妹よ。お前は大切なことを知らない。
お前がアーサーで在る限り、聖杯を手に入れることは、叶わないのだ。
無限とも思える戦場を過ごした。限りなく短い時間を旅した。いつもいつも後一歩の所で手が届かない。世界がそれを拒むかのように、届きそうで指先がそれる。あらゆる戦地に呼び出された、聖杯がない場所も、数え切れないほど。ただ望みを叶えるという、噂だけでも呼び出される。その度に、多くの者を手に掛け、それを超える回数の死を経験した。
剣が手の中にあることなどはまれで。呼び出された先に、体が用意して在るわけでもなく。半ば凍り付いた意識のままで、獣の御霊の様に人に宿る。ただ方向性を示すだけ、用済みになれば、世界は端末として切り捨てる。そうして舞い戻るのだ、激しい吐き気と頭痛の最中に。死に行く肉体と、失せてゆく心の抜け殻。凍えそうな虚無感。朦朧とした意識が、ただ最期の瞬間に望んだことだけを繰り返す。
我が手に聖杯を。
我が手に奇跡を。
ブリテンに祝福を。
そうして、呼び出された先でも、それに支配されるのだ。
最後に抱いた最も強い感情、世界の意思すら呼び寄せる、激しい渦。根源に戻ることすら拒む、人間の底力。ただ方向性だけがおかしくて、妄念に支配されたまま、今宵も人の終わりを見つめている。犯されている様なものだった、繰り返し、繰り返し。やがては摩耗することが目に見えている。そうして、ただ使役されるだけの妄念に様変わりする。
それが、終わったのだ。
『――――――見つけた』
星明かりすらない夜に、温かなそれに辿り着いた。その時に感じた感覚を、どう表現すれば伝わりやすいだろうか。喜びと言うには衝撃が強すぎて、驚きと呼ぶには胸に迫る。長くて短い旅路の果てに、ようやくその輝きに導かれた。
暗く重たい雲の下、時代に似付かわしくない戦場の香り、必死に喘ぐ少年と、懐かしすぎる彼女の姿は月光に照らし出されて。
山査子の根本、眠る妹の躯より伸びる細いライン。呼び出される戦場は、いつも彼女の求めた秘宝の傍らで。
叫んだと思う。激しい震えに身を任せて。何を叫んだかまでは憶えていない。だが、それでも確実な事がある。ようやくなのだ、愚かな娘。愚かで愛しい妹。無限の責め苦から解放されて、ただ一人の安らぎに抱かれることが出来ると。喜ばしいことだった、堪えがたい歓喜が我が身を支配する。少年に抱かれる彼女を見ても、温かなそれしか湧き出さなかった。森で、屋敷で、閨房で。彼女は常に娘らしさを見せていた。それだけでも、時を越えて追いかけてきた価値があるという物。
少年は失われた剣を手に、己の謀略により失われた鞘すら手に、“絶対”に立ち向かった。泣ける物ならば泣いていただろう。此処に鞘と剣が揃っている。これほど強く輝きながら、対を成して光っている。
鮮烈な輝き、それはまるで星の光に似て、まるで稲妻のように、遠い水面に照り返されるだろう。マーリンが、あるいは、ヴィヴィアンがこれを見逃す筈がなかった。闇夜を吹き散らし、暗雲を切り裂いて、暗い霧の海を越えて尚届く鮮烈な光。祝福あれかし。見よ、此処にアーサー王は復活を遂げる。
――――――そう、思っていたのに。
『何故だ! 何故手を放す!』
『――――――』
『答えなさいアルトリア! それほど想い合って居ながら―――何故!』
『…………彼を愛しているから、私は、彼処に居られない』
蕩けるような笑顔。幸せそうに、はにかみながら。
嬉しそうに、気の狂った言葉を。
血を吐く思いだった。愚かな妹よ。何もかも捨てて男の元に走ればよい物を、王であると言い、がんとしても聞きはしない。誇りがあった、祈りがあった、何より互いの想いがあって、此処に離別が選択された。
馬鹿馬鹿しい。父親を見習え。人妻すらも寝取ってしまうだけの情熱は評価しがたいが、この有様を見る限りお前が継ぐべきだった。
