ふ、と、昼間には吹かなかった風が吹いた。光の質が変わり始める。肌を焦がした日差しも、四時を回ると徐々に穏やかさを増す。夏場とはいえ、西側に山のある土地の日暮れは速やかだ。稜線に掛かる太陽が、最後の残り火とばかりに金色の切っ先を私達に向ける。夜と昼との狭間のように、山裾から暗い時間が迫ってくる。

 小さく身震いした。まだ日があるとはいえ、日焼けして火照った体は熱を帯びている。風に当たると涼しくなってきた。有難いと言えば有難いが、このままでは体を冷やしてしまう。幸い、海に近いところに小川があった。山の中から湧き出した水は澄んでいて、体を流すのに最適だった。冷たい水が火照った体に心地よい。ひとしきり砂と汗と塩を洗い流すと、土産物屋をかねた海の家に戻った。

「じゃ、セイバー。もし先に着替え終わったら外で待ってて」

「わかりました」

 荷物の番をするシロウに見送られて、更衣室に入る、水着はすっかりと乾いていた、下着に足を通し、手早く衣服を身につけていく。更衣室は狭くて動きにくい、なるべく急ごうと思うのだが、思いの外時間がかかった、付け慣れない胸当てに戸惑った事もある。普段使わない分、こういうときに影響が出る。動きやすくなるとも聞いたから、今度使ってみようか。凛に相談してみることにしよう。水着を詰めた袋を腕にかけると、歩き出しながら髪を編み上げる。

 古びた、油の切れた扉を押し開く。かろうじて鍵が掛かる程度のそれは、通路に作り付けただけの粗末なものだ。下からは足が覗くし、上には隙間がある。これでは、私でなくともゆっくりと着替えることなど出来ないだろうと思う。改善の余地ありだ。



「シロウ、お待たせしま―――――」

 戸口から差し込む光は、何処かに激しさを残していた。夏の太陽は強く、海の照り返されて尚熱い。長く伸びた影達が、もう一つの世界を描き出す。日差しに目を焼かれながら表に出た。眩む視界に彼を探して、声を飲み込んだ。

「―――――シロウ」

 オレンジに染まる世界に、彼の背中が呆っと佇んでいる。背中から感じ取れるものは皆無だった。空っぽのヒト。何を、今は思っているのだろう、とても近いくせに、とても遠い背中。きっと彼には、己の外側しかないのだろう。

 背後の山から聞こえる声は密やかで。シロウに、鳴いているのはヒグラシだと教わった。夕暮れの紅い世界に響く鳴き声は、何処かもの悲しくて泣きそうになる、とも。身に覚えのない鳴き声だが、何故か故郷の光景が胸に沸き上がる。やけに郷愁をかき立てられた。

 何より、彼の傍らに。そう沸き上がるものが強すぎて。

「――――お待たせしました」

「ん。じゃ、行こう」

 シロウが私の手からバックを持ち上げる、そのまま歩き出すのを引き留めた。

「私の分は私が持ちます」

 意地の悪いことに彼は私の手の届かないところへ持ち上げた。

 私は高く飛んで彼の手から荷物を奪った。



 















「海鳥の詩」
Presented by dora 2007 05 20




 















 ぽつぽつと電灯の点る田舎道を歩く。宿までさほどの距離はないと聞いていた。左右は田畑が続き、点々と団欒の灯りが見える。暖かなそれに目を止めた。観光地ではない、あるのは山と海と、畑と小さな商店街だけ。沈む側に山があるので、夕暮れは速やかに訪れる土地。遠い海には、紅く染まった海と、雲。何百年も前から生活の根本が変わっていない土地。土地の者は此処に生き、此処に死んでいくのだろう。

 虫の声が聞こえる。山では鳥が鳴いている。田畑から聞こえるのは、雑多な命の賛歌だ。地にも空にも、冬木では見られない営みがある。新しい世界には無いと思っていたそれ。緩やかな時間が、私を溶かしている。

 日に焼けて火照った体を持てあます。掌で扇ぐと僅かながら涼しい、だけども、それ以降が余計に堪えるのでやめた。疲れと言うほどの疲れはなかった、どちらかと言えば、彼の方が疲れているだろう。






