――ボーっと、している。
いや、している場合じゃないのは分かっている。宿題の提出期限が押している――端的に言えば、明日までにやらなくちゃいけない数学の問題が十問くらい残っている。
それも大問ばかりなので、半端な数ではない。困難は分割して対処せよ……さて、これは誰の言葉だったか、ともかくも「分割して対処」しなくてはならない類の困難なのに、僕は今日と言う今日まで、コイツを放置し続けていたわけで。
――それでも、ボーっとしてしまう。
何でだろう?
……何でかな。
……やめよう。きっと、原因を数え上げたところで無駄なことだ。
まあ、でも。
そのうちの一つは、はっきりしてるんだけどね。
時刻は、日付が変わって既に十五分少々、というところ。
……だから、電話を取るわけにもいかない。今日は、夜、いつもあるような「おやすみ」前の電話はなかった。だから、彼女が寝ているかどうか、分からないのだ。
……と、いうより、寝ている可能性のほうが高い、と思う。もし僕からの電話がなければ、彼女は大抵、律儀にも電話してきてくれるのだから。そして、その「いつもの」時間は、日付が変わる前――つまり、残念ながらもう過ぎてしまっている。
今思えば、僕から、もっと早い時間に電話をかけておくべきだったんだけど――不覚にも、寝落ちしてしまっていたのだ。中途半端な時間の中途半端な睡眠は、やはり罪作りなものである。
今からでも、電話をしたい。でも――逢がもう寝ていたら、どうする? 逢は、水泳部の練習で朝も早い。それに、毎日の練習で疲れてる。睡眠は、貴重だ。だから、僕の都合で邪魔するわけにはいかないんだ。
はっきりしている原因は、つまり、そういうこと。
逢の声が聞きたいなあ、と、思っている自分が居る。
でも、電話をすることも、ままならなくて。
それにしても。
そうと思い始めたら、止まらないんだから性質が悪い。……いや、良いのか? うん、良いんだろうけど、勉強時にはちょっと困る現象だ。
明日の朝まで会えないとは、しかし……いやはや、なんたる苦行。基本、今までの人生、ゆるゆるで、煩悩のままに生きてきたという自負がある。だから、あまり辛いことに耐性がないのかもしれない。
だけど――誰が、耐えられるというのだろうか。どんなジャンルの文学でも、恋に身を焦がす男の話は扱われているはずだ。それこそ、古今東西到るところで。だったら、僕の現状だって、歴史的に見れば全然特殊じゃないに違いない。
……本物の恋、か。
僕は、この歳になるまで、そういう気持ちを知らなかったのだ。
「……はぁ」
所在なく、コードレスの受話器を見つめてみる。
……はてさて。見つめたところで、繋がるわけもなし。
もう寝てるかな。
どんな格好で?
パジャマの柄はどんなだろう。
夜食は、食べたのかな。
課題とか宿題とか、出てるんだろうか?
聞きたいことは、山ほどある。
そのほとんどが他愛ないことでも、それでも、聞いて、話して、彼女の声を聞いていたい。
そのための文明の利器は、目の前にある、というのに――
……ルルル……
「……あれ?」
――と、もう一度、置かれた状況を嘆こうと思った瞬間、だった。
その文明の利器は、「電話がある」ということを、コール音でアピールしている。
天啓めいたものが、僕の中に走った。
その衝撃は、僕に、光速で受話器に手を伸ばさせる。
――きっと、そうだ。
何の確証もないのに、そう思う。
ニュータイプのように、感応するものがある。
家族が出る前に、僕がこの受話器をとらなくてはいけない。
「通話」ボタンを押すまでの一瞬に、僕はそう考えていた。
果たして――受話器の先には――
「もしもし――」
「逢?!」
「あ、……せ、先輩……こんばんは」
「こんばんは」
「す、すみません……こんな、夜遅くに……」
「いや、全然構わないよ。僕も、逢の声が聞きたかったから……」
「え?」
「あ、…………」
「――」
「……だ、だから、全然構わない、から」
「……なら、良かったです。その、寝る前に、少しだけ……」
「うん」
「先輩がもうお休みでしたら、ご迷惑かと思ったんですけど……」
「ん、大丈夫だよ。僕なら、寝てても叩き起こしてくれればいいし」
「さ、流石にそれは……」
「いいんだよ。ごめんね、もう少し前に電話出来ればよかったんだけど。僕のほうが寝ちゃってて」
「先輩も、ですか?」
「逢も?」
「はい。少し……。それで、今まで宿題をやっていたんですけど」
「僕もだよ」
「ふふ。そうでしたか。お互い、大変でしたね」
「そうだね。逢は、もう終わったの?」
「ええ。今、お風呂から上がったところです」
「そっか」
「はい。先輩は……」
「まだもう少し、かな」
「あ……」
「あ、いいんだよ、別に。丁度一息入れようとしてたところだし。それに……」
「――」
「逢の声を聞けて、嬉しいし、ね」
「……先輩」
「……は、はは」
「……ふふっ。私もです」
「……」
「――」
「……宿題は、何の教科だったの?」
「古文と、英語ですね。添削に出す課題があったんです。あと、日本史の小テストもありますから、その勉強も。
先輩は、どうですか?」
「僕は数学だね。ちょっと前に出たんだけど、放っといたから……」
「大変そうですね……。でも、得意な教科じゃないですか」
「うん。そうなんだけどね。量が多くて」
「なるほど。……あの、無理は、しないでくださいね? もう、夜も遅いですし……寝ちゃって風邪なんか引いたら、大変ですから」
