――大学生、という「身分」は、色々な特権を持っている。


 高度な学問を修め、究めるために勉学に励み、その果実を得る、そのことに専心できる身である。と同時に、社会の構造的、利害的しがらみに絡め取られることなく、また、指導の名の下に「上」の人々から抑えつけられることもなく、自由に自らの時間を用い、そして発言し、行動できる者たち、とも言える。

 簡単に言えば、高校生までの自分より、より自由に、自主的に行動できるようになるのが大学生、ということになるだろう。




「あの時は肝を冷やしたからなぁ……」
「そうでしたね……」

 と、そんな大学生になった彼と七咲逢は、かつての出来事を思い出しつつ、喫茶店で苦笑しあっていた。秋が深まりつつある頃、少しずつ夏の濃い色合いが薄れつつある並木道を眺めながら、カフェでのんびり、二人で話す、そんな、何気ない至福の時間。気心の知れた――より、更に一歩上の間柄である二人の話には、思い出話が混じることも多い。

「あの時」とは、二人がまだ高校生だった時に行った、とある温泉旅行のことである。全く予期していなかったことに、旅行先で彼らのよく知る某T先生に出くわし、色々と危うくなる寸前まで事態が行った、ある意味非常に恐ろしい思いをしたイベントのひとつであった。ただ、華麗、とは行かないまでも、その後に二人が見せた見事なる「愛の」解決から、互いのいい思い出にもなっている。

「まあでも、今は、ね」
「ええ。そういうこともないでしょうし」

 苦笑しつつ、二人は再び本題に戻る。高校の頃とは違い、大学生は、その手のハプニングを恐れる必要が無い。ありがたいことだ、と思いつつ、彼はテーブルに広げられたガイドブックに視線を向けた。

「どうせだから、観光した後にゆっくり温泉を楽しみたいな」
「いいですね。えーと……そうすると、観光地と温泉が近いところ……か」

 ガイドブックは彼と逢の前にそれぞれ一冊ずつ。名前は、「窮極・全国温泉地名鑑」。彼はその東日本篇を、逢はその西日本篇を前にしている。そう、二人は秋の連休を利用し、温泉旅行を計画しているのである。

「近場にするか、ちょっと冒険して遠くまで行ってみるか、から決めようか」
「悩みますね……うーん……」

 腕を組み、少し難しい表情をする逢が、なんとも愛しい。何回かページを繰っていた逢は、ぴた、と、とあるページでその指を止め、顔を彼の方へと向けた。

「……ここ、どうです?」
「おお、なるほど。これなら……、確かに、観光も温泉も、一度に楽しめるよな……」
「ですよね。遠いことは遠いですけど、大都市ですから、夜行バスの路線なんかもありそうですし」
「うん、うん……僕もビビッと来た。ここにしよう、逢」
「ふふ、じゃあ、それで行きましょう」

 逢は微笑むと、自分の許にあったガイドブックを、二人で見やすいように縦向けにし、机の端に置き直した。その、開かれたページが指し示していた地は――。




「国境のトンネルを抜けると湯の国であった」
「微妙に違いますよね、それ」

 ――と、そんなやり取りをしているうちに、電車のアナウンスが到着を知らせてくれる。二人が乗っているのは、神戸電鉄有馬線、その東端の区間である有馬口駅と有馬温泉駅を結ぶ路線を走る列車、である。有馬口駅で乗り換え、一駅だけの移動となるその列車は、しかし、その道中で色々な景色を乗客に見せてくれる。

 そう、二人が選んだ旅行先は、神戸であった。異国の風情がそこかしこに感じられる港町としての顔を持ちながら、市街のすぐ背後には急峻な六甲山脈が控え、海から山への距離がとても近い地でもある。そして、その山を越えれば、「港町」としての顔とは全く違うものを、神戸は見せてくれる。それが、一説に「日本最古」とも謳われる温泉地、有馬であった。観光地と温泉でのくつろぎ、この二点が極めて近いところに存在する、それがこの町の大いなる特色のひとつなのだ。

