一心不乱に、水をかく。
手を、脚を、いや、身体全体を連動させ、水の中を進む。そのための最適な動きを探り、試行錯誤し、答えを見つけ、ひたすら練習し、馴染ませる。
だが、その答えが最高のものとは、限らない。いや、完璧な解答など、最初から存在しない。だからこそ、 更なる向上へ、タイムを計り、動きを見直し、次のステップへと自分を成長させていく。
水泳とは、その連続。やることは、それなりに単純だ。ひたすら、階段を昇って行く。時には、降りてしまうこともあったのだが――「彼」と、出逢ってしばらく経った、あの時のように。
何が正しいか、その時は、信じられなくなっていたのだ、と、今ならそう思える。だが、再び自分を信じ、「彼」が信じてくれる心を想い、精進を続けていくと、いつしか、見える地平がどんどん広がって行った。
その感覚が、心地よかった。
自分が好きになった水泳を、もっと好きになることが出来た。
そして、これからも好きでいられ続けるだろう。「泳いでいる逢が好きだ」と、言ってくれた「彼」と、共に歩み続けるのだから。
そんなことを想いながら、逢は百米の自由形を泳ぎ切り、水面から顔を上げ、傍らの「先輩」を見上げた。
「お疲れ様」
「ふふ。ありがとうございます」
所謂、「青春」の舞台として、そこほど七咲逢に似合う場所は無い。輝日東高校の屋内プール。女子水泳部の活動を熱心に行っていた彼女にとっては、ある種の聖地とも呼べるところ、である。
そのプールサイドで、二人はゆったりと時を過ごしている。
「でも、まさかあんなイベントが用意されてるなんて、思いもしませんでした」
「こっちも直前まで知らなかったんだよな。今朝、塚原先輩から電話を貰うまで」
「私なんてプールに来たら水着の塚原先輩がプールサイドに立ってたんですよ? 卒業したのに、一年までタイムスリップしたのかと思っちゃいました」
「あはは……まあ、無理もないよな」
卒業式を終え、ホームルームを終えた逢は、後輩部員たちの熱心な勧めで、輝日東高校最後の時間をプールで過ごすことになっていた。3年次には主将・部長を務めた彼女は、後輩たちの信頼も厚く、何より、彼女がプールを、水泳を愛していることを、皆が知っていたのだ。
美也や紗江たちと別れ、さてひと泳ぎ、と、逢はプールに向かった。が、そこで待っていたのは――2代前の水泳部における絶対的な存在・塚原響だったのだ。
まさにサプライズ、と言っていいイベントである。輝日東水泳部の歴史の中でも偉大なレジェンドと謳われる塚原響と七咲逢の卒業記念レースは、後輩たちの囃し立てる中行われ、白熱の展開となっていた。
そんな「イベント」のあと、後輩たち、そして塚原先輩は帰路に就き、プールには逢と「彼」の二人きりが残った。ひとしきりサプライズを振りまいて、そのあとは「粋な計らい」をしてくれた後輩たちに、逢はただ苦笑し、感謝するしかなかった。
「受験勉強のあと、少し練習を再開しておいてよかったです。もし負けてたら、皆に笑われちゃうところでした」
「それはないと思うけど、まあ、塚原先輩から小言もらっちゃってたかもね」
「ふふ。そうですね。『現役を引いて2年も経ってる自分に負けるなんて』って」
「だね。でも、けっこうギリギリだったよなあ」
「あれは塚原先輩がすごいんですよ。医学部で勉強しながら、まだちゃんと練習もしてるって言うんですから。もともと部活のときからスケジュール管理の鬼、みたいな言われ方はしてましたけど、大学でも変わってないんだと思います」
「確かに。医学部って忙しいイメージあるけど、勉強しながらちゃんと鍛えてもいるってことか」
塚原響とは、「彼」もそれなりに関わりを持っている。「彼」と逢が知り合い、関わり始めた当時、逢は水泳部の1年ホープであり、響は先輩として彼女を導く立場にあった。今でも、逢は当然として、「彼」と響も時折連絡をかわす仲であり、ことあるごとにかつての「後輩」である逢を大切にするよう、助言を受けてもいた。
「それにしても、色々迷惑もかけたなあ、先輩には」
「ああ、『あの時』とか……」
「そうそう。あのあと謝りに行ったりしたよね。そういえば、逢も掃除してたっけ」
「ええ。私もこってり絞られましたから」
二人は苦笑して、「あの時」を思い出す。恐らく、世界中を見回してもそんなことをした人間は居ないんじゃないだろうか、と。未だに、その時のことを考えると、逢はそう思ってしまう。
自分を励ますために、制服でプールに飛び込んできて、声をかけてくれた先輩。
後先を考えず、ただ、彼女のためだけに。
彼は、そうしてくれたのだ。
「今思うと、とんでもないよなあ。服を着たまま泳ぐだけでも難しいのに、制服でって」
「ふふっ。火事場のなんとか、ってやつですか?」
「んー、莫迦は嫌だなー」
そんなことを思い出しながら、笑いあう。今も、あの時も、この人は変わらない。いつも、私を支えて、応援してくれている。
「それにしても……」
「? 先輩?」
少し、彼が寂しげな表情を浮かべる。
逢は首を傾げ、その理由を彼に問うた。
「どうか、しましたか?」
「いや、もうこのプールで泳ぐ逢を見られないんだな、って思ってさ。部活引退のときも少しは思ってたんだけど、改めて卒業って言われると、惜しいな、ってね」
「そう、ですか」
確かに、それはそうだ。少なくとも、逢が高校生としてここを泳ぐのは、これが最後。もちろん、逢としてもその惜別の感情は持っている。だが……。
「思い出、でしょうか」
「ん?」
