……どうも、いけない。


 ――と、彼は思っていた。あのクリスマスイブから先、彼の頭は常に「彼女」に占有されてしまっている。

 それがどれほどの情熱か、未だ十七の身空では客観的に把握できようはずもない。ある人を「好きだ」「愛している」という炎は恋人同士の心を焦がし、それ以外の些事を悉く外へ追いやってしまうほどに燃え盛るものだが、彼自身はまだそのことに気付けていない。

 ……もしかしたら、一生、気付かないのかもしれない。



 古人曰く……恋は、盲目。
 全く、良く言ったものである。



 まあ、そんなわけで。クリスマスを過ぎ、毎日のように彼と逢は過ごすようになり。しかし、終業式と言う現実の前には多少距離を置かざるを得ず。
 ……それでも、大晦日には長電話、日付が変わるや落ちあい初詣。初日の出を一緒に見たりなんかして、三が日はこれまた共に初詣三昧、電車で方々の神社仏閣を渡り歩き、振袖の彼女を十分堪能して――と、これ以上表現しようがないほどの恋人ライフを送っていた彼は、既に逢の虜そのものだった。


 そして、現在。すなわち、三学期始業式の翌日。通常授業が既に始まり、三時間目が終わった休み時間。
 どうも、いけない――と思ったのは、そう。
 授業中だろうがなんだろうが、逢のことしか考えられない自分を鑑みて、しみじみと漏らした感想であった。


 しかし――と、彼は一方で、逆のことも考えていた。


 これはこれで、悪くない……と。


 こんなに、逢のことばかり考えている自分が、嫌いになれない。というか、それが在るべき姿、ではないのだろうか? と、彼はそういう結論に到ろうとさえしていた。

 実際、運命の人というのはそういう存在である。恋の定義は数限りない。が、ひとつ言えるとすれば――「恋とは、そういうものなのだ」。
 とにかく、相手のことが気になって気になって仕方ない。そのことしか見えなくなってしまう、そんな状態。
 それが「運命の人」ならば、それは一生続くかもしれない症状……とさえ、言える。

 なので、冒頭の彼の憂慮など、考慮するにも値しない些事なのだ。何故ならば、それが自然状態なのだから。
 ここに、最初の感慨は現状への全肯定により駆逐された。彼は安堵した上で、改めて、こう結論を出した。



「……うん。やっぱり、逢の顔が見たい。会いに行こう」



 そして、立ち上がる。そう決めたらもう、止められるものではない。情動に突き動かされるまま、彼は教室を飛び出した。


 昼休みまで待て?

 ――冗談じゃない。


 心の中で、そう呟く。
 そして彼は一年生の教室へと、早足で歩き出すのだった。















 ――一方。


「……おーい。アイアイー……」
「――――(すー)――――」


 当の逢は、と言えば、完全に夢の世界を旅行している状態だった。


「だめだわ。完全に堕ちてる」
「もう、仕方ないなあ。でも朝練だって大変し、仕方ないよね」
「だね。そっとしといてあげようか……」

 昔のあだ名でそう呼びかけられても、七咲逢は机に突っ伏したまま動かない。穏やかな寝息と、僅かに動く背中が、彼女が深い休息の最中にあることを示している。

 彼の妹にして、逢の友人である美也が語る通り、逢は今日、朝練をこなしていた。週に何回あるかは不定期だが、朝練がある日は彼と登校できず、それが逢には遺憾で――……ではなく。その日は相当の体力を授業前に使ってしまう為、こうして授業中にこっそり、しかし堂々と「休息」を取ることが珍しくないのだった。

 逢をよく知る友人たちは、そんな彼女を慈しみの目で見る。逢が水泳部のホープであり、一生懸命に努力しているのを十分に理解しているのだ。

「じゃ、先生来るまで放っときますか」
「うん」

 そう言って、美也ともう一人の女生徒は逢の席から離れ、再びおしゃべりに興じ始める。


 ――それが、幸いして。


「ん、……。……先……輩……。……ぁ、……」


 ……そんな逢の寝言は……二人には、聞かれずに済んだのであった。  






(逢……)


 そして、美也たちが逢の席を離れるのとほぼ同時。つまり、逢がそんな寝言を呟いた頃、彼は一年B組の教室に入ってきていた。

 ただ、彼女に会って、一言話したい――という、その一念のみが彼の心を支配している。今朝は、逢の朝練で話せていない。昨日の放課後はしっかりと一緒に居たのだが、既にそれから十数時間。