「でも、電車で来て良かったです。良い景色でした」
「そうだね。乗り換えはあるけど、あのトンネルも通ってみたかったし」

 神戸市街地から有馬までの道のりは複数ある。公共交通を使うとすれば、バスか電車、だ。バスは、直通のものと路線のものがあり、直通のものは三宮のバスターミナルで乗車すれば降りるところは温泉地のバス停留所、と、もっとも楽に行くことが出来る手段である。
他方、鉄道路線を使うなら、行く方法は二つ。神戸市営地下鉄から北神急行を経由し、神戸電鉄の谷上駅へ出てから有馬温泉駅に向かう方法と、新開地に出た後に神戸電鉄に乗り換えて有馬温泉駅に向かうものである。前者は時間の短さや発車本数に特色があるが、北神急行を経由するため、運賃が割高になる。新開地経由であれば、相当時間はかかるものの、運賃は割安、となる。

 どのルートをとっても一長一短、というのが実情であるが、二人は結局、新開地を経由し、神戸電鉄で有馬温泉駅に向かっていた。このルートの特色は、運賃以外に、もうひとつある。地下の路線で六甲山の向こう側に出る市営地下鉄&北神急行のルートと違い、神戸市の山間の地をぐるりと回りつつ走るため、車窓の楽しみがあるのだ。また、谷上駅から先はどちらも同じルートだが、その最後、有馬温泉駅のすぐそばにあるトンネルは、そこをくぐれば一気に温泉地が目の前に広がる、ある意味では景勝地のひとつ、とさえ言える存在であった。

「やっぱり、少し冷えるんですね」
「確かに。山、って感じがするな」

 改札を済ませ、特産である焼き饅頭の試食を進める声を左に、駅を出る。遠回りな路線を択んだとはいえ、三宮からたった一時間でこの風情。彼らの地元・輝日と神戸は同じ港町のはずなのに、ここではたったそれだけでここまで山の中に来てしまうものか、と。彼がそう思うのも無理はないほど、有馬は当に「山間の温泉地」を地で行く街であった。

「えーと、コインロッカーは、駅の外、出てすぐ左、だっけな」
「こっちです、先輩」

 時刻は、午後一時半を少し回ったところ。今夜泊まる宿のチェックインタイムである三時には、まだ早い。宿に入るより先に、温泉街の観光を、という目論見である。ロッカーに荷物を仕舞った二人は、道路を渡り、街のほうへと向かっていった。

「ここが太閤橋、ですね」
「あ、写真撮るから、そこに立っててよ」
「ふふ……分かりました」

 有馬温泉駅から温泉街の地域までは、徒歩数分ほどある。坂を上ればすぐに景勝地である太閤橋があり、架かる有馬川へは階段を下りて散策することも可能だ。
 レンズ付きカメラのシャッターを切り、またひとつ、思い出を増やす。景勝地はただ眺めているだけでもいいものだが、そこに逢が立てばそれは至高の景色となる。いや、別段景勝地でなくても、逢が居ればそれだけで至高なのだが――あるいは、表現の仕方が問題であろうか。逢が至高であり、景勝地が趣を加えるのであろう。
 川、というより、谷、と言った方がいいような有馬川沿いの道を進めば、土産物店や観光案内所が並び立つエリアに出る。

「やっぱり、炭酸せんべいが多いんですね、お土産は」
「定番中の定番らしいからね。あとは有馬サイダーとか、竹細工とか、その辺りが有名、だっけ」

 有馬温泉駅、太閤橋に引き続き「有馬らしい」光景が、そこから続く坂道沿いの街並みである。博物館や炭酸せんべい屋、土産物店が並び立ち、公共浴場の「金の湯」も坂道を上ってすぐのところにある。

「お昼が早かったですから、ちょっとお腹がすきましたね。先輩、ひとつ食べて行きませんか? 炭酸せんべい」
「お、いいね。ついでに宿に持ってく分も買おうか」

 ランチは十一時過ぎに済ませてしまっていたので、いつもの「三時のおやつ」程度の空腹具合。逢の提案に乗り、二人は出来立ての炭酸せんべいを購入し、散策に戻る。

「ん……甘くて美味しい……」
「お茶にも合いそうだよね」
「はい。宿にはお茶もあるでしょうから、また後で食べましょう。
 ……と、この先にひとつ泉源がある、みたいですね」