傍らから彼女が消える。世界との仮契約もこれで終わり。アルトリアは報われないまま、根源の渦に帰る。いやさ彼女のことだ。渦に帰ることなく、そのままの姿で守護者として行使されるだろう。契約も何も必要はない。アルトリアは英雄なのだから。
それを許しておけるのか。
否。
それを放置できるのか。
否。
ならば、出来ることは何だ。
我は魔女、時を越えた自我にしてブリテンの守護者。そして何より、血の繋がった唯一の生き残り。喩え肉体は死すとも、その愛情は彼女に注がれる。
だから門を作る、傍らの聖杯に鍵を。本は自ずと持ち主を捜すだろう。銀の林檎が実るとき、語られる言葉は願いのみ。
剣よ。
そうだ、剣よ。今一度呼んでくれ、あの娘を。鞘が待っていると、己に焦がれていると。
あの愚か者に教えてくれ。
かちりと、鍵の開く音がする。背筋に走る直感に、ペンを止めて、空を見上げた。未だ雲間に星は見えず、何処へ行こうにも、道しるべとなる物は無い。時間はなかった、だが、確信めいた物がある。無限の時間を彷徨うとも、英霊ならば時に捕らわれることもない。空を駆ける鳥よりも自由に、あまたの可能性をしらみつぶしにして当たることが出来る。喩えそれが星の数ほど在ろうとも。
再びペンを動かし出す。奇跡とは滅多に起こらない、あり得ざる事柄を指し示す。それは、到底一人の祈りでは届かないものだ。
しかし、と、内心首をかしげた。我々は幾たびもそれを目の当たりにしてきたのだ。確かに綿密な調査と計画の元ではあるが、それでも敗戦が確実とされた戦争。それを十二度も繰り返したのだ。それが運などで片付くことならば、いつ終わりになってしまっても、おかしくはなかった。
ならばと考えを変える。一人の祈りで届かないのならば、大勢の声を世界に刻み込めば良い。それは、残された力を使わずとも、容易く成し遂げることが出来るだろう。ただ文字に残せばよい。歴史が変わる度に現れて、英雄を導けばよい。彼女の再来だと民に吹き込んで、遙か剣の再来まで伝承を保たせれば良い。そうすれば――――――いかなる形であれ、願いは力となって彼女の呪いを打ち払うだろう。
国とは王国のことではない。土地と、其処に生きる民こそが国なのだ。ならば、たとえ時が移り変わろうと、人種が変わろうとも同じ事。ブリタニアは確かに其処に。永遠に存続する王国が誕生するのだ。
書きつづった文字がいつ効力を発揮するか、それはどれほど星を睨み付けたところで判らなかった。ただ、呆れるほどの時間が流れてからだと、それだけは読み取れる。己の目に映る星だけでは、遙か未来までは見通せそうになかった。ただ、伝承さえ生き残れば、物語は世界に散文していく。多くの人が彼女のことを思うだろう、かつてありやがて蘇る王の伝承。ただ、私欲のためでは理由が弱い。思いつくままにブリテン島の危機を救うと記しておく。ほくそ笑んだ、いずれ再来する彼女は、己の望むと望まないとに関わらず伝承に縛られるだろうが、その程度の制約は甘んじて受けるべきだろう。
そうして、不意にそれを幻視した。
遠く、鋭い剣の音と、紅の槍、巌の如き肉体、黒白の双剣、輝ける天馬、荒れ狂う魔力、黄金の鎧。懐かしさで叫びたくなるような感情と、置き去りにしたはずの彼女の影。
何を見たのかと、額に手を当てて頭を振った。送りつけられたイメージは遠く、遙か星屑すら降り積もる時の彼方よりのもの。だが、確かにそれを見た。
見つけたのだ、モルガンは確かに。
砕かれたウーサーがカリブルヌスの後継を。
鍛え直されたカリバーンの姿を。
――――――見いだしたのだ、
彼女が拠り所とした、奇跡の所在を。
