本日の天気予報――夕方からくもり。夜には雨が降るでしょう。
降水確率は12時から18時で20パーセント。18時から24時で70パーセント。
つまり、どういうことかというと。
「降るのは夜だから、学校の間は大丈夫だよね」。そういう油断を惹起する数字、というわけである。
「……あれ」
――ところが。
時刻、午後四時半を回った頃。部活人はクラブ活動に精を出し、それ以外も放課後ライフを満喫している時間帯――輝日の空は怪しげな色に覆われ、今にも泣き出しそうな空気を漂わせるようになっていた。
「……参ったな」
思わず、彼は呟いた。天気予報は確認したが、彼もまた、前述の油断と無縁の人物ではなかったわけである。
傘は、持ってきていない。置き傘はついこの間使ってしまっていて、家の下駄箱あたりに放置されている。今日の朝、「そういえば、持っていかないとなー」と思って、そのまま置いてきてしまったのだ。
少し、後悔の念を抱く。しかし、前の彼ならば、それでお仕舞いだっただろう。確かに、対応が後手に回ったが故に、濡れる羽目には陥るかもしれない。けど、別段、濡れて帰ることに抵抗は無い。制服を乾かす手間はかかるが、所詮はそれだけのことである。さっさと手順を踏めば、困ることなど全くないのだ。
――だが、今は、少し違う。
彼は今や、自分一人のことを考えていればいい身では無いのである。
いつも、一緒に帰る人が居る。
もし、彼女が、傘を持ってきていなかったら、どうだろう?
「一緒に濡れて帰れ」などと――果たして、言えるだろうか?
――もちろん、答えは、否。
そして、もし、その懸念が当たってしまった場合。
彼は果たして、どのような行動に出るべきなのだろうか。
彼女の横に居る者として、一体何が相応しいのか?
(そういえば、前にどこかのマンガで読んだよな……)
そんな時は、そっと傘を差し出せる自分でありたい。
作中では変態として描写されているキャラクターの言葉だったが、妙に共感したのを覚えている。
(……よし)
まだ、彼女が部活を終えるまで少しある。
購買は、まだ開いているはず。
「……梅原、マサ」
「……おう。行って来い」
「……ここは、俺達に任せろ」
意思疎通に必要な時間は、零コンマ一秒以下。こういう時、親友というのは本当にありがたい存在だ。
「……ありがとう」
「……濡らすなよ? 彼女を……」
「……漢としての面目、立てて来い」
「……わかった」
ハードボイルド。何と甘く、そして渋い響き。脳裏に過るのは、そんな単語。内心、二人に感謝しつつ、彼は三人打ち麻雀に興じていた隠れ家を出ると、購買へと歩みを進めた。
……さて。
二人入れるようなサイズの傘は、果たしてあるだろうか?
……もちろん、逢が傘を持って来ていれば、全ては杞憂に終わるのだが。
「あ」
購買の近くまで来ていた彼は、ふと視線を外に移す。やはり、輝日の空を覆ったグレーの雲は、雨をもたらすものだったらしい。校庭では、屋外練習組が雨対応の準備に追われている。
どうやら、弱い雨ではない。比較的しっかりと、しっとりと大気を濡らし、地面を叩いているように見えた。
彼自身ならいざ知らず、練習で疲れた逢を、こんな雨に打たせるわけにはいかない。やはり、ここは大きめの傘が欲しいところで。
そんなことを考えつつ、彼は購買部へと到着する。
しかし――悲しい哉――世は、いつもいつも予測どおりに動いてくれるとは、限らないのであった。
「あ、れ?」
呆気に取られる。
まさか、そんな。昼には、確かに――
「し、閉まってる!?」
――開いていた、はず、なのに。
目の前、情景が示す事実は、彼にとって残酷なものだった。
「本日棚卸につき、午後はお休みです」。
チラシの裏に、筆ペンで大書された「店の事情」。それが堂々と、購買部の入り口近くにガムテープで貼り付けてある。
……彼は天を仰ぎ、がっくりと膝をついた。
「……無念……!」
今からコンビニに走り、帰ってくる暇があるだろうか。腕時計が指し示す時間から考えて、それは望めそうにない。帰ってくる頃には恐らく、逢は部活を終えてしまっているはずだ。もちろん、一緒に帰る約束である以上、そこに遅れるわけにはいかない。何より、遅れてしまっては、「傘を差し出せない」ではないか。
「どうする……」
しかし、悩んでいる暇はない。決断に費やせる時間は少ない。選択肢を考える――導き出される道は、ふたつ。
遅れることを承知で、買いに出るか。それとも、逢が傘を持っているのに賭けるか。しかし、後者はあまりにも格好が――
――と――
「……おい」
「……マサ……?」
懊悩を深める彼に、後ろから声がかかった。振り返れば、つい先程まで、共に麻雀に興じていた級友の姿がある。
そして、彼が差し出した右手には――ビニール傘が、握られていた。
「……休みだって、思い出してな……。コイツは……貸しといてやるぜ」
「! お、お前……」
「……へへ。偶には、濡れて帰るのも悪かねえ……」
「――」
ハードボイルド、再び。彼はマサへと尊敬の眼差しを向ける。
……敢えて、彼が麻雀で3位に沈んでいたことには触れないようにしよう。そう、これで、負け分のジュース一本をチャラにすることになるはず――なんてことは、ここでは絶対に口にしてはいけない。
「……じゃあな。縁が続けば、また明日」
「……ああ」
どこかで聞いたような台詞。だが、今のマサに相応しい響きと言える。制服のポケットに両手を突っ込み、廊下を去る友人を見送り、今は彼の右手に渡った傘を強く握る。
……さて……。
逢は、傘を持ってきているのだろうか?
