霧に沈む草原が、いつしか森にすり替わっていた。其処は、まるで見知らぬ場所で。何があるわけでもなく、何が見えるわけでもなく、ただ徐々に沈み込むように、ミルク色の靄の中に草原が溶けていく。先程とはまるで違う、少し冷たい風が吹いている。その風には憶えがあった。いつも彼が遠くを見ているときは、そんな風が吹いていた気がする。

 大気が濃い、詳しく言うなら、魔力が濃い。古い時代のそれのように、感じる物全てが神秘の露を宿している。違和感は強く、だが、決して不浄な物ではない。

 不意にシロウが足を止める、それに倣うように、私も足を止めた。彼の視線からすれば、逆なのだろう。どちらかと言えば、私が蹴躓いたと言った方が正しい。

「セイバー?」

 答えるだけの余裕は奪われた。視線も正面に奪われて動かせそうにない。ただ、止めたはずの足が動く、一歩、もう一歩。何かを惜しむように、躓くように足が動く。

 吸い込んだ水気の濃さに、咽せそうになる。まるで浴室の中のようで、しっとりと重く甘い。目で見て濃さの違いがわかる霧、そのくせ開け始めた視界に、胸が騒いだ。

「ばか、な」

「セイバー?」

 そこに湖があった。

 先程まで、ただ碧く輝く森が横たわっていた其処に、遠い時代の向こうから手を伸ばしたが如く、湖がたゆたっている。知らず震える膝を止めることが出来なかった、だが、それも致し方ないとは思う、此処はあまりにもあの時に近い。

 胸が騒ぐ。さて、私はどうしたらよいのだろうか。まるで妖精境に連れ込まれた人間のように心許ない。此処が何処なのか解らないが、恐らくは私に関わりのあることなのだろう。考えたところで、答えは纏まらなかった。何時かの船の夢、見知った妖精境、遠い彼の王国と、姉の住まう館。思い当たることは幾らでもある。

 巻き込んでしまったと、慚愧の念が頭を過ぎる。それを拭い去ったのは、彼の掌だった。温かな振動が、伝わってくる。握られた掌から、強い何かが染み込むように。

「シロウ?」

 返事はなかった、ただ強い瞳が前を睨み付けていて、そこには、覚悟を決めた様な意志の輝きが宿っていて。  

「―――――やる事がある」

 そう言うと彼は、私の手を引いて歩き出す。

「手伝って欲しいんだ、セイバーに」

「え―――――」

 言いたいことの意味がわからない。だって言うのに、体は素直に彼に着いていく。

 いいや、気がついていない筈がない。

 私が剣を返したように、彼もまた、借り物の器を返しに行くのだ。

 剣は鞘に収まる物。私が彼の懐に包まれたように―――――























「海鳥の詩」
Presented by dora 2007 07 31























 姿勢を正して、青年が湖の畔に立つ。

「鞘、返そうと思ってさ」

「貴方らしい。私も―――――あれは返せなかった」

 夢の中の物はやはり夢なのか、確かに手に戻ったはずの神秘は、まるで夢の中に置き忘れたように手の中に無かった。それでも、体に溶け込んでいた欠片が私を生かして、彼の元に送り届けたのだろうか。疑問は数在るが、考えたところで答えは見つかりそうにない。

「聞かせてもらえますか」

「何を?」

「それは、誰のためにすることなのか」

 ひどく困った顔を彼がする。眼を瞑って、腕を組むと、低く唸りを上げた。

「誰のためってわけじゃなくて、俺が持っていてもしょうがないから返すだけだ」

 自分のため、と、言って良いかもしれない。そう、シロウは一度だけ誇らしげに笑った。

 間違いなく、自分のためだと。




 幾度かの深呼吸の後、深く眼を瞑ってシロウが言った。

「ん、じゃあ。始める」

「はい」

 潔い声だった。体に掛かる負担だとか、そういった所など手段の向こう側で。誰かが見つめていなければ、糸の切れた釣り針のように、何処までも波に流されてしまいそう。そっと背中に手を当てて、見えない内側に意識を伸ばす。驚くほどすんなりと彼のセカイがかいま見えた。