星が出始めていた。辺りを深く包んでいた霧は、緩やかにその領域を狭めていく。水平線の彼方に目を懲らした。眉を寄せて、目を細めて。どれほどの弱い光であろうとも、決して見逃すことだけはするまいと。またしばらくの時が流れていく。幾度かの光はおぼろげで、剣の光と呼ぶにはほど遠い。だが――――――
「来たか――――――」
――――――時空を超えて、輝きが空を照らし始める。妖精郷を渡る船の道標となる星が、北の空に弾けて開いた。焼き尽くすように光が雲を払っていく、あまりの光景に呼吸すら忘れた。水平線の直上に輝く黄金の星、長く水面に姿を写したそれは、まるで黄金の剣そのものの様で。
「――――――でかしたぞ、モルガン・ル・フェイ……!」
確かに有り得たのだ。無限の無念を繋いだ先に、彼女を望む者が。
鳥肌が収まらない、喜びと、僅かな畏れに体が細かく震えている。舳先を向けた。目指す場所は遙か遠く、時すらも越えなければならない。だが畏れも迷いもなかった。艪を力の限り動かすと、フードを跳ね上げて歯を食いしばる。
「…………夜明けは近いな、アルトリア」
この場は現世の理とは遠い、だが、それでも体に刻み込まれた理に、汗が噴き出してくる。マントを脱ぎ捨てた、風をはらんで船縁に落ちたそれが、鳥に変わってアルトリアに水差しを含ませる。横目でそれを確かめると、唇の両端を僅かに持ち上げた。
「生きろ、もうじき朝が来る」
船よ進め。金色の剣の元へ、微睡みの終わりは近い。
剣よ誘え。求める者の元へ、微睡みの終わりは来る。
「金砂の剣」
Presented by dora 2007 11 16
オルゴールが独りでに動き出す、紡がれるメロディーライン、まるで眠りを誘うようで心地よい。ぱかん、と、小気味の良い音を立てて蓋は開いた。何時の間にポケットに入れていたのかも判らない、何をしても開かなかった、身に覚えのない持ち物。黄金で装飾された銀細工のそれは、時が来たのだと告げているのだろうか。
「――――そっか、帰ってくるんだ」
彼女がやってくる。遠い日に見た姿と、昨年見た姿と。それから、見知らぬ姿。
「じゃあ―――がんばらないと」
誰に語りかけるでもなく呟いた。
目を閉じれば、ありありとその時のことが思い出される。世界の修正を逃れるために、意識の裏側に書き込まれた彼女の声。時と空間の固定には、膨大な魔力を必要とする。それを成すために己が必要だと、切々と語る古き魔女。
生きていられる保証はない。と、言われた。無理をすることはないとも。
だが、やらなければ彼が壊れてしまう。世界で一番彼女を望んでいるのは彼で、ワタシにとっては、シロウが一番大事なのだ。
だったらやるしかないだろう。
「なんだか、怖いね」
それでも、やるのだ。愛した、たった一人の大切な家族。優しくて、大きくて、誰かが傍らにいないとすぐに錆び付いてしまう鋭い剣。
ワタシを迎えてくれたシロウ。暖かく包んでくれたシロウ。優しいシロウ。
本当は、己が傍に立っていたかったのだ。けれども、それが叶わぬ願いであることは自身が一番よく知っている。内側から削られていく実感、長く保ってもあと五年は生きられないだろうと思う。早ければ、次の冬を越えることが出来ない。時折思い出せなくなる事柄もあった、緩やかにではあるが、摩耗を体にも心にも感じられている。
「ワタシは、死にたくない」
そうだ、無茶をすれば寿命は縮まるだろう。それは、一緒に過ごせる時間が減ると言うことで。耐えがたいジレンマ、彼のために在れば短くて、見過ごせば罪に苛まれる。
それでも長く傍にいたかった。喩え目が覚めているのが、湯が沸くよりも短い時間になったとしても。それでも、彼の愛情に包まれていると、実感していたかった。
息が震える、浅く弾んだそれ。だが、と、思いとどまらせる心も確かにある。そしてそれは、恐怖すら押しのけるほどにの深い愛情に包まれているのだ。
