一階に駐車場、二階にはフロントやカフェ、あるいはショッピングコーナー。三階にはロッカールームとプール、そして大浴場。四階はトレーニングマシンがメインで、五階にはスタジオやランニング、ウォーキング用のトラックが用意されている。更に上の階には、フットサルコートやゴルフ打ちっぱなし場なんかもある、というのがバビロニア・ゴールドジムの設備概要である。
セイバーと士郎が最初に案内されたのは、四階のトレーニングフロアであった。土曜日という好条件もあってか、人も多い。ジムは活気に溢れている。
「若い人もそれなりに居るのですね」
「そうだな」
確かに、少々意外ではあった。だが、ファミリー会員制もあるし、あるいは大学生なんかも会員になれるのだから、そう不思議なことではない。老若男女、身体を鍛えることが健康に有用であるという事実は変わらないわけであるから、ある意味では理想的な光景と言っていいだろう。
「それじゃ、マシンの使い方を説明していきますね。その前に、準備体操しておきましょうか」
「はい」
トレーナーの林さんは気さくな人だった。先ほどマシンフロアのカウンターでちょっとした聞き取りをしていた時も、
「彼女だよねー?」
とか
「やー、美人さんははなしちゃいけないよ、君」
とか、しきりに士郎にちゃちゃを入れてくる。苦笑しつつも、それに不快感を覚えないのは恐らく人柄によるものなのだろう。
が、それでも気になるものはあったりする。
周囲の視線が、ソレである。
「……まあ、仕方ないといえば」
仕方なし、と言えた。何せ、セイバーは美人である。その上、いつも一緒に居るはずの自分でさえ胸が高鳴るほどのスポーツウェアである。そんなセイバーに目が行かない、というほうが少数派であろう。
ついでに、当然ながら、男衆……主に、若い、彼女……など、恐らくは居ないような人々から、羨望と殺意がふんだんに籠められている視線を向けられる結果となるのである。
「………む」
「悪意」だの「呪詛」だのといった類には敏感な士郎である。何せ、悪意というものは向けられた人間のほうが感じ取りやすい。穂群原でも似たような感覚を幾度と無く味わっているわけだが、普段とは別の場所で感じるのはまた、一味変わった新鮮さがあった。もっとも、大して歓迎できない新鮮さではあるのだが。
十分に身体の各部分を延ばし、急な運動で体が驚かないようストレッチを施していく。士郎もセイバーも普段から動く習慣があるだけに、そうした準備体操にも、素人のソレとは違う動きが垣間見えた。
「へえ、中々いい体してるわね。自前で鍛えたの?」
流石はプロと言った所か。林さんは服で隠された士郎の筋骨に気付いたらしい。興味深そうにジャージ姿の各所を凝視され、士郎は若干のくすぐったさを覚える。
「ま、まあ一応……」
「鍛錬が趣味、って感じだね。うん、そういう人にもこのジムはおススメだよ。お嬢さんも、中々いい動きだね」
「ありがとうございます」
体各部に適度な刺激を与えたら、次は本格的な負荷を与える段階である。林さんは二人を伴い、マシンが林立する場所へと移動した。
「見ての通り、ここでは色々な鍛え方が可能になる器具があるわ。使い方は大抵書いてあるけど、ちょっと上級者向けのとかも混じってるから、今日は基本的なものだけ教えるわね」
彼女が最初に案内したのは、チェストプレスと書いてあるマシンであった。胸の辺りを赤くしてある人間の図からも、どうやら胸の辺りを鍛えるものだ、ということが分かる。林さんは率先して椅子の部分に腰掛けると、各部分を指差しながら説明を始めた。
「ここのバーで重りを調節してね。椅子の高さは下で調節できるから、押し出すグリップが肩より下になるようにすれば丁度いいわ。準備が出来たら、ゆっくりと、息を吐きながらこうやって押し出す、と」
背筋を伸ばしつつ、胸部の前にあるグリップを前に押し出す。重りが負荷になっているため、きちんと調節すればそれなりの効果がありそうだった。
「肘が伸びきらない程度のところで止めて、今度はゆっくり元に戻してね。この時息を吸いながら、というのと、いつでも胸の筋肉への意識を忘れないこと。腕だけで押さないように、ということね。じゃ、やってみようか」
最初はどっち?と促される視線を送られると、こちらも目線でセイバーに順番を譲る。それでは、とセイバーもそれを受け、林さんが降りた後のシートに座った。
「重りは……どれくらいがいいのでしょうか?」
「んー……そうだね。セイバーさん運動してるみたいだから、30キロくらいからでいいんじゃないかな」
「分かりました。それでは」
既に、魔力によるブーストはカットしてあるらしい。やや緊張した面持ちで、セイバーはグリップを握り、林さんがやっていた通りの動きを試みた