 それは、一日にも満たない時間である。しかし、恋に焦がれる少年にとって、その時間はあまりにも長く、残酷なものだった。

 もちろん、彼は逢の席順くらい承知している。そんな彼が教室に入ってまずやることは、ただひとつ。 彼は、逢の席に視線をやって――そして。


「あ、……」


 机に伏している、恋人の姿を目にすることになった。


 知り合ってから、およそ2月。付き合い始めがクリスマスイブで、すぐ冬休みが入り、そして、今日が始業式の翌日――つまり。彼が「朝練後に眠っている逢」を見るのは、これが初めてになる。

 それでも、すぐに理由の見当はついた。こと恋人についてならば、人間通常をはるかに超えた洞察力を発揮できるものだ。

(起こすのは……かわいそうだよな)

 すぐに、そういう結論になる。恋人同士は、互いが互いのことを思いやる。特に、彼と逢は、そんな関係。互いが互いを必要として、そして、いつしか一緒に居るようになったのだ。だから、それも当然のこと。


 ――しかし、それはそれとして。


 そうは言っても――そのまま帰ることは、出来そうもない。
 もっと近くで見てみたい、と、思う。
 そういえば、寝顔なんて見たことがない。寝る前に電話したことはあるけれど――


 幸い、逢の前の席には誰も居なかった。少しくらいなら、使っても構わないだろう。そう彼は判断し、再び歩き出す。
 まだ、彼女は夢の中だろう。顔は廊下側と逆に向けている為、入口から入ってきた彼に寝顔を見ることは出来ていない。
 ……何か、わくわくする。どんな顔をして寝ているのだろう? 夢でも、見ているのだろうか。そんな考えが、彼の頭を駆け巡る。



 そして、彼は逢の前、空いていた椅子に腰かけた。
 慎重に、慎重に――音が出ないよう、そっと。
 疲れているのだから、起こしてはいけ――




(……!?)



 ――ない、と。



 思った、次の瞬間。
 彼は、自らの不幸を、天に嘆くことになった。



 何が、彼の罪か。罪と言えば、……そう、「寝顔を見たい」という欲に負けたこと、になるのだろうか。彼女は、穏やかに休息を取っていた。それを邪魔する可能性のある範囲に、立ち入ってしまったのが罪状か。

 端的に言えば。その椅子には「ガタが来ていた」のだ。ねじが緩んでいるのか、それとも年季によるものか――少なくとも、座る時、ある程度の音が出てしまうほどには。  つまり、彼が椅子に腰を下ろした瞬間、逢の寝顔を確認する直前に、椅子は大きく軋んでしまったのだ。


 ……「ギィ」と、実に、実に耳障りな音を残して。


「あ、――」
「……ふぁ」

 しまった、と、彼が思った時にはもう遅く。先ほど、大声で級友に呼びかけられても起きなかった逢は、顔を彼の方へと向け、眠そうなその瞼を、ゆっくりと開いていた。

「……先……ぱ、い……?」
「……おはよう、逢」
「……、……。……、……?」

 何が起きたのか、逢にはまだ全く分かっていないようだった。それだけ、眠りも深かったのか、と、彼は推測する。……それでも目が覚めてしまうあたり、逢はもしかしたら、「恋人が近くに居る」というのをどこかで感じとったのかもしれない、

「……、……ん、……?」

 ぼーっとしていて、寝ぼけ眼。可愛らしい黒猫のような少女だが、寝起きには一層そんな感じが強くなるようだった。

 そんな彼女に愛しさを感じながら、一方で募る罪悪感。彼には、起こすつもりなど全く無かった。近くで彼女を見たい、と、ただそれだけを思っていただけなのに。  逢がどれだけ努力しているか、彼は良く知っている。出来れば、疲れを取ってあげたいくらい。だけど、そんなスキルは生憎持ち合わせていない。

 だからこそ、せめて、邪魔をしちゃいけない、と思っていたのに……。

「あ、……せ、先輩……。
 ……あれ? ……服……」

 彼がそんな懊悩に苦しむ中、逢が急に頭を上げる。どうやら、突然意識が覚醒したらしい。そんな俊敏さも、猫を思わせるところがあった。
 そして……意味不明の言葉。寝起きということを考えれば、あるいは夢のこと、だろうか?



 それにしても。
 ……「服」……?