 有馬の観光名所は色々あるが、金の湯・銀の湯などの温泉施設以外では、泉源めぐりや寺社めぐりが代表的なものとして挙げられる。街は狭い土地に成立しているため、坂が多く、細い路地も多い。そんな路地をくぐりながらひとつひとつめぐっていくのが、有馬の楽しみ方なのである。

「側溝から湯気が上っているのがいいですよね」
「ね。溝が赤いのは、鉄分……かな」

 泉源の湯気、熱量に感嘆したり、温泉地ならではの情景に心を癒されたり、太閤所縁であったり、と色々な由来のある寺社を回ったり、瑞宝寺公園を散策してみたり、と、午後の時はゆるやかに過ぎて行く。

「そうだ、金の湯はどうしますか? 入ってから宿に行くか、それとも……」
「んー、難しいな。明日も時間はあるんだよね?」
「そうですね、夜行バスが出るのが夜の十時ですから、時間はたっぷりありますね」
「それじゃ、明日にしよう。あ、でも、足湯くらいなら……」
「そういえば、横にありましたよね。行ってみましょうか」
「うん。帰りに寄ってみよう」

 いつしか、手を取り合って、有馬の坂を歩く二人。きっと、一人で旅行をしていても、未知の街では心が躍るのだろう。だが、もうそんなことは考えられない。隣に逢が居ない旅行なんて、果たしてこの先あり得るのだろうか――いや、あり得ないな、と。その手のぬくもりを感じつつ、彼は強くそう思った。

「どうしたんですか? 先輩、ニヤついちゃって」
「ふふふ……何でだと思う?」
「え、いや……どうでしょう、……うーん」

 自然と、頬も緩んでいたらしい。逢のしぐさひとつひとつが愛しく、首を傾げる姿がまるでかわいらしい猫のようで、またかわいらしい。
 二人で楽しむ、神戸有馬の旅行。きっとこの後、宿でも幸せな時間が待っている筈だ。
 そう思うと、更に表情が崩れるのを防げない彼であった。





「いやー、疲れたなー」
「ふふ。坂が多かったですからね」

 有馬の街を存分に堪能し、最後には足湯まで使った二人は、チェックイン時間を少し過ぎたあたりで宿に到着した。比較的リーズナブルな値段ながらもサービスはきっちり、という評判の宿であり、和室に通された二人は、早速その寛ぎの空間を味わっている。

「夕食は食堂で六時半だったよね。まず一風呂浴びるか……」
「それがいいと思います。歩いて汗もかいてますし」
「確かに。その後は昼寝、としゃれ込むかな」
「そうですね、お布団も敷いてもらっていますし」

 部屋自体は大きくは無いものの、二間あり、片方が寝室となっている仕様のようである。和室一間では、布団を敷いて昼寝をする、ということがしにくい。狭くても二部屋に分けているのは、それを解消しようという狙い、なのかもしれない。

「じゃ、まずお風呂だね。準備しなきゃ」
「浴衣とタオルは用意してもらっているんですよね。押入れの中、と……」

 二人は早速、湯を堪能すべく準備を開始する。一泊二日、は意外と短いものだ。それ故に、計画的に時間を過ごすことが、短い滞在時間を楽しむコツ、である。

「浴衣の逢……。いやあ……想像するだけでも……」
「先輩、何ぶつぶつ言ってるんですか?」
「ん、逢が可愛いって話?」
「……もう」

 今から、湯上りが既に楽しみで仕方ない。彼は湯上がり浴衣の彼女を思い浮かべつつ、既に心を躍らせていた。





 そして――彼の心を更に倍率ドン、更に倍で躍らせる情報が、入浴のあと、彼の目に触れることとなる。

「……え、今、なんて」

 風呂上がり、夕食までの二時間弱をのんびり昼寝でもしながら過ごそう、と、二人は部屋の寝室で、二セット並べられた布団に入っていた。その中で、彼は「そのこと」を切り出したのだ。