……が。
「……っ、よい……しょ……?!」
実は、士郎には半ば予想がついていたりした。案の定、セイバーはバーを少し押すだけで、相当な苦労で顔を赤くしている。
「ん……んぅ……」
汗をかきながら、セイバーはぷるぷると腕を震わせている。負けず嫌いのセイバーは、それでも尚諦めずにグリップを押し出そうと頑張っている。
「っ……く、ぅ……」
が、戦況はどう見ても厳しい。そんなセイバーを眺めて、林さんの方はあっさりとセイバーにタオルを投げた。
「あー、ちょっと無理だったみたいね。もうちょっと減らしてやりましょうか」
「ま、まだ出来ます! この程度、私とて」
「あはは、まあ、無理せずやっていけばその内できるようになりますから、焦らないで。じゃ、重りを減らしますんで、グリップを戻してくださいね」
「…………む」
もとより負けず嫌いのセイバーである。納得行かない、という表情だが、こういう時は先達の意見に従うべき、という理性は働いたらしい。流石は元賢君、と言ったところだろうか。
「じゃ、これくらいで大丈夫だと思いますから、どうぞ」
「……では」
今度はプロの調節後とあって、程よい負荷であるように士郎には映った。なるほど、コレならば適切な運動、そして筋力アップも望めそうである。
「あ、いい塩梅。じゃ、10回やってみましょうか。そしたら、次はカレシで」
「……は、はい」
にこやかに「彼氏」などと言われては、純情少年たる士郎は多少焦ってしまう。だが、否定もできず、ただ苦笑いを浮かべるしかなかった。
「……それに、しても」
どの器具を使っても、セイバーは最初、自らの細腕に似合わぬ重さを選択しては一生懸命を持ち上げようとする。が、結局敵わずに、という繰り返しだった。
負けず嫌いな当人は大層不満なのか、負荷のレベルを下げられてはムスッとふくれ面を見せている。だが、そこは名君アーサーである。その助言が正しいことは嫌というほど分かっている為、だだをこねるわけでもない。
それが、なんとも言えず
「……可愛い、わねえ」
恐らくは、端で見ている士郎、こっそりエアバイクをこぎながら観察している綾子、凛、あるいはインストラクターの林さん、胸中同じ感想を持っていただろう。
「ん、コレが“萌え”ってやつかね。あたしは理解したぞ、遠坂」
「否定はしないわ。あの光景は、半端じゃない」
真剣な顔で、凛も頷いて見せる。それほどに、「顔を赤くして、一生懸命に重りを持ち上げようとしている」セイバーは、万人の心をくすぐる何かを持っていたのだ。
「お、次行くみたいだな」
「ええ」
傍観者の楽しみは、続く。凛からすれば、端からこの光景は予定されていたも同然だった。魔力をカットしたセイバーが非力であることは見抜いていたし、少しばかりどころか凄まじく負けず嫌いな彼女が、キロ数を多めにして機械に挑むであろうことも予測済みだった。
「お、今度は背筋だな。アレ、結構辛いんだよね」
「ふふ、士郎も役得よねえ。あんなに近くで見られるんだから」
スポーツキャップにサングラス、という出で立ちの2少女は、そんなコトを言い合いながらエアバイクをこぎ続けている。
眼の前、エアバイクの液晶を見ているよりも、よほど楽しい光景である。美容に娯楽、両立する休日を確立した二人は、やはり策士と呼ぶに相応しいのかもしれない。
「……はぁ……は、や、やはり……上手くは、……いかない、ですね……」
「最初は皆さんそんなもんだよ。大切なのは、自分に合わせてステップアップすること、かな」
「……成る、ほど。仰るとおりです。不断の……努力が、はぁ…………必要、ですね……」
息を荒くしつつ、セイバーは首肯する。セイバーは、不機嫌なままに忠言を無碍にするような人間では全く無い。理には理で応えるのが彼女の信念と言っていいのかもしれない。魔力切れの自分は非力である、という現実が、厳然として彼女の前にあるのである。それを克服するのに、努力を惜しむ少女ではなかった。
「それでは、私のレクチャーはここまで。スタジオのプログラムにも、是非挑戦してみてくださいねー。それでは、また何かありましたら遠慮なくどうぞ! それと……」
林さんは士郎に近づくと、セイバーに聞こえないように耳打ちした。
「可愛いわねえ、彼女。盗られないように、気をつけてね」
苦笑しつつ、士郎は首肯で返す。勿論、彼とてそのつもりであることは疑いない。
「今日はありがとうございました」
「いえいえ。じゃ、またね」
まだ士郎たちとしては入会したわけでは無いのだが、林さんは最早疑ってもいないらしい。最後まで明るさを振りまきながら、彼女は自分の仕事場へと戻っていった。
「……はぁ……とても、良い……人、でした、ね」
「そうだな。さて、と」