「……え、……あれ? ここは、……」


 きょろきょろ、と、逢は周囲を見回す。寝起きで、状況が把握できていないのだろうか。

「……教室……ですか?」
「うん」
「……公園……じゃ、なくて……」

 まだ、寝惚けているのかな、と、彼は苦笑した。どう見ても、ここは公園じゃない。でも、寝起きにはよくあること。きっと、夢と現実がまだあやふやなのだろう。

「そうだよ」
「そう……ですよね。明るい……し……夜じゃない……。じゃあ、あれは……、夢、……。
 ……、……。………………………………。
 ………………………! …………………、………………!!??」




 そして。
 急に――まるで、顔から火が出るような勢いで、逢はその柔らかそうな頬を、朱に染めた。




「? どうしたの?」
「……な、……なんでもありません!」

 ……とはいえ。この反応からして「なんでもない」わけがない。恐らく、その理由は「夢」にあるのだろう。

 ――うん。そんな仕草を見せられれば、やっぱり、凄く知りたい。

「どんな夢……だったの?」
「――!」

 逢の狼狽が、もうひとつ大きくなったように見える。最早、眠そうな顔はどこにもない。その代わり、とてつもなく動揺している。クールで、だけど情熱的で――というのが逢だが、それでもこんな表情は滅多にお目にかかれない。

「……わ、忘れましたっ」
「……ホントに?」
「忘れたんです!」
「…………」

 抗弁されても尚、彼はじっと彼女の目を見つめている。真剣なまなざし。「夢の内容が知りたい」と、視線で訴える作戦だ。
 真摯な瞳に、彼女は弱いだろう。そう判断しての戦術。効果はばつぐんだったらしく、少しずつ、逢の視線が押され始める。

「う、……」
「――(じー)」
「……う、う」

 顔を少し近付けて、もう一歩踏み込んで逢の目を見つめてみる。もはや、趨勢は明らかだ。逢はついにその圧力に耐えかね、視線を彼の瞳から外してしまう。
 ……この時点で、彼の勝利。





 ――と、思っていたのだが。





「……もう。酷いです……先輩」
「……っ!?」



 ……しかし。まだ、逢には必殺技が残っていた――というより、彼の最大の弱点は、克服しようがないものだった。「惚れた方が負け」という格言があるが、当にその通り。


 少し瞳を潤ませて、困ったような表情を彼に向ける逢。もちろん、狙ってなどいない、自然に出たものだが、それだけで十分すぎる。もう、彼はこれ以上追及できない。
 敗北――その二文字が、彼の頭をよぎる。


 ……しかし。


「はあ……仕方、ありませんね」
「……え?」


 予想外の一言だった。逢は肩をすくめ、苦笑してみせる。きっと、その一瞬に、彼女は自らの有利を感じとったのだろう。
 生まれたのは、勝者の余裕――と、言ったところか。あとは、自由自在、である。一気に彼女は、状況を楽しめる立場へと駆け登ったのだ。


「いいですよ。でも、……教室では、ちょっと」
「え、ええ?!」

 言いにくい、ということか。とすれば、どういう内容なんだろうか。様々な想像が、彼の頭を駆け巡る。

「……い、言えない……ってこと?」
「クスッ。それは、想像にお任せします」

 主導権を取り戻した逢は、そう言って、いたずらっぽく笑う。


 ……ああ、そうだった……と、彼は内心嘆息した。
 最初から、敵う勝負ではなかったのだ。


 こういうところに、彼は、惚れてしまったのだから。


「それより先輩。もう時間ですよ」
「……あ、ホントだ」
「わざわざ会いに来ていただいたのに、すみません。このお話の続きは……そうですね。帰りにでも」
「あ、……うん。分かった。楽しみにしてるよ」
「はい。それじゃ、また後で。お昼、会えますか?」
「うん。食堂でいいかな」
「ええ。じゃあ、入口で待ち合わせ、ですね」 


 微笑んで、彼女は約束してくれた。そんな逢の笑顔を見られただけでも、来てよかった、と、彼は思う。


 時間としてはほんの数分。でも確かに、充実した時間だった。 「じゃ、また後で」
「はい」


 逢にそう告げて、一年B組の教室を去る。
 ……さて。また五十分。辛い時間が始まるが、その後はまた逢との時間。


 何か、話の種でも考えようか。それとも、どんな夢だったのか、想像をめぐらしてみるのもいいかもしれない。


 そんなことを考えながら――彼は、教室への帰途へと就いたのだった。





 というわけで、情熱の赴くままに第二弾ー。エピローグ後、年明けすぐの「彼」と逢さんを想定して書いてみました。

 ぶっちゃけると……水泳の後って、猛烈に眠くなるんですよ。まあ、自分の体力がなかったからかもしれませんけどねw でも、自分の体力に見合っただけの本数、あるいはスピードで泳ぐ……という形であれば、結局眠くなることに変わらないのではないかなー、なんて思ったりもします。

 そんなこんなで、きっと逢さんも眠かろう……という想像で書いてみました。放課後とかね、二人で語らってるうちにうつらうつらしちゃったりして、いつのまにか先輩の肩に……とか、ものっすごい萌えますね。これも書くか(爆)。


 それでは、お読みいただきましてありがとうございました!<(_ _)>


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