「ダメかな?」
「……、……、……、や、そういう……問題、では、なく、ですね」

 そう、「それ」は、温泉上がりに浴場外のソファーに腰掛け、ゆっくりしていた彼の目に飛び込んで来た、とある看板に記された文字、であった。たった四文字の漢字が、方角を示す矢印と共に、木の板に何気なく記されているだけのもの。だが、それを目にした彼の身体には、強烈な電流に似たものが走ったのである。

「いい、よね?」
「……、……えーと……」
「ダメ?」
「ダメ、というか……なんというか……」
「なんというか?」
「あ、改めて想像すると……、……は、恥ずかしい、と、言いますか……」

 少し、頬を赤らめる逢。昼寝前、ということで電灯を消している中、その上気した表情がとてつもなく色っぽくて、ドキッとする彼である。
 だが、それは今は置いておくべき問題だ。攻めに攻めを重ねなければならない。

「や、大丈夫。逢なら出来る!」
「そういうことを言ってるんじゃなくて!」

 逢は未だに踏み出せていないようだが、彼には既に「勝利」が見えている。これぞ当に、巷に言う「イヤよ、イヤよ、も」云々というやつだ。慈悲は無い。

「逢、考えてみよう。ね、今この状況とほとんど変わらないんだ。浴衣とあと何枚か、それを着ているか、着ていないか、じゃないか……家族風呂なんて、そんなものだよ」
「どういう理論ですかっ!」

 そう、彼が目にしたその四文字は「家族風呂」であった。即ち、プライベート・オフロ。他者の干渉を受けず、浴場を自分たちだけで使うことが出来る、素晴らしいシステムである。

 なぜ、旅行に来て、宿にまで至ったここまで、そのことに想いを馳せなかったのか、と、その四文字を発見した時、彼は大いに天を仰いだ。逢と家族風呂を使う、そのことをモチベーションに、もっと日々を頑張れたのに……と、己の愚かさを呪ったものである。

 だが、今からでも遅くはない、と、彼は思い直した。そして、今、センパイは逢を強力に勧誘しているのだ!

「……、……」
「――っ、……」

 彼の攻めは、続く。何も、口に出して言うばかりが戦術ではない。しっかりと目を見据え、真剣な表情で「語る」のも攻めの一手、である。策は無限に己が内にある。そして――。

「……わ、分かりました……分かりましたよ! だから、そんな目で見ないでくださいっ!」

 遂に、逢が堕ちた。彼の目力が人生で最大になったのが、当にこの瞬間である、と言っても過言ではないだろう。

「ありがとう、逢」
「……うぅ〜……」

 彼は布団を撥ね退けると、即座に備え付けの電話を取り、フロントに連絡を入れた。
 勝利――その二文字が、強烈に脳裏に描かれる。家族風呂を予約し終えた彼は、気恥ずかしさからか、既に布団を引っ被って丸くなっている逢を愛おしく思いながら、しばしの睡眠へと落ちて行った。





「おお……」
「凄い湯気ですね」

 そして、遂に「その時」がやって来ていた。美味しい料理を堪能し、少し時間を置いてからの、家族風呂。が、今更そういう仲でもなかろうし、どうせ入るときには取らなければならないのに、と彼は思うのだが、逢はしっかり身体にタオルを巻いて、鉄壁の防御を崩していない。

 だが、隠せば逆に、それが艶を生む、という見方もある。肩、背中、胸部の柔肌に、すらりと伸びた手足、愛しいその容貌。家族風呂の濛々たる湯気の中、タオル一枚を纏って中に入っていく逢は、美の女神と称してもいいほどの神々しさを誇っている――と、彼には思えた。

「銀泉、金泉を兼ね備えた宿イチオシの家族風呂、だってさ」
「な、なるほど……」

 家族風呂の存在を知ってから、宿の詳しい解説が載った冊子を開き、仕入れた情報のひとつである。有馬温泉には大きく分けて、鉄分を豊富に含み、銅褐色のような色を呈する「金泉」と、ラジウム泉や塩化物泉など、無色の良質な湯である「銀泉」、二種類の湯がある。宿の大浴場にもこの二種類が用意されていたが、それらを家族風呂でも存分に堪能できる――というわけである。