――――――シロウのために、
今のワタシができること。
人の死はかけがえのない物だ。一生に一度だけのそれを使って、ワタシはシロウを諭す事が出来る。きっと、彼は遠くへ行ってしまうだろう。それを、押しとどめる事が出来る。この国に、この街に、この家に。そうしてそれは、ワタシだけにしか、出来ないことだ。
『イリヤも一緒に行けばいいだろう』
それは叶わぬ望みなのだ。後一年もすれば、半日起きていられなくなる。眠りとは安らぎの時ではないのだ、己にとっては只の断絶、光があるか、途切れているか。もう一年経てば、まともに歩けなくなる。早ければその時に、運が悪ければ、眠り続けたまま消えてしまうかも知れない。だから、最後に目を閉じたときが、この世との離別になる。
叶わぬ夢、魔力でどうにかなるのなら、とうの昔に体を書き換えている。そうして、彼と一緒に旅に出るのだ。
なんて幸福な夢。
なんて切ない悪夢。
届かないと知って、祈る奇跡もなくて。世界ですらワタシを救えないなんて――――――
「――――――はっ、っは、は」
乱れる、恐ろしくて、息が乱れてしまう。だって届かない。そうなってしまっては、彼の声も届かない。ワタシの声も届かない。
死は終わりだ、万象から切り離されて根源に帰る。原因も結果もない、ただの渦に落ちる。そうなれば、ちっぽけなワタシの自我など、瞬き一つも保てない。
だめだ、そんなのはだめだ。届けなくちゃいけないのだ。貴方が傍にいることを望んでいる人が居ると。この場所にシロウが必要なのだと。それを、どうにかして伝えなければならないのだ。
だから細く長くではだめ、やるんだったらもっとインパクトのあるやり方を。シロウには先に長く保たない事を伝えておいて、突然燃え尽きるような生き方を。
虚空を睨み付ける、かちかちと歯の根があわない。血の気なんてとっくに引いて、今にも貧血で倒れそう。そこまで力を使う自殺行為、ワタシには、自力で何て出来そうになくて。
だから好都合、後のことは、彼女に頼めるのだ。
悔しくて、もどかしくて、それでも頼るしかなくて。
なんて嫉ましい、なんて好都合、なんて憎らしい女なのだろう。
殺してやりたいぐらい、ありがたくて涙が出そうだ。
混沌としている、答えなんて纏められそうにない。震えていた息を徐々に深く、長く。
――――――大切な弟。愛しい私のシロウ。
「シロウは全部我慢してるんだもの、ワタシが、頑張らなくちゃ」
そうだ。彼は堪えたのだ。
壊れそうになっても留まって。逃げ出したくても踏み込んで。
彼は堪えたのだ。彼女に会いたいのに、会えないと知っても。
それでも生き続けると歯を食いしばった。
家族が居ないのは彼もワタシも同じ。新しい家族を亡くしたのは彼だけ。愛した人を亡くしたのも彼だけ。だったら、負けてなんか居られない。
「ワタシは、お姉ちゃんなんだから」
だから、ワタシが彼の未来を勝ち取るのだ。消えてしまう事を引き替えに、己の人生を天秤に載せて。それと釣り合うだけの喜びを、我が手にするために。彼の笑顔が見たかった。彼の幸福を望んでいた。きっと、遠くにいる死んでしまった彼も、切嗣もそれを望んでいる筈だ。
それでも組んだ手が恐怖に震えている。死は何よりも恐ろしい、何もかもが失われて、この世から消え去ってしまう。ただ人々の記憶の片隅に埋もれていくだけで、そんなのは嫌だった。
「は――――――だから、負けたくないのよね」
だから負けられない。笑って去ったという彼女、最後に言い残したという彼女。ただ記憶の中に有ればそれでいいと、彼を信じて己を殺したセイバー。
負けられない。
負けられない。
負けられないのだ――――――
震える体をかき抱く。止まれ、震えよ、止まれ。もういい、止まらないのなら知ったことか――――――!
