足取りは軽い。きらびやかな電飾に照らし出された橋の上を歩く。

 俺のポケットには夢がある。そう、歌っていたのは誰だったか。冷たい風に白い息が流れていく、真冬でも其処まで寒くない冬木の町とはいえ、橋の上の風は、十二分に十二月の風だった。瞬く間白い風に遮られた視界を追って、川面に目を落とす。日が落ちてから既に久しい、暗い水面には、街の灯がちらちらと瞬いていた。

 かん、と軽い音を立てて欄干に手が当たった。感覚は麻痺しているくせに、痛みだけは鋭い。いい加減手袋無しでは堪える季節になってきた。僅かにぶつけただけで、今のような痺れに似た痛みが走る。それは手を擦っても擦っても同じだ。世界はみんな自分よりも固い。いらついて、両手を上着のポケットに突っ込んだ。これで少なくとも痛むことはない。ついでに、じんわりとではあるが暖まってくれる。思い出したように右手を揺らした。冷えた手には、目当ての物の感触が伝わってこない。動かしていると、がさ、と、紙袋の擦れる音が、大きめのポケットから響く。僅かに唇の端を持ち上げた。安心した。どうやら何処にもなくしていないらしい。寒くはあったが、それの事を意識するだけで不思議と心は温かかった。一歩一歩、彼女へと続く道を歩いていく。

 上を振り仰ぐ。見上げた橋の鉄骨は綺麗だった。いくつもの電飾が、まるで夢の景色のようにそれを飾り立てている。橋の欄干から見下ろせば、川沿いの公園もきらびやかで賑やかだ。クリスマスは過ぎてしまったが―――それでも人の心は明かりを求めて居るのか。もう十時近いというのに、未だに公園には人影が多い。それが、大抵二人組な事にくすぐったさを感じながら、他人の幸福を噛み締める。

 もう一度、ポケットのそれを確かめた。セイバーは寒いのが平気だろうか。俺よりも、寒い地方の生まれだったか。いくつか読んだ物語にも、それらしい記述は出てこない。ただ、雨は多かっただろうと思う。霧も、雹もあるらしい。そんなことを考えていたら、ばからしくなった。聞けばいいじゃないか、俺があれこれ考えたって、答えなんかでない。そう思って、走り出した。寒いのも好きじゃないし、寒い地方に生まれたからって寒さに強いとは限らない。イリヤだって、寒いのは嫌いなんだから。

 動かす度に、固まりかけた筋肉に熱がこもってくる。最初は鈍かった体の反応が、徐々に戻ってきた。内側から沸き上がる熱にテンションを上げていく、もう寒くはない。

 もう一度上を見上げた。暗いはずの夜空には電飾の人星が輝いている、本当の星空は遠かった。眩しすぎるとも思った。地上の星の明かりに遮られて、空星は見えない。今の世界のようだと思う、作られた光と、作られた理想と。人のことは言えないと、少し自分を笑った。考えるまでもなく、この身は地上の星を糧に生きている。理想に辿り着こうと足掻きながら、空の星を目指しているのだ。

 白い息を風にたなびかせながら、士郎は家路を走っていた。








 

 目当ての豆を棚から取り出す、焙煎して三日、今頃丁度良く味も落ち着いた頃だろう。1964年産。ざっと四十年物の、とっておきのモカ・バニーマタル。切れの良さと酸味、柔らかな口当たりが特徴だ。フルーティな香りは、挽くだけで店に安らぎをもたらしてくれる。これを淹れるのは、特別な相手にだけだった。保存さえしっかりしていれば、豆は古い物ほど風味豊かになる。角が取れたその味わいは、まさしく貴婦人の接吻の様だ。蓋を開ける前に、軽く振って中身を確かめた。特に意味はない。どちらかと言えば、癖のような物だった。缶の重さを確かめると、ゆっくりと蓋を開ける。手回しのミルに計量スプーンで三匙、少し多めに。大きめの音を立てながら、ゆっくりと豆をひいていく。ざくざくと鳴る粗挽きの豆、下の豆受けを開けると、微かに細かい豆が散った。とたんに広がる馨しさを、胸に吸い上げる。それに酔いそうになりながら、一さじ、二さじと計量した豆をサイフォンに入れる。同じように計った水を、サイフォンの下部に入れた。

 仕事は丁寧克つ迅速に、此処までの時点で約2分。うっかり自分の手際に惚れそうになる。丸フラスコのような下部の首に、上部の管を差し込む。ゴムで密封されるまできっちりと押し、専用の台に乗せてアルコールランプにかざす。小さな炎だが、アルコールの火力は思いの外強い。僅かな時間もないことを意識して、沸騰を待つ間に薬缶に沸かした湯をカップに注いだ。小さな工夫だが、カップ暖めておくだけで、風味が断然変わってくる。熱湯によって暖められたカップは、注がれた珈琲を僅かに蒸発させる。それが、最初の香気を醸すのだ。

 砂糖とミルクをソーサーに据え、最後に小洒落たティースプーンを添える。やがて沸騰した湯が、下から豆を押し上げてきた。缶を開けたときとはまた違う、柔らかな香りが店の中に広がりだした。頃合いや良し。タイミングを見計らって、湯と豆を静かにかき混ぜる。僅かに待って火を止める。珈琲は煮てしまったら旨くない。かといって、時間が足りなくても良くはない。タイミングが肝心だった。陰圧になった下部に、こぽこぽと、サイフォンの管を通って珈琲が流れ落ちていく。湯気を透かすように確認すると、泡と豆が混ざった出涸らしが、布の上にこんもりと残っていた。上手く撹拌できた証拠だ。こうなるまで、幾月も練習を重ねて事を思い出す。

 にんまりとそれを眺めた後、カップに注いだ湯を捨てて淹れたてのそれを注いだ。珈琲は時間が命、淹れ立てで熱いのが一番旨い。出す側も飲む側もゆっくりしている暇など無い。素早く正確にカウンターに差し出した。向かいの彼女が紅茶党なのは知っているが、たまには付き合ってもらおうか。音子はもう一度微笑むと、少し厚手の封筒と共に、それを少女に渡した。

「はいこれ、セイバーちゃんの分ね」

「ありがとうございます、ネコ」

 背筋を伸ばして封筒を受け取る少女を、音子はじっと見つめていた。その間も手は休めない。カウンターの下にある小さな冷蔵庫からシフォンケーキの大皿を取り出すと、二人分切り分けて皿に盛った。父親自慢の一品だ、食べることをこの上ない楽しみにしている少女には、それこそ堪えられない代物だろう。生クリームを多めに乗せるのも忘れてはいけない、ついでにジャムも少し多めの方が良いだろう。

「なにか」

 視線に含む物を感じたのか、少女はその大きな瞳に疑問の色を浮かべている。そんなあどけない表情が、少年と見紛う凛々しい造形に少女らしさを刻み込んでいた。

「んー、何に使うのかと思って」

 彼女のアルバイトの動機は単純だった、そこいらの女子高生と何ら変わらない。彼から聞き出したところによると、どうもセイバーがお小遣いを欲しがったらしい。なかなか口を割らない彼に喋らせるのは一苦労だったのだが、それはそれで別のお話。