「背中、流しっこする?」
「……自分でやります……!」

 逢に提案を拒否されたため、互いに一人で体を洗う。彼は先に洗い終え、金泉の浴槽へと身体を沈めた。

「……うおおお……熱い……!」

 かなりの高温、と言っていい。だが、熱すぎて耐えるのも厳しい、というほどではない。伝え聞くところによれば、公共浴場の金の湯には適温に調整された浴槽と、熱さそのままの浴槽が用意されている、と言うが、恐らくこの金泉は温度を調整しているほうなのだろう。
 だが、それでも熱いものは熱い。とはいえ、それ故にこそ身体に効いている、という感覚がある。それが正しいのかどうかは分からないが、薬効的な何かがあるのではないか、と思わせてくれるだけのものはある。

「お」

 そんな金の湯に悪戦苦闘していると、視界に見慣れた脚が映る。大学に入っても欠かさない水練でよく引き締まった、愛する人の御み脚、である。

「……先輩、あまりじろじろ見ないでください」
「……あはは」

 逢はそう言うと、素早く湯船に入り、彼の隣に腰を下ろした。彼が逢を凝視していたのは、実際はその全身像が湯気でよく見えなかったから、なのだが、逢はそもそも視線自体を気にしていたるらしい。
 確かに、高校時代のあの野湯イベントから考えても、「そういう間柄でもない」と言える筈だが、よくよく考えれば、暗がりではない、しっかりと光がある中で「そういう」ことになることは、あまりない。……いや、やっぱり、一緒に入浴イベント、なんてのは「あまりない」ことではないのだから、それもまたおかしい話だ……が、そこに「家族風呂」という名前の持つ、伝統的な重みが加わり、何らかの作用を逢に及ぼしている、のであろう。

 逢の恥じらいは、多分にそこから来ているように思える。自分の家や土地で無く、宿という「外」であることも効いているのかもしれない。逢はまだ、「家族風呂」という概念を自分のものに出来ていないのだろう、と、彼は結論づける。

 しかし、それにしても、湯気がいい仕事をし過ぎている――せっかくのチャンスだったのに……と、性懲りもなくそんなことまで思ってしまっている彼である。

「……先輩は、えっちですね」
「そ、そうかな」
「……そうです」

 少し拗ねたような逢に、彼は苦笑する。だが、そんな言葉とは裏腹に、逢は少し離れて腰を下ろした場所から、彼の方へと身体を寄せて来ていた。

「まあ、仕方ありませんよね。先輩も男の子、なんですから」
「あはは……」

 身体を寄せ合って並ぶ形になり、今度は彼のほうがドギマギする番、であった。急速に高まる鼓動に、彼は混乱を禁じ得ない。「そういう」ことが、どこか背徳的に感じられる――もう、そんな段階ではない筈、と思っていた先刻までの自分は、どうやら甘かったらしい。家族風呂、二人きり、というシチュエーションに、名湯の霊験まで加われば、ここまで心が蕩けるものなのか、と、彼は内心感嘆する想いであった。

「ふふふ……」

 彼を見上げる逢の表情は、いたずらっぽく、そして、可愛く、艶やかだった。どうやら、いつの間にか攻守は逆転していたらしい。あるいは、温泉地での家族風呂、という恥じらいへの効果が無くなり、普段の彼女に戻った、と言うべき、であろうか。

「いいお湯ですね、先輩」
「そ、そうだね。流石は有馬温泉、というか」
「はい。身体の芯から温まるようで……」

 逢の言う通り、じんわりとした熱が、身体全体に広がっているのを感じる。温泉の効能とは凄いものだ。だが、それだけ――でも、ない。身体だけではなく、思考にまで、精神にまで――心にまで、熱が蓄積されて行っている、ような――。