この後は自由時間となっていて、好きにジム内を回る事が可能となっている。流石に水着までは持ってきていないのでプールには入れないが、マシンフロアやプログラムは完全にオープン、ということであった。
「マシンは大抵案内してもらったし、どうする? 上でプログラムでもやってみようか……と」
「……?」
が、その状態を看過する士郎ではない。しっかりとセイバーの現況を判断して、ともすれば頑張りすぎる少女のことを思いやることにかけては、世界で士郎の右に出るものは居ないだろう。
「ちょっと、休憩しようか」
「……え、いや、まだ大丈夫……です、が」
「だーめ。ちょっとは間入れないと保たないぞ。ほら、そこのベンチ空いてるから、ちょっと待ってて。飲み物持ってくるから」
まだ何か言いたげなセイバーを残し、士郎は自家製のドリンクを取りに戻る。士郎が居なくなると同時に、緊張の糸が切れたのだろう。
セイバーはベンチに座り込むと、ひとつ大きく深呼吸した。
「……ううむ……修行が……足り、ない……」
魔力のサポートがどれだけ大きいのか、ということを、彼女は今更ながら実感しているかのようだった。だが、少女はそのままへたりこむような性格でないことも、また真実なのである。
「鍛えなおさないと、いけないようだ。体も、私の性根も……」
スポ根モノの主人公にしても良さそうな発想と共に、セイバーは乱れた呼吸をゆっくりと整えることに専念する。とりあえず、自分の現状は嫌というほど分からされたのである。それだけに、やるべきこともハッキリ見えた、と言っていい。
「……シロウの、言葉に、甘えるとしましょうか」
少しばかり、休憩を取ろう。その後に、また意地を張れるように。
疲労感も、どこか心地良く感じられるのが、運動の後。セイバーが浮かべた笑顔には、もしかしたら、そんな感覚も混じっていたのかもしれない。
そして、勿論のこと。
士郎とこうして過ごしているのが、楽しいということも含まれているのは、言うまでもない。
「丁度、初心者用のプログラムやってるみたいだな。スタジオ行ってみようか」
「スタジオ……ですか」
「そうそう。インストラクターの動きに合わせて、運動するんだよ。多分」
士郎とてジムは初めてである。よって、確かなことはいえないが、恐らくはそういう類のプログラムであろうことは想像できた。士郎が指摘したのは、今から丁度10分後に始まるもので、その名も
「Shelley's Bootcamp 初級篇ですか。……確か、ブートキャンプとは」
セイバーは恐らく、一時テレビのショップチャンネルを席巻していた映像を思い出しているのだろう。その証左に、セイバーの手が勝手にくるくると回っている。
「糸巻き運動?」
「ええ。あの特徴的なアナウンスは、忘れようもありません」
勿論、士郎も見たことがある。運動がダイエットに有用なのは当然なので、売れるのも分かるなあ、と思っていたものだが。
「遠坂が悩んでたよな」
「美容と宝石、どっちにすべきか、と……結局、宝石にしたようですが」
それ以上に、恐らくはDVDの操作に難があるのだろう、と士郎は想像した。照れ隠しの言い訳は、遠坂凛の名物である。
「……はくしょ!」
勿論のこと。
当人がその場に居るなどと、彼女達は夢想だにしていない。
「はくしょ! む……?」
「God Bless You。……花粉症?」
「いや、違うと思うんだけど。……何か、噂でもされてるのかしら」
当にその通りなのだが、流石に二人の会話が聞こえる距離まで詰め寄ることはできなかった。とはいえ、楽しそうにしているのが十分に分かる程度ではある。どうやら、これからスタジオのプログラムに参加するらしい。
「全く、ああも見せつけられちゃあね。ホント、一回彼氏でも作ってみようかしら」
「安売りはしないほうがいいと思うけどね。何時どこにチャンスが転がってるかわかんないし」
「美綴嬢の言うとおりだな。もっとも、経験値を上げる、という効果は莫迦に出来ないだろうが」
「そうそう……って、ええ!?」
「よ! 楽しそうだねえ、お二人さん」
タイミングは最適、と言っていいだろう。士郎とセイバーがスタジオに入った直後、楓と鐘がランニングを切り上げ、尾行していた凛と綾子に声をかけていた。
「ふむ。あの様子だと、二人は衆目の前でも変わらず、か」
「ああいうのを天然っていうのよ。ま、面白いけど」
「複雑な気分にもなろう、というところだな。さて、どうする?」
「どうする……っても、ねえ。二つしか選択肢ないじゃん?」
即ち、ガラス越しににやけるか、もっと接近を試みて楽しむか、の二択である。このプログラムは人数も多いので、紛れ込むぶんには申し分ない状況といえた。
「じゃ、参加してみましょうか。一回やってみたかったのよね、ブートキャンプ」