 少し前までは、小遣いが動機だった。だが、どうやら今は違う様子だと、音子は踏んでいた。おそらくはエミやんに関することだろう。この国に来て日の浅い少女の世界は狭い、冬木と広げても新都程度。大した娯楽があるわけでもなく、特におもしろい街でもない。それなりの額が貯まっているだろうに、少年の話を聞く限りは買い食いも止んでいる様だ。これでは目的を疑ってくれと言わんばかりで好奇心がうずく。

 こちらの思惑など何処吹く風と、今日も彼女はいつもと同じ顔で働いていた。仏頂面なのかと、始めてしばらくの間心配していたのだが、どうやらあまり表情が大げさに変化しないだけで、それなりに切り替えている事が解った。強気な笑顔は時折、本当に柔らかく笑うのは、彼のことでだけ。そんな辺りが、エミやんそっくりだと思った。

 初見で人は判断されるが、その人自体は理解できない。最近になって、そう考えるようになってきた。一目見ただけでその人の人となりを見抜く寺theブラザーズとは、そもそもにして目の作りが違う。無論、野生の勘で見抜く虎とも。自身の眼力には限界がある。使い物にならないだろうと踏んでいた少女が、今はよく働いている。ちょっとした見込み違いだが、それがおもしろかった。客もそれが解っているのか、その理屈を飲み込んでいる客も居るのか。今では常連の中でいじられていることすらある。新しい人間については、いっそ閉鎖的なOG共がだ。

 フォークを右手に、掬い取るようにして、ケーキを頬張った。クリームとジャムを絡めるのも忘れない。控えめにした甘さが、生クリームと絡んで良い具合だ。実に珈琲が旨くなる。束の間、他のことを忘れた。鼻の奥から熱が広がるような。カフェインの、アルコールとはまた違った酔い具合に心が熔ける。下から焙られているような、そんな熱が胃袋から指先までを痺れさせる。やはり珈琲はブラックに限る、ミルクを入れてしまったら、まろやかになりすぎてこの突き刺さるような恍惚感は味わえない。喉を焼く刺激にくらくらした。正直なことを言えば。猫舌故、熱いのを楽しめないのが残念だ。

「使い道は考えているのですが……」

「んん?」

 興味のままに体をカウンターの上に乗り出した。見れば、彼女の珈琲は先ほどから全く減っていない。少しソーサーから持ち上げてはいるものの、何処か別の場所に心は飛んでいる。ケーキだけ無くなっている辺り、さすがだと思った。セイバーのカップを持った手が、せわしなくティースプーンをいじっている。縁に当たって音を立てては、体を小さく固めて一度は手を離す。が、またしばらくすると意味を持たずにかき混ぜ始めた。もったいない、せっかく熱くて平気な舌をしているのだから、熱い内に楽しんでくれればいいのに。そう音子は思った。

 まあ、何を考えているのかは聞くまでもないだろう。この少女が上の空になるときは、大概士郎の事を考えている。アルバイトに来るようになって幾月もたたないが、それぐらいは見て取れる自身があった。

「エミやんにプレゼント?」

「……はい」

 ビンゴ。

 蕩けるような、はにかんだ笑顔。のろけるなくそったれ、見ているこっちまで恥ずかしくなるだろうがこの○×△。暖かいんだか痒くなるんだか解らないそれ。見ているこっちまで幸せになりそうな微笑みを浮かべて、セイバーがカップに口をつける。が、それも照れ隠しなのか。セイバーの手の中でもてあそばれるカップをのぞくと、揺れる水面はいっこうに減る気配を見せていなかった。

「贈り物のあてはー、あるのかな?」

「一応、考えてはいるのですが―――」

 困ったように、実際どう言葉にして良い物か困っているのだろう。どうすれば相手に伝わるのか解らない、胸の内の鬱屈だ。そんなもの、口に出した途端にひどく陳腐な物に変わってしまうだろう。誰しも一度は通ってきた道、それこそ、言葉に出来なかった想いなど売るほど店にも落ちている。ある意味では、此処は忘れられた想いの住処なのかも知れないと思った。

「ふんふん?」

「シロウが、それを気に入ってくれるかが心配で……」

 どれほど大人びて見えても、しっかりしていても彼女はまだ十代の子供なのだ。相手の感情に一喜一憂する、多感な少年期。振り返れば在るのだろうが、その優しいぬくもりに思わず吹き出しそうになった。笑い出しそうになった。何よりも―――そんなことを言う彼女が可愛らしくて仕方がなかった。だから―――

「大丈夫、思い切ってやってみな」

 励ましは力だ、精一杯背中を突き飛ばしてやった。











 幾たびも店の中を往復して、時に階段を駆け上った。

「む―――」

 なかなか気に入る物がない。が、八件目で、ようやく気に入る物を見つけることが出来た。これなら彼に似合うだろう。手に取ったそれの値札を確認する。ゼロが四つで、頭の数字は8だ。かなりの額だが、払えないことは……たぶん無いはずだ。懐からがま口をとりだし、唸るように開いて、中の肖像画の数を確認した。幸い、同じ顔が十二人在った、これならばおそらく手に入れることが出来るはずだ。

 ハンガーに掛かったそれを、吊しの台から外した。少し手が震えている。それが、おかしかった。こんな場所から緊張していては、最期の瞬間にどうなってしまうか解らない。深呼吸を一つすると、手の震えは収まった。

 正直な所を言えば、かつてそうしていたように職人に注文を出したいのだが―――それだけの予算は無い。財力のなさを少し悔しく思いながら、カウンターへと歩み寄った。

「失礼、これを包んでいただけないだろうか」

「かしこまりました。お客様、贈り物でしょうか?」

 贈り物。その単語に分かり易く頭が沸騰した。

 意味も事実も間違いなく正しいのだが、初めて彼に贈り物をするという事態に舞い上がってしまっているのだろう。正確には、彼にそれを手渡す瞬間を夢想してだが。落ち着いたはずの心がまた騒ぎ出す。僅かな間だけ、言葉を忘れた。

「え、あ―――そうです」

 こちらの動揺を知ってか知らずか、穏やかに微笑みながら初老の店員はゆったりとした動作で荷物を受け取った。丁寧にしわを伸ばし、値札を確認する。紙切れに金額を書き込むと、箱と包み紙を取り出した。仕草一つ一つを、睨み付ける自分に驚いた。粗相を見逃すまいと思っているわけではない、ただ、むやみに緊張してしまっているだけだ。

「では、少々お時間をいただけますか?」

「構いません」

 微笑みには微笑みを。かつて経験したことのない状態ではあるのだが、微笑みは自然と浮かび上がっていた。緩やかに高鳴る心臓と、何処か誇らしげな心が温かい。手際よく荷を包み上げる店員の手先を見つめながら、彼の笑顔に心を躍らせる。