「えい」
「!」

 きゅ、と、逢の右手が、彼の左手を握る。寄せられた身体の感触に、ひときわ強く力が込められた掌の柔らかさが合わさり、彼の精神に更なる刺激が与えられた。

「……勝てないよなあ……」

 彼は苦笑しつつ、その手を握り返し、そっと離すと、左腕を逢の左肩に回し、優しく抱き寄せた。

「本当に、逢には勝てないよ」
「ふふっ」

 立場が逆転していることを、逢もよく分かっている。そんな彼女もまた、彼の好きな七咲逢、であった。古湯の効と逢の存在が、彼を心の底から蕩けさせ、優しく癒していく。当に、天上の心地があるとすればこういうものであろう、と。有馬の湯に浸かりながら、彼はそう確信していた。





「……あふぅ」
「少し、長湯しすぎましたね……」

 部屋に戻った二人は、互いに苦笑し合い、うちわで身体を扇いでいた。逢との家族風呂はことのほか楽しく、湯の心地良さも相まって、少しばかり長湯をしてしまったのである。軽い湯あたり、という程度の状態だろうか。自動販売機で買ったスポーツドリンクで水分補給をしつつ、二人は部屋でのんびりとその熱を冷ましている。

「いや、でも気持ちよかったのは間違いないね」
「ええ、それは間違いないですね」

 大浴場も、家族風呂も、共に極上の心地へと誘ってくれるものだった。温泉の醍醐味とは湯に帰するものであり、そういう意味では、この旅は大成功だった、と言えるだろう。

「ふぁ……眠くなってきちゃいました」

 逢は、涼を取るために着物を少しはだけさせながら、ひとつ欠伸をした。ちら、と覗く素肌に、夏の日焼け跡がうっすらと残っている。浴衣に日焼け跡、というのもまた乙なもの――そう感じずには居られない。

「っと、大丈夫?」

 逢の眠気はどうやら本格的なものであるようで、少しばかり上半身をぐらつかせている。彼は逢の身体を手で支え、身体を抱き寄せるような形になった。

「逢、そろそろ、寝ようか?」
「ふふ……それも、いいんですけど……せっかくの温泉宿ですし、少し、それじゃもったいないですから……お布団の中で、ゆっくりしたい、ですね……もう少し、お話ししたい、です」
「じゃ、目を覚まさないとな。水分補給もしたいし……もうちょっと飲み物、買ってくるよ」
「はい。ありがとうございます、先輩」

 風呂上がり、良い香りのする逢に軽く口づけして、彼は小銭を取り、部屋を後にする。幸せな温泉での夜は、まだもう少し続くだろう。こんな時間が得られるなら、次は二泊でもいいかもしれない。もっともっと、逢と、今日のような思い出を増やしていきたい。

 そして、その機会は、これからもたくさん訪れることだろう。逢の傍に居て、共に歩んでいく、ということは、そういうことだ。

「幸せだなぁ……」

 廊下に出た彼の口から、そんな言葉が漏れた。偽らざる本心。逢と一緒の温泉旅行、これもまた、唯一無二の「幸せ」なのだ、と。彼は噛み締めながら、逢と飲むものを買いに、自動販売機へと向かって行った。



 というわけで、C87アマガミ小説パートをお届けいたしました! アマガミで、七咲逢嬢で「温泉」と言えばやはりあのクリスマス野湯を思い起こすわけですが、実は他にも温泉ネタはあったりします。

 漫画の方ですが、逢さんと主人公氏が温泉に出かけた先で高橋先生に会ってしまって、という筋書でしたねw 当然問題視されかかるわけですが、それを――、という。冒頭、二人が思い起こしていたのはそのことだったりします。

 有馬温泉篇になったのは、本のほうで挿絵をご担当頂いている紫色様のピクシブにおけるアイアイ温泉シリーズ、その一場面として〜、という形にさせていただいたからですねー。直近の白骨温泉編も素晴らしかった……そんなお二人の1シーンとしてお楽しみいただければ幸いです<(_ _)>

 それでは、ここまでお読み頂きましてありがとうございました! 皆さまよいお年を! 来年も善きアイアイを!

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