熱く胸に抱く男であった。
 そして、そのローマ人の魂が、彼に「先」を見据えさせている。常に、風呂。いつも、風呂。頭を占めるのは、「よりよき浴場」。それが、ルシウス・モデストゥスである。

「……しかし、難しい。敷地の面積が広ければ、運動場や冷浴室(フリギダリウム)、発汗室(ラコーニクム)を用意することも出来るが……」

 そう、敷地さえ広ければ、いくらでも工夫の余地はあるのだ。しかし、この規模であれば、既存の施設を増設することは至難だし、新たな奴隷を雇う余裕も少ない。

 とすれば、どのようなアイディアがあるのだろうか――ルシウスは、進まぬ思考に、少し苛立ちを感じはじめていた。

「……いかん。風呂は、リラックスするためのもの――苛立つなど、もってのほかだ」

 少し、頭を冷やす必要があるかもしれない。ルシウスはそう思い立つと、水を浴びるため、浴場の入口へと体を向け、足を踏み出した――


 ――その、瞬間――


「わっ」
「う、うお!?」


 ルシウスは、足元に影があることに気付いた。いや、影、ではなく、子供だ。沈思していて、彼はその接近に気付かなかったのだ。
 間一髪。ルシウスはギリギリで子供を踏みつけることを回避した。が、よかった、と、安堵したのも一瞬――今度は、禍はルシウスを襲ってきた。
 バランスを崩したルシウスは、濡れた床を踏みしめるのに失敗し――つまり、滑り――そのまま、バランスを崩し、浴槽に倒れこんでしまったのである。


(く、……私としたことが……)

 盛大な水音と、入浴していたローマ市民の悲鳴を聞きつつ、ルシウスは、自らの行為を反省していた。

 そう。思考に耽るあまり、湿った風呂の床が滑りやすいことを忘れていた、自分の咎である、と。

 しかし、「転んでもただでは起きない」のが、ルシウス・モデストゥスという男であった。

(そうだ……このようなケースがもし老人の身に起きれば、この上無く危険ではないか……とすれば、「滑りにくい床」を導入するのはどうだ。工夫は出来る……板を渡したり……方策は色々考えられるぞ……安全な浴場になれば、より、高齢のローマ市民が浴場に通いやすくなる……)

 ルシウスは、既に自分の失敗をひらめきに変えていた。その発想に満足した彼は、大きく湯船の中で頷くと、勢いよく頭を水面から出し――



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