 きっと似合う。いや、彼になら間違いなく似合う。

「お待たせいたしました」

「あ―――はい」

 よほど空想に熱中していたのだろうか、声がかけられるまで、支度が出来たことに気がつかなかった。上品な暗色のリボンが、黒と茶のストライプの包み紙にかけられている。ひどく男らしい色合いだと思った。

「お会計はどうなさいますか」

「あ、と―――ゲンキンで払います」

 あわただしくがま口から札をとりだすと、両手でもって店員に渡した。その仕草の何処がおかしかったかは解らないが、周囲からくすくすと忍び笑いが聞こえたことが恥ずかしかった。

 振り返って睨み付けても、今のセイバーでは照れ隠しにしかならない。それを、最後まで彼女は理解できない。笑いがおかしさからではなく、愛らしさから出て来た物だということも。

 プロ意識のなせる技か、初老の店員は最後まで表情を崩さなかった。

「ありがとう、良い年の瀬を」

 勘定を済ませて、踵を返す。紙袋ごと、中身を胸に抱いた。ぬくもりなど無いはずのそれから、確かな熱を感じる。

 さて、これをいつ渡そうか。クリスマスには給与が間に合わなかった。もし叶うのならば、今すぐにでも渡したいのだが―――












「ラヴ・ソング」
Presented by dora 2007 01 05
Thank's for Little Library in the Big Woods.












 階段を上る、手に持った掃除道具の束が、がちゃがちゃと歌っている。天候は快晴、畳を干すのにも、布団を干すのにも最適な大掃除日和だった。見事な冬晴れの空に、さっき鳶が飛んでいたのを思い出す。

 空はいいねぇ。

「とおさかー、入るぞー」

「あ、ちょっと待っ―――あぎゃ!」

 扉の向こうから、盛大に人間大の物が倒れたような音がする。おそらくはでっかい置物、それも俺の師匠に違いない。ここのところ食事の時間以外、それ程見かけないようになっていたと思ったが、まさか信楽焼にはなっちゃいないだろうな。冬になってすっかり出不精だからって、居間と部屋と水回り以外に出てこないのもどうかと思う。まあ、流石にそんな無精はしないだろうが。

「む」

「―――ぐむ」

 道具を置いて扉を開ける、中にいる人物と視線を合わせてひとつ小さく唸った。右から左に視線を流してみて、腰に手を当てた。どこから何処までが部屋で、どこから何処までが遠坂なのかを、出来れば教えて欲しいと思った。というよりは、此処まで足の踏み場を無くせば、あわてなくてもうっかり転んでしまうと思う。だが、さすがに溜息は吐かない、片付けの苦手な遠坂に相手に其処までするほど外道ではなかった。むしろ、腰に手を当てる僅かな仕草だけで、遠坂のきつめの視線が向けられる。よほど激しくはたきでも使ったのか。僅かに乱れた髪を整えて、息を整える辺りがどことなく色っぽい―――いや、そうじゃない。あれは単に自身の置かれた現状を見られてしまったが為の羞恥の表情か。ここでうっかりしたことを言うと後が恐ろしくて仕方がない、なにせ、うっかりとした勘違いで人のことを殺しかねない勢いで追い回す輩だ。

「……ちょっと、今ひどいこと考えてない?」

「全然」
 
 ちょっとどっきりだ。遠坂の勘の鋭さに、内心冷や汗を掻く。衛宮士郎は無表情だとかむっつりだとか言われる割に、周りの人間に勘定が伝わっている気がする。自分で思っていないだけで、案外表情に出ているのじゃないだろうか。

 それにしても、と、もう一度部屋を眺めた。次の言葉を待つつもりはない、そんなことよりも、今は大掃除だ。漏れそうになる溜息を、気をつけて飲み込んだ。部屋はまったく片付いていない。呆れるぐらいに散らかっていた。午前中には部屋の掃除が終わると言っていたのにだ。片付けようとして一度並べてみた、なんて可愛いレベルではない。これは整理の仕方が解らなくて、とりあえずというか、とにかくというか全部床に出してみたレベル。順番にやればいいところを、順番を無視して平行運用しようとしたが故の結果か。

 遠坂が部屋を占拠して、まだ一年は経っていないというのに、部屋は混沌を湛えていた。これは手伝いに来て正解だったか。どうせだったら桜と一緒にやればいいのに、と、士郎は思った。

「ちょっと、いつまで見てるつもりよ」

「うん、いや、そろそろかな」

 不意に何か抱いていた物が崩れたと思った。おかしい、これだけだと片付けられないだらしのない人じゃないか。漏れそうになる呻きをぐっと耐えた、こんな筈じゃなかったのに。いつか憧れた鮮やかさ、今の遠坂からは皆無だった。理由はわからないが、なぜだか無性に海が見たくなっていた。

 なんてな。そんな幻想はとうの昔に夜空の彼方だ。

「桜は?」

「お風呂場よ、自分の所は終わったんだって」

 む、風呂場の掃除は藤ねぇではなかったのか。

 来る途中に聞こえた水音は、桜の立てた物であったか。虎に居間の掃除を任せたのは間違いだったかも知れない、いい加減勝手知ったる人の家、掃除の仕方ぐらいはどうにか。と思ったのだが、狭いようで意外に広い空間に難儀しているのだろう。これは早い内に援軍を向けた方が良いかもわからない。

「士郎、土蔵の片付けは終わったの?」

「ん、昨日までにやっといた」

 語尾がやたらと苦くなったのを自覚した、まるで味覚が伝わったかの様に、遠坂の顔も苦くなる。ちくしょう、いやなこと思い出しちゃったじゃないか。

「……大変だったみたいね」
「……モウイヤダ、来年は虎にやらせる」

 普段自分が使っている範囲は良いのだ、何処に何があるかは把握しているし、それなりにまめに掃除もしている。だが、問題は倉庫代わりに使っているブルーシートの下。毎日見る度にうねうねと形を変えるシートの持ち上がり具合が、常に不安をそそっていた。結局のところ、問題を先送りにしていた事が敗因なのだろう。いい加減邪魔なので、隣からトラックを借りて運び出す事にした。

 やる気があったのは中身を見て、やる気さんがどこかへ高飛びするまでだった。

「……まさか2トン車に2台分もあるとは」

「あちゃぁ……」









「で、遠坂。お待ちかねの援軍だ」

「待ってない」

 踏み込もうとした鼻先を、遠坂の腕が横切る。そのまま道をふさぐように、指は戸柱を掴んでいた。どこかぎこちない微笑みを浮かべながら、ぎりぎりの距離で互いの顔を見つめ合う。なんだこの無駄な緊張感。息もふれあうような距離、場合によっては勘違いされかねない光景だと思った。勘違いする人間も大勢いるだろう、事態がややこしくなる前に、おとなしく士郎は一歩下がっていた。