『“―――――投影”』

 天蓋は遠く、紅く紅く燃えさかっている。夕焼けの風景なのか、それとも、上る太陽の色なのか。照らし出された大地には、古今の名剣が無数に突き立っている。どれをとっても錆び一つ無く、研ぎ上げられたばかりのように、誇らしげに顔を映している。懐かしい草原の風景、遠く聞こえる槌音すら、在りし日の、あの祭りの声の様に聞こえる。

 指先から体の芯に、ゆっくりと震えが駆け抜けた。見つめる眼差しの先には、一人の少年が居る。あまりに幼い、此の草原には、まったく似合わない姿。

 ただ、勝ち気な瞳だけが、見知った彼のそれで。丘の上、突き立つ剣にもたれ掛かるようにして、かの鞘を抱いている。大切な宝物を抱くように、誰にもそれを、渡さないと言わんばかりの瞳で。

『セイバー』

 掛けられた声に、足を止めた。確かに彼の声、だが、何処かおかしな声。少年と青年の色が混じった、不思議な声。

『シロウ?』

 彼が此方を見ることはない。ただ、じっと鞘を見つめている。

『今にして思えばさ、これが、オヤジから最初に貰った物なんだよな』

『―――――』

 返せる言葉が見つからなかった。

『そう考えると、さ。俺、ずっとオヤジに支えられていたんだな』

 幾度も傷ついて、幾度も倒れて、幾度も死にかけて、それでも立ち上がるシロウの姿。

 ああ、まるで目に見えるようだ。

 彼は決して手を貸さないだろう。それでも、背中を見せることもないだろう。ただ彼が自力で立ち上げるのを待って―――――どのような顔をするのかまでは解らないが―――――少年の背中を押してやるのだろう。

 まるで呪いのような言葉に、最後まで世界を想い続けた彼の意志を見る。



 “―――――ああ、安心した。”



 彼は、最期にそう言い残したらしい。

 あれほど正義を憎むと、正義の無力さを憎むと吐き捨てた男が。

 少年の言った、何でもない言葉に安堵して。

 いや、それも違う。彼はきっと嬉しかったのだろう。少年は同じ道を歩まないと、己の様に正義を憎むことなく、誰一人として、零すことなく祈り続けるのだと知って。

 自分に出来なかった、本当の正義を掴めるのだと願って、息を引き取ったのだろう。

 ―――――何のことはない、正義では誰も救えないと、銃火の中に吐き捨てた男は。間違いなく、多くの人を救う引き金を引いたのだ。

『―――――』  

 胸のつかえがすとんと落ちる。何も残すことなく逝ったと思っていた。だが、彼は己の全てを少年に与えて逝ったのだ。確かに、己の生きた証をこの大地に刻んで。

 鞘に、もう一つの理想を刻み込んで。




『シロウ』

『ああ、始めよう』

 瞬き一つの後に、見慣れた姿が目前にある。差し出されたそれに、そっと手を乗せた。

 鞘が輝きを増す、目も眩む光の中に、世界が溶け出していく。七色の魔力が回路を流れ、独自の特異な魔術理論が鞘と私の回路を疾駆する。

 意識が裏返る、背中に焼けた鉄の棒が押し込まれていく幻視、神経と一体になるそれは熱い魔力を漲らせている。内側からくみ出される意識が、外の世界を塗り替えるように、私の中を駆けめぐるそれが、確かな記憶となって手の中に重みを作り上げていく。

 心象世界を捲り返していく、魔術基盤に刻まれた時間と空間の概念を書き換えていく。等価など必要なく、ただただ遠い日の詩を紡ぐように。

 造り上げるのはただ一つ。二つと無い、聖剣の鞘、かけがえのない神秘を今この手の中に。あり得ざる出会いによって、二つに分かたれたそれを、今一度此処に紡ぎ上げる。

『“―――――完了”』

 ずしり、と確かな重みが手の中にある。魔力に焼き付いた視界が、戻ってくるまでの時間がもどかしかった。琺瑯と金象眼に彩られた、懐かしい物。今となっては必要もない。

 目を開けた。紅い世界は遠く、今はまた、懐かしい霧の中にある。強い風が吹くと、まるで私達と湖を繋ぐように霧が道を空けた。

「いいのですか」

「ああ、俺達には必要ない」

 誰の力も当てにしないと。自分の力だけで、未来を勝ち得ていくと。力強く言葉を残して、シロウが湖に歩み寄る。

「投げ込んだら、受け取る手が出てくるんだっけ?」

「伝承では、私が直に見たわけではありません」

 そっか、と、小さく呟くと、彼が腕を振りかぶる。と―――――

「―――――何か来る?」

 そう、此方に聞こえる声で言って、腕を下ろした。

 寄せる波の向こうに目を懲らした。近付いてくるのは、船の様だ。古い装飾の凝らされた船、ぎぃぎぃと軋む音を立てながら、波を蹴立ててこちらに寄せている。一人の男が乗っていた。警戒に、互いの体に力が籠もる。