「そろそろ、終わりみたいだな……」
数分後、彼は「いつもの」場所にいた。水泳部の練習、その全貌が一見出来る特等席。「逢のために」――それだけで、体は勝手に動いて、そこに行くのである。今の彼に、邪心は欠片も存在しないと言っていい。たとえ、そこで覗いている、という事実が変態的行動であったとしても、その動機は至純なのだ。誰も、彼を責めることなど出来はしないはずだった。
彼の眼には、丁度今、逢と先輩の塚原響が、なにやら話し合っている光景が映っている。これは、良くあるシーンのひとつだ。練習方法、泳法、その他もろもろ、逢と響が語らう機会は非常に多い。そして今は、時間からしても、今日の総括と推測するのが自然である。
(お)
彼の予想は当たり、逢は響に一礼すると、更衣室のほうへと去って行った。他の部員も引き揚げ始めていることから考えれば、逢は上がりである、と考えられる。
(さて……)
彼はプールの出口からは死角になる位置に陣取り、逢を待った。普段から使っている常套手段。建物の屋根が自分を雨から守ってくれるということも併せ、現段階では最適の待ち伏せ場所、と言えるだろう。
(傘、持ってるかな)
壁を背にし、逢を待つ態勢が整う。自然、頭に浮かぶのはそのことだった。逢が傘を持っていれば、それで良い。一緒に傘を差して、仲良く並んで帰ればいいだけのこと。
しかし、もし持っていなければどうだろう。
その時は――
その、時は――
(あれ? これってもしかして――)
――あい、
(あ、――)
と、思考内で「その単語」を紡ごうとした、その瞬間のことだった。
彼の視界に、逢の姿が映る。
どうやら、一人のようだ。そして、傘は――持っていない。それとも、教室にあったりするのだろうか?
いずれにせよ。声をかけるなら、今である。
「逢」
「あ、先輩」
逢は、彼のほうには気付いていなかったらしい。驚いたように声のほうを振り返ると、あたたかい笑顔を見せてくれる。
「お疲れ様」
「ありがとうございます」
そう言うと、逢は小走りで彼に駆け寄った。雨は、降り始めより強くなっている。打たれながら立ち話、とはいかない勢いと言っていい。
「傘、持ってきた?」
「いえ……夜までは、大丈夫だと思っていましたので」
「そっか」
やはり、懸念は当たっていたようだ。さもありなん。普通は、そう考えるだろう。
……そして、その懸念が当たる、ということは、即ち――
「外れてしまいましたね。ひとつ、買ってこないと――」
「逢」
逢の言を遮り、彼は強い口調で呼びかけた。
……勝負の時は、今。彼の勘が、そう告げる。
「は、はい」
「……ひとつしか、無いけど……」
手にした傘を、逢に示す。
そう、今日の天気は、生憎の雨である。
普通なら、疎ましくも思う。
けど――
「……?」
「良ければ、……一緒に、……」
――それは、同時に。
相合傘で帰れる、と。
そういうことでも、ある。
「入ってかない、かな。わざわざ、買うより……」
「……せ、先輩……」
彼の真意に気付いたのか、逢はほんの少し、頬を赤らめ、彼の方を見つめる。
……切り出した側が言うのもどうか、というところだが、どこか照れくさい。その視線から目を逸らしつつ、しかし、彼は言葉を続ける。
「いいかな、ってね。その、逢が、良ければ……」
「……」
一緒の傘で、帰らないか?