「衛宮くん、ちょっと出ててくれない?」

「なんでさ」

 はたきに雑巾、箒にちり取り、ついでに掃除機と窓クリーナー。何一つ持って行かなかったお前のために完全装備で来たって言うのに、援軍に対する台詞じゃないぞ友よ。道具だけをこちらの手から受け取り、ひょいひょいと中に入れると、彼女はそのまま扉を閉めようとする。

「うん、俺がそのまま出ると思ってるだろお前。ってか、俺をは、さ、み、な、が、ら……力を入れるな!」

 締められそうになる扉を力ずくで押し開く。うん、その微妙に怯えるような顔やめてくれ。なんだかこっちが悪いみたいで気が引ける。

 むしろそれが狙いか遠坂よ。

「あら、まだ居たの?」

 声は何処か空々しく響く、今更見られたくない物がどうとか言う問題じゃあるまいに。

「手伝いに来たんだって。遠坂、掃除とか苦手だろ」

 疑問符を浮かべる士郎に向かって、僅かにひるんだ隙を見せながら凛は言った。

「そうだけど……とにかく、女の子の部屋に勝手に入らない、勝手に掃除しない、それぐらい弁えてくれる?」

 むやみと強気だった。部屋の前に立ちふさがった姿は頑なで、一歩たりとも通すまいと気炎を上げている。だが―――

「ぶっちゃけ気合い入れるところが違うと思うぞ遠坂。そもそもお前の部屋の掃除、いつも俺やってるじゃないか」

 以前は凛と桜の自主性に任せていたのだが、一度ひどい目に遭って以来、こまめに掃除に訪れるようにしている。無論―――無断ではなく『お前が片付けなければ俺が片をつける』と宣告した後の話だ。はっきり言えば、掃除のために部屋に入って、うっかり箱の中に軟禁されるのは、もうこりごりだった。強気なのは空元気なのか、自身の限界をよく知っている少女は、どんどんその語勢を弱めていく。もう一押しだと士郎は睨んでいた。

「一人じゃ大変だろう」

「……士郎、自分の部屋は?」

「昨日の朝一で終わった」

「う、だけど……あんた大掃除となったら徹底的にやるでしょ」

「そりゃあな」

 箪笥の裏から引き出しの中まで。防虫剤の取り替えから、新聞紙の引き直しまでやることはたくさんある。説明するまでもないだろうが、一応口に出してその旨を伝えた。

 僅かに顔を赤くする凛を見て、士郎は思った。ああ、なんか興奮してきているのか。と。

 的外れも良いところだった。

「じゃあ駄目、やっぱりダメ。手伝わせられないから!」

「だから、なんでさ」

「うぅぅ、なんでもへったくれもない! あんたにゃこの状況を見られたくないから出ろってのこのぉー!」

 目の前の扉が大きな音を立てて閉じた。

「晩までには終わらせるから!」

 扉の向こうから聞こえる壮大な破砕音が、その言葉を何処までも寒々しく響かせていた。









 首をかしげながら日差しに温んだ廊下を歩く。ある程度仲が良くなったところで、異性というのはげに理解しがたき物なのか。さて、冬木の虎こと我が姉は―――

「あ、士郎」

「……おお」

 うっかり言葉を忘れた。言葉を飾る飾らないの世界じゃない。余計な物など一切不要。それぐらい、居間の掃除は完璧だった。天井から壁まできっちりと埃を払われ、一度上げた畳もすべて日干しにされたであろうぬくもりを放っている。障子紙は沁み一つ皺一つ無く、張り替えたての白さを日差しにさらしていた。何処にもおかしな所など無い。塵一つ漂わない静謐な空間に、一人茶を飲む姉の姿が異常と言えば異常だった。

「なんてこった」

 言葉がなかった。普段、こういう時の虎はあてにならねぇー、と、たかを括っていただけに、このギャップは衝撃だった。むしろどうやったら一年で此処まで掃除の腕を上げられるのか答えてくれってか教えろティーチャー。

「ふっふーん、どうだ、お姉ちゃんを見直したか」

「見直した、ってかどうやったのか教えてくれ」

 感心することだらけだった。隅々までとはこのことか。どうやっても自分が落とせなかった場所の汚れまできっちりと落としきってある。その技術が欲しかった。毎日の様に掃除をしている自分ですら此処までの技術は持たないのに、ものの数時間でここまでできるんだったらアンタ、家政婦になっても十分高給が取れるぞ、と―――

「――藤ねぇ、なんで黙ってんだ?」

 微妙に彼女の態度がおかしい、そう思うと、徐々に説明がつかない事が目に映ってくる。こう、明らかに一人でやるには時間が足りなすぎるなー、とか。台もないのにどうやって天井の隅までから拭きしたのかなー、とか。

「えっと」

 こちらの言葉に最初は鷹揚な態度をとっていたのだが、今ははっきりと視線に自信がない。ちらちらと動く藤ねぇの視線が、自分よりも微妙に高かったり低かったりする位置を泳ぎ始める。

 あ。

 ぴんと来た。そうですかそうですか。

 士郎の視線の向く先に、大河はどぎまぎとしながら視線を向ける。此処が良い、とかあそこがすごい、とか褒める度に、中途半端な声が喉から零れている。耳を澄ませれば、廊下のあちこちで息を潜めているような気配があった。振り向いた先から床の軋む音が聞こえる。

「―――使ったな」
 不意に声のトーンを落とす、士郎のねらい通り体を硬直させると、彼女はあわてて取り繕おうとした。
「だ、誰を?」

 はっはっは。うん、繕うとひどくなるほつれ方もあるって知ってるか藤村。

「語るに落ちたな藤村大河! 見破ったぞ、てめえにこんな高度なテクニックがある訳ねぇー!」

 びしりと指を突き付ける。トリックは此処までだ、さては――藤村の若い衆を使ったな!

「う、うううううるさいんだから!? いいじゃないよう、掃除の道具の代わりに人を使っただけじゃない!」

「人を道具呼ばわりすんなバカトラ!」

 もくろみが破れたのを知ったのか、拳を振り上げつつも自分のやったことを素直に告白するタイガー。まあ別にそれは構わない、と。大変なのは確かだし、人手が多くて助かるのは間違いないのだから。

「しかし最初から素直に言っていれば良かった物を」

 さて、後は誰を呼んだか聞き出して、お礼の支度をしなきゃならんな。

「何人?」

「え、っと、えっと」

「何人引っ張ったんだよ、むしろ誰を」

「…………」

「何?」



「……十五人なの」



 タイガー戦線異状ナシ、味方援軍ハ精強也。

 呆れて言葉が出なかった。それは、ちょっと。いや、ちょっとどころの騒ぎじゃない人数だぞタイガー。てっか藤村の屋敷がもぬけの殻にならないかソレ!?