「ありがとう。まあ、いざとなったら諦めるよ」
「……それも、問題だと思いますけど」
「そうかな?」
「そうですよ」
「……が、頑張ってみるよ」
「はい」
「……あ、そうだ。逢は、今、どんな服を着てるの?」
「……」
「――逢?」
「いきなり、凄いこと聞くんですね……相変わらず……」
「そ、そうかな」
「……どんな格好だと思いますか?」
「え?」
「さっき、お風呂上り、って言いましたよね」
「あ、……」
「ふふふ」
「……じゃ、じゃあ……も、もしかして……」
「もしかして、何です?」
「……バスタオル一枚、とか……」
「くすっ。温泉を思い出しますね。でも、ハズレです」
「そ、そうなのか。じゃあ……Tシャツと、……し、下着、とか……」
「……そういうの、好きですか?」
「え? あ、そ、そりゃ、好きだけど……」
「じゃあ、考えておきます」
「な、何を?!」
「ご想像にお任せします♪」
「……楽しんでる?」
「はい♪」
「……ふう。敵わないな、逢には」
「そうですか? でも、Tシャツと下着でもないんですよ」
「……じゃあ、はだ」
「違います! 真冬なんですから、もう!」
「そ、そうだね。パジャマ、かな?」
「正解です。……もう、先輩は……」
「?」
「本当に、えっちですね!」
「……ご、ごめん」
「……ふふ。別に、構いませんよ。そんな先輩も、大好きです」
「……そ、そうなの?」
「私は、先輩が大好きですから。えっちじゃない先輩は、先輩じゃないです」
「……褒め言葉?」
「くす。一応、そのつもりです♪
あ、そうだ。先輩に聞いておかなくちゃいけないことがあったんでした」
「何?」
「明日はお弁当作って行こうと思ってるんですけど、どうですか?」
「本当? 嬉しいよ」
「ふふ。それなら、用意していきますね。えっと、おにぎりの具、何かリクエストありますか?」
「この前のおかか、美味しかったなあ。あれ、まだある?」
「ええ、大丈夫です。おかか、と……えーと、他にはありますか?」
「シーチキンと、あ、なめ茸とかあったら、入れてほしいな」
「なめ茸……ですね。買い置きがあったと思いますので、見てみます」
「うん。ありがとう」
「いえ。明日は晴れ、ですよね」
「確か、ね」
「じゃあ、屋上の、いつもの場所でいいですか?」
「うん。昼休み終わったら、急いで行くよ」
「はい」
「逢は……明日は、放課後大丈夫」
「練習時間にもよりますけど、終わった後なら大丈夫ですよ」
「じゃあ、いつものカフェに……」
「ええ。楽しみにしています」
「門のところで待ってるからね」
「はい。約束ですね」
「うん」
「終わったら、なるべく早く行けるようにします」
「ゆっくりでいいよ。無理しちゃダメだからね」
「ふふ。分かりました」
「……っと……」
「……? どうか、しましたか?」
「いや、ちょっと遅くなったな、と思って。逢は、明日も朝練だったよね」
「……そうですね」
「じゃあ、あんまり遅くなってもダメだよね。うん、今日は、この辺りにしとこうか。長電話は今度、朝練が無い時に、かな」
「……すみません。私から電話しておいて……」
「謝る必要ないよ。眠かったら、練習どころじゃないだろ?」
「……先輩……」
「――」
「……ふふ。そうですね。もっと話したいですけど……明日なら、大丈夫ですから」
「そう? じゃ、明日の電話、楽しみにしてるよ」
「私もです。……先輩」
「ん?」
「遅くに、すみませんでした。でも――」
「……」
「寝る前に、先輩の声を聞けて、良かったです」
「……うん。逢……」
「――」
「ゆっくりおやすみ。また、明日ね」
「……はい。おやすみなさい、先輩」
――逢が、居てくれた。
かちゃり、と、電話の切れる音がした。
今夜は、ここまで。
名残惜しい。けど、何か、どこか、満たされた自分を感じている。
声が聞けて、本当に良かった。
逢の心地よい音が、耳の奥に、心の中に、まだ響いているように感じている。
……さて、もうひと頑張り。
台所で、お茶でも淹れてこよう。
そんな気になったのも、全部、逢のおかげ。
逢の声は、僕を奮い立たせてくれるのだ。
机に向かいながら、おやすみ、と、もう一度心の中で声をかけてみる。
疲れを取って、また明日、元気に学校で。
布団の中の彼女を想いながら――僕は、台所へと降りて行った。
フッと、「電話だけとかどうかなー」と思いついて書いたSSでした。もうちょっと電話部を長くしても良かったかな? というような気もしますが、メインは真ん中の会話、ということでw
士剣では出来ないシチュエーションと申しましょうかw 夜まで一緒に居ることは中々ないでしょうから、やっぱり夜毎にお休みコールとかしてると思うわけですよw それを具体化してみようかな、と思ってやってみました。いかがでしたでしょう?
ちなみに途中の「喫茶店云々」というところですが、タダでお弁当ばかり貰うのもどうか、ということで、主人公が放課後にお返しで喫茶店おごりをしている――という妄想に基づいたものですw パフェとか七咲さんが食べているのを想像すると……すごい、萌える……! あーん、とか、するのかっ!?(おちつけ)
それでは、お読み頂きましてありがとうございました!<(_ _)>
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