「あ、今度貸そうか? DVD。なんならダビングしてやるけど」
「結構よ。デッキ持ってないし」
「……いや、確か、衛宮家にはあったと思うんだが」
「……無いったら、無いの」
無いのはデッキでなく、技能の方である。……とは、勿論凛は語らない。
ただ綾子には、それで何となく察しがついていた。
「……あのな、再生ボタン押すだけなんだけど」
「それで煙が出るんだから、どうかしてるわね。PL法で訴えてやろうかしら」
ある種、天賦の才であろう。綾子は半ば呆れつつ、話題を修正することにした。
「……じゃ、行こうか。なるべく後ろのほう、な」
「うむ。人を隠すなら人の中。目立たぬようにすれば、そうそう見つかるものではない」
「えー、目立っちゃ駄目なんてつまんねーよ」
「汝は、来ぬほうがいいかもしれぬな。何より、一般客に迷惑だ」
「……ち。分かったよ。大人しくしてますー」
四人はがやがやと話し合いつつ、スタジオが一杯になってきた頃合を見計らって一番後方に紛れ込む。士郎とセイバーは、彼女達の左斜め前45度、丁度人の合間を縫って観察できる位置取り、と言った所。
「ここなら問題はあるまい。さて、楽しませてもらうかな」
ストレッチしつつ、鐘が呟く。どうやらセイバーと士郎の仲を知る者にとって、ニヤつきながら楽しむ、というのは習慣になりつつありそうであった。
「Hello! This is Shelley's Bootcamp! Are you ready!?」
「Yeah――――!」
「……!?」
初心者向けと銘打ってはいたが、その実リピーターも多いらしい。女性のインストラクターが呼びかけた声に応じたのは、一人や二人ではなかった。
「活気がありますね、シロウ」
「あ、ああ……確かに」
経験者と思しき人々の熱気は凄いものがあった。ということは、それだけ熱中できるプログラム、ということだろう。
「無理するなよ、セイバー」
「ええ、勿論です」
ただ、するなと言っても無理を通すのがセイバーである。この言葉とて、そのまま取るわけにもいかないのが士郎であり、サポートは自分の仕事、と改めて気を入れなおす。
「Walkin’!」
早速、インストラクターが足踏みを始め、参加者に開始を告げる。言われたとおり、士郎とセイバーも同じ動きをとり始めた。
(っと、これは……)
プログラムは単純な動きの連続だが、それが案外体に効いている。士郎はその克己精神と猛烈な鍛錬によってアスリート並みの身体を誇っているが、それでもあまり使わない筋力などが刺激される感覚があった。
成る程、世評どおり、鈍りきった体にはきついかもしれない、と士郎は思う。鈍っているわけではないが、魔力ブーストを切っているセイバーはどうか、と、隣を見てみれば
「……1、2、3、4……」
と、インストラクターの口調に合わせてしっかりと動きをこなしていた。筋力の絶対量は少なくとも、動きのキレという意味ではあまり変わらないらしい。まだ負荷をかけた運動で無い以上、セイバーならこの程度はこなせるのだろう。
そして、これが何より重要なことなのだが。
(……ん、楽しそうだな)
セイバーの表情は明るく、爽やかだった。そんな笑顔に、やはり士郎は惹かれるのである。こればかりはいつも一緒に居ても変わらないし、恐らく永遠に変わることもないだろう。
来て良かった、と、そんな思いを新たにする。士郎はもう一度インストラクターに視線を戻すと、再びプログラムに集中し始めた。この運動、しっかりと教官の動きを追わないと、ついていけなくなるものなのだ。
……というわけで、その場に潜入している4人にも、士郎とセイバーは気付かなかったわけである。
「……へー、効くのね、コレ……っと」
「だろ? これが案外……な」
「動けば痩せる、というのが道理だ。楽をして体重が減ることなどないからな」
「Circle! Circle! One More Set、Yeah!」
楓は既にノリノリであり、他三人もそれなりに楽しんでいる。勿論運動を、ということもあり、視線の先にある二人の睦まじい様子を、ということでもあったりする。
ちなみに、四人の出で立ちは普段と少々違っている。凛、鐘は長い髪をポニーテールに纏めており、凛のほうはスポーツサングラスまでつけている。綾子と楓はキャップを被っており、これまたいつもと与える印象が異なる。
つまり、激しい運動をしていて、かつ教官のほうに意識が集中していれば、多人数の中ではそうそう気付かれるものではない
……はずなので、あった。
だが。
ちょっとした隙、軽挙妄動というものは、何時だって予定を狂わせるものである。
「それじゃ、休憩に入りますね! 3分とりますから、水分を補給してください」