「こんのバカ! せいぜい一人二人捕まえてきた程度と思ってたのに、若衆ほぼ全員じゃないか!」

「いいじゃん! 家にはイリヤちゃん置いてきたもん!」

「イリヤと爺さんにやらせる気か!! そんな事天が許しても俺が許さねぇー!」

 むしろ幹部にやら組長やらに掃除をやらせる気か貴様。

「へっへーんだ! お年玉の値下げするおじいさまなんかイリヤちゃんとイチャイチャして児童福祉法違反で警察に捕まってしまえ!」

「話をそらすなバカトラ! ってかばかでかい声でさりげに危険なこと叫ぶな! うっかり勘違いされたら困るってか話がそれた。掃除すんのに藤村の屋敷だって広いだろうが! 確かに人手は多い方が良いけどわざわざこっちに引っ張ってくんなバカトラ!!」

「ぬぅあああああああッ! おのれおたんちんが!! 重ね重ねも私を虎と呼ぶなぁああああああああああッ!!」

「机にのるな! 畳を踏みならすな! それで埃が立たない辺りは流石だが調子に乗るなよ藤ねぇー!」

「うるさいエロガキ! ちょっとナシ付けるから黙ってなさい!」

「エロ―――今の流れでどうやったら出てくんだ! だいたい何処電話掛けてんだ!」

「うるさい!―――あ、もしもし、お父様? ちょっと聞きたいことがあるんですけど―――え? セラさんとリズさんが? ――若衆全員余り? 解りました」

 不穏な発言が聞こえたぞタイガー。いや、確かにアインツベルンメイダーズが居るなら下手に人手なんか居ない方が早いとは思うが。

「……おい、何だよ今の会話」

 すぅーうと、胸に息を吸い込む藤ねぇ。恐らく耳をふさいだ方が無難だろう。判断通りに耳をふさぎ―――

「みんなー、屋敷の方の心配はないから徹底的にやっちゃってー。むしろ士郎が何処に物があるか私を頼ってくる位にしまい込んでしまえ!」

 ―――そんな物は無駄だったと、痺れた耳で考えるのだった。

「な、この―――!?」

 鼻先に突き付けられた切っ先に全てをストップ、怪しい妖気立ち上る見慣れた外観。鍔もとに揺れるタイガーストラップ。誰かの血と汗と涙の青春。冬木の妖刀虎・竹・刀♪

 血の気が引いた、吹き付ける寒気に退避行動開始だがソレよりも虎は速い―――!!

「そして貴様は出てけぇー! セイバーちゃんとデェトでもする気かコォンチクショォォォオオオオオ!」

「デートって何のはな――痛ッ!? どこから出したその竹刀―――てか痛ッ、痛い! 叩くな……痛ッ!? ぎゃああああああああああッ!!」








「……くっそー、あの虎め」 

 ぼやきながら門をくぐる、通りに出た途端、吹いた冷たい風に首をすくめた。せっかく人が掃除してるってのに、追い出すってのはいったいどういう了見なんだか。唇をとがらせながら、士郎はポケットに突っ込んだ手で紙袋をいじった。もっと早くに渡すはずだったそれは、タイミングがなかなか合わなくて渡すことが出来ていない。横を通った車が巻き上げた風に首をすくめる。年が暮れるに従って、急に寒くなった気がした。

「寒ぶ」

 こぼれた声さえ冷えている。まったく、家主を追い出すとは何事なのか。

 振り返って悪態を吐きながら、士郎は中指をたてた。らしくないとは思う。八つ当たりの様な物だった。

「お」

 不意に、内ポケットに入れておいた携帯が鳴った。どんな気分で登録したかは忘れたが、どこかもの悲しいメロディが流れている。ネコさんからだった。

「もしもし」

『あ、衛宮くん』

 ネコさんからじゃない、親父さんからだ。いつもとちょっと違う気配、これは―――人手が足りないときのソレだ。

「手、足りてないんですか?」

『うん、そうなんだよ、そんなに遅くまででなくて良いから、これないかな?』

 一度屋敷を振り返った、今家に居ても出来ることはない。時刻は二時過ぎ、大晦日ならおそらくは八時半までか。悪くはない労働時間、小さく、一つ頷くと、電話に向けて出来るだけ明るい声を出した。

「大丈夫です」

『そう? じゃあお願いしまーす。よろしくねー』

 電話はそこで切れた。具合の悪いことに、携帯の電池も。しばらく眺めた後、懐にしまい込む。特に誰かから掛かるような用事もないし、問題はないだろう。

「まあいいさ」








 〜Interlude in〜

「あれ、セイバー」

「? どうしたのですか」

 自身の部屋の片付けを終えると、屋敷の掃除はあらかた終わっていた。流石士郎と思いながら居間に向かうと、其処には大勢のヤクザ屋さんに囲まれたセイバーの姿があった。どうやら人海戦術で事に当たったらしい。それなりに広いはずの部屋だが、流石にこれだけの人数が居ると手狭に感じる。

 ぐるりと見回して、肝心の家主が居ないことに首をかしげた。

「士郎は? セイバーと出かけさせるって先生に聞いてたんだけど」

 もともとは士郎を労うための計画だ。いつも忙しい彼を、年末から自由にさせるために、と。先生が謀った事なのだが―――

「アルバイトに出かけました」

 ―――ちょっと待て、なんですかソレ。で、肝心の仕掛け主は何処行ったのか。

「先生?」

 はたして、彼女は台所の隅で小さくなっていた。

「……ううう遠坂さん、先生ちょっと失敗しちゃったよぅ」






 藤村の兄さん方にお礼を言って送り出した後、状況を把握するために住人でテーブルを囲んだ。

「つまり―――士郎を外に出した後、セイバーに後を追わせようとしたら、肝心のセイバーが張り切って掃除してて聞く耳持たなかった、と」

「すごかったんですよ姉さん、セイバーさんの張り切り様」

 先ほどまで繰り広げられた有様を、見ていた桜が事細かに説明してくれる。剣の代わりにハタキ、鎧の代わりにエプロン、兜の代わりにほっかむりとの完全装備、雑巾がけこそ不得意だが、細かい隙間に棒きれねじ込むのは彼女の得意技だろう。舞い散る埃も何のその、家中の埃を叩きださんとばかりに張り切って居たそうな。

「うぅぅう」

「リン、その言い方ではまるで私が悪いようだ」

 何処かすねたようにセイバーがそっぽを向く。どうしてこの子の生真面目さは、こう間が悪いのか。

 自身に向けられた視線にたまりかねたように、突然先生が立ち上がると、拳を振り回しながら叫んだ。

「いーや、悪い! だってセイバーちゃんひどいんだよぅ! 私が何言っても『今は部屋の掃除中なのです! タイガもこんな所で遊んでいないで手を動かしなさい』って威厳たっぷりにさぁー!」

「な―――!? 私のせいにするつもりかタイガ!」

「そーだもーん! セイバーちゃんのせいだもーん!」

 ああもう、ぐだぐだな―――

「ハイハイ其処まで! 仕方がない、状況が変わったのなら、それに合わせて計画を動かしましょうか。セイバー、店に電話して何時までか聞いて。先生、やってしまったことをどうのこうの言っても始まりません」

