「……レオナルド、ミケランジェロ、ラファエロ、ドナテロ……」


 初夏の日暮れ時。輝日東高校三年生のとある教室に、そんなことをうわごとのように呟いている、一人の少年が居た。


「いや、ドナテッロ……? なんか、亀を思い出させるなあ。……文学、……マキャベリ……なのか、マキャベッリ……いや、マキアベッリ……どれが正しいんだ? ……君主論、フィレンツェ史……最初に戻って、……ダンテ、神曲……ボッカチオ、デカメロン……でか、メロン?」


 少年の座る席には、世界史の教科書が広げられていた。朱のマーカーが文章のいたるところに引かれていて、傍らには緑色透明のシートが置かれている。しかし、それをかぶせ、知識を確認する段階には到っていないらしい。まずはぶつぶつ呟いて頭に叩き込む。彼は、彼の恋人を待つ時間、そんな「作業」に没頭していた。

 ただ、呟いて暗記しようとしても、流れの中で理解しなければ中々入ってこないのが世界史の知識であり、その学習は暗記という「作業」に見えて、本質は全く違うのが現実なのだが。


「でか……メロン、か」


 そんな中、教科書にある一節、ルネッサンス不朽の著作名が、彼の琴線のどこかに触れたらしい。

 メロン――から、想定できるものは何か。勉強の最中であるというのに、彼の頭にはお宝本のイメージが湧いている。……この年頃の男子としては至極真っ当な連想かもしれないが、古人が見れば呻きそうな光景である。

 ただ、この名作には恋愛話も含まれていたりする。それに、古人とて人間であり、恋に、異性に燃える人々も多かったのだ。あるいは、発想の由来を知れば、大笑いして彼と酒でも酌み交わす者もいるかもしれない。あるいは、「変人」同士、気が合う可能性も無いとはいえない。


 さておき。


「――けど、大きいだけが価値じゃない」

 頭に浮かんだ妄想を取り払い、腕を組み、不敵に笑うと、彼は大きく頷いた。そう、確かに彼のお宝本には「大きい」ことを主眼に選択したものが多いが、それが絶対的価値でないことを、今の彼は魂で知っている。

 平均的であっても美しい――そう、完璧なる均整の美。そして、引き締まった肉体とのコンチェルト。彼の恋人は、そんなプロポーションの持ち主である。
 例えるならば――美術の資料集で見た、ルーヴルに燦然と輝くミロの美神――古代人が到った美の極致とも言えるほどの、あの――――

「……っ、と」

 一度消えた妄想は復活し、連鎖し、勉学の道を阻害する。ホームルームの後、友人達との談笑も終え、教室に籠もることおよそ一時間半。オスマン・トルコの勃興と栄光のローマ帝国の滅亡、ヴェネツィア・ジェノヴァ・フィレンツェをはじめとするイタリア都市国家の興亡に神聖ローマ対ローマ法王の血で血を洗う抗争、イベリア半島・レコンキスタの完遂、ブルボン朝の内実と遠交近攻策、テューダー朝と離婚と国教会――中世を彩る数々の歴史的事実、そしてルネッサンス期文人達の輝ける文化的業績――その他、様々な世界史上の事象を相手にした戦いは、彼の集中力をかなり磨耗させていた。発想が勉強と関係ない方向に向かってしまうのは、その証左といえる。

「……ふああ……っと、いかんいかん。ここが踏ん張りどころだ」

 思わず出てしまった欠伸に危機感を覚え、彼は気を引き締めることを試みた。ここで寝てしまっては本末転倒、この時間を有効利用する、という本来の目的に反することになるのだ。

 逢の部活終わりを待つこの時間は、部活も特に無い彼にとっては自由に身動きが取れる時間、とも言える。そんな時間の有効活用策を考えていた彼が、「門での待ち合わせ時間まで、教室でしっかりみっちり勉強しよう」という発想に到ったのが、つい二日前ほどのことだった。

 如何に体や脳が拒絶反応を起こすとはいえ、生徒にとって勉強はやはり義務。大学受験だって控えている。しかし、家では集中力阻害要因が多過ぎて中々打ち込めないのも、やはり事実。しかし、学校の教室や図書室でならどうか――他にすることが無い、あるいは少ないから、集中できるんじゃないだろうか! どうだろう逢!