インストラクターの指示と共に、プログラムの前半が終わりを告げる。参加者はめいめい、水分補給の為に壁際、ペットボトルを置ける場所に向かっていった。
「いやー、案外疲れるな。コレ、陸上部にいいかも」
「ただ、必要なところが鍛えられるかどうかは不明瞭だな。やはり、陸上に特化したトレーニングには向かないだろう」
「そっか。それにしても、汗が出るなー」
と、それはとても自然な行為だったわけである。帽子の中、汗で少し不快感のある髪の毛を一端外気にさらし、そして整えよう、と、楓はそれだけのことをしたに過ぎない。
だが、偶然にも……そう、運悪く、と言っていいだろう。その行為は、彼女、いや、彼女達四人にとって、致命的な隙になってしまったのである。
スタジオの正面には、壁一面に張られた鏡がある。インストラクターの動きを見やすくするためのものだが、それは同時に、参加者の顔を見ることも可能にする、という効果がある。
士郎はセイバーと談笑しつつ、何気なく、さりげなく視線を前に向けたのだ。そう。鏡の、丁度、彼女達・尾行者四人が移っているエリアに。
そして、そこには。
当にその刹那、帽子を外した蒔寺楓の肖像が映っていたのである。
「ぶ……っ!?」
危うく、士郎は口に含んでいたスポーツドリンクを吹いてしまうところだった。その黒豹、見紛うはずもない。何というか、オーラで分かるものがある。その存在感は、一瞬で士郎をして、その人物が誰であるかを判別させるレベルのものがあった。
そして、よく注意して観察すれば、である。
楓の周りに居る三人の少女達に、いかにも見覚えがあるように思えてきた。
「………………………………………………………………………………」
その光景を見て、彼女達が何故其処にいるか、答えをはじき出さない程には士郎の頭は鈍くない。
瞬間、彼の頭脳に天啓が走る。
スポーツジムを勧めたのは、誰か。
セイバーとウェアを選んでいたのは、誰だったか。
冬木の人気ジムならば、会員に知り合いがいても不思議ではない。
世の理は是必然。偶然など、神秘を隠すための造語に過ぎないとかなんとかetc.
「………………………………………………………………………………」
幸いにして――勿論、士郎にとって――彼女達は、まだ彼が四人を凝視していることに気付いてはいないらしかった。監視の対象になってはいたのだろうが、それは齢相応の少女達。おしゃべりが始まれば、とりあえず目的は脇に置いておくこともあるのだろう。その辺り、流石は遠坂凛と評価できる。なんとも抜けていることではないか?
「………………………………………………………………………………」
士郎は、少女達の方に近づいていく。
お喋りに興じているうちに、気付かれぬよう、慎重にことを進めなければならない
ゆっくり急げ、とは、ローマの初代皇帝が座右の銘にしていた言葉なのだという。
そして。
「でさー、メ鐘がさー、………………!?」
ぽん、と、楓の肩に、情念の籠もった手が置かれた。
そのことを本能で感じ取ったのか、後ろを振り向く黒豹の動きは、あくまで迅速。
そして、そこに立つ人物を、四人は目の当たりにすることになった。
本日のウォッチ対象であるはずの、その人物。
サファリパークとは、あくまで車の中から見るからこそ、楽しいのである。
野獣の前に放り出された、とすれば。ヒトというのは、あまりにも無力な存在ではないか。
「よう」
「…………ドチラサマデ?」
「……で。弁解はあるか? 遠坂、美綴」
「あ、あはは……」
笑うことが弁解にならないのは100も承知である。
笑うことくらいしか出来ないから、笑ってごまかすのだ。
「ま、まあ落ち着けよ衛宮。ここさ、あたしのウチが会員権持ってて」
「そんなこともあるだろ。けど問題は、何で四人固まって、それも気付かれないような変装までして、ここに居るのか、ってことだ」
「……隣人を愛せよ、というだろう? 汝は感じないのかね、そこまで汝たち二人に注がれている愛の大きさを」
「悪意の大きさも感じざるをえないんだけどな」
硬化した態度を柔らかくするのは、並みのことではないのである。士郎の態度からは、そんなことが容易に見て取れた。
凛は、早々にそのことを悟ったのだろう。流石に、おもちゃにし過ぎた。セイバーは別になんとも思わないでいてくれるだろうが、士郎は立派な思春期男子である。こういったからかいに、釈迦のような心で接してくれる望みは薄い。
「ま、まあ見つかっちゃったなら仕方ないわね。わ、私達はこの辺りでお暇を……」
主犯格・遠坂凛は、そうすることで幕引きを図った。更に言えば、自己鍛錬を怠らない魔術師、武芸百般の女丈夫、陸上のエース2名と、その場に居合わせた少女達は頗る身体能力が高い。つまり、逃げ足も速かった。