「ううぅう……」

「釈然とはしませんが」

「アンタに非は無いから良いの。これなら最初から言っておけば良かったわね」






 さて、年が暮れる。やることはまだ沢山在るのだから、さっさと片付けてしまわないと。一触即発の気配を見せる二人は、もうこの際放っておこう。時間が来たらまた状況は変わるのだし、これ以上私に出来ることもない。

「あの―――姉さん」

「何か用?」

 その呼び方はいまだになれない。何処かくすぐったさを感じる暖かさ、緩みそうになる頬を引き締めながら振り返った。

 エプロンが差し出される、以前、桜に頼んで買ってきてもらった物だ。それと彼女の顔を交互に見比べる、どうもはっきりと答えが出なかった。

「うん、何?」

「あの―――えっと、一緒におせち、作りませんか?」

 目を見張った。

 最近はそうでもないが、引っ込み思案でいつも陰に隠れるようだった彼女。その、変わりように驚いた。何より嬉しかった。

「もちろん、腕によりを掛けさせてもらうから」

「はい! がんばっちゃいましょう!」

 見たことのない様な明るい笑顔。本当にこの一年は、士郎様々だわね。

 〜Interlude out〜







「さすがブラウニー、薄給とケーキだけでよく働く。あと一時間ぐらいしたらあがっていいからさ」

「はーい」

 にゃーははははー、と笑う雇い主に笑い返す。愛想笑いとまでは行かないが、このところ表情が明るくなったとはよく言われる。カウンターの拭き掃除を終わらせると、バケツを置きに表に出た。

「―――お」

   月が明るい。空気が澄んでいるからだろうか、吸い込まれそうな夜空に、十三夜月が浮いている。冬の月はもっと低いところにあると思っていたのに、そうでもない様だ。見上げなければ判らない様な、ビルの谷の端からのぞいている。

 胸が震えた。あの時もこんな月夜で、明るくて夜道でもはっきり見えたのを憶えている。独りでに唇が緩む、もう何とセットにしても、月を見る限り彼女の事しか思い出さない。そう、こうやって目を閉じて思い描くだけで――――

「――――――」

 ――――彼女の存在を、何よりも近くに感じることが出来る。どうやら、かなり近くに来ている様子。髪の毛よりも細いラインから、確かな鼓動を感じている。迎えに来てくれたのか、それなら、さっさと終わらせなければならないだろう。俄然やる気が湧いた。

 店の中に戻ると、目を駆使して店内に残っている仕事をリストアップ。自分家の掃除が出来なかった分、此処でその勢いを出し切った気がする。伝票の整理はもう終わっているし、帳簿関係はまだやらせてもらってはいない。どうやら、床にモップを掛けるぐらいしか残っていないみたいだ。だったら話は早い、一時間と言わず、五分で全てを終わりにしよう。









「あ、ネコさん。新年、店はいつからですか?」

「んん、いつも通り二日からだけど、正月は暇だからこなくていいからねー」

「わかりました、っと」
 
 放られた給料の袋を受け取りながら、ネコさんと親父さんに頭を下げる。流石に五分とまでは行かなかったが、短時間で終わらせたのは確かだ。

「あれ、ずいぶんと――――」

 多いんじゃないでしょうか、と。袋の厚さに、思わず変な顔をしてしまった。

「多くないよ、エミやんの能力給だと思ってればいいから」

 ボーナスが入っているから、と親父さんが笑顔で言う。ありがたい気もするが、なんだか申し訳ない気もする。

 二人に見送られて店を出た。良いお年を、と掛けられた声に来年も宜しくお願いします、と、少し早めの挨拶を返す。角を曲がればオフィス街だ、街の明かりが無い分、月の青い光が濃い影を描いている。もう一度空を見上げた。煌々と空に映える灯火、明かりを感じさせない光はまるで刃のよう。なんだかおかしかった。月から降ってきたんじゃないかと思うような唐突な出会い。胸の奥の一番大事なところを、貫いてどうしようもない金色の剣。月の光によく似たその剣の名は――――――







 ――――――ほら、こんなにも。

         俺はセイバーが好きで仕方がない。







 流れる雲のように、白い息が月を隠す。胸が高鳴っていた、もうすぐ逢える。こんなに近くに居る。毎日顔を合わせていても、決して飽きることなんか無い。とっくの昔に頭はおかしくなっていて、誰がなんと迫ろうとも、彼女のことしか見えなくて――――――




「シロウ」




 ――――――不意打ちだ。

 まさか後ろから来るなんて思わなかった。

「セイバー?」

 軽い衝撃と共に、背中に柔らかなぬくもりがぶつかる。振り向いた頬に金色の髪がくすぐったい、顔を、早く顔を見たいと焦れた。

 回された腕に、力がこもる。それはきっと彼女も――俺と同じ気持ちだから。早く顔を見たいのだけれど、なんだかこんな事をしてしまった後では気恥ずかしくてまともに見られない。だけど傍へ。もっともっと傍へ。こんな姿勢では、お前を抱きしめることだって出来やしない。腰に回された手に掌を重ねた。緩んだ拘束を剥がして、掌を包み込む。ポケットにでも入れていたのだろうか、僅かに湿っていて暖かかった。

 左手の指を、右手の指と絡める、僅かにすれた皮膚の固さに彼女が息をのんだ。力は入れない、身をよじって向き直った。

「セイバー」

「シロウ」

 息が、言葉が震えていた。どこか暴力的な衝動が体を突き動かす。右手をセイバーの背中へ、回した腕に力がこもる。絞め殺したい様なやるせなさ、走り出したくなる焦燥に耐えて、彼女の瞳をのぞいた。

 大きな瞳に、何処か夢見るような色がある。かすかに潤んだ瞳は寒さのためではないと思いたい。体を寄せた、出来ることならこのまま一つに熔けてしまいたかった。息が掛かるような距離からもっと近く、ふれあった額は冷たいのに、くっついた箇所は焼けるように熱い。見つめ合った、他のことなんかもう目に入らない。頬に触れた彼女の掌が、優しく俺を愛撫している。重ねた掌が、回した腕が、雷に打たれたように熱くて痛い。

「シロゥ――――ん」

 唇を重ね――――いや、重ねるなんてもんじゃない。もっと深く、噛み付くような勢いの接吻。何かの拍子に歯が当たる、それすらも今は甘美で仕方がない。

 焦れていた、理由はわからないが焦れていた。息継ぎすることすらもどかしい、差し入れた舌に、おずおずと柔らかな熱がからみつく。たまらなく心地よい時間、そのまま押し倒したい衝動に、いい加減危ないと思う。飛びそうになる理性を必死にかき集めながら、唇を離した。