「予約していた衛宮です」

「お待ちしておりました、どうぞお上がり下さい」

 宿にたどり着くと、あと一時間ほどで夕食だと言われた。宿帳に簡潔に必要事項を書き込んでいく。私の名前を書くときに、僅かに彼が躊躇った。投げられる視線、仕方がない。ローマ字でさらりとアルトリアの名を記す。

 村で一軒だけの旅館は、どちらかと言えば、民宿に近い。一階には、ごくごく当たり前の家族が暮らしていた。老夫婦に、息子夫婦、子供が二人と、先に食事を取っているらしい先客達。それと挨拶を交わしながら軋む廊下を歩く。部屋は二階らしい、案内に従って階段を上っていくと、どたどたと客の子供と宿の子供が走り回るのを見た。

「こらぁけんじ! 廊下は走っちゃいかんがね!」

「うわぁ怪獣ババゴンだー!」

「何ぃ!?」

 振りかぶられる拳骨、転がり込むような挙動はあの年頃の少年特有のもので、ひらりと母親の手をかいくぐると、後に続く子供達と共に一階に駆け下りていく。ほほえましい光景、身近に沸いた団欒の声。その温もりに思わず笑った。



「こちらです、今お茶の支度をしますので」

「あ、おかまいなく」

 通された部屋は、それなりに落ち着いた印象の部屋だった。窓際に机と椅子のセット。中央にちゃぶ台と、お茶のセット。座椅子が二つ、小さな冷蔵庫にはビールが冷えていた。シロウは飲まない、私も、勧められなければ飲むことはないだろう。扉を確かめると、鍵は付いているが、木製のそれは薄っぺらい。耳を澄ませば、他の客のさんざめきが聞こえる。

 壁も床も、あまり防音性は高くなかった。これでは、夜、その、彼がその気になったとき―――

「て、何考えんだ俺」

 不意にシロウが赤くなった、つられて私も顔に血が上った。どうやら似たようなことを考えていたらしい。




「夕食の支度が出来ましたらお呼びしますので、ごゆっくり」

「ありがとうございます」

 女将が退室するのを見送って腰を落ち着ける。窓からは、岬の灯台が見えた。くるりくるりと廻る光が、遠い海を記している。ちゃぶ台に落ち着いて、出されたお茶をすすった。思いの外深い味に目を見張る。客用だから、と、安い物を使っているわけではないようだ。

 ぐるりと部屋を見回す。先程はあるものを、今度は造りに注目した。古民家に無理矢理ドアを付けた風情の宿は、思いの外太い柱と梁を使っている。現代風の改装が合わなかっただけで、それなりに上等な建物だ。見た目に依らず宿の歴史は古いらしい。

 さて、いい加減言い訳が無くなった。

 照れくさくて彼が見つめられなかった。それはシロウも同じなのだろう。水着に着替えてからというもの、何処かよそよそしかった彼を思う。明日も同じ態度で通そうとするなら、少し考えなくてはならないだろう。そうして、一日で黒くなった彼を見る。もともと活発なヒトだ。日には当たり慣れているのだろう、赤くなった肌も、既に色を濃くし始めている。

「う゛あ゛ー」

 シロウは体を休めるように大の字になると、大きく息を吐き出した。溜息のそれとは違う、何処か獣の吠え声じみたそれ。

 不意に、手に何かが触れた。不審に思って見れば、伸ばされた彼の足が此方まで届いている。触れたまま、彼と彼の足を見比べた。ちゃぶ台の下の話。彼は気がついていないのか、いたずら心に爪先をつまみ上げる。

「うぉわ!?」

「―――――ふふっ」

 バネ仕掛けの用に跳ね上がる彼、その様が可愛らしくて、つい笑いがこぼれた。ばつが悪そうにシロウは頭を掻くと、つままれたままの爪先を引き戻そうとする。そのまま手を離さないでいたら、意地になっているのか机の下に引きずられた。

 なんだかおかしくて、二人で声を出して笑った。


 