「あ、いえ。私も、そうですけど。先輩が、そのことを惜しんでいるのは、……どうしてかな、と」
ふと、聴いてみたくなった。ここが、自分にとって、とても大切な場所だからこそ。彼が、どういう理由で、このプールとの別れを惜しんでいるのかを。
思い出、と、逢は言う。制服のままプールに飛び込んだことも、のぞき見疑惑をかけられたことも、練習試合で応援してくれたりしたことも、そういえば、こんなふうに、二人でプールサイドで過ごしたことだって、あった。そんな、このプールにまつわるいろいろな思い出を、彼も尊く思ってくれているから、だろうか。逢は、そう推測し、聞いてみた。
それが当たっていれば、彼女にとって、これほど嬉しいことはない。逢と同じくらい、彼はこのプールを愛してくれていた、ということなのだから。
「思い出も、そうだね。いろんなことがあったから……ここでは。自由に入れなくなるのは寂しい……うん、もちろん、それもあるな」
「それも、ということは」
「んー、……あはは、逢の前で言うのは、ちょっと恥ずかしいなあ」
照れ笑いを浮かべながら、彼は頭をかく。その仕草がとても可愛らしく、愛おしい、というのは置いておいて。逢は、その先を聞きたい、と思った。
「それも」と、彼はそう言った。つまり、半分は、「思い出」からプールとの別れを惜しんでいた、で当たっていたということだ。
では、もう半分の「何か」は?
「聞きたいです、先輩」
プールからグッと身を乗り出して、逢はそう言った。
「卒業のお祝いだと思って、是非」
「そう来ちゃうか。それは、断れないかなあ」
「ええ、その選択肢はありません。さあさあ、是非是非」
「あはは……」
ずい、ずいと、逢は好奇の視線を彼に向ける。少しだけ困ったような笑顔を浮かべた後、彼は、ゆっくりと話し始めた。
「このプールで泳ぐ逢を見るのが、好きだったんだよな」
「水着、とか、そういうのでは、なく?」
「ん。まあ、それが好きなのは一切否定しないけどね」
悪びれず、彼はそう宣言する。もちろん、今更逢もそこをどうこう言うつもりはない。むしろ、微笑ましくすら感じているところだ。
だが――と、彼は続ける。
「そういうことだけじゃなくて、『このプールで、逢が、部活で泳いでいた』ってところ、なんだ。
なんとなく、で高校生活をやっていたところに、逢と出逢えて、水泳部で頑張ってる、ってのを知って、さ。覗きと間違われたりもしたけど、そのうち何だかんだで練習を見るのは公認みたいになって、逢の泳ぐ姿をよく見るようになって……、……そうだな、どう言えばいいかな。んー」
そこで、彼はいったん言葉を切る。
少し間を置いてから、逢の眼をしっかり見て、彼は、続きを語り始めた。
「一生懸命、何かに打ち込んでいる逢は、綺麗で、カッコよくて、とにかく輝いてて、さ。僕にとっては、一番星みたいなものなんだ。単純に大好きだった、ってのもあるし、練習や大会の逢を見て、『一生懸命』が何かを教えてもらった気もするね。
まあ、つまり――」
「……」
「憧れ、だったんだよな。ちょっとカッコつけて言うなら、憧憬、かな。逢は、僕の誇りで、憧れなんだ。もちろん、今も、これからもそうだろうけど。この高校生活で、プールで見せてくれていた逢が、僕にとってのヒーローなんだよ」
一気に、最後まで、彼は「理由」を言い切った。
ここで部活に打ち込んでいた七咲逢が、彼にとって、とても、とても大切な存在なのだ、と。
彼は、少し恥ずかしがりながら、そう伝えてくれた。
「……っ」
顔が赤くなったのが、伝わった、だろうか。夕陽で、ごまかされたか、どうか。逢は分からず、思わず、プールに潜ってしまった。
(ああ……)
その胸に産まれた感情は、優しく、熱く。
表情も、自然と緩んでしまう。
嬉しい。
彼がそう思っていてくれたことが、ただ、嬉しい。
自分なりに、このプールで過ごした日々を、誇りに思っていた。
でも、もっと、もっと――そんな時間が、輝けるものになった、そんな気がしていた。
「逢?」
再び水面から顔を出した逢に、彼が怪訝そうな表情で、首を傾げつつ、問いかける。逢は、そんな彼の仕草に、苦笑する。
そして――。
「すみません、ちょっと、気を落ち着けていました」
「そ、そうなの? 何か拙いこと言ったかな」
「いえ。とっても、嬉しいです」
「はは……そう言われると、やっぱり照れるな」
あなたにそう想われていたことが、宝物、と。
彼女は、そっと、照れ笑いをする彼に向けて、心の中で呟いた。
「うん。そうだな、だから、寂しいんだ。やっぱり、ここは特別なんだ。僕の高校生活の中でも、ね。今年も時々見に来てたけど、もうそれも無くなっちゃうんだな、って思うとね」
「そう、ですね。でも、これが最後、というわけでもありませんし」
「ん?」
「先輩ならご存知でしょうけど、OBが指導するときもありますし。後輩にもお願いされてますから、これからもここで泳ぐ機会はある、と思います」
「なるほど……」
「それに、私は、これからも泳ぎ続けますから。ここじゃないかもしれないですけど、また、見ていてくれたら、嬉しいです」
これからも、自分と彼の日々は、続いていく。
卒業、という一区切りを迎えはしたけれど。それは、絶対に間違いのないことだ。
だから、「未来」に向けて踏み出せばいい。彼と共に、新たなスタートを切る……そう言える瞬間でもあるのだ。
ただ――「過去」を想い、「過去」を称えてくれた彼に、何か、自分が伝えられることがある、としたら?