「じゃ、また後で! よい一日を♪」
潮が引くように、というのはこのことだろう。4人はアイコンタクトでもしたかのような動きで、休憩中のプログラムを抜けていった。
「……シロウ……、どう、したのですか……?」
息があがるセイバーのところに戻ると、士郎は苦虫を噛み潰したような顔で呟いた。
「……いや、何でも。……後で制裁だな、こりゃ」
「……? 後で正妻、……ですか……?」
微妙にずれたセイバーの言葉は、実に的確に二人の関係を予測するものである確率が高かったが、あくまで偶然の産物である。とにかくプログラムに着いて行くのに精一杯だったセイバーは、凛たちが来ていたことにも気付いていない様子だった。
「で、大丈夫そうか? 後半」
「ええ、……勿論です。意地でも持ちこたえて見せます」
強がりにも聞こえたが、その笑顔は爽やかである。疲労はしても、それは爽快を伴うものだからだろう。士郎はそんなセイバーの様子に安堵する。
「おっけ。これ終わったら、上がりにしようか」
「分かりました……では……頑張りましょう」
セイバーはそういうと、タオルを片手に立ち上がった。楽しそうな彼女だが、体力的にもそろそろストップをかけるべき、と士郎は判断している。
そう、この後は……運動の疲れを癒しに、美味しいものを食べに行くのもいいかもしれない。
あるいは、ちょっと喫茶店で休憩もあり、だろうか。
いずれにしても、いい時間を過ごせたことは間違いない。純粋にそんなことに感謝しながら、しかし。士郎の思考にはひとつだけ、だが、大いなる懸念が頭をもたげつつあった。
ロッカールーム附属の浴場には、銭湯顔負けの設備が整っていた。何でも温泉を掘り当てているらしく、露天風呂まで完備しており、ある意味スパと読んでもいいレベルである。
セイバーにもゆっくりしてきていい旨を告げ、彼自身もゆっくりと筋肉を温める。
(……まあ、少しは)
一緒に入りたい、という気持ちもなくはないが、煩悩はシャワーで洗い流すことにした。別に、それは夜でも構わない……もとい、もとより公共の場所では不可能が当然のことである。
風呂から上がれば、各種乳製品の自販機が完備してある。この辺り、設立者が「分かっている」としか言いようが無い。……なんとも、至れり尽くせりな施設である。
「セイバーにも教えとけばよかったかな」
風呂上りのこの味は、他に変えられないものがある。あるいはひょっとすると、先ほどの出歯亀少女達がセイバーに教えているかもしれない。
「さて、と」
さっぱりとドライヤーで髪をかわかし、ロッカーに戻って服を着る。さっぱりとした感覚は、運動→風呂、というコンボに特有のもの。こればかりは、何度味わっても爽快なものであった。
が、しかし。
対象的に、士郎を悩ませる問題は、解決には到っていなかったりするのである。いいアイディアはお手洗い、あるいはお風呂場でよく出てくる、という俗説があるが、必ずしも真であるとは限らないらしい。
「どうするかな、ホント……」
それは、即ち。
「いや、本当に興味深い時間でした。付き合って頂いて、ありがとうございました」
「楽しかったよな。そういや、体は大丈夫か? 大分動いてたし……」
「それならば問題ありません。もう魔力を戻してありますから、体の機能は何時も通りのはずです」
それならば、疲労困憊気味だったブートキャンプ直後と違い、今のセイバーが比較的元気であるのにも納得が行く。
「しかし、やはり汗をかくのはいいものです。自分の現状も把握できましたし」
「確かに」
それにしても、顔を真っ赤にして頑張るセイバーは非常に魅力的だった、と士郎は思う。いつもの彼女も、いつもと違う彼女も、士郎にとっては大切な人であり、そして、そんな彼女を見ているのが楽しいのだ。
(さて、……でも、二人分か……)
が、悩みは尽きない。そんなセイバーのためにも、是非会員になってあげたいのが本音である。
一人ぶんならどうとでもなるレベルではあった。だが、実際二人分、となると、家計上多少の努力が必要になる。
別にバイトを増やす分には問題ないが、ここでセイバーと一緒に居られる時間が削られては本末転倒もいいところである。実際、平日の夜にこれ以上仕事を入れるのは厳しいわけで、この上は休日に組み込むしかないのだから、その可能性は高い。
家計と娯楽のジレンマとは、物価高でなくとも人間を悩ませるものなのだ。
「……どうしました、シロウ?」
「ああいや、なんでもない。ちょっと遅いけど、メシ食いに行こうか」
但し、セイバーの前でする話題でないことだけは確かであった。週末の昼、しかも新都の繁華街とはいえ、お昼時を少し過ぎたこの時間ならば、レストランにも空きがあるだろう。取り敢えず、空腹を満たすこと。考えるのは、それからでも遅くない。