 ……と、彼は彼の恋人にプランを披露してもいた。彼は、その計画を、当にこの日から実践していたのである。


 だが、しかし。彼は、ひとつ、計算違いをしていた。


「……あったかいなー……」


 ――気候に誘発される眠気は、家でも学校でも変わらないのだ。集中力が落ちれば、彼らは即、その隙を衝いて来る。彼の集中力の摩耗、そしてそれ故の気の緩みを、眠気は見逃してはくれなかった。

 あったかい、ここちよい、ねむたいの三連コンボが、彼の意識下を襲う。目の前の教科書がぼやけ、何を書いてあるのかが理解できなくなってきて――――次第に、その「理解できていないい」ことすら、自覚することがなくなってくる。

「……逢……」

 彼が眠気に襲われてから睡眠に落ちるまで、さほど時間は必要では無かった。恐らくは、二、三分。勉強で張り詰めていた神経が緩んだ時、起こりがちな現象である。

 眠りに落ちる前、彼が恋人の名前を口にしたのは、さて。朦朧とした意識の中、彼女の姿を幻視でもしたものか。いずれにせよ、彼はそう呟いた直後、机に突っ伏して夢の世界へと旅立ったのだった。









「あれ」


 どうやら、今日は私が先らしい――と、逢は思った。


 門のところに、彼が居ない。腕時計に目を落とせば、約束の時間まではあと十分ほどある。が、逢がこのくらいの時間に来ても、彼は先に待っていてくれることが多いから、ういうケースは珍しいと言っていい。

「……あ」

 ただ、約束の時間まではまだあるのだから、彼が居ないことは不自然じゃない。それでも、逢の頭には、思い当たる理由があった。二日ほど前、彼が語ってくれたこと。自慢げに――本当、子供っぽくって、でも、彼らしい、とも逢には思えて、微笑ましく思った表情で――彼は、放課後のプランを披露してくれたのだ。高校三年になったから、勉強を頑張らないと、という話の中で。

(……うーん)

 所在なく、彼のことを考えて時を過ごし、再び時計に視線を落とす。約束の時間まではあと五分。しかし、彼の姿はまだ見えない。もちろん、時間的にはまだ余裕がある。だから、来なくてもおかしくはないのだけど――

(やっぱり、かな)

 逢が思いついた――いや、今思いついたわけではなく、「その計画」を聞いてからずっと、心の隅では思い続けていた「懸念」。時計の針が進むたびに、それが現実になっている可能性が大きくなっていくように、逢には感じられていた。

「んっ、…………」

 こく、こく、と、逢ののどが鳴る。……水中でも、汗はかくのだ。水泳は激しい全身運動である以上、陸上と同じ――いや、それ以上に体が水分を求める状態になる。逢は、バッグから取り出したスポーツドリンクを飲みつつ、彼を待った。


 ――が、しかし、彼は一向に現れない。


 もう一度腕時計を確認すると、約束の時間まで、あと二分を切っていた。これはいよいよもって、自分の想像通りである可能性が高くなったのではないか――彼女は苦笑しつつ、バッグを持って立ち上がった。

「……全く。仕方ないですね」

 言葉とは裏腹に、逢は、とても楽しそうに笑っている。
 困った人。……だけど、そこがいいのだ。


 あと一分半。待っていて来なかったら、こちらから行ってみよう。逢はそう決めると、バッグの中に、空になったペットボトルをしまい込んだ。







 三年生の教室がある区画は、既に人もまばらだった。無理もない。この時間まで学校に残っている生徒は、大抵部活に打ち込んでいる者である。勉強をするにしても、図書室を使ったりすることが多いから、教室には必然的に人が少なくなるのだ。

「さて、と……」

 彼の教室の前に立ち、逢は、自分の予想が正しいかどうかを確かめてみた。

「――ふふっ。やっぱり……」

 そして、その予想は見事なまでに的中していた。教室の奥、窓側の隅。夕日に照らされた席に、一人、机に突っ伏している少年が見える。
 明らかに、寝ていると分かる図。間が抜けている光景だが、どこか、憎めないし、それに、可愛い……とも、逢には思える。

 そっと、彼を起こさないように教室に入り、逢は忍び足で彼へと近付いた。

「……すぅ……ん、む……」
「くすっ……」

 ――完全に、寝ている。わざとあんな恰好をしているのではないか、という可能性も考えた逢だったが、これは間違いない。寝息はあくまでリズミカル。完全に、彼は睡眠の世界を旅している。