『“聖杯の寄る辺に従い第一のマスターが命じる――――――”』
全身に浮かび上がる、回路と一体化した無数の令呪。従わせる事に特化した、アインツベルンの呪い。マキリのそれとは一線を画するその全てを、此処に注ぐのだ。僅か一画だけでも、一瞬ならば空間の跳躍、時間流の制御すら可能とする魔力量。それを、ありったけの望みと共に注ぎ込む。
怖い。
怖いよ。
だから。
――――――ワタシを守ってね
バーサーカー、ワタシの騎士。
『“――――――門よ開け、掛け金を砕き、此処に導かん!”』
僅かなロスですら、城のテーブルが跡形もなく燃え尽きる魔力量、光の柱は天井すら貫いて星界に至る。微塵に砕けたオルゴールは世界に溶け、何処か遠い海に、まらうどの船を呼び寄せる。
ばちんと千切れる感覚、何が切れたのかは判らない、ただ、経験したことのある苦痛が襲いかかる。
「は――――――!、!」
食い尽くされる魔力、底が見えたのなら、その底すらも供出せよと言わんばかりの陰圧。何もかもが吸い尽くされそうなその痛みは、彼を呼び出したときに似て懐かしい。引き裂かれる幻痛、何もないところに茨が絡み付く。十本目の腕に開いた目に、茨の棘が突き刺さる様。
「ぎ、あ、あ――――――」
――――――耐えられない。
ばりばりと引きはがされていく、灼熱感、握りしめた何かに肌が鑢掛けされているよう。苦痛に負けて椅子から転げ落ちた。異変に気がついて、二人のセラとリーズリットが駆け寄るも、荒れ狂う魔力の渦に阻まれて手を伸ばすことが出来ない。
――――――堪えられない。
胸を掻きむしる、喉から意味を成さない音が漏れる。誰かに似ていると思った。こんな風にいつも地に落ちて血に塗れる。まるでシロウそっくりだと。
――――――越えられない。
歯を食いしばって、目を開いた。仰向けだった体をうつぶせに、手を伸ばして、絨毯を掻きむしる。何か手がかりが欲しかった、その手に握りしめる、手がかりが欲しかった。けれども、何も届く範囲には無くて。
――――――負けられない。
つまるところ、頼りになる物は無くて、頼れる者は遠くて。
頼れる者にこそ、慈愛を授けなければいけない場面なのだ。
ばり、と、噛み締めた歯から音が鳴った。負けられない。そう、負けられないのだ。
「こ、の――――――」
がくがくと言うことを聞かない腕に、魔力を通す。まるで彼の焼き直し、シロウの真似をしてこの身を保つ。誰にも負けられない。この程度の苦痛、シロウは魔術を使う度に受けている。それに、とうの昔にワタシは経験している。だから負けられない。苦痛などには負けられない。決して代わりになれないとしても負けられない。負けない、セイバーに負けるわけにはいかない――――――!
「この、バカセイバー! 来るなら早く来なさい、いつまでも待たせるなんて騎士失格なんだから!」
生涯において、一度だけ奇跡を願えるのだとしたら。
どうか――――――
大学受験の最初の山場を越え、ほっと一息付ける。自己採点では十分に合格範囲内だった、問題は、自分より上がどれだけいるかって事で。合否発表は十日後、落ちていなければ、二次試験は二月の中旬だった。
まあ、そもそも本当に中央で正義を振りかざそうとするのなら、こんな地方大学の法学部など受けはしないだろう。甘いかも知れないが、それだけで勝算は高くなる。やることはやったのだから、と、深くは考えず、次の試験に向けて支度を始めていた。
ここしばらくはアルバイトにも行っていない。それだけの時間があるのなら、せめて勉強に回せとネコさんに呵られてしまった。実際の所、それほど資金予算が苦しくなっているわけでもなかったので、頭を下げて休ませて貰うことにする。通帳を確認して、ほっと一息着いた。遺産に手を付けずとも、まだしばらくは食っていくだけの余裕がある。
「毎年この時期は戦争だな」
ふとした呟きに思わず笑った。確かに言葉の通り、一昨年は何だったか忘れたが、去年は聖杯戦争で、今年は受験戦争。学生だって、受験戦士なのだ、と言い張れば少しはかっこいいかも知れない。