 ほんの僅かな時間の事、だって言うのに二人の息は走った後のようで。走った後でもこんなにドキドキしたりはしない。こんなに――――足が震えることもない。

「――――行こうか」

「ん――――はい」

 手をつないで歩き出す。力の抜けた足を、ゆっくりと動かして。風は冷たいけど、つないだ掌は温かい。そっとポケットにしまい込んだ。








 〜Interlude in〜

 月を見上げていた。遠い天空の洋燈に、思いを馳せる。こうして空を見上げる余裕が出来たのは、いつからだったろうか。

 靴の音が聞こえる。弾かれたように顔を上げた、挨拶を済ませた彼が店を離れる。私が何処にいるのかまでは判っていないのか。背中を向けた彼が、月を見上げている。何を考えているのか。そう思って絆を意識する、ただ胸が熱くなった。震えるような想いが、ライン越しに伝わってくる。叫んでいた。心の中で、薪を炎にくべるように情熱を燃やして。お前に逢いたくて仕方がないのだ、と。叫びそうになった、それはこちらとて同じ事。泣きそうな衝動に体が動く。

「シロウ」
 
 走り寄って、後ろから抱きついた。吸い込んだ男臭い匂いにむせそうになる。ああ、シロウの匂いだ。背中に頬を寄せて、動けないぐらい抱きしめて、それでも足りなくて焦れた。今自分がどんな顔をしているのか、鏡を見るまでもないだろう。それは間違いなく女の顔だ。見せるのが恥ずかしい、見たくて見られたいのに見せられない矛盾――――

「セイバー?」

 振り向いた彼が、困ったように私の髪をなでた。次に、手の甲を。冷たくて、ごつごつした男の手。だっていうのに彼の手は優しくて。それが好きで仕方がなかった。何処を触れられるのも、どう撫でられるのも。それだけで穏やかな心地になれる。

 彼の左手が、私の指にからみつく。冷たいくせに情熱的な動き、絡め取られて剥がされる。抵抗するだけの力は、もはや腕に残っていない。触れられたところから、甘い稲妻が神経を焼いていく。体の向きを入れ替えたシロウが、私の顎を支えた。なんて積極的、いつもの彼に見習って欲しいくらい。

「セイバー」

「シロウ」

 ああ、見られてしまった。

 彼の瞳はいつだって真摯だ。まっすぐなその視線は、まるで月光のように心に切り込んでくる。抵抗しようがないのは、私の心が既に裸にされているからだろうか。震える息が絡み合う、見つめ合う距離は既に無いに等しかった。私を抱いた腕に力がこもる。これ以上近付きようがないのに、それ以上の接近を彼が求めている。困ってしまう。私もソレを望んでいるのに、最後の羞恥が阻んでいる。だから――――自分から眼を瞑ることは出来ない。

 だから頬に手を伸ばした。冷えた彼の肌に、私の熱が沁み通るように。頬から耳へ、痛いぐらい冷たくなった其処を暖める。そうして、僅かに熱い首。その行為に夢中になった、触れたところが心地よくて仕方がない。触れられるだけでなく、触れる悦びすら此処にはある。今が幕下であったのならば、そのまま押し倒されても抵抗できないだろう。額に当たる彼の熱が、徐々に温度を増していく。もう、耐えられそうにない―――

「シロゥ――――ん」

 ふさがれた。乱暴な、とも思ったが、間違いなくソレを望んでいた。乱暴なくせに柔らかなソレ、息が出来なくなるくらい深く吸われている。擦れた唇が痛くて仕方がない。苦痛と呼ぶことも出来ないような、甘い痛み。冷えた大気に慣れきった其処に、彼の唇は刺激が強すぎて仕方がない。

「あ――――ふ、ぁ……シ、ロんぅ――――」

 息継ぎすら許さないとでも言うのか、離れた端から唇が迫る。否、せがんだのはどちらだったかはっきりしない、幾たびも擦れ合うウチに、距離感など蕩けてすり切れた。私から求めたのも確かなはずだ。

「は――――ん、んん、ん――――!!」

 体が跳ねる、頭の中が白くなる。よじった拍子に当たる全てが快感に変わっていく。何も考えられなくなって地に落ちる。微かに開いた瞼の向こう、潤んだ視界に揺れる月がみだらだ。

 焦れていた。待っている間に焦れたのか、それとも他の理由があるのだろうか。貪るような口づけは、ほんの序の口だ。抱きしめられた体が熱くて仕方がない。歯が当たる音すら、今はただ刺激的で。ためらいがちにさしだした舌が、彼の中に吸い込まれる。途端、包み込まれるような快楽に目の前が弾けた。逃げ出しそうになることすら、彼は許さない。月に映された影がうらやましい、私たちはまだ衣服の妨げすら在るというのに、彼らはとうに一つになっている。


 ああ、月が落ちる。 






 細く光る糸を引いて、唇が離れた。

「……ん、は、ぁ――――」

 半開きの口から、僅かに逃げ遅れた舌がのぞいている。すっかりばかになっていた、解放されたことにすら気がつかないぐらい。冷たいくせに熱い口づけ、冬の気温との温度差が唇を翻弄する。二人の口元が月光に光る、濡れた唇から僅かな間、湯気が立ち上って消えた。

 だらしなく震える息と、力の入らない膝と。出鱈目に跳ねる心臓が痛くて、だらしなくシロウによりかかる。手が震えていた。

 視線は力なく彼の胸元をさまよい、離れたぬくもりを探して唇が震えた。定まらない視線を、彼の瞳に。衝動に耐えているのか、この場で、私を組み伏せたいのか。彼の体は――――既にその気だ。

「――――行こうか」

「ん――――はい」

 どれほどの自制がその言葉に含まれていたのか、私には知る術がない。ただ、つないだ掌は硬くてごつごつしていて――今はもう暖かかった。私の手を握る彼の笑顔に火傷する。あったかい。そう、彼が言っただけで、また膝から力が抜けた。傍にいるだけで暖かかった。









 行きたいところがあるんだ、と彼は言った。口づけの余熱で体に力が入らない。危うく落としそうになった紙袋を握り直すと、つないだ手を彼のポケットにしまう。

「何処に行くのですか?」

「思い出のないとこ」

 彼の言葉に首をかしげる。新都であろうと冬木であろうと、道の一本ごとに彼との記憶が染みついている。目を閉じなくても、はっきりと思い出せるほどだ。ソレだというのに、彼は思い出のない所という。ビルの屋上にすら記憶が染みついているというのに。

「それは――」

「見てからのお楽しみ」

 行って。ではなく、見て。何処か意味を含んだ言葉、目的地は決まっているのか、彼の足取りは確かで迷う気配もない。だったら私から掛ける言葉はない。彼を信頼すると決めた以上は、眼を瞑っていてもそれに応えてくれるだろう。喩えそれが――――どこかに連れ込まれるような事だったとしても。今の気分だったら、何の問題もないだろう。