それはきっと、この一瞬でしか言えないこと。
「卒業」という、特別な日に、彼に伝えるべきこと。
彼は、自分に伝えてくれた。「七咲逢」が、彼の中で、どんな存在だったか、を。
それなら。
「先輩」
「逢……?」
「耳、貸してください」
「え」
逢は、彼にそう伝えた。
「二人だけ、なのに?」
彼は、笑ってそう返す。それも、そうだ。普通、「耳を貸す」というのは、周りに聞かれたくないことを、こっそり伝えるときにしてもらうこと、である。
だが。
「ふふ。いいですか、先輩」
「は、はい」
逢は、到って真面目、であった。キリッとした目つきで彼を見つめると、子供をたしなめるように、続けた。
「こういうのは、雰囲気です」
「雰囲気」
「はい。大切なのは、その一点です」
「お、おう」
びし、と指摘した逢に気圧されたのか、彼は面食らったような表情を浮かべ、そして、笑った。
「分かったよ。じゃあ……」
愛しい彼の顔が、逢に近付き、横を向く。
「これでいい?」
「ええ。満点です、先輩」
逢は、その左耳に向けて、少し身を乗り出し、ほとんど息がかかるくらいの距離まで、自分の顔を近付けた。
彼に、伝えたいこと。
七咲逢の、輝日東高校での日々。
そこで得た、確信を持って言える、ひとつの答え。
「あなたに出逢えたから、私の高校生活は、最高でした」
逢は、小さい声で、しかし、しっかりと、彼の耳に、そう届けた。
そして――。
「……あ、逢?」
彼の耳たぶを、そっと甘噛む。
いつものキスとは、少し趣向が違う行為。
ただ――そのことを、自分が大切にしていく「答え」を伝えた彼に愛情を伝えるなら――そんな方法もいいか、と。彼女は、そう思ったのだ。
「ふふっ」
「はは……」
逢は、いたずらっぽく笑う。彼の顔は、赤くなっている……と、夕日に照らされていても、そう分かる。
逢はプールから上がり、改めて、彼へと声をかけた。
「それと、春からもよろしくお願いしますね、『先輩』。講義の取り方とか、いろいろと」
「そ、そうだね。その辺は、任せてよ」
「はい♪」
七咲逢、高校最後の日の時間が、ゆっくりと流れていく。
二人の「これまで」と「これから」、どちらも素晴らしいものになる、と。彼女に、そんな予感を抱かせながら。
卒業。それは、アマガミの作中では描かれなかったけれど、確かに
主人公氏と逢さんの間で共有した時間の筈。
なので、「その時」も、書いてみたいな、書かなくちゃな、と
考えていたところ、今回えいやっとやってみたのがこのSSです。
で、タイトルが「アマガミ」ですから……。
一度、やってみたかったんですよね……! 「甘噛み」を!
というわけで、けっこう後半はノリノリで書いておりましたw
二人でプール、といえば、主人公氏制服のまま
飛び込み事件が本編では非常に印象的ですが、実はもうひとつ
自分に鮮烈な印象を与えてくれた公式話があったりします……そう、
東雲先生版アマガミの七咲逢嬢特別篇、二人でプールへ行ったあの話です!w
未読の方は是非是非東雲先生版アマガミの5巻(だったっけ)を! と
掛け値なしで言えるほどのエピソードでしたw 今回の描写は
その時と水着こそ違いますが、けっこう影響を受けていたりしますw
もちろんこのあとの大学にしろ、高校時代にしろ、もっと行って「大人」な
二人にしろ、書きたいことは山ほどありますので、まだまだ逢さんと
主人公氏の話を描きたいと思っております。今回は、その中の一日、
でも大切な「彼女の卒業」。そんな想いで作ってみました。
ナナサキストの皆様に愉しんで頂けましたら何よりです。
それでは、お読み頂きましてありがとうございました!<(_ _)>
面白ければ是非w⇒ web拍手
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