「……そうでもないか」
何と名乗ったところで学生は学生で、勉学とスポーツと友愛に生きる者。
青春の象徴。鳩と同じぐらいの典型的な、平和の象徴なのである。
屋敷に戻ると、ぶっちがいに板を張り付けられた土蔵を見上げた。門は壊れて開きっぱなしだから、隙間を潜ろうと思えば行けない事もない。入らないのはただの義理だった。
「…………まあ、此処にいると無茶するから。っていうのもわかるしな」
事実彼女の言う通りなのだ。
此処でだったら何でも出来る気がする。土蔵でならば、普段出来ないことも出来る気がする。そんな有利条件が、無意識下に刷り込まれているかのよう。だから、いつも容易く限界を超えて失敗するのだ。
まあ、血塗れとは言え、今回は成功だったのだが。
すっかり雪崩れたがらくたに埋もれてしまった剣を捜す。首を突っ込んでぐるりと見回せば、明かり取りの光が差し込む真下にそれがある。
「――――――」
息は震えている。出来るとは思っていた、出来ないはずがない、とも。ただ足りないのだ。この剣は只の剣で、どれほど美しいといえども完璧ではない。
「だな、この剣には、持ち主が居ないと」
そうでなければ完璧と呼ぶにはほど遠い。そう思って、イリヤに頼んだ。これぐらいの大理石が欲しいんだけど、と言うと、アーチャーに壊されて以来、ほぼ手付かずだから幾らでも転がっていると言われた。
翌日には、台座が此処に据えられた。これぐらいの、と出した注文に、完璧に応えられた台座、玉座と言っても良いようなその風格。今はがらくたに埋もれているが、正面には真鍮板が打ち付けてある碑文すらも刻んである。曰くこの剣を抜きし者はブリテンの王たる者である。と。
刻まれたスリットに剣を納めた時の感慨は、何とも言い難い。きっとマーリンも同じようなことを考えたのだろう、なんて、イリヤと冗談を言ったりもした。
遠坂には、まだこの成果を報告していない。だって喉に浅い裂傷、直腸からの出血、鼓膜の破損、尿道出血。ぼろぼろすぎて叱りつけられてしまう。虎が医者を呼ぶまでの間に、イリヤが治してくれなかったら、即入院コースだったらしい、場合によってはあちこち開かれていたとも。シロウの開きになってたかもね。だなんて、おっかなすぎて御免被る。
剣は、台座に固定した瞬間に抜けなくなった。比喩表現ではなく、まるで接着されているかの様に抜けなくて。体を強化しても抜けず、うっかりすれば台座ごと持ち上がってしまう始末。困ったぞ、錆びたりしないように鞘作って、あっちに刺したりこっちに納めたり抜いたりして、にやにやしながら楽しむつもりだったのに。これじゃあもう、崇拝の対象みたいになってしまったじゃないか。そうなることを厭って、わざと想いを貶めて居たのに。
「ま、やっちまったものは仕方ないよな」
苦笑を頬に刻むと、踵を返した。そろそろ夕食の支度を始めなければいけないだろう。期末テスト間近になって、桜も遠坂も皆顔を出している。まるで一年前の焼き直し。一つだけ顔が足りないが、まあ、それだけは仕方があるまい。望んだ所で叶わぬ夢だ。
「――――――で、ここでこの公式を当てはめるの、そうすれば自然と解けるでしょう?」
「なるほど……ありがとうございます!」
「気にしないで、士郎は?」
「んー、今のところは聞く事ないな」
「そう? じゃあ頑張って」
夕食が済むと、自然に学生は勉強モードに突入する。ここ数週間はずっとこんな具合だった。珍しいことに、今日はイリヤが顔を出さなかった。藤ねぇの言うところによると、どうやら城の方で過ごしているらしい。珍しい事があったものだと遠坂と顔を見合わせた。イリヤも、『城は静かで良いところなのだが、寂しいから』と、屋敷に入り浸っていた。そもそも藤村の孫娘みたいな扱いを受けているのに、今更何をしにいったのだろう。そう思って訊ねてみると。
『なんか他に言ってたか?』