 逢はバッグをそっと床に置き、彼の隣の椅子を静かに引き出して、腰を下ろした。開かれた教科書が枕代わりになっているところを見れば、彼が少なくとも勉強をしようとはしていたのが窺えるし、きっとしていたんだろう、と、逢は信じていた。その最中、恐らくは春の陽気に釣られ、睡魔に負けた――きっと、そんなところ。

 起こすのも悪い、と、逢は思った。それに、こうしている時間も悪くは無い。練習後、疲れた体を休めながら、彼の寝顔を眺める……悪くないどころか、至福かも――逢は、そんなことさえ考えていた。

 教室に来るまでの途上、自販機で買ったもう一本のスポーツドリンクを開けながら、リラックスして彼の寝顔を眺めてみる。起きていて、表情を意識が作る時間とは全く違う顔言うなれば「無意識の表情」――それが、寝顔である。つまり、寝顔もまた、愛すべき彼の一面であり――とても、愛おしい。遠くから見ても可愛い、と思ったけど、こうして間近で見てみると、また別の趣がある。

 穏やかな寝息、その度に少し動く、鼻や口。……赤ん坊を見ているような気さえしてきてしまう。もっとも、甘えて来る時の彼は、ほとんど赤ん坊のようなものだから、そう的外れな感想では無いのだけど。

 そんな大きな赤ん坊の口が、少し動いて、音を発する。

「……あいー……」
「はい……って、……寝言……?」

 起こしてしまったか――と、一瞬身構えた逢だったが、どうやら違ったらしい。未だ、呼吸は規則正しく、寝顔であることは変わらない。

 しかし、「あい」か。……それは、自分の名前を意味するもの、だろうか。
 逢はスポーツドリンクで喉を潤しながら、そんな想像をした。仮に、そうだとすれば、彼は夢の中でも自分を想ってくれている……と、いうことになるのではないか。

「……ふふ」

 似たようなことは、逢の側では良くあることだった。彼の隣は、逢にとっては最も心地よい場所だから、自然と心が安らいで、眠ってしまうこともある。練習で疲れて、教室なんかで眠っている間に、彼が会いに来てくれることも多い。そんな睡眠の中で見た夢の中でも彼と一緒にいて、目が覚めたら、現実でも彼が横にいてくれる――それは、本当に嬉しいことで。

 それが、今回は逆、なのかもしれない。



 ……もし、本当にそうだったら――逆の立場でも、それは、とても嬉しいことで。



 逢は、頬を染めながら、そんなことを考えた。夢の内容はすぐに忘れてしまう、というけれど。自分が夢に出てきたかどうかくらいは、記憶に残っていてもおかしくないと思うし――彼が起きたら、それを聞いてみるのも悪くない。

 ……でも、起こすのは、生徒に帰宅を促す放送が流れてからでもいいだろう。
 こんなに幸せそうな寝顔を浮かべている彼を起こしてしまうなど、彼女には、到底出来ることではない。


「…………二―ソ、も…………」
「……はいて、欲しいんですか?」


 いかにも「彼らしい」寝言に苦笑しながら、逢は腕を組んで机に載せ、彼と対になるような格好を取る。
 ……さて、どんな夢を見ているのだろう。
 起きたら、しっかりと追及させてもらおう。結果次第では――――


「ふふっ」


「その時」のことを考えて、逢は微笑みを浮かべた。

 夕日に照らされた穏やかな放課後の時間が、そんな二人の間を、ゆっくりと流れている。









 七咲さんSSをお届けいたしましたー。時期的には「先輩」が三年、七咲さんが二年生の初夏、という感じでしょうか。丁度今頃、ですねw

 このSSは、先にアップしたもの(二本目)の対になっています。「恋人の片方が寝ていて、その近くにもう片方が居てくれて」というのは、イチャイチャを想像する際に鉄板なシチュエーションだと思うのですが、いかがでしょうw

 前半の「先輩」の受験勉強は、自分の記憶を掘り起こしながら書いていました。同じようにぶつぶつと呟きながら勉強していた方も多いのではないでしょうか?w あの辺りは覚えることも沢山あれば、国際的な勢力伸長も頭に浮かべておかないといけませんから、中々一筋縄ではいかない分野。おそらく「先輩」も、四苦八苦していることでしょう。本編にも彼が七咲さんに数学を教えるシーンがありましたが、高校生と「勉強」は切っても切れませんから、今後もどこかでネタにしたいと思っています。

 なお、題名は邦訳「放課後セレナーデ」。もちろん、放課後ティータイムから拝借いたしましたw

 それでは、お読み頂きましてありがとうございました!<(_ _)>


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