 波打ち際で船を止めると、男は水に飛び込んだ。警戒する素振りも見せず、水をザブザブとこいで歩いて来る。

 陸の上まで男は足を進めると、無遠慮に腕を突き出した。

「鞘を」

 言葉は簡潔で飾りっ気が無い。

 懐かしい声だった。聞き覚えのある、忘れることのない声。

 同時に、忘れることの出来ない声、黒い、悪夢のような姿―――――

 警戒は緩む事無く、ただ無言の時間だけが流れていく。

 降参するように男が両手を挙げる、長く息を吐くと、膝を着いて言った。















「―――――間に合わなくて申し訳ない」

「良い。最後の最後で、私はお前を信じられなかった―――――」















 声に滲み出るのは、紛う事なき友愛の吐露で。

 再び舞い降りた沈黙に、気まずくなって声をかける。

「顔を……見せてくれるか」

「―――――ふん。向ける顔が無いとはこの事か」

 己を笑う言葉、僅かに震えている。男はそれだけを呟くと、フードをかぶりなおして、手を差し出した。

「貸した物を返す様にとの仰せです、王」

「構わぬ、丁度返そうと思っていた所だ」

 フードから覗く口元が笑っている。差し出した鞘を恭しく受け取ると、後ろに下げた鞘から、一振りの剣を抜きはなった。見慣れた、黄金の輝き。戦場に生きる者の理想。祈りと願いに星が鍛えた、最強の聖剣。

「剣は鞘に、勝利の約束は理想郷にあるべきだ。そうは思いませんか、王」

「勝つも負けるもこの世の条理、勝利だけの戦など、イデアの理に相応しい。お前の言うとおりだ」







 三度の沈黙、先程までのそれとは違う、別離の静寂。男はシロウに顔を寄せると、何事か語りかけて離れた。

「行くのか」

「いいえ、俺は戻るのみ。―――――進むのは貴方だ、王」

 帰り道を指し示すように、男が、まっすぐ指を伸ばす。釣られて振り返った後ろ髪に、駆け出す気配だけが残った。別れを惜しむだけの時もない。男は船に飛び乗ると、その勢いそのままに艪を動かした。

「それではこれにてお別れよ! 王、長きに渡る不忠、赦されざるとも忘れる事の無き様に」

「ランスロット! 私は―――――!」



「王よ、何も言われるな。全ては時の果の事。諍いも苦難も既に遠い日の事。いざ、おさらば!」



 伸ばした手を握りしめる。そのまま、船の影が霧に消えるまで見送った。鮮やかな去り際に言葉も出ない。ゆっくりと手を下ろす。誰かにそっくりだと思った、話を聞かない辺りなど、特にそうだ。

「―――――相変わらず勝手な奴だ。人の話を聞かないくせに、自分の事もまともに喋らない。まったく、誰かにそっくりだ」

 長い、長い溜息を吐いた。

 まともに許せたことなど無い、まともに許された事など無い。だが、それでも確かに取り戻した何かが胸に残っている。

「行こう、セイバー」

「ええ、生きましょう、シロウ」

 この時代に、この世界に。

 無様で醜悪で、何よりも輝かしい営みの中に。

 かつて輝いた剣を置き捨てて。世界の中に溶け込んで。

 いつか見た、遠い理想に足を向けながら。






 ―――――最後にもう一度振り返る。

 そこに湖は無く、ただ鬱蒼としたこの国の山林が広がるのみ。

「―――――任された」

 誰にともなく、シロウが拳を突き上げる。

 彼が最後に何を言ったのか、それは後で聞けばいいだろう。

 ただ今は、残すところの短くなった一日に、微睡む想いを託していたい。

 今は昔と遙か遠く。だがそれでも、遠く離れて、かつてを知るものすら居なくても。

 海鳥の詩は、きっと故郷まで届いているだろうから―――――

 〜Fin〜



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