 それから。

 それから、初めて彼に問うた。

 彼がどうしていたのか、なんて事は解っている。

 彼が何を思っていたのか、それも知っている。

 それでも、その間に、前を見続けていたか、それを知りたかった。



「シロウ」

「え?」

「私がいない間、貴方は歩き続けていましたか?」

「―――――」



 答えなんて、聞くまでもなかった。その眼差しが全てを語っている。

 沈黙は肯定の意味で。

 きっ、と強いまなざしは、彼の誇りで。

 聞く必要のない問いは、ただ確認に過ぎない。

 シロウは戦い続けたのだろう。

 世界の理不尽に、真っ向から牙を剥いて。どれほどの障害があろうとも、突き崩して進む覚悟で。

 喩え何事もない日常だったとしても。大きな視点をもってしまった彼には世界の悲劇が聞こえてくる。それに、牙を剥いて。理不尽に心から血を流して。

 まっすぐに、前を向いて。


「ああ、きっと歩けていた」


 強がりに似た声だった。決意に己を殺した声。

 ただ、それでも揺らいだのだろう。

 そうして、己の心が揺らいだときに。

 あの剣を、手に取ったのだろう。

「……セイバー、俺は」

「はい」

 何ですか、と、目だけの問いにはただ―――――万の言葉の詰まった瞳が答えた。

 一年が経っていた。

 再会までに、再び出会うまでに。

 私とて、どれほどこの夢の続きを望んだことか。

 ただ胸に抱いた星を目指して歩いた。いつか交わることを願って。どれほど望んだところで、出会える筈など無いと理解して。

 それはどれほどの痛みを、彼に与えたのだろうか。

「俺さ、ずっと空っぽで、オヤジの言葉だけで動いててさ」

「はい」

「それでも、セイバーがあの時居て、くそ、何言いたいんだろう」

「―――はい」

 言葉が燃えている。押しつけられた火箸のように、一言ごとに肌が灼かれていく。何処よりも胸が、心が魂が燃えた鞘に落とし込まれて居る。

 出会った彼に生存の願いは無かった。一度死んで生まれ変わったようなもの、全てを無くした操り人形が、願ってしまった一つの呪い。誰かを助ける事。そうすれば自分が笑うことが出来ると信じて、そうやって生きて来た少年。決して満たされることのない祈りを胸に、戦争に参加した。

 私とよく似ているようで、もっと強い。もっと苛烈な願いを抱いていた少年。

 そんな、星に似た願いを、私は―――――

「俺、さ。空っぽで、其処にセイバーが入ってきて」

 それは彼も同じ事だ。何度も私の夢に入り込んで。

 幾度も私の中に入り込んで。

 幾度も。幾度も。

 私の心に、彼を刻み込んで。

 まるで宿り木。それも質の悪い。根を張ったくせに、突然消えてしまう。後にはささくれだった傷跡だけ残して。

 その跡には誰も収まり得なくて。パズルのピースじみて、一つとして同じカタチの者は居なくて。

「お前と見たい物がたくさんあったんだ、いつだって、見たこと無いものだって沢山あるって!」

「―――――」

 つたない言葉、投げつけられる感情。あの日故障した私達は、ただ縋り合って。

 シロウの手がわなわなと震えている。私の手はただ震えている。やり場のない想いが、ぶつけどころを探している。

「考えまいと思って、それでもいつもお前が居なくって、だから―――――」

 願ったのだと。

 一年が過ぎて、空っぽの心に罅が入って。

 もうこれ以上は、憶えていられないと。私を忘れるか、それとも壊れるかの瀬戸際で願ったのだと。

 再会を。

 私との再会を。

 ただ一目でいいから、逢いたいのだと。

「―――シロウ」

 熱い声が喉から漏れる。否、これはもっと深いところから、心から溢れたもので。

 掴まれた肩に力が入る。どうしていいのか解らない震えが、痛い。

 焼けていた。彼も、私も。相手の想いに灼かれていた。

 絞め殺される様な抱擁を願った。

 真綿でくるまれた様な抱擁を願った。

 ただ鞘に落とし込まれた剣のような、安らかな腕を幾度願ったことか。

 シロウ。

 何時か伝えた様に。貴方を愛している。

 その鋼の心を。きっと強い眼差しを。

 優しく口付ける、その心の在り方を―――――














「お客さーん、夕食ですよー」














 ぎし、と、音を立てて。

 二人で扉を見やった。

「―――――っくく」

「―――――ふふっ」

 まったく。

 間の悪いことこの上ない。

 〜To be continued.〜



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