「いいですね。ヴェルデのレストランコーナーですか?」
「そうしよう。何がいい?」
スポーツ直後も、セイバーには関係ないらしい。更に目を輝かせて昼食に思いを馳せる彼女を見て、士郎もまた食事が楽しみになってくる。本日のデートは、大成功。士郎は、そんな確信を抱くに到っていた。
……ちなみに。
やはり、セイバーは疲れていたらしく、帰りのバスでは士郎に寄りかかり、すやすやと寝息を立てていた、という。
役得と、視線の痛さ。どちらが上回っていたかは、言うまでもない。
「で、どうしようかな、ってね。セイバーの分なら何とかなるんだけど」
自分の分はアルバイトします、と言うセイバーの意気を買いつつ、それくらいなら苦労はしないので、と、既にセイバーの入会は認めていた士郎だが、自分のをどうするか、というのが課題であった。夕食前の団欒期、彼は眼の前で煎餅を齧っている義姉との会話で登ったのは、そんなことである。
ちなみに、厨房に立っているのは遠坂凛。今日は桜もお役御免、凛には家人全員分の食材を自己負担させ、更に一人で全作業の中華フルコースを振舞ってもらうことになっている。もちろん、士郎の個人的制裁によることは間違いない。普通なら凛は決して飲まなかっただろうが、少しばかり遊びすぎた、という自責の念も多少はあったのか、それとも「今度という今度は屋敷の出入り禁止も考える」というレベルだった、士郎の強い覚悟が伝わったのか。割とあっさりと、凛はスーパートヨエツに走る結果と相成ったのである。ついでに余談だが、士郎の復讐ベクトルは、既に美綴綾子に向かいつつある。
「んー……ジムって、バビロンゴールドだっけ」
「バビロニア・ゴールドな」
「意味は変わんないじゃん。でもそれなら、問題ないよ」
「は?」
ばり、ぼり、と、派手な音が大河の口元から漏れてくる。セイバーはちなみに、お昼寝中。魔力では疲労は癒せない、ということなのだろうか、いずれにせよ、魔力無しの運動は非常に彼女の体力を奪ったらしい。
それは、それ。
「なんでさ。援助ならいいぞ? 自分のことは自分で」
「違う違う。あそこ、法人会員権もあるでしょ」
「……そういえば」
士郎は、従犯格の一人、黒豹の顔を思い浮かべる。確か、詠鳥庵の法人会員権を使っている、とか何とか。
「蒔寺がそんなこと言ってたな」
「あ、蒔寺さんとこもなんだ。うん、藤村組もね、法人会員だから」
「なるほど……って、ええ!?」
それは初耳、というより、ある意味驚愕の事実である。
「福利厚生の一環でね。まあ、背中に龍書いてあるような人は使えないけど……」
が、最近はインテリヤクザなる存在も居るくらいだし、桜や龍もプリントで派手なのが可能、という事情もあったりする。そんなわけで、法人会員を用いてのジム通いをしている組員も多いのだ、と、大河は語る。余談だが、背中に龍が彫ってあるような組員の福利厚生も手厚く、野球のシーズン券や契約旅館など、それなりのものがあるらしい。
しかし、それにしても、である。
「よく会員になれたな……。それも、法人だろ?」
果たして「藤村組」という法人があるのかどうか、という疑問もある。それに、いくら庶民の味方、八九三と言っても昔気質の組である藤村とはいえ、この街では通った名前の侠客一家をすんなり受け入れたのか、という謎も大きい。士郎が驚きを隠せないで居ると、大河は簡単に事情を話してくれた。
「だって、法人のほうがオトクだし。確かに、ちょっともめたんだけどね。でも、話の分かる社長さんが対応してくれて、見事に会員権をゲットした、ってわけ♪ 土地の一部を売ったのもウチだしねー」
随分と楽しそうな大河だが、士郎は唖然とせざるを得ない。彼女のことだから恐喝その他は決してしていないだろう、という確信はあったのだが……。
「そういえば、随分と若い社長さんだったわね。士郎とセイバーちゃんのことも、ウチの会員権で行けるように頼んどいてあげるわよ」
「随分と、若い……?」
どくん、と、胸騒ぎがした。
バビロニア・ゴールドジムという名前。
随分と若い……社長。
「……若い、社長?」
「むしろ、幼い? でもハーバード出た実業家さんなんだって♪ やけに意気投合しちゃってね。何かあれば連絡下さい、って言ってたし。
じゃ、電話借りるわねー。話つけてくるから」
大河は席をたち、麻婆の香りが充ちつつあった居間を後にする。
残された士郎には、見たことも無い「金髪の若社長」の姿が、やけにはっきりとイメージされて仕方なかった。
「社長、藤村大河様からお電話です」
「ありがとー。回してくれる?」
新都、林立する近代的ビルの一角。バビロニア・ゴールドジムを経営する会社のオフィスは、深山までも見渡せる好立地を占めていた。