そこまでは、言い切ることが出来なかった。
しかし、伝わった、と、信じたい。いや、絶対伝わっているはずだ。
「……ふふ」
「……」
その微笑みが、証拠である。仕方ない人だな、と、そんな苦笑めいた、でも、慈愛に満ちた響き。
……こういう所に惚れこんでいる、と、言ってしまってもいいだろう。
「先輩がいいのでしたら、是非」
「そ、そっか」
「ええ。今、荷物を取ってきますから。少しだけ待っていて下さい」
「……うん」
言い出すのには、少し勇気が必要だった。ただ――
――彼女と一緒に、相合傘で下校する。
漢の夢――と、言っていい。
その夢は、今当に、手が届くところに在る。
幸せを噛み締めつつ。彼は雨の中、彼女の背中を見送った。
雨脚は、確実に強まっていた。予報では夜半に強く降るかもしれない、ということだったのに、今日の雨雲は随分と気が早い性質らしい。
そんな雨の下。肩を寄せ合い、二人は帰路を歩いている。
しっとり降る雨は、街に静寂をもたらす。時折通り抜ける車のエンジン音以外、聞こえるのは唯雨音のみ。
その中を、二人で歩く。
会話は無くとも、隣に、その存在を感じている。
雨音と、そして、相合傘を、彼らは存分に楽しんでいるのだ。
――しかし、――
「……あの、先輩」
「ん?」
その、幸せな静寂を破ったのは、逢の方だった。
雰囲気を味わっていた彼は、その言葉に少し困惑する。さて、一体どうしたのか――
「傘、もう少し先輩の方に寄せて下さい」
「え、ああ……」
――という疑問は、すぐに氷解してくれた。
やっぱり、逢は優しい。
そのことを、強く感じさせてくれる一言。
傘の柄は、彼が握っている。そして相合傘という状況にあっては、傘を持つ者が、自分の裁量で雨を凌げる範囲を決めなくてはならない。
「雨、強くなってきましたし。先輩、濡れちゃいますよ」
「……んー、大丈夫だよ」
そう大きくはないビニール傘。
勢いを増す、冷たい雨。
必然、一人では十分なサイズの傘でも、二人では厳しくなってくる。
そんな時、どうするのか。
二人とも濡れるのか――それとも?
「……じゃあ、雨宿りしましょう。少し、弱まるのを待って……」
「でも、今日はずっと降るんじゃないかな。それより、早く帰った方がいいと思うよ」
「……それは……」
そう言って、逢は黙ってしまう。次にどう言おうか、思案顔で。
そう。彼は、、傘の中心を、自分よりも逢に近いところに置いている。
彼女を、濡らすわけにはいかない。
ここは彼にとって、絶対に譲れない一線。
逢はもう一度、顔を上げて彼へと言葉を向ける。次の攻め口は――どこだろう。彼も色々と逢の言い分を想像してみる。
……それがまた、何とも言えず、楽しい。
「私、濡れるのは部活で慣れてますから。平気ですよ」
そう来るか、と、微笑む彼。ただ、それも想定内の解答だった。
「大丈夫。僕も運動はするし、汗っかきだからね」
彼は軽快に笑って、逢の提案を受け流した。冬の雨は、とにかく体を冷やしてしまう。女の子の身体を、冷たくしてはいけない。そして、冷えた体は免疫も弱めれば、筋肉にも宜しくない。体温も、体力も奪っていくし、風邪だって引きやすくなってしまう。
だから、部活帰り、疲れているだろう逢は、絶対に雨に曝してはいけない。彼は、そう決めているのだ。
「……もう……」
「……はは」
半ば諦めたように、逢が苦笑いを浮かべた。こうなると、彼はアルキメデスでも動かせないことを、逢も知っているのだろう。
「……降参です」
「そう?」
「はい。先輩は、とっても頑固ですから」
「はは……そうかな」
「ええ、そうですよ。私の言うことなんか、ちっとも聞いてくれないんですから」
逢は彼の方に顔を向け、拗ねた表情を浮かべていた。
……少し、困る。彼は、逢のこんな顔に、とても弱い。
「そ、そんなことない、と、思うけど」
「いいえ。もしそうじゃないなら、聞いてくれそうなものです」
「……う」
「頑固じゃない、と言うなら、傘を渡して下さい」
「それは、無理だね」
「……」
ただ、それとこれとは話が別、と、きっぱり意思表示をする。搦手からの突っ突きも失敗に終わった逢は、遂に、呆れたような、しかし、柔らかな温かさも持った苦笑いを浮かべた。
「……じゃあ、仕方ないです」
「?」
諦めてくれたかな、と、彼が思ったのも一瞬。逢は、別のアプローチを試みてきた。
「こうすれば、少しはマシになりますか?」
「あ、逢……」