「セイバー、ちょっと眼を瞑っててくれないか」

「え?」

 心臓が一際大きく鳴った。まさか、本当にそうなのだろうか。それでも良いと思う反面、その淫靡さにどぎまぎする。

「その、シロウ?」

「変なとこには行かないから、ちゃんと誘導するし」

 こちらの考えたことが伝わったのか、どこかおかしな口ぶりで、シロウが弁解する。それを見て腹を据えた。こうなっては何処に連れて行かれようとも狼狽はするまい。

「どうぞ」

 眼を瞑って。

「如何様にもシロウの望む場所へ」

 彼の手を握りしめて。

「この身は貴方の――――」

 僅かな間、考えた。剣を名乗るべきか、それとも――――

「セイバー?」






「――――貴方の伴侶です、シロウの望むままに」






 ――――候補は幾つもあった。だが、考えた言葉とは違うそれ。当たり前のことを言うように。おはようと彼に告げるように。自然と――――私は彼の伴侶を名乗っていた。








 いくつもの角を曲がる、いくつもの段差を越える。時に階段を上りきり、吹く風の音に耳を澄ませた。此処は何処なのか、響く風の音はビルのソレとは違う。かといって海の風でもない。開けた場所のようだった。

「セイバー、開けて良いよ」

「――――」

 そっと、僅かなためらいの後に目を開く。最初に見えたのは足下、冬枯れの芝が照らし出されている。新都にこんな場所があっただろうか。内心首をかしげながら視線を上げた。

「――――おお」

 場所が判らない。あまりにも明るすぎて、輝く月すら見つけることが出来ない。数十万個の豆電球が、冬の夜を照らし出して昼間に変えている。家や城を模した骨組みに、無数の電球が輝いている。まるで夜空に浮かぶ理想郷、木々さえも、この場所では電飾を着飾って華やかだ。言葉もなかった、今までに見たことのない、明かりの暴力。神話の時代の夜空すら凌駕する光の洪水。

「どうかな」

 はにかんだ笑顔で彼が訪ねる。その声に出すら我に返ることが勿体ないような、初めての衝撃。感動した。泣き出しそうなぐらい美しかった。

「すごい、すごいですシロウ! こんな綺麗な場所には来たことがありません!」

 我ながらはしゃいでいると思う。飛びついた拍子に、シロウが勢いに負けて木に背を当てるほど。

 不思議だった。こんなに飾られた場所だったら、今までにだって気がつきそうなのに。いくら首をかしげたところで思い当たる場所など無い。こんなに華やかなのはせいぜい――――駅前ぐらいのものだと思っていたのに。

「此処は何処なのですか?」

 本当に思い当たらない、来たことがないと言われるのも道理、判らないまま、彼も終わりにする気はないだろう。そう思って、訪ねてみた。

 返ってきたのは。



「此処、中央公園なんだ」



 何処までも予想の外の答えで。

 回答に息をのむ。十年前の戦争の終結地、呪われた、樹木の育つことすら拒むような土地。そんな場所に、こんな物を作ることなど無いと思っていた。

「馬鹿な、そんな筈が――――」

 あり得ない、と思った。だが、明かりに透かした風景は間違いなく聖杯に呪われたそこで――――地に叫ぶ怨嗟の声すらも、耳に届く有様だった。

「――――ばかな」

 信じられなかった。明るさに癒されているのか。それとも――――戦争が完全に終結したからなのか。どこか穏やかで、怨嗟と言うには嘆きの色が強い。むしろ、残された者の悲しみのような気もした。

「だろ、そう思うだろ。俺もなんだ」

 シロウがゆっくりと、一つの光の家に近付いていく。それは、他のいくつかとは違う、住宅展示場のモデルのような枠組みで。

「最近思い出したんだけど、さ」

 ぞっとするぐらい。

 本当に、本当に幸せだった頃の笑顔を浮かべて彼は言った。





「十年――――もう十一年前か。此処に、俺の家があったんだ」





「――――」

 なんと言えばいいのだろうか。

 悲しそうにしていない。むしろ、何処か嬉しそうに彼は手招きをしている。居心地の悪い想いをしながら、電飾をくぐり中に入る。すると――――

「あ――――!」

 ――――抱き寄せられた。力一杯のその腕が苦しい。身をよじって顔だけ抜け出すと彼を見つめた。だが、彼のその目は私を見ては居ない。誰も居ない場所を、誰も居ないのを知って見据えている。

「俺、こいつと幸せになるから」

「――――」

 それは、報告なのだった。

 墓碑すらもない家族に彼が当てた報告なのだ。と、理解するより早く感じ取っていた。前に進む、と力強く宣言して。

「ちゃんと生きてる、前に進んでる。いろいろと出来てないこともあるし、やりきれないこともあるだろうけど、俺生きているから」

 だから見守っていて欲しい、と。

 俺が誰かを笑わせることが出来たら、一緒に喜んで欲しい、と。

 そう笑って、彼は踵を返した。誰に聞いたことかは忘れたが、最大の供養とは亡くなった者を安心させることだと。

「セイバー、ごめん。変なことに付き合わせた」

「構いませ――――」

「セイバー?」

 彼の肩越しに放った視線、其処には確かに人影があった。おそらくは、男と女。見えていたはずなのに、細部のはっきりしないソレ。何よりシロウには見えていない。

 彼の両親だ。理由など無い、ただそう思った。彼を見守っている。不甲斐ない騎士で申し訳ないと、内心頭を垂れた。

 ありがとう、と聞こえた気がした。

 ありがたくて、涙が出た。










 先送りにしていたことを、終わらせることが出来たのか。彼の顔は晴れ晴れとしていて、かげりを見いだすことなど出来そうになかった。吹いた風が冷たい、寒そうに首をすくめる彼を見て思い出す。今こそ、彼にあれを渡す絶好のタイミングだ。

「シロウ」

 紙袋を開けて、ソレを取り出した。店員に頼んでタグの類は取り払ってある。そのまま来ても、問題はない。

「え、セイバーこれ、コート?」

「はい」

 丈の長い、カシミヤのコート。値段が張っただけあって、とても軽い手触りだ。驚くシロウに視線を据える。彼の笑顔はまだ見えない。

「どうしたのさ」

「クリスマスに、と思って用立てたのですが……」

 それには給料が間に合わなかったので、今までずれ込むことになってしまった。

「シロウ?」

 僅かな間、彼は戸惑ったように眉を寄せた。気に入らなかったのだろうか、それが鉛を飲んだように胸につかえる。

「丁度良かった」

「え?」

 眉根を寄せたまま、彼はポケットから包みを取り出すと――――

「俺も渡しそびれてて」

「あ」

 ――――そういって、私の首にマフラーを巻いた。

「セイバーに似合う色って、なかなか難しくってさ」

 私のリボンと、同じ色のそれ。少し厚手で、風を全く通さない。
 ずっとポケットの中にしまっていたのか、マフラーにシロウの匂いが移っている。まるで、彼に抱かれているような心地にさせられた。

「セイバーありがとう」

「はい、こちらこそ」

 もう一度、抱き合った。何もかもを無くすまいと、精一杯欲張ってかき集めるように。今、この現実の中で、確かなことだけを抱いていこう。と、遠い月に誓う。

 誰かのラヴ・ソングが、遠くから聞こえた気がした。

 〜Continuation in the jiku-kanidou.〜






dora様の寄稿なさっておられるHPはこちら!


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