その、社長室。金髪の、少年としか呼べないような幼い顔立ちの彼は、デスクに回された電話を取る。
「あ、どうもこんばんは。前に御世話になった大河です。今、宜しいですか?」
「構いませんよ。どういったご用件でしょう?」
「ええとですね、ウチの会員権なんですけど、ウチの社員じゃなくても使えるように出来たりって、します?」
少年社長は、苦笑せざるをえない。勿論のこと、普通は無茶な話である。
だが、と、彼は考えた。彼女、藤村大河の縁者を考えれば、もしかすると――――彼からすれば、無理を通さなければならない人物のことかもしれないのだ。
「普通は無理なんですけどね。差し支えなければ、その方の御名前を教えていただけますか?」
「あ、はい。えーと、衛宮士郎っていうのと、セイバー……なんだっけ、えっと、アルトリア・セイバー……」
「ペンドラゴン?」
「あ、そうですそうです。……あれ、知り合いでした?」
「いえ、……そうですね、まだ、知り合いというわけでは。
ですが、そのお二方ならなんとかしましょう。大河さんのたっての願いとあれば、無碍にするわけにも行きませんからね。あとは、お任せ下さい」
「ホントですか? ありがとうございます♪ このお礼は、またいつかさせて頂きますねー」
「楽しみにしています。それでは」
相変わらずユカイな人だなあ、と、電話を切りながら彼は微笑した。そのまま、彼は内線のボタンを押し、事務方へと連絡事項を伝える。
「あ、ちょっといいですか? 藤村組の法人会員権なんだけど、申請が来たら、二人登録を増やしておいてください。ええ、名前は、衛宮士郎と、アルトリア・セイバー・ペンドラゴン。それじゃ、よろしくお願いします」
受話器を置いた少年に、秘書と思しき女性が声をかける。会話の断片から、内容を想像したのだろう。
「社長、宜しいのですか?」
「ええ、普通はダメなんですけどね。でも……」
金髪の少年社長は立ち上がると、遠くに見える深山の方角へと、その紅い双眸を向け、笑顔を浮かべた。
「ちょっと、迷惑をかけてしまった人たちです。それくらいのことはしてあげないと……まあ、罪滅ぼし、ですね」
「はあ」
そんなものか、と思ったのか、女性秘書はあっさりと疑問を取り下げる。
勿論のこと、その影に生死を賭した戦争があったことなど、彼女には知る由も、ない。
「あ、士郎、オッケーだって」
「ホントか? ありがとう藤ねえ、助かった!」
士郎の声は、本心からのものである。これで家計へのダメージも、バイト増加も考えなくて済むというものだ。
「礼には及ばんよ、少年。うん、ちょっと毎日のご飯に心づけ、そう、気持ち小鉢が増えてるくらいで大丈夫」
「……無茶を言うな、無茶を」
セイバーもきっと喜んでくれる、と、士郎はそう確信している。
こうしてまた、士郎とセイバーのデートに、定番のひとつが加わった。
――――そして、それ以来。
時折週末に顔を見せる天然バカップルが、ジムの密かな名物になった、という。
お待たせしました! ようやくお届けする事が出来ましたw 楽しんで頂ければ幸いです。
や、オチがですね、中々決まらず……。最初のはどうもしっくりこない、ということで、予定を変更して悩んで悩んで、ということをしていたりしたのです(苦笑)。
結局、某金子供さんに出ていただきましたw ちなみに以下はあくまで脳内二次設定ですが、彼は英雄王のオトシダネ、ということになっておりますw ただ、「サーヴァントの子」という特性上か、早熟な上にどこかパスも繋がっていて、父の記憶をある程度受け継いでいる……なんてことを考えていたりするのですよ。ちなみに、それゆえにこそ、絶対自分はそんな大人にならない、と誓っているのだとかw
早熟ゆえ、父の残した潤沢な資金を活用して早々に海外留学、異例の飛び級で大学まで出て会社を立ち上げ、リゾート経営などで大成功。聖杯戦争直後あたりから、故郷でも事業を展開している……という裏設定ですw まあ、ツッコミどころ満載ですが、そんな与太話を頭に置いていただければ幸いですw ちなみにこの後、某スキー場で二人と顔を合わせることに……w 詳しくは、前のSSをどうぞw
ちなみに、三枝さんが出ていない理由は、自主トレの必要がない上、会員権も持っていないためです(苦笑)。そして、書き上げたあとで若干後悔。……えー、プールのパートも作って、スク水やれば良かったなあ、なんて(爆)。まあ、それは夏に置いておきましょうか?w
ところで、……藤村組って、指定暴力団なんですかね?www
それでは、御拝読ありがとうございました! m(_ _)m
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