勢いを増す雨。濡れる肩に、奪われる体温。
しかし、そんな彼の体に、あたたかさが戻っていく。
「……あ、当たってる、けど……」
「当てているんです。この方が温かいと思いますし、傘にも入れますよね」
「……」
逢は、今までよりもっと、彼に身体を寄せて来たのである。腕を組むようにして、彼を強引に自分に近づける。
結果、逢と彼の体は、ほとんど密着といっていいような形になった。ただ、傘の下に入るには、それくらいが丁度いい、とも言える。今まで濡れていた彼の右肩も、どうにか雨ざらしにはならずに済んでいた。
「さ、行きましょう」
「……うん」
雨は、強い。普段なら、歩くのも億劫な帰り道。
それを、楽しい道のりに変える、というのは、一体どんな魔法なのだろう。
「恋」は確かに、そんな魔力を帯びている。
逢のぬくもりを感じながら、彼はそんな感慨を噛み締めていた。
雨ざらし、ということは無くとも、吹く風は傘の下の二人を濡らす。
無遠慮な車は容赦なく水たまりを跳ね、彼のズボンを泥だらけにした。
そんな苦難がありつつも、楽しかった相合傘。そんな時間も、もうじき終わりを告げようとしている。
途中、彼の家と逢の家、帰り道の分岐点で傘を買って、別々に帰路に就く、という手もあった。しかし、相合傘の心地よさは、その選択肢を敢えて二人に取らせなかった。どちらの家に先に寄るか、という議論こそあれ、結局二人は傘の下、仲良く七咲家の近くまで来ていたのである。
「――」
「……」
どこか、去り難い。いつもなら「また明日」と言えるのに、今日は一緒に居たい、という想いが、彼の中には強く存在している。それは、相合傘の為せる業、なのか――だとすれば、その威力は絶大だ。
逢は、どう思っているのだろうか? もし、同じように思ってくれているとすれば、これ以上の喜びは無いのだが――、
「あれ?」
と。そんなことを彼が考えていると、逢がそんな声を上げた。
「郁夫?」
「……うん。出かけるのかな?」
逢の視線を追ってみると、彼女の弟・郁夫が家から出かけるところが目に映る。傘を差し、元気いっぱいに飛び出していく姿は「子供は風の子」という言葉を連想させてくれた。
「もう、こんな雨なのに……」
「はは。でも、雨だから楽しい、っていうのもあるんだよな」
例えば、雨の中、友人の部屋で一緒に遊ぶ時。晴れた時とは違う、隠れ家に籠っているような心地よさ。きっと郁夫少年も、そんな楽しみを心に抱いているに違いない、と彼は思う。
「……ふふ。そうかもしれませんね」
釣られて、逢も笑みを浮かべる。姉として、元気な弟を見るのは嬉しいことに違いない。
そして――こんなことを、呟いた。
「……あ、ということは……」
「?」
「……今なら、誰も居ませんね。先輩、良かったら寄って行って下さい」
「え?」
逢の両親は、共働きである。必然、夜まで両親が居ない、ということも多い。更に、兄弟姉妹は郁夫だけ。
つまり。今、七咲家には誰もいない、ということになる。
「濡れて、体も冷えてますし。少し、あたたまって行って下さい」
「……でも、ズボン泥だらけ、だけど」
「ふふ。玄関で脱げばいいじゃないですか」
「ええ?!」
「嫌ですか?」
くすり、と、悪戯っぽい表情で、逢は彼の身体を引き寄せる。
「……い、いいの?」
「構いませんよ。ゆっくりしていってください」
……相合傘の幸せな時間は、もうすぐ終わりを告げるだろう。
しかし――もう少しだけ一緒に居られれば、と。そんな彼の想いは、思わぬ形で成就することになったのだった。
久しぶりの更新になってしまいました<(_ _)> いやはや……8月は忙しかったなあ……(−−;
そんなわけで、ある意味リハビリ作、とも言えますかね。と同時に、実は構想は梅雨時期には出来ていまして、半分くらいは書いてあったものでもありますw 梅雨になると、相合傘が書きたくなるのは万国共通の風物詩……かな?(笑)しかし、雨の素材って中々無い……「曇天→雨降り」というのを探したんですが、「曇天」までしか見つからず。何かいいのあれば、ご紹介くださいませ<(_ _)>
それにしても、七咲さんは本当に可愛いなあ! 東雲版も期待しつつ、ゲームを起動させると致しましょうw ドラマCDは何時かな……。
それでは、お読み頂きましてありがとうございました!
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