『んー。なんかねえ、近いうちにお客様が来るかも知れないんだって』
『…………そりゃまたほんとに珍しい』
来客か、あんな僻地に用があるなんて、いったい何者なのだろう。アインツベルンの古城について知識がある人物なんて、聖杯戦争の関係者ぐらいしか思いつかないのだが。あるいはイリヤの実家から、誰かが訊ねてくるのかも知れない。
「ねえ士郎」
「んー?」
意識をノートに引き戻して、公式とにらめっこする。正直な話、ここしばらくで伸びたのは英語力だけだった。苦手とは言わないが、数学もそれ程得意とは言えない科目なのだ。できれば話しかけるのも後にして欲しい。ええと、これが、こうだから、ええと……
「その前に遠坂、此処にコレ代入か?」
「んー? うん、そう」
「よし、じゃあ解はこうだな。で?」
だいたいの方向性は掴めた、これならば、それなりに持って行けそうだ。がらりと話を引き戻して、遠坂の顔に目を向ける。
「へあ? と、ああ、そうそう。桜にもなんだけど、紅茶入れてあげよっか?」
突然話を戻されて混乱したのか、僅かに彼女の眼鏡が下がり、そのまま外されて微笑みが見える。提案はとても温かな物で、断る理由なんて何処にもない。
実に有難い事だ。
「お、サンキュー」
「え、私もいいんですか?」
「もち、余裕があるのは私だけみたいだしね。サービスしてあげる」
「ありがとうございます!」
「じゃ、ちょっと待ってね♪」
そう言うと、遠坂は湯を沸かしに台所に消えた。
「ポットに沸いてると思うけど」
「だめ、一度目の前で沸騰してないお湯なんて信用できないんだから」
「そっか」
奥から飛んでくる言葉には、気の緩みなんて一切無い。コレでもかってぐらい完璧な奴を出すつもりだ、まったく手を抜かない、ゴールデンルールすら上回る温度とグラムとタイミングで。
「ではでは、楽しみにさせて貰いましょうか」
と、茶箪笥からクッキーの箱を取り出した。ふとした拍子に桜と目が合う。何かを言いたげな眼差し、だから、アイコンタクトは通用しないって言ってるだろうに。しきりに両手が脇腹を気にしているようなのだが――――――はて?
「――――――食べる、よな?」
「――――――っっ!!?」
なんだその顔、ええと、喜んでいるのか驚いているのかショックなのか、どっちかと言えばマイナスよりか?
「……勉強するなら糖分も必要だと思うのだが、間桐軍曹は如何に思う?」
「…………そのとおりだと、思われます。衛宮曹長殿」
OK、実に良いノリだサージェン。
だけども、どうして声が沈んでいるのだろうか――――――?
――――――十時を回った。
これ以上遅く、女の子を家には置いておけない。今日はここまでね。と、藤ねぇが宣告する。ぱたぱたと帰り支度をする面々、藤ねぇに留守番を頼むと、自分も部屋から上着を取ってくる。
「それじゃあ先生、お先に失礼します」
「はーいお休みなさい遠坂さん、桜ちゃん、また明日ね」
冷たい風に負けないように襟を立てて、坂道を下っていく。和やかに話をする二人の、僅かに後ろを付いて行くように。この位置がもっとも対応しやすいのだと、幾度かのトラブルで学習していた。真後ろでも真横でも、無論真ん中も真ん前でも駄目なのだ。駆け出せば二歩ほどの距離、大概の事には対応できる。
「それじゃあ先輩、おやすみなさい」
「ん、お休み桜」
「お休みなさい、また明日ね」
先に到着するのは桜の家で。
今ではたった一人となってしまった家に、桜は寂しげな歩調で消えていく。それを何とも言い難い表情で遠坂が見送っていた。
「行こう」
「――――――ん、結構今日は風が冷たいわね」
坂道を上りかけると、不意に遠坂が屋敷を見下ろした。窓に映る灯りは一つだけで、それすらも何処か陰鬱に見える。屋敷の醸し出す気配故か、女の子が一人で住むのに、あの家は広すぎると思った。
それは、遠坂の屋敷にも彼女にも、そっくり同じ事が言える訳で。
「たまには家にも来れば…………ううん、ダメね。桜は間桐の後継者だもの」
「俺のトコはいいのか?」
「衛宮くんの家は非戦闘区域みたいな物よ、はっきり言って珍しいわ、こんなに仲の良い土地なんてね」
「そうなのか?」
「ええ、余所の霊地なんて身内でも殺し合いに発展するのにね」
「物騒な話だ。俺はそんなの、嫌だな」
「私も嫌よ、だから今の状況がとっても気に入ってる。でも――――――」
そこから先は、言わずとも伝わることだった。
この関係も、春の訪れと共に終わりを告げるのだ。俺も遠坂も卒業して、遠坂はロンドンへ、俺も学園に用が無くなってしまう。そうすれば、桜も家に来る理由が無くなるだろう。藤ねぇの世話だったら、俺一人で十分だ。
それぞれがそれぞれの道を進んでいく。だけども、それは決して離別ではないのだ。だから――――――
「なあ遠坂」
「なに?」
――――――この一年。ずっと気にしていた事を訊ねてみた。
「桜とはさ、只の先輩後輩じゃないんだろ?」
「――――――」
かまをかけてみただけだった。ただ、何となくそう思っただけ。だってそうだろう、遠坂は、余りにも桜のことを気に掛けている。話を聞く限り、遠坂の家と間桐の家は不干渉を基本にしていた様だ。それは、慎二と遠坂の会話からも推し量れる。他にも、女だからって理由じゃ弱い。中学も違う、師も違う、部活も違う。だって言うのに、遠坂は二年の春から桜を気にしていた。理由がない方が、おかしいと思うだろう。
「別に、言いたくなきゃ言わなくて良いけど」
「――――――」
短く言って、踵を返す。三歩進んだところで、振り返って戻って来た。遠坂はその場から動かない、片手を胸に押し当てたまま、間桐の屋敷を見下ろしている。一度も見たことのない様な複雑な感情が、瞳に揺れている。
「俺が言える事じゃないかも知れないけどさ」
「いいわ、聞くから」
「言わずに、まあいいか、って済ませるよりは、言って、やっちゃった、って思う方が何倍も良いと思うんだ」
「そう」
素っ気なく遠坂は言うと、大きく息を吸って、震える息を吐き出した。
「――――――そうね、後悔するよりは、良いかもね」
覚悟を決めた、強い感情が其処にあった。
「ありがとう、衛宮くんには本当に感謝してるの」
「俺はなんにもしてない、助けて貰ってばかりだ」
「そういうことにしておくわ」
「ん」
「お休みなさい衛宮くん、良い夢を」
「お休み遠坂、寝坊すんなよ」
鉄扉の向こうと此方で、強気に笑いあって別れを告げる。家に戻る頃には、十一時になっているだろう。星空を見上げれば、己の白い息が雲の様に風に流れていく。そのままの姿勢で、空を見つめた。
坂道を下っていく。時折行き過ぎる車のライトが眩しくて、時折見かける灯火が、団欒の象徴のようで眩くて。どこか、遠い景色だと思わせて仕方がない。
「お――――雪か」
白い物が舞っている、始め、あまりの儚さに灰かと思ったほど。細かくて、脆くて、星空に雪とはなかなか珍しい取り合わせだ。何処かから吹き飛ばされてきたのだろうか。
珍しい異邦人に、僅かな間脚を止めた。見上げた空に輝く星々、そこから、まるで星くずの様に降りしきる迷い雪。それから連想するのはイリヤだった。だが、其処に星空が加わるとなれば話が変わる。晴れているのに吹き付ける雪は、肌に触れると淡く溶けて消える。愛した、彼女の在り方に似た――――――
「――――――」
余裕のない瞳で星を睨み付ける。思いっきり指を伸ばして突き上げた。決して届かないと知って尚、届かせようと必死に藻掻いて。
あの星を掴もうと、拳を握りしめて。そこに、雪が当たって消えていく。手の内に残るのは、ただ記憶だけだ。
「セイバー」
呟きは風に溶けて消えて。
また――――――約束の夜が来る。
〜Next to 「微睡みの終わり」〜
メールフォームです!
dora様への御感想はこちらからどうぞ!!→メールフォーム
dora様の寄稿なさっておられるHPはこちら!
戻る
玄関へ戻る
|